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教師バッシングでの「ふるい落とし」は有効 ふり返り366日【08/5/2-2】

 間もなく教育実習が始まる時期になります。
 1年前にコメントいただいたGAKUさんは,今頃どうしていらっしゃるのでしょう。

 大学のプロジェクト研究のなかにも,教師教育の充実というテーマがあり,その中で教育実習の重みがよく話題になります。

 教育実習の経験を通じて,自分の教師という職業への向き・不向き情熱のあり方,今までの学習・研究の成果や課題,年齢が離れた子どもたちとのコミュニケーション能力などがある程度,自己評価できるようになります。
 
 最近,教員養成系大学の先生からは,なかなか優秀な学生が教師になろうとしないという嘆きの声がきかれ,その原因は教師に対するバッシングにある,というお話を伺いましたが,私にしてみれば,まだバッシングがきているうちに,教師教育も充実させた方がよいと考えられるわけです。

 バッシングがふるい落としになるのなら,柔道で言えば「有効」ぐらいにあたるでしょうか。

 ある方は,このブログの主張を「信用失墜行為」だと明言されているようですが,「同情ください」系の主張にしろ,「問題はありません」系の隠蔽癖にしろ,教師としては「情けない」の一言に尽きます。

 教育実習生には,教育の仕事の困難さを嫌というほど感じてもらい,バッシングに左右されない強い意志をもって子どもの成長のために尽くす一生懸命な姿の尊さを実感してほしいと思っています。
 そういう経験をした教師だけでなく,保護者が増えることが,「学校教育」などという狭い枠にとらわれない,本物の教育が語れる社会ができていくと考えられます。
 
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08/5/2 教育実習生を評価する想定レベル

 教師を志望されているGAKUさんから以下のコメントをいただきました。ありがとうございます。
 
>教育実習の際では「学習発表会」と言う名の研究授業を多く見ました。疑問を感じていたのですが、多くの先生方は絶賛及び、お疲れ様ですと言う感じでした。

 教職希望の方や、自信のない現場の教師が読むブログとしては適切ではないかもしれませんが、免許更新などでは実現しきれないレベルアップを現場(=子どもが主体)の意地で達成してほしいという願いをこめて書いています。
 さて、多くの教師の授業が、生徒の学習発表と大差ないレベルにあることは今まで何度かふれてきました。
 まだ生徒よりましな発表なら問題はないのですが、教育実習だと「教えてわからせる」という要素を入れようとする分、より「わかりにくくなる」ケースが多くなります。
 指導者の「評価」の基準も非常にさまざまで、
 1歳児のボール投げを褒めるレベル、
 小学生低学年のキャッチボールを褒めるレベル、
 中学生のコントロールを褒めるレベル、
 高校生の球威を褒めるレベル、
 大学生のピッチングの組み立てを褒めるレベル、
 イチローを抑えたピッチャーを褒めるレベル
と、対象にかける期待と連動して変わってくるわけです。

 教育実習なら、どのレベルでしょうか。
 口では褒め、評価はCというのもざらにあるでしょう。
 指導者=評価者の力量にも大きく左右されます。

 たとえば普通の公立で教育実習を実施する場合、私なら、まず大学の指導教官が現場に出向き、指導にあたる教師の授業力を評価した上で大学生を預け、3週間後には、何をどのように指導されたか、学生の何がどう成長したか(指導教官の指導力)をチェックすべきだと考えています。
 ペーパー免許のためのイベントの一種と考えている実習生には、ボールが届くだけでも十分評価してあげていいかもしれませんが、授業を受けた生徒がその時間内に学び損ねたものを認識して去っていってもらう必要があるので、結果としては厳しい自己評価となる指導となります。
 以前に紹介したかもしれませんが、以下に示す8項目は、私が指導助言したことがある教師の指導案を学生に読んでもらい、課題としてあげてもらったものですが、自分がこの課題を克服して授業づくりをする側になると、結局うまくいかなかった、となるケースが多くあります。
1 主題やねらい、目標があいまいである。
2 導入・展開・まとめがうまくつながっていない。
3 「考えを深める」ための資料(教材)がない。
4 「関心を高める」ための資料(教材)がない。
5 教師が一方的に説明する内容の量が多い。
6 発問が少ない。
7 生徒に作業させる時間の配分が少ない。
8 評価内容が指導内容と一致していない。
 この8項目を満たす指導案づくりというのはけっこう難しいものです。
 ある実習生が、「社会科は、先生が話したことと板書したことを暗記する教科だと思っていた」が、「子どもが自ら課題意識をもって考えることのない授業は、学習とはいえないことがわかった」という趣旨の感想を残してくれました。
 逆コンピテンシーの明確化、具体的な把握が、こういう自覚を生み、成長は、ここから始まるわけです。

 

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コメント

その教員養成系大学の先生にお伝えしたいものですが、
ちなみに、私は優秀ではありませんが、私が教師になろうとしなかったのは、教師に対するバッシングが原因ではなく、
問題教師たちの存在が大きいです。問題教師たちと一緒に仕事を続けることができないと思ったからです。
問題教師たちにより、退職に追い込まれる危険を感じているからです。
本当に悪いのは教師バッシングをする保護者ではなく、バッシングされる教師のほうであることも多いと
感じているからこそ、教師になろうとしない若者も多いのだろうと私は思っています。
学生の頃、問題教師たちに、暴行などで人権侵害されつづけて、それでもその教師たちと仕事がしたい若者などいるのか!
と考えれば答えは見えてくるはずなのに、その大学の先生はそういう視点で考えられていないのでしょうかね。
私は、学生時代に長い間、問題教師たちに悩まされてきました。
そういう背景もあり、kurazohさんによる問題教師批判は、たいへん意義のある素晴らしいことだと思っています。
これからも教師の悪いところを批判すべきは批判して、問題教師根絶に向けて教育界を浄化していって下さいね。
公教育が良くなることを願っています。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
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    「孟嘗君 2」より
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    「孟嘗君 2」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より