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2009年4月

テストの点をとるための「関心・意欲・態度」? ふり返り366日【08/4/24-3】

 子どもたちにとって教科の知識や技能を「活用する」「使う」場というのは,今まで普通は「定期考査」「小テスト」「単元テスト」「業者テスト」「入学試験」などのことに限られていました。

 ですから,このような「」での効率的・効果的な活用方法を習得させる・習熟させる場としての塾というものが機能していました。

 テストというものの性質上,どれだけ短時間で正確に「正解」にたどりつくかが重要であって,「横道」にそれてはいけないのが原則です。

 しかし,「本物」の活用力を調べるためのB問題では,1つの問題を答えさせるのに2ページを使って条件や正解に結びつけるための資料を提供したりしています。

 PISA型学力読解力を想定に入れていることは明らかですが,実はこのようなタイプの学習指導は,学習指導要領の中で示されているものでした。

 PISAに刺激を受けたとは言っても,そのような能力の育成を今まで無視していたわけではなくて,教師によって軽視されてきたと言ってよいわけです。

 観点別学習状況の評価を出すときに多くの教師が悩んでいたのが,関心・意欲・態度思考・判断のような,「測定することが困難」な能力の評価でした。

 これらの観点を評価するのに適した問題が,徐々に開発されたり,観点の能力を育成できる授業が行われたりするようになれば,現場の実感としての「学力観」にようやく広がりが生まれ始めることでしょう。

 「テストの点をとるための関心・意欲・態度」を育成するのが教師の仕事ではないわけです。

 教師たちは口々に「でも入試が変わらなければ・・・」と言いますが,上位校は別として,公立高校の入試得点の半分は内申点でしょう。この内申点で本来の学力をきちんと評価してあげることが,教師としてのつとめであると考えられます。

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08/4/24 教師がB問題から学ぶべきこと

 教師にとって、「学力調査」は他人事ではありません。
 中学生全員を対象にする調査であるということは、その指導者も全員、問題の内容を把握する、ということです。
 公開されている問題を見れば明らかなことですが、学力調査は、新学習指導要領実施後の具体的な指導法やそのときに扱う教材のあり方、また評価方法を提示していくねらいもあるようです。
 新学習指導要領総則の「教育課程編成の一般方針」には、「基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ(・・・A問題で評価)、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくむ(・・・B問題で評価)」とあります。
 調査は抽出でもよいとする主張もありますが、国が全児童・生徒(これからの国民)だけでなく、指導者であるすべての教師に求めているメッセージを直接伝えきるところに意義があると考えます。
 2年後くらいには、観点別評価のあり方も変わると思いますが、そのころまでには各教師の責任で作成がまかされている「定期考査」もがらっと変わったものになっているでしょう。
 学力調査は評価のためのように一般の人は考えるかもしれませんが、学力向上に欠かせないのは生徒の努力だけでなく、教師の指導力の改善もあります。B問題がつくれる発想が授業にも求められているわけです。
 定期考査の問題を分析する塾があれば、これまでの学校の不十分な評価のあり方が浮き彫りになるはずですが・・・・。

08/4/24 B問題が入試まで波及するかどうか

 「解くことに意味を感じる」問題、「解いたことで改めて学んだ実感が持てる」問題づくりが、今後ますます求められてきます。
 このとき、出題者には豊かな構想力と表現力が、解答する生徒には読解力・解釈する力と表現力が、それぞれ問われることになります。
 本来、授業そのものもそうあるべきなのですが。
 今後、入試問題まで波及できるかどうかが課題です。
 公立の中高一貫校の適性検査は、B問題の傾向が強いわけですが、これはある程度の国語力(読解力)がついていれば解けてしまいます。(私の予想では、中高一貫校の場合、文系ではある程度の成果が残せそうですが、理系のセンスがあまり問われないで選抜されているため、大学入試でどれだけ実績が残せるかが課題になりそうです。)
 採点に時間がかかったり、採点基準の難しい入試は実施者が嫌がるでしょう。
 後で問題に対するクレームが浮上するかもしれません。
 学習指導や評価の数々の壁については、「最終的には入試が変わらなければ・・・」と長い間言われ続けてきました。
 流れは、急激に変えることはできません。
 移行期間の授業時数増の報道がありましたが、時数が増えるだけの物理的な変化だけではもちろん不十分です。入試が学力問題の化学変化をおこせるかどうか・・・。

マスコミの取材姿勢と攻撃上の常套手段

 マスコミの取材の中で,「正義が悪を暴く!」という趣旨で行動しているものがあることはよくわかります。

 ただ,カメラでしつこく追い回して公の場所,自宅の前でマイクを向ける,という手法については,「悪いのが懲らしめられているな」と見て喜ぶ人がいるのはわかるのですが,私は過去の経験から,違和感というか嫌悪感の方を覚えてしまいます。
 相手が「不快さを見せている」映像をとることが,「悪い人間である」ことを象徴的に視聴者に見せることができるので,記者の行動もエスカレートしがちです(というか,必死さが伝わってきます)。そのわざとらしさの方が不快です。

 組合か団体の関係者だったと思いますが,学校や行政には実現不可能な要望をしつこく続ける人がいました。

 実現不可能な話なので,話は堂々巡りになり,時間だけが過ぎていくわけです。

 当たり前の話ですが,同じ話を何度も繰り返されると,されている方は腹が立ってきます。
 そういうときについ出てしまうタイプの「失言」を,その関係者は待っているのがよくわかりました。

 ですから相手が冷静を保っていると,わざと相手が苛立つ言葉を投げかけたり,駄々をこねる子どもより質が悪い態度をとったりするのですが,そのねらいは「失言」,あるいは「攻撃可能な言葉」を引き出すことにあるわけです。

 こういう手法や実際のやりとりはあまり公開されているようなものではないので,「モデルケース」をご覧いただくために工夫をしてきたこともありました。

 攻撃する側の中は,たいてい自分で勝手に酔っているか遊んでいるだけの人もいますが,日本もそういう行動が容認されているうちは,「ゆとり社会」と呼べる段階にあると言えるのでしょう。

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「やればできるのに」ではなく「やらせればできるのに」

 Psycheさん,コメントありがとうございます。

学校の宿題をせず、塾の宿題をするというのは納得です。これは塾の中でもよくあることです。○○先生の確認テストはいい加減だが、××先生の確認テストはしっかり勉強してくる。普段の確認テストの点数を見ていると、その講師の力量が自然と反映されていることに気づかされます。強制力のある講師は貴重です。

 「やればできるのに」という言葉はよく聞かれますが,指導者を見ている立場からすると,「やらせればできるのに」という言い方になります。
 学校では,「やれば内申点が上がるのに」と教師の側は思っていても,別にその生徒の内申点を上げることが職務上必要な義務になっているわけではないので,提出物を出さない生徒は「出さない生徒」として処理するだけで終わってしまうことがあります。
 子どもたちは,課題をこなす必要性は感じてはいても,それが影響してくるのはせいぜい近くて学期末の成績をもらうときか,多くは受験という最後のときの話ですから,全く切迫感がないのでしょう。
 課題の中には本当にやる意味があるのかないのかわからないものもあるので,そういう意味では「正当な理由による宿題をやらない権利」というのも大事な気はしているということを以前も書いたことがありますが,そこまで思考力があるのなら,将来のリスクを減らすために課題をやって出すというのが賢い選択肢であるわけです。
 「強制」されるのが嫌な教師の中には,「強制」すること自体も嫌っている人がいるので,結局学校では何でもありになる,その延長線上で「どうでもよさ」の度合いがかなり高いのが,「宿題の提出」というものになっているようです。

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郊外のコンビニの駐車場と学校現場

 地方や郊外のコンビニの中には,とても広い駐車場をもっている店があります。

 地域によっては異なるかもしれませんが,ここが中高生のたまり場になっている店もあるのではないでしょうか。地べたに座って,カップラーメンを食べたりジュースを飲んだり,アイスを頬張ったりしている光景を見ることがあります。

 私が子どもの頃は,地元には駄菓子屋があり,空き地があったりして,お菓子を食べながら友達同士でしゃべったり遊んだりできる空間がありました。

 コンビニの駐車場をみていると,中には草野球ができるのではと思えるほど広いところがあったりして,それはまず間違いなく怒られるかはじめから子どももやらないでしょうが,「子どもだったらどのように使うか頭をひねるだろうな」と思われる空間であることには間違いありません。

 昔は,空き地にしろ,駐車場にしろ,それは「人の土地」であることは間違いないのですが,中に入れないわけではなく,中のものをとったりするわけではないので,わりと「平気で」使わせてもらっていたのが普通でした。

 子どもたちにとっての「公共空間」は,大人たちの黙認のもとでの「公共空間」であり,決して「私共空間」ではなかったように思います。

 しかし,コンビニの駐車場で見られる空間は,残念ながら「私共空間」のようです。

 地面に座ってつばをはく。ゴミはちらかしたまま。

 本来は,私共空間というのは,周囲の人間が公共空間化したいと願えば,「注意すること」で叶う空間であるのです。

 しかし,逆ギレされたり逆恨みされたりするのを怖れて,たいていの人は公共空間化の担い手にはなろうとしません。

 このようなことがもし,学校の中で起こっていたとしたら,この世の中は「私共空間」によって占拠されてしまうことでしょう。

 学校が公共空間であることを維持する上での最も困難な課題は,教師たちが「私共空間」の担い手になってしまっていることです。

 自分がやっていないことを,人にやれといっても,特に子どもは言うことを聞かないでしょう。

 逆に,自分がやっていることは,だまっていても子どもは真似をするでしょう。

 教師と子どもがそっくり重なる光景を随分見てきました。

 もちろん,親と子どもが重なる光景もです。

 どこかで断ち切らなくてはいけないでしょう。

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「検定」開発ができる学校づくり ふり返り366日【08/4/24-2】

 「どんなときに最も『生きがい』を感じるか」という質問に、「寝ているとき」と答えた子どももいました。

 実は一部の大人より、よほど子どもの方が忙しい毎日を送っているわけです。

 インターネットや携帯電話の普及は、確実に子どもの睡眠時間を削っているようですし、学校だけでなく塾の宿題漬けの毎日に苦しんでいる子どもも増えてきます。

 そういう「苦しい毎日」に耐えられるのは、私の想像では、実は学校の授業の質のおかげだと考えています。

 特に授業の質が分かり始めた中学生にとっては、最も「休養になる」「気が抜ける」時間が授業中ということになっているようです。

 なぜ学校の宿題は平気で忘れ、提出物も出さない子どもが、塾の課題だけはきっちりとこなしているのか。

 子どもなりの価値観や判断力がそこにきちんとはたらいているのでしょう。

 「学力を高める」という目標を達成する手段として、子どもが「学校」を選択できなくなってしまう事態を、「学校」側は、将来的にどのように解決していく準備があるのか。

 授業の質が向上せずに、時間数だけが増えていくことで最も懸念されるのは、子どもの「授業離れ」です。

 塾にたよらない「授業離れ」でかつ学力を向上させるというシステム上の「離れ業」を見せてくれる学校は出てくるでしょうか。

 漢字検定を中止にしてしまった学校が増えているようですが、将来的には、「検定方式」による能力・技能認定制度が学校教育でどんどん取り入れられていく予感をもっています。

 行政主導である必要はありませんが、各学校がそのような「検定」のデザインをどのように作れるか競い合うことにもおもしろみがあり、異なる学校にしかない「検定」を他校の生徒が土曜日に受験しにくる、「道場破り」のような光景を思い浮かべても楽しくなってきます。

 教科の学習にかかわる検定だけでなく、「特別活動」の面として、「議事進行能力検定」(ファシリテーション能力検定)のように、議長として話し合いをうまく進めることができるかどうかという実技検定や、「コーチング能力検定」のように、部活動での下級生に対する指導力を評価する検定などもあっていいような気がしています。

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08/4/24
 土曜日授業の実施は国民の願い

 昨年の調査によると、公立学校での土曜授業の復活に賛成は40%、どちらかといえば賛成が41%で、大半が賛成派であり、現在の週5日制が支持されていないことが明らかになっています。

 学校側の論理としてこれが実践できないのは、教職員の勤務のあり方にかかわる制約が大きい。
 教職員を週2回休ませなければならないが、土曜日が勤務日になると、平日に代休をとらなければなりません。
 学級担任制の小学校ではまた別の問題がありますが、私は小学校で土曜授業を実施する必要性を全く感じません。まだ小学生なら親が本来の週5日制の趣旨のとおりに子どもを動かすことが可能ですし、ボランティアによる補習教室を開くこともできます。

 問題は授業時数の多い中学校で、規模等によっては(講師が多いと制約が増加し)、時間割が組めなくなります。
 しかし、もしそれがネックの中核であるなら、学校規模を大きくしていき、平日にすべての教師が代休をとり、大学等での研修や研究を自由に受けられるようにすべきです。
 平日の持ち時数は多くなり、多忙感も増すかもしれませんが、平日にとれるまるまる一日の休みは、非常に有効な活用が望めると思います(一日中パチンコしている人もでてくるかもしれませんが・・・休日ですから行動は自由です・・・)。

