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批判ができない現場が不治の病を生ずる ふり返り366日【08/5/2-3】

 教師に限った話ではないと思いますが,問題についつい目がいってしまうタイプの人と,問題が見えないか問題から目をそらしてしまうタイプの人がいます。

 企業の場合,消費者が前者で生産者が後者だとすぐ問題が表面化します。

 しかし,学校の場合は,「消費者」に対応するのが「子ども」であるために,問題が「問題」として(気付かれてはいても)扱われることがなかなかなく,「問題」になる場合にはたいていが「大問題」に発展しています。特に,食品偽装のように「ばれにくい」問題は,一度「ばれる」と壊滅的な打撃を受けますが,他を選択する余裕のない学校は,そのまま存続します。

 このような問題の発生防止策としては,「大人」が現場を見る機会をつくるのが一番よいのですが,なぜ内部の「大人」ではだめなのか?

 簡単な話,フラット型組織の最大のデメリット,「お互いの悪口は言わない」「内部の批判は許さない」という空気が学校を覆っているケースが多いからです。

 教育ブログでも,「現場の批判はするな」という主張をしている,典型的な隠蔽体質を見かけることができます。

 現場では,教科指導や生活指導にとどまらず,部活動指導については輪をかけて「干渉しない」空気が強くなります。子どもの側の深刻な被害が生まれる場の多くが部活動であることを考えればわかりやすいでしょう。

 管理職がその空気に屈している学校では,「不治の病」が生じ,「死ぬわけではないのだからよいだろう」と放置されることとなります。

 教師の中には,本当は問題に気付いていることが多いのに,自分を犠牲にしてまで子どもを優先に教育を考えるゆとりがないために,「空気」に打ち勝てる人は少数派です。

 神戸の学校には批判が集中しているようですが,「子どもを優先にしているつもり」が,最悪の環境に子どもをおく結果になってしまうのは,「内部で批判をしない癖」に侵されていることが原因でしょう。
 
 問題に目がいくか,問題が見えないか,問題を避けようとするか・・・研究授業などのとき,教師がどのような生徒の顔をよく見ているかでだいたいその傾向は判断できます。

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08/5/2 社会科教師の逆コンピテンシー その4 教師の視線

 第4回は、「②対人」の分野になります。
 ②対人(子どもや保護者、他の教師に向き合う教師)の分野は、「○○先生はあまり発言をさせてくれない、あまり褒めたり適切な助言をしてくれたりしない、自分の考えを発表しにくい」と生徒が感じてしまう逆コンピテンシーです。
 今回のテーマは、「対人関係力関係構築力)(②対人のA実行力)」です。この力が不足しているかどうかは、授業中の教師の視線を分析すればよくわかります。
 黒板と教科書や資料を往復してばかりで、生徒観察ができない限られた数の発言者にしか目が向いていない。こういう教師は少なくありません。
 目が向いていないということは心が向いていないわけで、指導中に生徒からもれる声を拾うこともできず、発表に対して満足のいくコメントも出せない。
 子どもにとっては目の前で繰り広げられていることが、テレビの中のことと同じに見えてくる。
 だから、順番に答えさせるような指導をし出すと、迷惑がる
 「自分たちは視聴者であって、役者ではないはずだ・・・」「内職のじゃまをするな・・・」
 こういう教師が多い学校では、生徒同士の関係も同じようなものになっていきます。
 さすがに小学校ではごく少数でしょうが、一日6時間も「関係構築力」の不足している状況に置かれれば、「社会性」が育まれる可能性はどんどん小さくなっていくでしょう。
 昔は、「社会性」がほとんどないのに、「社会科」の成績だけはよい、という子どもがいたかもしれません。
 社会科の目標がいかに指導者の側に認識されていないかが象徴的に見られる事例です。
 【試験問題】 あなたが学級経営の中で、「共感的な人間関係を築く」という目標を掲げた場合、それを実現するためにあなた自身が心がけようと思うことは何ですか。また、その心がけがなぜ生徒たちの共感的な人間関係を築くことに結びつくのですか。述べなさい。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より