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新聞記者の教育観のどこが問題かー4

 口先だけの人間か,そうでないかを確かめるには,経験が豊富な人間が日ごろの職務行動をじっくり観察するという方法があります。

 このような観察では,「口先だけではなかった」人ではなく,「口先だけだった」人の方が,手抜きの仕方をよくわかっているだけに,「口先だけ」の人間を見つけやすいということもあります。

 よく「かつてはいい加減だった」と言われる管理職がいますが,こういう管理職でも「人を評価する」という立場ではとてもよい「仕事」ができるわけです。

 そんな話はおいておき,16日の記事にあった教育現場での「数値目標」についてです。

 「もっと子どもにたくさん本を読ませたい」
 「もっと子どもに挨拶をさせたい」
 「遅刻を減らしたい」
 「計算力を向上させたい」

 だれでも考える「望み」が,ただの「望み」で終わってはならない。
 
 そのためにどうするか。

 本に親しませる時間を増やしやり,本の魅力を教師が語って「読みたい」という意欲を高めたりする。
 教師自ら子どもたちにどんどん声をかける。
 子どもたちによる「朝の自主的な活動」を増やす。
 計算力を向上させる教材を開発する。

 教育現場には,様々な「成功実践」が蓄積しているわけだから,それらの導入やさらに工夫を加えた実践で,どんどん問題解決に取り組んでほしい・・そういう「声」が,ようやく「現場」に届き始めてきています。

 教師がただ「望んでいる」だけでは,「何をどの程度,どのように実現しようとしているのか」がわからず,「望んだだけ」で終わってしまうおそれがあるので,「どの程度,徹底させたいのか」「どの程度,達成することが可能なのか」など,実現された姿を具体的に想定できるものにするための一つの方法に,目標の数値化というのがあるわけです。

 大事なのは,目標を具体的に想定することができるかどうかということです。
 数値化はその一つの手段に過ぎません。
 「いい学校」では,「上級生のようになろう」で十分なわけです。

 多くの学校では,目標に達しないまま,あるいはさらに課題を膨らませたまま,進級・進学させてしまうという課題を抱えています。
 今までは,目標が抽象的で「具体的な姿」があいまいだったために,評価もいい加減で,指導の改善に役立つ資料すらありませんでした。

 数値目標を設定することで,内容によっては,目標の設定自体の課題も明らかになったり,実践の方法がもつ課題が明らかになったりと,「どこに問題があるのか」が明確になってくることが期待できます。

 そして,数値目標を設定して教育実践を進めていくと明らかになってくるもう一つの重要な点は,教師の「教育という仕事に対する誠実さ」です。

 自分への評価を気にして,「数字ばかり」に目がいってしまうような教師に,本当の「目標」を達成することは期待できません。実践が伴わなければ,「数字」が向上するはずがないのです。

 子どもの得点の改ざんなどは,「目標の数値化が生んだ問題」ではなく,教育者としての資質の欠如が明らかになり,その資質自体の改善(あるいは現場から去ってもらえる)という,「目標の数値化によって得られた成果」です。

 「数字で評価していると,数字で表せない部分が見えなくなってしまう

という教師のコメントが載っていましたが,これは「目標管理の仕組みがわかっていない」という宣言に他なりません。

 数値化された目標がすべてだと誤解してしまうとこういうことになります。
 目標の達成度の評価は,数字だけで出すものではありません。
 
 たとえば「読んだ本の冊数」だけではなく,「どんな本を読んだか」という「内容」がセットにならなければ,「ただ冊数だけ多ければよい」ことを目標にしていたことになってしまうからです。

 「もっと子どもにたくさん『よい』本を読ませたい」
 「もっと子どもに『心のこもった』挨拶をさせたい」

という,より「教育的」な目標が見えてきたとき,教師は何ができるか。

 目標がよくわからなくなったら,まず,「どうして本を読んでほしいと考えたのか」「どうして挨拶ができないことが課題なのか」というレベルから考え直すことも大切かもしれません。
 
 ジャーナリズムの役割として期待したいのは,「数値目標の達成・実現を図る」という名目で,「おかしな教育」「インチキ」が行われていないかどうかの発見とその公表です。 
 「弱い立場の管理職・教師の代弁者」としての記事づくりのパンチが弱いのは,もっと弱い立場になってしまった人たちから見れば,身分が手厚く保護されている教育公務員への同情を買いにくいといった点でしょうか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
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    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より