 私が管理職なら、自主的な研修以外に、他校にいる優秀な教師の授業参観や、連携・協力関係にある小学校への訪問を勧めたりすると思います。もちろんこの「出張」は「勤務日扱い」になりますから、こういう勤務に限っては、長期休業中の代休への振り替えを制度上可能にしてもらいます。
 土曜授業復活にかける国民の思いは、1位が学力向上2位が平日の時数を増やすよりよい3位が(実質的には保護者の思いはこれが大きいはずの・・・)無駄な時間を過ごさずにすむ、4位が行事や部活をあててほしいなどとなっています。
 行政は、国民や住民の声を重視し、またその「実」をとるためにも、実験校を積極的に増やし、実現可能性や実施の有効性を探っていくべきです。

入学時の挨拶の指導 ふり返り366日【08/4/24】

 幼稚園や保育園から小学校への入学時、あるいは、小学校から中学校への進学時、学校が始まってしばらくの間、問題となるのは「挨拶ができない子ども」への指導です。

 「強制的に挨拶させる」ことが教育的ではないのは明らかなので、「自然にできるようになるまで待とう」という意見の人も見られますが、自然にできないから教える必要が出てくるわけで、「そういうものだ」という自覚を持たせる必要が学校では生じてきます。

 よくある「形から入る指導」と言われるものです。
 
 先輩達や、みんながやっているように振る舞っていくことで、いつの間にか、それが自然の姿になる。

 自然の姿になっていくと、挨拶に込められた思い、挨拶で受け取ることができる思いも理解できるようになってきます。

 しかし、不幸なことに、そういう経験を得られないまま、大人になっていく子どもが増えているような気がします。

 「挨拶」で有名なタイですが、このような国には、戦前の日本のような取り締まりがある。

 このことを、単純に「おかしな国」と捉える感覚だけで終わりにするか、このことを通して「なぜ敬意を示すことが必要なのか」ということを考えさせようと思うかで、教育の質も変わってくるでしょう。

 友達同士で使うような絵文字を大人が「挨拶」代わりに使う国は、「良心の自由」が認められた、過ごしやすい国のようです。

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08/4/24 起立拒否(国歌演奏時)で検挙・・・タイでのお話

 久しぶりに朝日新聞らしい記事をネットで見ました。
 タイでは映画の上映前に国歌が流されるのだそうです。
 そこで全員に求められる起立を拒否した男性が、不敬罪で警察の取り調べを受けた、というニュースです。
 学校教育での儀式的行事の場の問題とは明らかにレベルが違う出来事ですが、これを子どもに考えさせる題材で使うとすると、落としどころが明白になってきます。

 喜んで記事を切り抜き、プリントにしようとしている人の姿が目に浮かぶようです。
 関連するニュースは、探っていけばたくさん見つけることができるでしょう。

 少し話は別次元にうつりますが、学校では、「挨拶ができない」子どもや教師にそれを指導することの難しさがよく話題になります。

 単純に習慣化されていないだけなら訓練の効果が期待できる一方で、もともと反感をもっていて挨拶をする気がない人間と、指導されることへの反感をもって挨拶をしない人間がいるわけで、最後にはよく、自然に挨拶ができる世界に入っていってもらおう、そういう研修をさせよう、というあきらめに近い声が聞こえてきます。
 学力低下うんぬんの問題より、「基本的生活習慣」が破綻していることの方を強く憂慮している人は、どのくらいいるのでしょうか。
 外部の人は、ワンパターンの発想で「では道徳の授業の充実だ」となりますが、大切なのは「道徳の授業」だけではなくて、学校の全教育活動の根本に何が求められているかを考え、実践することです。
 学校の全教育活動の根本には、教師である人間そのものの存在があります。

大人らしい子どもと子どもらしい大人 ふり返り366日【08/4/23】

 一人の人間の顔色をずっとうがかっていなければならない毎日というのが、子どもの発達にどのような影響を与えているのか、調査したデータというのはあるのでしょうか。

 「仮の姿」を演じ続けることが、子どもにとってどのくらい負担なのか。

 というより、子どもは「本当の自分」というのをつかむことができるのか。

 「クラスごとに競う」という場面だけ燃えているような学級王国の連合小学校からは、ときどき挨拶や礼儀作法が全く身に付いていない子どもたちが進学してきます。おそらく、一日のうちで敵以外の「大人」にほとんど接することがないため、挨拶の必要性を感じる場面が極端に少ないからでしょう。

 中学校に上がると、小学校のときのような「濃密な時間」を担任教師と過ごすことはなくなりますから、おそらく「今までやりたくてもできなかったこと」を次々にやろうとし出します。
 あるいは、「やりたくないのにやらされていたこと」をやらなくなります。

 「本当の自分」が別のものだったことに遅かれ早かれ子どもたちは気付き始めるのです。
 また、特定の「大人」から、いやらしい「大人らしさ」を学んでしまうのです。

 核家族化・少子化という「特色ある世代」の子どもたちには、「多くの大人たちとのかかわり」の機会をもっともっと増やすべきかもしれません。
 それも、「こども化した大人」ではなく、「大人に育てられた経験をもつ大人」にです。

 そうでないと、「少子化」ではなく取り返しのつかない「多子(=こども化した大人)化」の方が深刻な社会問題になるかもしれません。今はまだ、小さなことが積み重ねっている段階ですが、食い止められるとしたら今しかありません。
 かなりの高齢に見受けられる方が、子どものような絵文字を使って表現しているのもたいへん見苦しいものです。

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08/4/23 小学校教師が過ごす濃密な時間の正体

 最近、小学校の先生が書かれた本を読んで驚いたことがありました。
 20年間教師をしていて、教えた子どもは600人・・・。
 中学校の教師から見ると、とても少ない数に見えます。

 (中学校の場合,)週1時間の授業だけだと、1年間で600人を教えることが可能で、実際にそういう人もいます。
 私が昨年教えていた生徒は400人です。

 それだけ、中学校の教師に比べて、小学校の教師が児童と過ごす時間が濃密であろうことが予想できます。
 (観点別学習状況の評価も、授業さえしっかりしていれば問題なくできるだろうことも想像できます)

 そして、自分の子どものようにかわいがりたくなってくる感情もよくわかります。
 さらに言えば、そういう関係は教育にとって大きな危険もはらんでいることを指摘せざるを得ません。

 著者である教師は、子どもの教育には親の力が大きな影響を与えるといいますが、本に書かれたことをほとんどしてもらえなかった生徒でも、十分に力が伸びていること、また、自分の体験をふまえると、やはり小学校では親より教師ではないか、と単純に思ってしまいます。
 中学校では考えられない(ドラマがつくりあげているイメージは極端すぎることは周知のこととしても)濃密な時間を小学校の教師と過ごしたことをふまえて、「恩師」として小学校の教師が思い浮かぶ人というのは何%くらいいるのでしょうか。
 私にとっての「恩師」とは、文句なく小学校教師なのですが。

教育・・・「公務員だからしょうがない」・・・でよいか?

[教育現場] ブログ村キーワード

 実際の現場の人間が,自分がかかわっている生のままの情報をブログで出しにくいのは,それがすぐに批判の的になったり,自分の教育観や実際の教育の問題を浮き彫りにしてしまう危険があるからでしょう。

 知恵のある保護者は,問題のある教師に対して「褒める戦略」「おだてる戦略」をとり,「教師の明るさ」「教師の公的サービス精神」を維持しようとします。

 ただ,それが戦略であることを見抜けない教師は,隠されている問題を問題と認識できないままでいるか,認識できていたはずの問題をなかったことにしてしまう結果になるので,保護者としてはバランスをとるのに苦労するわけです。
 というか,決定的な問題がおこってはじめて,今まで積もってきた課題を一気にオープンにするので,教師の側も余計につぶれやすくなるという現状があります。
 日本に限らず,よくあるケースです。

 企業の人間なら,社交辞令と事業契約が同じような質の言葉だと勘違いすることは絶対にないでしょう。
 外交官が社交辞令に舞い上がって本務を果たせないとしたら,国の将来が危うくなってしまいます。
 しかし残念ながら,教師たちは,教育の「結果責任」を負うことはないので,「お気楽な混同」をしてしまいがちです。
 「結果責任」を負うどころか,責任を他に転嫁しようとしている教師がいかに多いことか。

 たとえばハンバーガーショップの人間が,「ここのハンバーガーはうまくない」と言われたことに対して,「うちにはハンバーガー以外にもおいしいメニューがある」と言って逆ギレするようなことはあり得ないのに,ブログの中には,そのようなタイプの主張が見られることがあります。

 学校は,非常にメニューの多い,昔風で言うと「大衆食堂」のようなところです。

 しかし,大衆食堂だからといって,「料理はまずくてもいい」わけではなく,「安い価格設定のために偽装をしてもいい」わけでもなく,「従業員はマナーに心掛けなくていい」わけでもなく,「隣により安くておいしい食堂ができて,客が減っても気にする必要はない」わけでもないのです。
 しかし,それも「あり」になってしまっていることについて,単純に「公務員だから仕方がない」といって片付けることはできないでしょう。

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学校の「偽装」の洗い出し ふり返り366日【08/4/22-3】

 予備講習には,免許更新制への反対の立場をとっている雑誌にも,「ためになった」という経験談が載るくらいですから,同業者の仕事=「内容」に対する不満というのはとりあえず言いにくい状況なのでしょうか。

 ただ,「休暇を利用しなければならない」「自分で費用を負担しなければならない」ことへの不満は根強いようで,本当の意味でも忙しく「受講し忘れた」教師が出現した場合,どのような措置がとられるのかに興味があります。

 あれだけ新聞やニュースで報道された「学力調査」の日付を「間違える」くらいですから,あるいは「免許更新の年だとは知らなかった」という教師が出てこないとも限りません。

 思い起こせば,行政に入ってまず驚いたことは,「学校にはこんなにたくさんの文書が送られてきていたのだ」という事実でした。現場の教師のときには,出張の依頼書など,自分に関係のあるものしか見たことがありませんでした。
 
 紙の節約のためか,「不満を買わないため」か,本来は教師たちに周知すべきはずだった文書も,ほとんど口頭だけの伝達に終わっていた記憶があります。
 
 教頭先生が一括して処理していたのでしょうが,具体的な調査を校内で実施しないで文書が提出されている学校があるとしたら,その文書の内容の信頼性に問題が生まれてくるのは明らかでしょう。
 このような「教頭」が教員の人気を得ていた「偽装学校」は「副校長」「主幹」によってどんな学校になるのでしょうか・・。

 思い起こせば,東京都では偽装の発覚が,一連の改革の引きがねになっていました。

 偽装の洗い出しで救われるのは教師ではなく子どもです。

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08/4/22 教員免許更新制における更新講習について

 自動車免許を取得したとき、「こんなに教えるのが上手な先生が他の世界にいるとは・・・」と感嘆したことを思い出しました。教師の私も、そこから「教えるこつ」をいくつか盗ませていただいたことを覚えています。
 教員免許が、自動車免許と同じような扱いになったのは周知のとおりです。
 当初は、「問題教師を排除する」ことが強く要請されて始まった制度かと思いましたが、それが前提なら当然教員の反発が予想されるわけで、文部科学省は「そんなつもりはない」という一貫した態度をとるようになっています。
 今後は、「大学」の研究者か教員かよくわからない立場の人たちが実施する更新講習の内容とその実効性が問題となるでしょう。
 教員には、現場を知らない行政という「」だけでなく、これまた現場を知らない大学の研究者という「」が存在しますが、そこに行政が教員を接近させようとしているわけです。
 「一般論」「二番煎じ」には価値が見出されない世界で生きている大学の研究者に、現実の問題となっている各学校の現状という「一般論」が展望されているのでしょうか。
 注目は、今年度中に実施される「予備講習」です。

リスクの少ない「平等」 ふり返り366日【08/4/22-2】

 私にとっての恩師たちは,その恩師たち自身が,かけがえのない恩師をもっているのだろうと想像することができます。

 今の目の前にいる子どもにとって,褒めることが一番いいのか,問題を指摘して叱ることがいいのか,慰めることがいいのか,自分で考えさせることがいいのか・・・。

 本当は,それぞれの子ども自身のことをよく理解した上で,それぞれの子どもに合った接し方をすべきだと考える人が多いのでしょうが,そうすると「格差」が大きくなってしまい,「平等」「公平」な教育ではないと見られるようになってしまう・・・おそらく,今の時代の最も大きな問題はそれでしょう。

 行為として「同じ」ものが,「平等」であるとは限らないことは,性別や年齢の違いだけをとってもみてもよく分かることです。

 しかし,「違う」ことをすれば,簡単に「差別」だと非難する口実になってしまう。

 そのため,おそらく,現場の多くの教師たちは,最も安全で,安易で,リスクの少ない,結果として,ほとんど教育的効果がない,そういう「指導」を選択しがちなのでしょう。

 ほとんどの子どもたちが,「満足」な学校生活を送っているということがあるとしたら,「とてもよくないこと」「まずい状態」と感じ取れるような力が必要なのかもしれません。

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08/4/22 恩師の教えと「否定の連続」

十牛図ー7 忘牛存人
 十牛図の第七図には、もう牛は描かれていません。牧人は庵の前でのんびりうたた寝をしている場面です。
 牛がいなくなったとは何か。牧人がのんびりしていることの意味は何か。
 私は小学校の低学年と中学年に、おそらくその後の一生を左右したと思われる影響を担任の教師から受けています。
 低学年の教師からは、ただただほめられ、(図に乗ることなく,)そして「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」という賛辞をもらい、親も満足していました。
 中学年の教師には、ほとんど怒られた記憶しかありません。「上に立つものがすべての責任を担うものだ」という論理で、無法者の排除という行動も「差別」という罪状で処罰されました。 私はたったの一度も、一瞬でも反抗したことはありませんでしたが、これほど徹底した指導ができる教師は、今は皆無でしょう。
 禅の修行では、「人生を向上的に生きるには、否定の連続が必要になる」と説かれています。
 「空じ、空じきっていく」ことは、「ほめられたい」「満足したい」欲求にとらわれている人にとっては、決してやりたくない作業でしょう。
 「教育失敗学」というタイトルを見ただけで、見る気もおきない、という人もたくさんいるでしょうが、それでも読んでくださっている方は、きっと禅の教えを理解されているのでしょう。
 偽りの自分に気づき、自分が新しくなる、そして真の自分を得るが、それを得たという満足をもった時点で偽りの自分となる。このことを、小学校4年生までに体得させてくれた担任の先生には本当に感謝しています。
 ただ、完全に「」になりきる感覚は、どうも偽物っぽくてなりきれません。
 まだまだ修行は足りないようです。

本当のリスク ふり返り366日【08/4/22】

 雇用のあり方について,勝間和代は「会社に人生を預けるな」(光文社新書)の中で明快な主張を展開をしています。

 終身雇用制が,なぜ「小作農」「奴隷制」と重ねて見ることができるのか。

 9割近い人が「日本の雇用慣行のよさ」として「終身雇用制」をあげている国で,雇用のあり方を変えることは本当に難しいことでしょう。

 しかし,「本当のリスク」に気付くことで,世の中は変わるかもしれません。

 以前にこのブログでも,「リスク管理」が次世代の人たちにとって必須の資質・能力になることを述べましたが,そのために教育現場で何ができるのかを考えているところです。

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08/4/22 レジ係の一言から

 あるスーパーのレジ係の女性が、話しかけられた知り合いの女性へ「830円(時給のことでしょう)でこんなつらいこと、何でやらないといけないのかしら」と大きな声でこたえていました。
 アルバイトで働く人たちのうち、どのくらいの割合の人が、安い時給で「働いてあげている」という実感をもっているのでしょうか。
 以前、バイトが集まらないコンビニの店長が、割高でも人材派遣会社経由の人を雇わなければいけない現状がある、というテレビ取材を見たことがありました。
 バブル経済で人手不足が深刻だったころ、外国人労働者の受け入れの可否がマスコミで取り上げられていましたが、近い将来、またこの問題が浮上するでしょう。
 勤勉・まじめ・高い学力というのは、昔の日本人像でしたが、近い将来、そういう外国人が大勢日本で働くチャンスが生まれてきます
 雇用の価値を失った日本人を割高でも雇う「福祉」も登場するでしょうか。
 おそらく「危機」がより身近にならないと本気にならないでしょうが、学習指導要領の理念はそういう具体的な未来の社会をある程度的確に捉えています。
 今後、短い学習指導要領本文の一つ一つの言葉の背景にある膨大な諸問題をつかんでいく作業が必要になります。
 終業時間を楽しみに待つような仕事に子どもをつかせたくはありません。

「酔った勢い」と「怒った勢い」 ~草なぎ容疑者~

 「酔った勢い」というのを,お酒が飲めない私は経験したことがありません。

 お酒の力というのは,「本当はやりたかったのだけど,理性の力で抑え付けていたが,理性という歯止めがなくなったためにやってしまう,とか,やるべきかどうか,ふんぎりがつかなかったのだが,やることに決めてしまった」というイメージなのでしょうか。

 かつて,「酔った勢い」で苦情の電話をかけてきたような保護者の対応をしたことはありましたが。ただ,クレームのケースでは「自分を見失う」ということではない(本当に子どものためを思うということは見失っているとしても)からちょっと違うのでしょうか。
 
 「怒った勢い」というのと似ているのでしょうか。

 本当はするべきではなかったことをしてしまった,言うべきではなかったことを言ってしまった,今回の草なぎ容疑者のケースはそっちに近いようですね。

 指導者の側でも一番怖いのが,この「怒った勢い」です。

 草なぎ容疑者にも,底知れない「怒り」が根っこにあったのではないでしょうか。

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センスをよくする教育的センス ふり返り366日【08/4/21】

 「センスがある」と言って褒められることがある教科と,それが想定できない教科には,どのような違いがあるのでしょうか。

 数学のセンス,美術の(絵の)センス,音楽のセンス,体育の(運動の)センス・・・

 社会科のセンスってあるのでしょうか。

 授業者の立場で言えば,「教材を選ぶセンス」「発言に対する応答のセンス」「教材をもとにくりだす発問のセンス」「板書のセンス」などが考えられます。

 社会科の場合は,メディア・リテラシーとか,法的リテラシーパブリック・リテラシーなど,社会科という教科の特色に結びつくような「センス」をもっと重視するような・・・ということは,そのような「センス」が発揮できる環境を整えるような努力が必要になってくるように思います。

 学習者である子どもに対しては,「ノートをとるセンス」が注目されることもあったでしょう。

 最近も,「勉強ができる子のノート」が注目されるようになって,(もちろん昔もありましたが)活字ではなく,手書きの文字や図で構成された本も増えてきました。

 「センス」のある人の行動や成果を見ることで,「センス」が育つかどうかは微妙なところでしょうが・・・。

 スポーツや音楽などの世界では,どんなに練習しても上達しない場合,「センスがない」という理由で「納得」したり,「あきらめる」ことができたりするのでしょうが,もし「センスをよくする教育的センスというのが明らかになりはじめたら,おもしろいことが起こりそうです。
 
 学校への「クレーム」についても,ただの「不満の捌け口」としてのクレームによって,余計に教育の質が低下するデメリットや,「センス」のあるクレームによって,教育の質を高めることができるメリットなどに対する理解を深めてもらえるような機会ができるとよいような気がしています。

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08/4/21 ゴミにたとえるクレームの種類

ガラクタオビジェ館さん、以下のコメントありがとうございました。
 
 >おはようございます、そうなんですよ、学校には芸術がたりないんですよ、ないといっていいと思いますね、センスも感じない、私も学校にはセンスが必要だと思います、国語算数理科社会でもセンスというものがあると思います、それはかっこよかったりおもしろかったり、そういうことですよね、

 明治初期、まだ学校が建設される前の、どこかの邸宅を利用した授業風景を描いた絵があります。
 オープンスペースは近年になってはやってきていますが、他の教師の声が聞こえてきたり、もりあがっている教室が気になったりと、集中できない子どもが増えるデメリットがあります。
 外見上は、よいイメージなのですが、当事者にとってみるとどうか。
 
 教育では、「当事者の声」が通らないことがしばしばです。
 教師の声でなく、子どもの声が反映できるしくみを教師のプライドを傷つけることなく導入できている学校はどのくらいあるでしょうか。
 子どもは多くを見抜いてしまっているだけに、本音も言いにくい現状があります。

 Pyscheさんからは、クレームに関する記事へのコメントをいただきました。 
 公立教員へのクレームと塾講師へのクレームとではその質がおのずと異なる場合は多いものです。

 >実はこの税金でまかなわれる義務教育は(生徒側には見えないために意識されにくいけれど)随分費用がかかっているということが、サービスを受ける者に見えにくいのです。だからこそ費用対効果の反応が目に見えて負担感を感じやすい塾のほうに心理的なハードルを高く感じさせ「こんな程度でクレームを入れるのは気を遣う」と思わせがちなものかもしれません。
 さてこのような中、学校教員と塾講師へのクレームの種類はおのずと傾向が変わることと思います。
学校教員への一部のクレームをゴミに例えられたように、そう表現したくなるような愚痴もまざる忌憚のなさを感じるというのは目に見えにくい「費用対効果」への関心の薄さからではないでしょうか。
 先程いった親の心理的なクレームへのハードルが高いため、塾講師への不満は比較的多くはないかもしれませんが、問題の質や追及の深さや大きさは大きなものになってきてから投げかけられることが多いため、ひとつひとつが深刻なものになりがちです。
 しかしクレームというものは相手への要求度の大きさの裏返しであるという側面を考えると、真剣な相手の思いを厳粛に受け止めることは大切なことと認識しています。

 クレームには燃やせるゴミ(一度不満を発散させてあげると後が残らない性質のクレーム)、燃やせないゴミ(埋め立てるしかないが、それもできないので処理に困るクレーム)、資源ゴミ(学校改善に生かせるクレーム)があります。教員の管理職や教育行政に対するクレームも同様です。「自分の都合」を強硬に主張し、組織のルールやモラル、秩序が全く見えていない子どもと教員がダブって見えることがよくあります。
 人格への攻撃を加えてくるやり方が、一部の教員にとっての常套手段ですが、これだけは子どもに伝染させないでほしいと思います。

次世代に夢を引き継ぐ世代の創造を ふり返り366日【08/4/19】

 人口約3000人の伊豆諸島の新島に,3km弱のトンネルを掘るのにかかった費用が80億円以上。

 このようなトンネル工事は,現在でも日本各地で実施されているでしょう。地域住民にとってはもちろん,なくては不便なものばかりかもしれません。

 230万人の小6,中3を対象に実施した学力調査にかかる費用は50億円以上。

 次世代の人たちに,何をどのように残すべきか,大人たちの真剣な議論は続きます

 しかし,政治の世界を見れば,次世代にばく大な借金ばかりを残し,去ろうとしているように思えてしまう。

 「その場しのぎ」の勉強と,そのように見えてしまう経済政策は,もちろん全くレベルの異なる世界の話ですが,「ご利用は計画的に」「計画的に計画」などという言葉がむなしく響いてきます。

 教育ではどのような夢が語れるようになるのでしょう。

 公立学校の経営者は,人やお金を自由に調達することも,利用することもかないません。

 ただ,空想にすぎなくても,アイデアだけはどんどん生み出していくべきです。

 このブログの中で触れた,電子辞書機能を搭載した小型ノートパソコンが商品化されることが記事になっていました。

 次世代の学習ツールの開発に,現場の教師もどんどんかかわっていくべきでしょう。

 アイデアは,子どもの方がより豊かかもしれません。

 子どもと教師による本当の「学校の組織」を発展させていくなかで,子どもの心の中に「次世代に残す夢」「次世代に引き継ぐ夢」の大切さを浸透させる効果は,きっとまたその後の世代の子どもたちのためになっていくことでしょう。

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08/4/19 校長は職人か、芸術家か?

 キリスト教会、「ルネサンス法王」から教育が学べるものは何か、とふと考えました。 
 イエス・キリストは、ソロモンの栄華よりも一本の野の百合を選んでいます。
 ですから「美しく飾り立てた教会は祈りの場にはふさわしくない」とする非難が成立する。
 しかし、イエスは神の子であって、人間たちとは違う。人間は、野の百合も愛するがソロモンの栄華も好きな生きものです。
 高位になるほど聖職者は豪勢な生活を愉しんでおり、これを堕落であると批判することもできますが、庶民とはなぜか、自分たちの手の届かない贅沢を好むという傾向もある。
 「芸能人の豪邸を訪ねる」テレビ番組は、それなりの視聴率を稼ぎ出します。
 王室や芸能界のスターがスターでありえるのは、反対の極にいるはずの庶民の支持が背景にあるわけです。
 キリスト教会の場合は、法王や枢機卿たちの華麗な僧衣の一団もあれば、黒や白の粗末な僧服や修道衣の人々もいる。
 こうして華麗さと清貧の双方とも満足させていることが、教会の強みであるといいます。
 「ルネサンス法王」は、清濁あわせもち、聖職界の長としてだけではなく俗界の組織のリーダーでもあったわけです。

 教育、学校という場はどうか。
 多くの学校には、「華やかさ」がありません。
 小学校などは子どもの作品などをめいいっぱい掲示するなどしていますが、これは場合によっては悪い趣味というか、子どもの励ましになっているとは限らない危険な行動です。
 基本的に学校は、中・高・大を見ても、機能重視(というか低予算重視)の構造になっている。
 「ハレ」の場面は、文化祭など限られた行事でしか見られません。
 しかし、そこに通う子どもの多くは、「華やかさ」に憧れ、テレビや雑誌に紹介される芸能の世界を愛しています
 そのまねをして髪型、服装を変え、アクセサリーをつけ、化粧をして学校に行くと、「学びの場にはふさわしくない」と非難される。現場では、この非難はごくごく当たり前のものという共通認識があります。
 ただ、「華やかさ」を容認しないと成り立たない学校も少なくありません。

 「華やかさ」を売りに生徒募集をする学校も増えてきました。
 親よりも子どもの方が新しく、高価で機能が多い携帯電話を持つのが多い日本では、仕方のないことなのでしょうか。そういう家庭では、「学校は愉しむべき場」であるはずで、間違っても「修行の場」ではないのでしょう。

 運動会文化祭は「撮影会」のような風景。子どもは親にとって最大のスターです。
 学校側の立場でいうと、あくまでも「修養の場」として通しきるのか、親や子どもの願いに即した新しいタイプの学校を増やさなければならないのか。

 ルネサンス当時のアーティストたちは、おとなしく注文をこなしていく「職人」でしかなかったわけではなく、注文を逆手にとって自分の創りたいものを創り出す本物の「芸術家」でした。

 日本では今のところ、「職人」としての管理職はいても、「芸術家」は少ない。
 校長はどんな学校像を構築すべきなのでしょうか。

新聞記者の教育観のどこが問題かー7

 毎日新聞の特集の方針は一貫しており,最終回も「ベテラン」の62歳大学講師,58歳53歳の小学校教諭が登場。

 「競争」=の教育観を補強するために用意したのが,小学生の分数のテスト。そして達成度の高さを「点数主義」という偏りのある教育観で斬り,「討論」や「子どもが気づく瞬間を待つ」授業をもちあげる。

 普通の親なら,そんなことが両立できなくて,なぜプロの教師と言えるのか,と思うでしょう。

 締めくくりは,「PISA1位のフィンランド」には教員評価も数値目標も一斉テストもない・・・。

 フィンランドを取り上げること自体が,「ランキング主義」「点数主義」に他ならないのに・・・。

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カンニングを疑われる行為の由来とは?


コネタマ参加中: 思わずチラチラ見ちゃう?!気になって仕方のないもの

 もしも,学校で,隣の生徒との間隔をあけないでテストをしたとしたら,別に「カンニング」=不正行為を行うわけでもなく,隣の生徒の解答用紙に「目がいってしまう」ということがあり得ます。

 どのくらい進んでいるのか?

 どんな図で表現しているのか?

 どうしてもわらかない難しい問題,隣の人は,できているのか?

 実は,大勢ではありませんが,中には,席を離してテストを実施しても,「カンニング」ととられてしまう行為をしてしまう子どもがいました。

 このような子どもが受験に向かうときは,とても心配していました。

 試験のときは,もっと間隔をあけてもらっているのか,あるいは,よほど緊張しているか,「カンニング」の報告を受けたことは一度もありません。

 テストは,完全に個別の能力を測定するものでしたが,数人のグループで力を合わせて解決しようとしたときに,各個人はどのような役割で,どのような力を発揮することができるのか,そういう「テスト」があってもいいような気がしています。

 なぜなら,教室では,グループで討論したり,ノートに書かれた他の生徒の意見を読み合ったりして,自分の考えや主張を「磨いていく」という練習をしているからです。

 こういう機会を多く積めば積むほど,「他の人の意見・答えが気になる」子どもは増えていきそうです。

 テストは出題者(あるいは採点者)との対話に過ぎませんが,もう少し「開かれたテスト」というのを追究してみたいものです。

所属意識を失った教師の「行き場」とは? ふり返り366日【08/4/18-2】

 人の子どもの心配をする前に,自分の子どもの心配を。
 人の心配をする前に,自分の心配を。

 人は何かと大事なことから目をそらしていこう=逃げていこうとする姿勢を持ちやすいものです。

 なぜ自分の職場に「所属意識」が持てないでいるのか。

 その原因を制度や上司にばかり求めて,なぜ自分を見つめることができないのか。

 そういう態度を人には求めてばかりいるのに,なぜ自分はそのような態度がとれないのか。

 「真のよりどころ」を追究する姿勢がより強く求められる時代になりました。

 教育の原点に立って考えるべきです。

 「子どもの目」には,何が写っているのでしょうか。

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08/4/18 「真のよりどころ」とは何か

十牛図ー6 騎牛帰家
 十牛図の第六図は、牧人がおとなしくなった牛に乗って家路につく場面です。
 牛に乗っているとは何か。
 牛が探していた「真の自己」であるとすると、本物のよりどころを得たことを示しています。
 人間には、両親、恋人、配偶者、老後は子どもなど、人生のステージに応じてさまざまなよりどころをもっています。また、「快適」とか「便利」という価値としてのよりどころもあります。
 しかし、これらが「真のよりどころ」ではないことは、すでに明らかです。
 「他に生かされた自分」「奇跡的な存在としての自分」への気づきが「無我」の境地の第一歩といいますが、教育現場では、「」の集中砲火を浴びる人たちがまずそれに耐える訓練をしなければならないのがつらいところです。
 しかし、「真のよりどころ」がもてたとき、揺らぐことのない自己が「利他」の精神で状況の打開に向けて歩む出すことができるはずです。

次世代教育のヒント ~子どもと教師の組織の融合~

 教育現場の人間が教育施策を批判するときに一番「痛い」ところは,実は子どもを直接的に指導する自分自身が子どもの教育に対して「絶大な影響力」をもっているにもかかわらず,その「影響力に対する影響力」をかたくなに排除しようとするように見られてしまうこと(実際にはほとんどその通りになっていること)でしょう。

 早い話が,「勝手にやらせてくれ」「放っておいてくれ」というのが最もわかりやすい主張です。「私共空間」絶対主義思想です。

 こういうやり方で,人間関係が固定化したり,こじれた関係まで固定化する小学校学級王国出身の哀れな子どもたちは,進学する中学校によっては,その負の遺産に苦しめられながら悩ましい3年間を送ることになります。

 この対極にあるのは,「勝手に手を抜かれたり余計なところに力を入れられたりすると困る」「より質の高い教育を望む」という保護者の主張です。本来は,これが普通の「公共空間」の功利主義的な思想です。

 そして,本来は保護者よりにあっていいはずの「新聞」が,「保護者世代」ではなく,「団塊教師世代」の方が読者が多くなってしまっているせいか,「教師を擁護する」記事づくりに精を出している現実。

 「両面外交」の典型のような仕事をしていることがよくわかる団塊世代管理職の教育ブログを読んでも,「よりよい教育を望む子どもや親の顔が全く見えてきません。

 ・・・教育界に政策批判の「カリスマ」がなかなか登場しないことは,ある面ではとてもいいことながら,別の側面から見ると,教育政策に対しては,何年たっても全く変わらない,黴が生えたような一面的な批判ばかりしか出されないというのは情けない話です。

 一人の教師がもっている「権力」の,子どもにとっての絶対的な強さ,影響力の大きさをカモフラージュしようとする動きへの疑念をいよいよしっかりもつべき時代になってきました。

 子どもにとって「本物の力」をつけるために欠かせない次世代の教育上の最も重要な施策上のテーマは,「子どもと教師の組織化」「子どもと教師の各組織の融合」にこそあると私は考えています(詳しくはまたいずれ記事にします)。

 次世代は,行政が,とか,教師が,とか,政治家が,とかではなく,子どもと教師が(ここに保護者が加われば文句なし)一緒になって教育を語れる「新しい学校」づくりを進めていくべきでしょう。

 その学校では,子どもと教師が様々な活動を通して,自らの力で互いに「所属意識」を高めていけることが成長の鍵となるでしょう。

 「所属意識」を持てない「批判専門」の人間をときには排除しなければならない状況も生まれるでしょうが,そういう「嫌な思い」をお互いにしなくてすむように,「よりよい教育」を求めて,互いに批判し合いながら所属意識が高まり,その高まりの中でさらに対案を持ち寄って批判し合える関係を築ける教師になりたいものです。

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新聞記者の教育観のどこが問題かー6 

 今日付けの毎日新聞の教育特集「先生:競争の現場から」には,ベテランというより,退職が近い教師たちのコメントがよく載せられています。読者層に合わせた措置なのでしょうか。

 第1回・・・単なる「ベテラン」
 第2回・・・56歳
 第3回・・・60歳と37歳と57歳
 第4回・・・55歳と53歳
 第5回・・・58歳

 とても偏った年齢の教師ばかりです。
 
 子どもがいる30代,40代の親たちが読むと,どのような印象を受けやすいか,想定にはあるのでしょうか。
 あるいは,それが本来のねらいなのでしょうか。

 第5回のタイトルは,「組織化進む現場管理」。

 教育関係の記事で,「管理」というのはたいていが「よくないもの」として書かれるものですが,この記事でも同じです。

 日教組の教研集会で東京の中学校教師が,英語に関する中学生の子どもの声=「小学校英語が役に立っていない」を発表したことについて,区の教育委員会から校長へ問い合わせがあり,データの公表を知らなかった校長が「叱責」されたことが紹介されていました。

 このことについて記者は,「締め付け」と表現しています。

 校長に対する叱責しか書かないでおき,校長に対する同情を買っておきながら,データを公表した組合の教師本人の責任については一切ふれない表現方法。

 これは行政→管理職,管理職→教諭という「管理」を分けて構成するための手法でしょう。
 別に分ける必要はなく,問題となる行動の事情を聞いたり意見を伝えたりするうえでの通常のルートでしょう。

 記事の続きは,校長の経営方針に反対する教師の異動に関する批判。
 実は,校長の経営方針というより,学校で編成した教育課程に反対する教師のこと

 記者はおそらく教育課程というものを理解していないのでしょう。
 ただ,現場の教師にも編成に携わったことがなければわからないことなので無理もありません。
 50歳代になっても教務主任などを務めていなければ,わからない可能性があるものです。

 さらに,給与体系が異なる主幹教諭,主任教諭を設置して組織がなべぶた型からピラミッド型に「近づく」ことへの批判。

 結論ありきの記事づくりに,まともな取材などあり得ないわけです。

 社説を読んだら,「全員参加の全国学力調査無用論」でした。

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結果がよくても悪くても喜べない犬山市の学力調査の「不参加賛成論者」

[学力テスト] ブログ村キーワード

 ブログの記事として立てることも「いやらしい」話ではありますが,全国学力調査への犬山市の子どもたちの参加は,新聞記者の「ネタ」としては,かなり大きなインパクトをもつものでしょう。

 マスコミから注目され犬山市の子どもたちは少し気の毒に思いますが,学力調査の結果には,否が応でも関心が集まることになるでしょう。

 学力調査の内容や目的をよく理解せずに,以前の「学テ」のイメージだけで犬山市の不参加に賛成していた人たちにとっては,結果が明らかになることで自分たちの誤解が白日の下にさらされてしまうというのが最も恐れられていることです。結果がよくても悪くても,喜べない論理を自分たちでつくってしまっていたわけです。

 犬山市の教師たちが,もし結果のプレッシャーに襲われているとしたら,信念をもって不参加に賛同していたわけではないことを証明することになってしまいます。
 もしよい結果が出た後,喜んでしまったら,やはり信念がなかったことの現われになってしまう。
 これも気の毒なことです。
 
 中学校では国語と数学の教師たちがどきどきしているだけで,あるいは他教科の教師は悠然とかまえているかもしれません。
 多少気になるのは,たとえば,社会科の教師なら,「国語力が不足していることが証明されれば,社会が苦手になるのも仕方のないことだろう」・・・理科の教師なら,「計算ができないのだから,理科のこの分野の問題は解けなくて当然だろう」・・・などのように,自分が担当している教科の学習の達成度が低い原因を,国語力・数学力の低下のせいにしてしまうようなことが,おこらないとも限らない,ということです。
 
 犬山市が独自に行ってきた,少人数学級編成は,学力をつけるのにどのくらいの効力があるのか。

 結果がよければ,「ペーパーテストで子どもを評価することはよくない」という主張はどこかに投げ捨てられて,具体的な政策要求が実現するかもしれません。

 今,ふと思ったのは,犬山市の結果だけ,先に知ること(先に採点してもらうこと)はできないのか,という「問い合わせ」に対して,文科省はどのような回答を用意しているのかな,ということです。

 結果が出るのは少し先なのですが,あとマスコミの定型的な記事づくりの方法として,「昨年度とのランキング比較」というのもあるでしょう。
 20年度の調査で上位だったところも,注目されるでしょう。

 結局,マスコミ報道というのが,あまり本来の意味をもたない部分を大きく見せるというタイプのものであるのでこれも仕方のない話なのでしょう。

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「本物」の子どもを教育する ふり返り366日【08/4/18】

 学校で子どもが「本物」にふれる機会というのはどのくらいあるのでしょうか。

 ・・・という発想より,子どもが「本物」の「子ども」である,という見方から,新しい教育像が生み出せないものでしょうか。

 子どもがみんな「天才」であるということを出発点にしてみたら,見えてくる「子ども像」が変わるのではないでしょうか。

 このような見方や考え方は子どもたちの「果てしない成長力」を実感したことがある教師にとっては,特にどうということはないものでしょう。

 さまざまな「テストで測れる実力」というフィルターを通して「子ども」たちをよく観察するとき,フィルターの種類を変えても同じに見える部分と,フィルターごとに変わって見える部分を比較しながら,一人一人の子どもの「力がついていく仕組み」の違いに教師が気付いていけることが,指導の充実に欠かせない要素であると考えています。
 
 明日は全国学力調査が実施されます。

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08/4/18 天才に肉迫する方法

 ルネサンスに関する記述が中学校の歴史教科書が消えたとき、それを惜しんだ教師がいたとして、ルネサンスを残すべきだという根拠はどこにあったのでしょうか。
 塩野七生著『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫)から、「十牛図」に通じる部分があった箇所を少し引用します。

 >レオナルドやミケランジェロやティツィアーノの作品の前に立ったときは、これらのルネサンスの天才たちを解説した研究書など読む必要はない。ガイドの説明も、聴き流していればよい。それよりも、あなた自身が「年少の天才」にでもなったつもりで、「虚心平気」に彼らと向き合うのです。天才とは、こちらも天才になった気にでもならないかぎり、肉迫できない存在でもあるのですよ。
 (中略)虚心に作品に対し、それをすることで彼らの声に耳を傾け、偏見に捕らわれずに考え、得た想いを自分自身の言葉で言ってみてはどうでしょう。これさえ実行すれば、あなたもまた、ルネサンス精神を会得できたことになるのです。
 (中略)日本語の「心眼」や「克己」。これ一事だけでも、中世末期にイタリアで起ったルネサンスが、時代や民族や宗教のちがいを超越して、普遍性をもつことができた理由であると思いますね。

 ルネサンスの遺産を教師としてはどう生かすか。柔軟な思考を保ち、新しいアイデアを生むための素材はいたるところに眠っているものだと思いました。

学校現場の「多重苦」 ふり返り366日【08/4/16】

 Psycheさんより,「自分の大変さを言いたがる人は、たいてい仕事のできない人です。これは公務員に限らず、どこの職場でも同じでしょう。ただ、そういう人種が多いと現場は苦労するでしょうね。」というコメントをいただきました。
 
 自分の大変さを言いたがる人は,自分に協力してくれる人がいないことチームワークで教育できる環境にないことも公言していることになります。

 そういう人に仕事をふらないですませられる学校は,余裕のある学校です。
 
 しかし残念ながら,そういう人も仕事をふらざるを得ない学校は,気持ちよく仕事ができませんから,「苦労の多い現場」ということになるでしょう。

 教育現場にいると,そういう「二重苦」というか「多重苦」が教師の神経をすり減らしていくのがよくわかります。

 問題行動を起こす子どもより高いストレスの原因になる教師というのが確かに存在するのです。

 新聞などでは,分かりやすい「対立軸」をもとに記事が構成されますから,なかなか見えにくいのですが,害毒をまきちらすことでストレスを発散している人にもっともっと光を当てていってもいいかもしれませんね。

 異動の発表があったときに,喜びのあまり「やった」と口走ってしまった人がにらまれている光景も見たことがありました。

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08/4/16 SVOを分けない境地

十牛図ー5 牧牛
 十牛図の第五図は、牧人が牛を手なずけて、おとなしくさせた場面です。
 牛を飼いならすとは、何か。
 禅には「悟後の修行」、すなわち悟った後の修行の方が、悟る前の修行より重要だと言われるそうです。

 表層では悟ったものの、深層の心に煩悩を起こす可能性がある力が渦巻いているため、それを心の中の「火」で焼き尽くし、浄化しなければならないとされています。

 「三輪清浄」といって、自分と他人、その間で行われる行為の三つを、「自分が他人に○○をしてあげた」などと思わないように、三つを分別しない
 分けようとする心のはたらきを焼却する。その熱が他人をあたため、利益を与える。
 ただなりきって行動すること、自分の利益、他人の利益は考えず、「ただ行う」。

 ただただ、子どもの声を聞き、気がつけばアドバイスをする。
 ただただ、授業を充実したものにするために、教材を研究し、子どもの習得・活用スタイルを洗練していく。
 ただただ、よりよいものをつくりあげるために、準備をし、シミュレーションをし、調整をはかる。

 そういう「ただただ行う」「そういう存在になりきる」とき、「無分別智」がはたらくといいます。
 「忙しい」と状態が不満であると思われてしまうような現状があれば、「忙しい」「忙しい」「忙しい」と何百回も心で叫んでみる。
 いつか、「本当に自分は忙しいのだろうか?」と疑問になり、「忙しい」と感じることなく、ただただ、仕事をこなしていく・・・。
 仕事をせず、期限を守らず、他人に迷惑を与えている子どもや教師を目前に、そんな境地になるのは難しそうですが・・・。

教育と数値目標 ふり返り366日【08/4/15】

 よい校長とか,よい指導主事とは何か,最大公約数的な言い方をすれば,「教育実践を成功に導ける人」のことでしょうか。

 行政の批判をして,教員から気に入られようとしている校長は,教員から見れば,うまく使えば「都合のよい校長」でしょう。

 教員に人気のない校長とは,三塁コーチャーみたいな人。
 行政が示した施策を,何の手も加えないでそのまま教員に「おろして」しまう人。

 校長に人気のない,信頼されない指導主事も同様です。
 経験年数も考慮に入れる必要がありますが,施策の実施をスムーズにしていく仕掛けを用意できる指導主事は,校長にとって「使える」人材になります。

 「数値目標の設定」が教育現場に求められたとき,管理職が指導主事の視野にまず最初に入らなければならなかったのは,目標の具体化とともに,「数値にふりまわされずにすむ方策」でした。

 そして実践が始まったとき,数値化の「理由」を周知徹底できたかどうか。
 数値化の「根拠」を保護者や子どもに提示できたかどうか。

 それを問うことが必要です。

 もしこのような施策に反対の教師がいたとしたら,「リスク管理」という観点から,問題になることを明確に挙げて批判すべきでした。

 校長は,職務目標が書かれた自己申告で,教育活動のリスク管理が可能になりました。
 
 校長が「インチキがばれないようにする」ことばかりに気を使わずにすむような,透明な学校を増やすことが行政にとっての大きな課題でしょう。

08/4/15 よい校長の条件とは?

 ガラクタオブジェ館さん、以下のコメントありがとうございました。

 >私も校長教頭なんてなんなんだろうと思ってます、確かにいい校長がいるところは教師も父兄もなんとなくまとまってるという感じがします、そもそも学校の先生というのは30人40人の子供を仕切らなければならない、リーダーシップがなければならないと思います、それが採用試験だけで教師になってるから崩壊してるのだと思ってます、有能な教師を見極めるのは論文を書かせれば解かると思いますね、教師としての意気込みがない奴は論文などかけないと思いますよ

 私は教員の立場、指導主事の立場、教育長の代理の立場、保護者の立場、PTAの立場などでさまざまな校長先生と接してきましたが、ほとんどのケースで実感できたのが、どの校長も「いい先生がほしい」「困った先生は出ていってほしい」と強く願っているということです。
 おそらく、生徒・保護者や行政マンより、校長にとってのそういう思いの切実さは大きいものだと思います。
 ただ、ニュアンスとして、「都合のいい先生」「気だてのいい先生」「子ども思いのいい先生」「指導力がある先生」「問題をおこさない先生」「休まない先生」「産休をとりそうにない先生」など、さまざまな意味合いがあるにはありますが・・・。
 残念ながら、採用担当者泣かせの教師もいます。
 面接や論文では文句なしのように見えても、実際に子どもを前に授業をさせると・・・・・
 面接や論文というのは訓練次第で上達が可能(論題はいくつも想定が可能ですからうまい人に書いてもらって暗記しておけばよい)ですが、授業力やコミュニケーション能力といったもは、やはり適性、資質の問題が大きい
 ですから初任者1年間の「条件付き採用」で、本来は採用すべきでない教師の多くがパスしてしまっているという現実はあるでしょう。
 校長の1年目というのは、たいてい力が入っていますからがんばってくれますが、成果が出ないことが2年、3年続くと、どうしても教師集団のせいにしたくなる。それで嘆き節が多くなる。
 中には、藤原元校長のように、「自分でやってしまう」タイプの校長もいるかもしれませんが、それではいつまでたっても教師が育たないので、リーダーシップがある校長とは言えません。
 学校という組織に「ホームランバッター」は必要ではないのに、校長がどうしてそういう人材をほしがるかというと、教員というのがそもそも言われたことを素直にやってきて育ってきた経緯があるので、仕事上かなりの裁量がある教育の仕事に就いた場合、具体的な指示を受けて行動している若いうちはいいのですが、自分が指示を出す側になると、とまどうタイプが多いだまっていると、みんな見送り三振送りバントのサインしか出せない。
 以心伝心の教員集団など夢のようなものなので、現状では危なくてスクイズやヒットエンドランのサインは出せません。
 また、校長や教育委員会という「権力」を嫌うタイプの人は、自分に「権力」のにおいがただようのを防ぐために、批判のリーダーにはなっても、実践のリーダーにはなかなかなろうとしない。こんな人ばかりが学校にいると、校長は息苦しくて仕方がありません。
 中には、他校の教師たちが勉強のために集まってくるような校長もいます。
 「どうしてその学校の先生は勉強に参加しないの?」というプレッシャーをかけるのに最適ですが、ただこういうタイプの校長は非常に少なく、多くの教員にとっては「だれでも大差ないだろう」と思えてしまう。
 校長と教員がわかりあう、スクイズが出せる関係になるにはどうしたらいいか。
 大トラブルを首尾よく解決に導くと、校長の信頼度は上がりますが、そういうイレギュラーなケースでなくて、普通の小トラブルが頻発する普通の学校で、何か手はないのか・・・。
 私もずっと考えてきていますが、結局は、学校を動かす原動力は校長ではなく各主任です。主幹も大事ですが、普通の規模の中学校なら、学年主任が重要です。主任に気持ちよく仕事をさせられる校長が、よい校長であるというのが結論でしょうか・・・。

新聞記者の教育観のどこが問題かー5 ふり返り366日【08/4/14】

 ちょうど,毎日新聞の「先生:競争の現場から」も,17日に管理職がテーマになっていました。

 東京都の管理職選考の倍率が1.4倍。
 「校長や教育長による推薦枠」まで登場している始末です。

 記事ではこの大問題を,「競争の現場」という視点から描いているために,「目標をクリアするため,ただ走らされる」という副校長のコメントを載せたりして,あたかも「行政の動きについていけない」教師の現状に原因があるかのように思わせようとしていますが,管理職の力量不足の問題がどのような構造のもとに生まれてきたかを掘り下げてしまうと,読者が減ってしまうという「数値目標」に縛られた新聞社の事情もよく理解することができます。

 「管理職をめざそうとする教員が減っている

 ことの最も大きな背景は,「管理職をめざす年齢層の教員がとても少ないこと」にあります。

 そのために考え出したのが「A選考」という仕組みでしたが,そもそも働きが異なるため選考も別立てだった指導主事と管理職をごちゃまぜにしてしまったのが,状況を悪化させる原因になってしまいました。

 このような背景や教育管理職任用制度の課題に全くふれずに,管理職の休職者数だけをあげて「管理職はたいへんな仕事だからなり手がいないのだ」という印象を強めようとするような記事を載せるのが新聞というメディアの特色です。

 「紙面が足りない」ことが言い訳ですか?

 「子どもとふれあう時間がない」といって,子どもが学校にいるのに机に向かって仕事をしている教師とイメージが重なってしまいます。

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08/4/14 望ましい教育管理職の任用制度とは?

 すずめ@先生からコメントをいただきました。
 
 >管理職の人材については,私自身は大変恵まれており,行動力,指導力ともに抜群の校長と,細かく指導してくれる教頭にめぐまれております。書類作成などに関しても,過去3人の教頭にイヤというほど仕込まれ,やっと最近は「適当に出しとけ」と言ってもらえるようになりました。
 ただ,周りを見ると,どうしてこの人が??と思われる人は数多く,その下で働く人たちは大変だろうなと思います。
 管理職の人材登用の選考の基準,または選考方法(あるいは選考に当たる人)が,どうにも間違っているのではないかと私には思われてなりません。委員会から見ても,事務処理能力の不足している教員を教頭に登用してはなりませんし,指導力のない教頭を校長に採用するのは,現場を混乱させるだけだとよく分かっていると思うのですが,なぜそんな選考がなされるのでしょうね。

 ご存じのように、東京都は教育管理職の任用制度を平成12年度から変更し、指導主事、行政、企業、現場の主幹などのジョブローテーションを行い、高いマネジメント能力をもった教育管理職をつくりつつあります。

 ただ、対象となる年代の教員数が少ないことや、「わざわざたいへんな思いをしてからさらにその後、たいへんな職につこうとは思わない」という教員を増やしてしまったため、この任用制度が見直されていることは以前にも述べました。
 はじめから「優秀な副校長」として採用するのではなく、研修や実務をさせながらその資質を磨き、これでOKとなったら任用する、そういうシステム自体はよいのですが、年齢別の人数があまりにもアンバランスで、養成が間に合わない、これが東京都の悩みです。もっと前に実行したかったということを、遅れて実施してしまっているだけ、そして見事に失敗している、という印象があります。
 私見では、あまり若すぎて学年主任、教務主任、生活指導主任、研究大会での発表者としての経験がない教師がいきなり行政にはいっても、逆に教えられる立場になってしまうので、いくら管理職から受験しろと言われても、断るのが良識ある教師像だと考えています。そもそもリーダーシップをとれるような資質がないと、管理職はつとまりません事務員のような副校長ならまだしも、「校長にはさせられない」と判断されている副校長も少なくない。ですから、「校長は無理だ」と本人が悟ったり校長から指導を受けて納得したりした場合は、降格させてあげることが本人のためになります。
 他県との違いかもしれませんが、教師は「副校長の下で働いている」という認識はほとんど持っていないと思います。「副校長は自分の上司にあたる」ということを知らないのではないかと思わせる教員もいます。
 中学校の場合、学校内で「リーダー」にふさわしいのは学年主任であり、それがよくわかっていないのが現行の「主幹制度」の最大の欠陥です。
 なお、私が採用したい管理職試験の方法は、保護者3人、教員3人、企業の管理職3人、行政から3人くらい選んだ試験官の前で、「目指す学校づくり」「私がかかわった学校づくり」を語らせて、評価の合計を競うようなスタイルです。こういう試験をすると、採点の偏りを分析することによって、学校のリーダーに求められる資質があらためて浮き彫りになるかもしれません。

新聞記者の教育観のどこが問題かー4

 口先だけの人間か,そうでないかを確かめるには,経験が豊富な人間が日ごろの職務行動をじっくり観察するという方法があります。

 このような観察では,「口先だけではなかった」人ではなく,「口先だけだった」人の方が,手抜きの仕方をよくわかっているだけに,「口先だけ」の人間を見つけやすいということもあります。

 よく「かつてはいい加減だった」と言われる管理職がいますが,こういう管理職でも「人を評価する」という立場ではとてもよい「仕事」ができるわけです。

 そんな話はおいておき,16日の記事にあった教育現場での「数値目標」についてです。

 「もっと子どもにたくさん本を読ませたい」
 「もっと子どもに挨拶をさせたい」
 「遅刻を減らしたい」
 「計算力を向上させたい」

 だれでも考える「望み」が,ただの「望み」で終わってはならない。
 
 そのためにどうするか。

 本に親しませる時間を増やしやり,本の魅力を教師が語って「読みたい」という意欲を高めたりする。
 教師自ら子どもたちにどんどん声をかける。
 子どもたちによる「朝の自主的な活動」を増やす。
 計算力を向上させる教材を開発する。

 教育現場には,様々な「成功実践」が蓄積しているわけだから,それらの導入やさらに工夫を加えた実践で,どんどん問題解決に取り組んでほしい・・そういう「声」が,ようやく「現場」に届き始めてきています。

 教師がただ「望んでいる」だけでは,「何をどの程度,どのように実現しようとしているのか」がわからず,「望んだだけ」で終わってしまうおそれがあるので,「どの程度,徹底させたいのか」「どの程度,達成することが可能なのか」など,実現された姿を具体的に想定できるものにするための一つの方法に,目標の数値化というのがあるわけです。

 大事なのは,目標を具体的に想定することができるかどうかということです。
 数値化はその一つの手段に過ぎません。
 「いい学校」では,「上級生のようになろう」で十分なわけです。

 多くの学校では,目標に達しないまま,あるいはさらに課題を膨らませたまま,進級・進学させてしまうという課題を抱えています。
 今までは,目標が抽象的で「具体的な姿」があいまいだったために,評価もいい加減で,指導の改善に役立つ資料すらありませんでした。

 数値目標を設定することで,内容によっては,目標の設定自体の課題も明らかになったり,実践の方法がもつ課題が明らかになったりと,「どこに問題があるのか」が明確になってくることが期待できます。

 そして,数値目標を設定して教育実践を進めていくと明らかになってくるもう一つの重要な点は,教師の「教育という仕事に対する誠実さ」です。

 自分への評価を気にして,「数字ばかり」に目がいってしまうような教師に,本当の「目標」を達成することは期待できません。実践が伴わなければ,「数字」が向上するはずがないのです。

 子どもの得点の改ざんなどは,「目標の数値化が生んだ問題」ではなく,教育者としての資質の欠如が明らかになり,その資質自体の改善(あるいは現場から去ってもらえる)という,「目標の数値化によって得られた成果」です。

 「数字で評価していると,数字で表せない部分が見えなくなってしまう

という教師のコメントが載っていましたが,これは「目標管理の仕組みがわかっていない」という宣言に他なりません。

 数値化された目標がすべてだと誤解してしまうとこういうことになります。
 目標の達成度の評価は,数字だけで出すものではありません。
 
 たとえば「読んだ本の冊数」だけではなく,「どんな本を読んだか」という「内容」がセットにならなければ,「ただ冊数だけ多ければよい」ことを目標にしていたことになってしまうからです。

 「もっと子どもにたくさん『よい』本を読ませたい」
 「もっと子どもに『心のこもった』挨拶をさせたい」

という,より「教育的」な目標が見えてきたとき,教師は何ができるか。

 目標がよくわからなくなったら,まず,「どうして本を読んでほしいと考えたのか」「どうして挨拶ができないことが課題なのか」というレベルから考え直すことも大切かもしれません。
 
 ジャーナリズムの役割として期待したいのは,「数値目標の達成・実現を図る」という名目で,「おかしな教育」「インチキ」が行われていないかどうかの発見とその公表です。 
 「弱い立場の管理職・教師の代弁者」としての記事づくりのパンチが弱いのは,もっと弱い立場になってしまった人たちから見れば,身分が手厚く保護されている教育公務員への同情を買いにくいといった点でしょうか。

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新聞記者の教育観のどこが問題かー3

 問題は簡単に言えば,組合の機関紙のような記事を,読者が公正に判断できないように自分の意図だけが伝わるような情報をもとに書いていることです。

 2番目の記事は~ゆがみ生む「教員評価」~でした。

 まず,これもタイトルから偏っています。

 「人事考課」のもとになっているのは,たとえば東京都の場合,「自己申告書」です。

 「国語を教える私を,社会科が専門の校長がどうして評価できるのか

という,自己申告を提出しない教員の話が載っていましたが,まず,よく考えればわかるように,学校は教科指導の力だけで教師を評価するところではありません。生活指導,進路指導,分掌の職務,研究・研究・・・と様々あります

 教科指導の点だけとってみると,他教科を専門とする管理職が教師を評価するためには,「自己評価」という資料が必要となります。

 今の人事考課制度が能力開発型と言われているのは,自分で目標を設定して,研究を進めながら実践し,生徒の実態をふまえながら自分の指導を評価して,改善を図っていくという仕組みを根底にしているからで,そういうプロセスを管理職は資料にして評価を考えるわけです。

 「競争=悪」教育観の記者に視野を広げることを求めるのは困難でしょうが,あえて「競争」という言葉で表現すると,自己申告は「(昨年の)自分との競争」がテーマになるわけです。

 年配の教師の場合,その授業を若い教師が参考にして,まだ拙い学習指導をどんどん改善できるなら,たとえ年配の教師にとって「前の年よりも指導力が向上」しなくても,教科指導に限って言えば,一定のレベルの職務行動を果たしているといえるかもしれません。

 ただ,生徒から「あの(年配の)教師より,新採の教師の授業の方がおもしろいしわかりやすい。テストでも高い点を取れるようになった・・・」などと言われる可能性があるのが公立学校の教育現場です。

 年配の教師は,授業を見てもらうだけでなく,自分でも若い教師の授業から学びながら,自分の指導力を常に向上させていく意欲をもたなければなりません。

 あえて人事考課制度の難点を言えば,そういう「意欲」が自発的なものではなく,「評価があるからやる」という外発的な動機によって自己変革を図る,あるいは教育公務員にありがちな「上司(あるいは教育委員会)の言うことだから聞きたくない」からやらない,という教師が見えてくることですが,そういう実態を明らかにすることがマスコミ本来の仕事ではないかと考えています。

 公務員の中で,教師がマスコミからたたかれにくく,逆に「同情を買わせる」ように仕向けられるのは,「悪いお上」+「お代官=管理職」にいじめられている「弱い教師(老いも若きも同列の・・・職も能力も同列でも給料だけは全然違うのですが・・・)」という公式が新聞向きだからでしょう。

 しかし,「子ども不在」の教育観だけは,どうしようもありません。
 でも,「子どもは新聞を読まない」のでそれもどうしようもないのかもしれませんが。

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新聞記者の教育観のどこが問題かー2

 記者が40歳代後半で,受験を経験していたとしたら,

 「受験組として成績順に座らされる」経験をもっているかもしれません。

 今,杉並区では,が実施する調査が小3から中3まで毎年の調査は小4と中1の調査が小6と中3で実施されているそうですが,昔の公立中の中には,中3になると毎月のように業者テストを,しかも2社のテストを実施しているところもあったのです。

 採点も成績処理も業者がやるわけですから,教師は用紙を配るのと回収するだけ,その間はただそこにいるだけで給料をもらっていたのです。

 公立でももちろん保護者が費用を負担するこの業者テストの結果で,進学先がだいたい決まっていたわけですから,教師の進路指導はラクチンだったのです。

 そういう時代を生きてきた親世代から見れば,毎日新聞の記者(ただのライター?)が紹介しているような内容は,「ようやく学校の先生もまともに仕事をしだしたのか」と思われてしまうかもしれません。

 英語の小中一貫教育を行っている金沢市の教師は,副読本を用いた授業時数の調査で「時間数を水増しした」ことを暴露しているようですが,副読本を用いなくても成果が上げられるのであれば,その副読本を見直すか,なくすこともできるのに,結果としては自分の首を絞めていることに気が付いていないようです。

 記者はもしかしたら行政が行おうとしている調査の意味が理解できていないのかもしれません。

 とても昔風の「管理」という「言葉」の使い方が,記者という職業が実は昔風の「教師」にとても近いことを印象付けてくれています。

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新聞記者の教育観のどこが問題かー1

 14日から,毎日新聞で「先生:競争の現場から」という特集が組まれているようです。

 教育に関する新聞記事がどのような意味で「一面的」なのか,簡単にご説明します。

 まず,14日の記事のタイトルは,~「いい子」が荒れ始めた~です。

 この記者は,子どもをどのように分類しているのでしょう

 以前に私は,「普通の子」という分類をしてしまう教師の問題について述べたことがあったと思います。

 この記事のタイトルを素直に読めば,荒れている子どもは「悪い子」となるのでしょうか

 さて,~「いい子」が荒れ始めた~というのは,何をさしているのかといえば,「東京都杉並区のベテランの男性教諭」の言葉でした。

 「いい子」とは,「成績のいい子」のことでした。 

 事例として挙げられているのは,「成績上位の複数の男児」が,「消火器を道路にぶちまける」「1年生相手に鉄の棒を振り回す」・・・

 その生徒たちが,「最後はみな,有名私立中に入学していった。」・・・・

 このような記事の作られ方について,一度「有名私立中」の生徒たちに批判してもらったらいかがでしょうか?

 新聞記者も新聞記者ですが,取材に応じた杉並区の「ベテラン教諭」も,問題行動の原因を「ゆがんだ競争のため」と表現していたようですが,その根拠は何なのでしょうか?

 昔の学園ドラマでも,「成績がいい子が悪に手を染める」ことをテーマにした話が一つくらい必ず入っていたものですが,これは本当に「担任教師には原因がない」と言い切れるものなのでしょうか?

 学力向上に関して自治体などが取り組んでいることに,教師がついていけていないこと,あるいは意図的についていかない教師を紹介する趣旨の特集のようですが,おそらく記者のねらいとは別に,現場の教師の力不足を露呈していく結果になってしまうことでしょう。

 一方的に記者を責めるつもりはありません。

 そういう記事を書かないと,新聞に載せられないのでしょうから,仕方がないわけです。

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言葉によって不自由になる人間 ふり返り366日【08/4/13-2】

 「言葉」にとらわれなければ,「文字で送られてくる誹謗中傷」に目くじらを立てる必要はありません。
 現場を知らない限り,その「言葉」には「」がこもっていませんから,削除されない程度に「誠意」を込めてみても,残念ながら「期待」するような効果は発揮できないものです。
 ただ,ある人にとっては「無駄」な時間でも,ある人にとっては精神安定剤を服用したときのような「有益」な時間になるということはいくらでも起こりうるものです。

 私の場合,教育現場のことについて語られている「言葉」の中で,「無責任そのものの実像」「無責任を批判されないための被害者意識」がありありと浮かぶような教育関係者に対してだけ,コメントを入れるようにしています。

 概念世界にどっぷりとつかり,感覚世界を軽視している(せざるを得ない?)大学関係者の教育に関する「言葉」を読むことは,実践には役立たなくても,かえって「現場で考えることの大切さ」を実感する機会になるという意味で,たまに読むようにしています。

 概念世界と感覚世界との間をバランスよく,効果的に行き交うことで新しいアイデアも浮かびそうですが,中には特定の感覚を補強するためだけに概念を駆使しようとする人もいて,それが教育界でも一番厄介な存在になっているようです。

 信念のズレの修正法が,今後どのように開発されたり,発見されたりするのか,そういう点については「大学関係者」の研究に期待をしたいと思います。

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08/4/13 「言葉」にとらわれない現場主義

 十牛図ー4 得牛
 十牛図の第四図は、牧人が逃げた牛を綱で捕らえ、再び逃げ出そうとするところを渾身の力で自分に引き寄せようとしている場面です。最も緊張感のある図です。
 牛を捕らえる綱とは何か。「」「集中力」「意識のスポット」「精進」という言葉で解説されています。
 「人類は言葉を使いはじめたために、念の力が弱まった」と著書にあります。「」や「意識のスポット」によって記憶力が増すことはわかりますが、それを「言葉」が邪魔をするとはどういうことか。
 京大霊長類研究所で行った実験で、瞬間的に見たものを記憶する能力は、人より子どものチンパンジーの方が優れているということがわかりました。そして、人は進化の過程で、直観像記憶の能力を失うかわりに、言語機能を高めていったのではないかという仮説が生まれています。
 著者は「言葉に頼りすぎると、言語が対象への感覚を弱めてしまうはたらきがある、ということに留意すべき」「大きな問題は、最高度に言葉を駆使できるようになった現代人、そして、まさに情報の海に溺れそうになっている現代人が、言葉や情報から解放されず、生《なま》の存在そのものを感覚し直観することができなくなっているということです」「それは牛探し、すなわち自分探しの旅における大きな障害となる」と述べていますが、深く共感できます。
 「念の力を起こして言葉や情報を一度投げ捨ててみようという気持ちになる」ことは、「新しい自分」をつくるのに有効な手段です。
 年度のはじめには、どの学校でも「今年度の目標」「新学年としての抱負」「個人目標」「スローガン」を決めると思いますが、こういうのを決めただけで、できた気分になってしまう、そして、立てたその瞬間から破っている、ということがよくおこります。
 ですから私は、「目標なんかはすぐに忘れていい。それが実現できているということが重要」と言っています。
 行政は、こういう「言葉」をつくれば仕事は終わりです。
 現場は、それを実現させるのが仕事です。
 現場が「言葉」にとらわれていてはいけません。

主幹の職務報告の分析を ふり返り366日【08/4/13】

 義務教育の現場では,学校の小規模化が進んだことで「組織」を構成するメンバーが少人数となり,リーダーの質が問題になり始めています。

 そのリーダーは,主幹に任用された教師が担うわけですが,学校によってはその主幹の力不足が深刻で,かえって「組織」の動きを悪くする原因になっていると聞きます。

 小規模な学校では,実はリーダーの働きが組織をうまく機能させているのか,個々の教師の力だけで機能できてしまっているのか,判別がつきにくくなっています

 統廃合で学校が一つになると,教師の人数が倍になるわけではないですが,リーダーになる人間の競争率は上がるので,単純に質が向上するはずです。ただ,規模が大きくなれば,それだけリーダーとしての資質が問われてきて,実力が試される結果になります。

 主幹の動きについては,人員の余裕は全くないかもしれませんが,「検討会」でお茶を濁すのではなく,主幹の職務報告などをしっかりと分析するなど「研究」をして,大規模校には大規模校なりの,小規模校には小規模校なりの組織の望ましい動かし方が示せるとよいと思われます。

08/4/13 副校長・主幹教諭の育成及び職のあり方について

 教育管理職等の任用・育成のあり方検討委員会の第2次報告(副校長・主幹教諭の育成及び職のあり方について)が、東京都教育委員会のHPに掲載されています。
 会議の日程も掲載されていますが、随分進度の遅い検討委員会だったようです。
 内容もはじめからわかっていることばかりであり、また校種の違いによる分析はあっても学校規模の違いによる分析がないなど、「事務方」が中心でことを運ぶとこの程度の報告になるという典型になっています。

 また、小中学校も対象としていますが、基本は規模の大きな都立高校が検討のベースにあるので、義務教育の現場で本当に必要なものが何かが何も見えていないことが露呈しています。
 普通の教師たちは意外に思うかもしれませんが、教育委員会の目からみると義務教育の現場の校長・副校長の力不足は深刻で、この点は現場の教員とまったく同じ捉え方になります。

 ではどうすれば校長・副校長・主幹の力量をあげることが可能になるかと考えた場合、行政の立場でいうと研修しかない。そして、それはマニュアルをもとにして理解させていくという、「事務員」の育て方と同じ路線でしかない。

 報告書にあるように、教員は簡単な事務も非常に苦手にしており、内容はほとんどないにもかかわらず書き方がわかりにくいなどの理由で時間はかかる、多忙感はつのる、報告する意義がわからずやりがいがない、といった問題があります。

 この解消方法は、HPによる確定申告を参考に報告形式を開発すればよいでしょう。

 しかし、本当に大きな問題となっているのは、事務ができるできないではないのです。

 それならば教育委員会内部のように、事務職が管理職になればよいのです。
 義務教育の現場の管理職に求められている「力」は、「生きる力」です。
 過去の自分にとらわれて、副校長や主幹の活用の仕方が分からない校長が多すぎるようです。

感謝の感覚が麻痺した家庭と学校 ふり返り366日【08/4/12】

 教師からプリントなどを手渡されたとき,「ありがとうございます」と言える子どもの割合はどのくらいでしょうか。

 「言葉にしなければ決して分からない」「積極的に言葉にして相手に伝えるべきだ」という感覚の薄いところがある日本では,「心の中では感謝してあげているんだから,それをちゃんと悟ってよ」という「空気」が出されるほどの状態になってしまっているのでしょうか。

 家でご飯をつくってもらった親に料理を手渡されるとき,また,食べ終わったお皿を親に手渡すとき言葉がかわされない家庭というのは,どのくらいの割合であるものなのでしょうか。

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08/4/12 ティッシュをもらう側の態度

 駅前でティッシュをもらったとき、御礼を言う人の割合ってどのくらいでしょうか。
 長い間生きていると、「すべての人に感謝したくなるうれしい気分」というのを味わうことがありますが、先日ふと、ティッシュをもらって頭を下げている自分に気づいたとき、「いつもこうやって会釈をしていただろうか?」「いつもは無愛想に『もらってあげますよ』なんて態度をとっていなかったか?」と考え込んでしまいました。

 配っている方は早くティッシュが減らないと困るので「もらっていただいてうれしい」という気持ちがはたらくのはわかりますが、ものをもらう側が横柄な態度をとるという光景にはちょっと考えさせられます。
 中学生や高校生にも頭を下げているバイトの若者たち(年配の方にも出会いました)。
 「ありがとう」という言葉をいう文化はどうかしてしまっているのでしょうか。
 学校では、採点されたテストを教師から返されるとき、生徒は何と言っているでしょう。何と言うべきでしょう。
 私の場合は、「ごめんなさい」と謝られる頻度が高いですが・・・。

主義のための主張と教育のための主張 ふり返り366日【08/4/10-2】

 垂れ流し系の「ヒハン」と,問題解決を強く望む系の「批判」の区別は,現場の実態を踏まえているかどうかで判断すれば,間違いないでしょう。

 ときに,現場の(ひどい)実態を知られたくなくて,あるいは知りたくなくて,強がるタイプの人がいますが,この程度の「信念対立」の解消は,簡単な話です。

 今,こういうことが起こっていますだから・・・で話は先に進むのです。

 ある組合の人と,別の組合の人が喧嘩をしている場面がありました。

 端から見ると,どうでもいいというか,どっちもだめだなと思えるのですが,当人たちは,自分が絶対であると信じきっていて譲りません

 こういう「信念対立」のズレの解消法として最も適しているのは,「現場の経験からして」「子どもの立場になって考えてみて」・・・「なぜそのような考えをもつことに到ったか」を語ってもらうことであると私は考えています。

 大事なことは,「現場の経験」「子どもの立場」から出発することであって,それがスッポリと抜け落ちてしまっている主張は,主義のための主張であって教育のための主張ではありません。

 もっとレベルが低いのは,「自分の仕事の大変さをアピールする」ためだけの主張です。

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08/4/10 ゴミ回収業者としての教師

 Psycheさん、以下のコメントありがとうございました。

 >教師を教育したい保護者、いるでしょうねぇ。塾で勤務していても同様の保護者は見受けますから(笑)
ところで、「社会的地位」であったり「もっと偉い存在だと思われるべきだ」との主張を指導者が唱えているのを見たことがあるのですが私は的外れな気がしてなりません。
 塾の講師とて学歴的にはさまざまですが十分な力量があれば社会的なイメージにとらわれることなく多くの保護者に支持してもらえることは現場で働き強く感じています。
 このような社会的イメージにより自分が正当に評価されないとする指導者ほどたいてい力量不足である印象を受けます。クレーム対応は力量を問われるでしょうね。

 塾へのクレームというのはどのくらい深刻なものなのでしょうか。
 税金でまかなわれている義務教育に対する「費用対効果」の問題が深刻なのはよくわかりますが、塾で学んでも志望校に合格できない場合、成績が向上しない場合の費用負担者の反応はいかがなのでしょう。
 不思議なことに、私の場合、家庭教師で教えていた子が大学受験に失敗したとき、保護者から「子どもの勉強不足でした。すみませんでした」と謝られたことがありました。恐縮の一言に尽きます。塾の講師をしていたときも、悪い点のテストを返されるとき、子どもはみんな「ごめんなさい」といって解答用紙を受け取っていた記憶があります。
 なぜ保護者や子どもは謝ったのでしょう?
 その塾や家庭教師を選んで金を払っているのが自分たちなので、その効果がないということになると、選んで金を払った自分が悪いということになってしまうからでしょうか?
 公立の教師は別に自分たちが選んだわけではないということが、子どもに学力がつかない責任を追及しやすいムードを作っているのでしょうか。もしそうだとしたら、学校選択制というのは一定の効果が見込まれますね。
 塾の先生への信頼というのはときに絶対的なものであり、塾に「受けなさい」といって受験させられた高校のほとんどが不合格だった生徒もいました。子どもの実力を大きく見せてくれる塾は保護者の味方であり、学校は「もっと安全な学校を受けろ」などと言ってくる敵だ!という図式もありました。
 子どもや保護者が「やればできる」という信念を持ち続け、しかしけっして「やらない」タイプが多い中、学校の教師は「現時点での本当の力」を自覚させてあげなければならないつらい立場になることがあります。
 嫌われ役になる場面が教師にはたくさん訪れます。
 保護者の学校へのクレームですが、その原因もさまざまなであり、保護者の話を聞いているうちに、一番腹を立てていたのは父親が子どもの勉強や成績に全く関心を示さないことであったり、成績が悪いのは家で勉強させない母親のせいだと言われたためだったのがわかったことがありました。
 公立学校、そして教師は、教育の不満のゴミ捨て場になっています。
 マスコミがゴミ収集車です。
 どうにかそのゴミを分別して、燃やしたり、資源にしたり、そのまま埋めたりして子どものためになる方向に持っていきたいものです。

「多子化」への対応 ふり返り366日【08/4/10】

 ある人がクレームデビューを果たしたとき,その人の「爽快さ」「気分のよさ」がとてもよく伝わってきたことがありました。

 「クレームを入れる」という行為について,それがまっとうな要求であれば,「苦情」としてではなく,「要望」として対応されることになり,ただの「苦情」であれば適当に「処理」されることになります。

 一部の人にとっては,「クレームを入れる」行為によって自分なりの「処理」が済んでしまっている場合があり,私も経験があるのですが,それをあえて「要望」として受け止めて学年や分掌で検討し,改めて回答したところ,「そんなこと言ったっけ?」という反応が返ってきたことがありました。

 このタイプの人には,「へりくだって聞いてあげる」行為が重要なのであって,決して「上から目線だ」と逆ギレさせない努力が必要になります。

 「上から目線」がどうとか言うクレーマーは,たいていただ自分が威張りたいだけで,中身はない場合も多いのです。

 ただこういうことが繰り返されてばかりだと,「へりくだっていればそれでいい」という空気(マスコミなどは明らかにそのような態度・・・というか「映像」・・・を要求していますね)が職場に蔓延する恐れがあり,クレーマーがたまにまともな教育環境を求めている場合に限っては,逆効果になるおそれがあるのです。

 受信する側も,発信する側も,「学習」が必要になるところです。

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08/4/10 教師が教育したい保護者と教師を教育したい保護者

 少人数指導でないと、気の弱い教師はもたないかもしれない・・・と思うようになったのは、教室にいる子どもの背後にいる「コドモ」の手強さが尋常でなくなってきているからです。

 一人親家庭がゼロだとすると、40人学級で、最大120人の大小の「コドモ」の相手をしなければなりません。
 私の場合は祖父母にまで動員をかけても無駄だった経験がありました。

 教師が子どもを叱れなくなっている背景の一つに、背後のコドモへの刺激を恐れる傾向が強まっていることがあげられます。

 藤原前校長はこの状況を「少子化」ではなく「多子化」の進行という問題とよんでいました。

 ところで、新学年が始まったばかりなのでどの学校でもPTA役員決めのための保護者会が開かれると思います。
 多くの学校では、教師と保護者が対面し、懇談して終わりなのでしょうが、「保護者教育」という観点から、ここでたとえば警察や裁判所、弁護士、保護司など、地域でお世話になる可能性がある外部の人々の話を聞く会も開くなど、「PTA」以外の学校を支える組織を構築して活用することが課題となってくることでしょう。

 教師が教育したい保護者もいれば、教師を教育したい保護者もいます。

 「そういう教え方ではだめだ!」「教師に私が教え方を教えてあげる」という保護者も登場するようになりました。

 塾を崇拝する親の場合は、塾の学習の障害になるので宿題は出すなと要求してきたり、塾と同じような教え方や教材を望んだりする傾向も強まっています。
 行政には「想定問答集」というものが必ずあるものですが、学校ごとにそれ自体を公開していくというのもおもしろいかもしれません。

 Aタイプの保護者が~と要望してきた場合・・・・ 
 Aと正反対のBタイプの保護者が同じ要求をしてきた場合・・・・
 くれぐれも、クレームデビュー時の対応で失敗しないように・・・・

教師が身に付けていない力の筆頭は? ふり返り366日【08/4/9】

 学校では,「身に付ける」という言葉を何気なくよく使っていますが,「身に付いている」状態とそうでない状態の違いは,何をもって見極めるのでしょうか。

 学力的な面においても,「」に付けると表現する日本語の世界から,教育の伝統というか特質というのが見えてきます。

 ある企業の特定の部署でマネージャーをされている保護者の方にお伺いした若い教師,異動してきたばかりの教師に対する話からは,「社会人としての基本的なものをもっともっと身に付けておくべき」という印象が強く心に残っています。

 教員免許更新講習を大学で受講するとしたら,そういった面で不足している力が身に付くことはあまり期待できないかもしれませんね。

08/4/9 「黙々と」しゃべる教師

 十牛図ー3 見牛

 十牛図の第三図は、牧人が探し求めた牛を発見した場面です。

 何が牛を見るのか。どのように近づけばよいのか。

 禅では、「ただなりきって見る」ことを教えます。

 今、子どもがゲーム三昧の時間を過ごしているとして、それを釈尊が見たらどう表現するのでしょう。
 子どもはもしかしたら禅の境地というのを経験しているのかもしれません。

 「そんなところで座禅を組んだら邪魔だからどけ!」と言われた昔の僧はどう対応していたのでしょう。

 仏教の世界では「捨置」といって、言葉が通用しない世界の問いには答えないという姿勢が紹介されます。

 質問が質問として成立しない世界が意識の中で創造されているとしたら、これもある立場の人から見たら都合がよいものだったのもしれません。

 今の大人社会では、「ただ黙々と何かをする」機会が失われてしまっています。

 仕事に集中したくても、携帯は鳴るし、お客さんは来るし・・・。
 家にいても、見たいテレビの時間は気になるし・・・。

 ただ、教師には、「黙々と」しゃべるタイプの人がいます。

 子どもも話しかけにくいというか、「邪魔するのは悪い」と感じさせるタイプの人ですね。

 逆に、不思議と無口のタイプの教師というのもいます。
 教科書の内容を教えるという意味ではしゃべっていますが、話しかけても会話が成立しにくいタイプ。
 「静」と「動」の両タイプのコミュニケーション不全の例ですが、ある禅僧の言葉もかみしめておかなければなりません。

 >いまは体を動かして、掃除や草むしりをしている。そしていまは心を静めて坐禅をしている。・・・などと思って、身と心、動と静を分けて修行するのは、真の禅修行ではない。
 自分は動と静との組み合わせからなると考えること、自分は身と心との二つから構成されていると考えることは、あるがままにある存在の流れを無理にせき止め、元のありようを変えてしまうことである。
 動と静、身と心の二つを分けずに、ただ、ただ、なりきり、なりきって修行せよ。

成長のチャンスを奪われる子どもと教師

 ある教育ブログに,コメントを入れたかったのですが,ログインしないとダメということで,こちらで感想を書いておきます。

 小学校(あるいは中学校)の中には,「問題」をおこされたくないので,特定の担任ばかりに持たせられる子どもというのがある程度の確率でいます。

 クラス替えのときに,「」(=モンダイの頭文字)のマークがつけられる子どもです。

 あるブログでは,「新しい担任に引き継いだのだが不安」という感想が書かれていました。

 末尾に「新しい担任から学ぶ」という言葉があったので,最低限の教育的感覚をお持ちであることはわかったのですが,「問題行動が多い子どもは,それに対応できる教師が受け持つ」という『対応』をもしその学校がとってしまうと,おそらく該当の子どもにとっては「成長のチャンス」が奪われてしまいます。

 当然,成長できないのはその子どもだけでなく,「指導できない」「問題をおこされたくない」教師も同じです

 子どもは,指導力がある教師,指導力のない教師,指導する気のある教師,指導する気のない教師を簡単に見分けます。

 「教師が変わると落ち着かなくなる」子どもにとって,さまざまな教師と触れ合う機会がすなわち成長にかかせない環境であるのに,特定の教師のみにしばられて小学校時代を過ごしてしまえば,成長できないまま「教科担任制」の中学校に放り込まれてしまうのです。

 そこで子どもの側が対応できなければ,不登校への道が開けてしまいます。

 「問題」のレベルにもよりますが,その程度や傾向がわかっている「問題」には,いくらでも「対応」があり得るのです。もともと問題行動が多く発生する中学校には,そのノウハウがつまっているはずです。

 小学校でそのようなバリエーションのある「対応」を放棄してしまい,「AくんはB先生の専属で」などとしてしまうと,自律・自立のタイミングを遅らせてしまうばかりか,その実現も困難にしてしまう可能性があります・・・というか,そういう子どもたちをたくさん見てきました。

 そのたびごとに,小学校の教師たちの「勘違い」「間違い」「言い訳」に幻滅してきました。

 「担任の○○にはよくなついていたのですが・・・

 小学校の教育スタイルの解体に,直結できそうなエピソードです。

 「予防」にばかり目がいくので,「対応」のアイデアが育たないわけです。

 「よい子」のまま育ててきたつもりの親が,大きな問題行動を起こした後にもらす台詞,おろおろして何もできない様子も簡単に想像ができるでしょう。

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現行の「よさ」が生きて本当の「改善」となる ふり返り366日【08/4/8】

[学習指導要領] ブログ村キーワード

 現行の学習指導要領で学んでいる子どもたちは,総授業時数は歴史的に見ても少ないものの,学校の教師たちの「創意工夫」によって「最適化」が図られるよう構成された教育課程で学ぶことができています。

 しかも,小6と中3の4月には,基礎・基本だけでなく,それらを活用して考える力,表現する力がついているかどうかを評価してもらえる仕組みが整い始めています。

 テストのときだけできればよいような基礎・基本ではなくて,それが生きて使えるものになっていることが実感できるような問題で評価してあげることによって,子どもの学習意欲は向上していくでしょう。

 新学習指導要領では,内容が増えた分,「詰め込み教育」になる恐れを抱いている人も多いですが,現行の学習指導要領に沿った教育が実践できてきた教師に教わることができれば,心配はありません。

 ・・・という捉え方ができないと,1年前に記したような批判に対してもちませんね。

 現行の教育の「よさ」が生きることで,本当の「改善」となります

 「よさ」が継承されないと,「逆戻り」「振り出しに戻る」「改悪」になります。

 「よさ」が実践で示されなかったための「改善」と捉える向きが一般的ではあるのですが・・・。

08/4/8 今の子どもには損を甘受しろと?

 「改善された学習指導要領」が告示されたのに、「改善される前の“問題がある”学習指導要領」に沿って教育を受ける今の世代は、将来何とよばれることになるのでしょう?

 中学校で新学習指導要領が平成24年に完全実施になっても、小学校の5年間は旧課程で学んだ子どもたちです。平成23年に小学校に入学して新教育課程を受けるようになった1年生が、中学校3年になる平成31年には、すでに次の学習指導要領が告示されているわけです。
 どこから「新学習指導要領の成果」が測れるのでしょうか?

 いずれにせよ、公立学校の入試問題に影響があるわけではないのですが、「何だか損をしている感じ」が子どもにも保護者にもあるのではないでしょうか。

 そのことについて、学校はどのように回答することができるのでしょう。
 「移行期間」の計画と指導のねらいはすでに練られているでしょうか。

 まだ新学習指導要領の解説も教科書もできてないわけだから、それができた後でよい、ということでしょうか。

 中学受験を指導する塾のテキストを見ると、そんなことはおかまいなしの高度な内容をずーっと変わらず教え込んでいるようです。塾の教育?を受けている子どもたちやその保護者にはほとんど関係がない話なのかもしれませんが、「塾にいかなくてもすむ学校教育」などという難問をつきつけられている公立学校にできることとは何でしょうか。

 新学習指導要領の内容、改訂の趣旨、移行期間の課題については、講習の機会が多いかと思いますが、文科省はいちいち学校や研究会に出て行って話をするのではなく、HPに動画による解説を載せ、教員だけでなく保護者もすべて勉強できるようにするといいですね。「親は知っているのに先生は知らなかった」という恥を避けるために教員も熱心に見てくれるかもしれません。

「空気」を操る達人の技 ふり返り366日【08/4/7-2】

 「人に心配をかけない
 「人に面倒をかけない

 このような「思いやり」「けなげさ」を強くもっている子どもへの「いじめ」,子どもがもっている「深刻な悩み」は,発見が遅れることがあります。

 ふだんは,教師に気付かれないのは当然として,自分の親にも気取られないように「しっかりと」振舞おうとしている。

 こうした子どもが,限界に達したとき,だれも救うことができないケースがあります。

 「人の『心』は簡単に壊れる

 こう表現した人もいました。

 ふと,障害をもって生まれた子どもを,「人の目に触れないようにする」・・・そういう「風習」が残っているところはないか・・・そんなことも頭によぎりました。

 障害をもっている人が,「そんな不自由な体でこんな人ごみに入ってくるな」と訴えるような冷たい視線を浴びたことがある,と書いていました。

 言葉による直接的なやりとりではなく,「無言」の中に,とてつもなく大きなエネルギーが秘められているのが,日本という国の大きな特徴でしょう。

 それを多くの人は「空気」と呼んで,あるいはそういうイメージで認識して,原因の究明や問題解決に挑もうとしています。

 しかし,なかなか本当の原因にはたどりつけないし,解決もおぼつかない。

 そういうとき,「自己」の持ち方,「自己」の見つめ方を教えることに,どのくらいの影響力が期待できるのでしょうか。

 あるいは,「真空状態」を簡単につくるような救済法が開発されることがあるのでしょうか。

 力のあるコメディアンたちは,「空気」を操る達人のように見えます。

 自己や他者を制するのは「笑い」でしょうか? 

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08/4/7 十牛図ー2 見跡  十牛図の第二図は、牧人が逃げた牛の足跡を見つけた場面です。  牛の足跡とは何か。

 ここで禅では、仏教の大きな原理である「縁起」に気づくことになります。
 「縁起を見るものは法(真理)を見、法を見るものは縁起を見る」
・・・・「生まれてから最初の思い出は何か」と問われて、人はおそらく他人が見る自分、思い出される映像があって、生まれ出ていた自分が設定できる。

 足跡は牛ではない。
 当たり前のことですが、言葉はそれが指し示す現象そのものではありません。

 しかし人間はとかく、「言葉」に弱い。特に「言霊」という文化を持つ日本人は弱い。

 「火」と口に出して言っても、口が熱くなるわけではない。
しかし、「学力低下」「教科書がおかしい」と口に出し、「そういうものだ」と与えられる認識にとどまってしまう。

 言葉がもつ限界を知っていながらも、それによって大きく左右されるのが人間です。
 言葉の限界をしっかり認識できると、「判断する主体のありようが変われば、判断される内容も変わってくる」という当然のことに気づきます。

 与えられる認識ではなく、養成される認識へ

 子どもにも教師にも求められているのはまさにここです。
 現行の学習指導要領の大きな柱もそこにありました。
 恩師が残した言葉に、「生徒のことは生徒に聴け」というものがあります。

 著書の中では、「言葉というものは、自分で心にまいた塵ほこりである」という一文が印象に残っています。

最上級生らしい自分 ふり返り366日【08/4/7】

 今の自分と,次の一瞬の自分とでは,どちらが「本当の自分」なのか。

 今日の自分と,明日の自分とでは,どちらが「本物の自分」なのか。

 昨日の自分と,今の自分とではどうか。

 人間は,できなかったときの自分を知っている方が,それができたときに,できる自分を頼もしく思える存在でしょう。

 中学校の3年生が,「3年生らしい自分」を感じるときというのは必ず訪れるはずです。

 それは,「らしくない自分」をより強く自覚できるような環境で育ったことが条件になるかもしれませんが。

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08/4/7 十牛図ー1 一人一宇宙

 十牛図は、飼っている牛が逃げたことに気づいた牧人が牛を探し求める場面から始まります。
 牛が逃げているとはどういうことか。
 なぜ牛を探さなければならないのか。
 この段階では、「自分」とは何かをまず明らかにすることが求められています。

 いかに(当為)よりまず何(存在)を知る。

 どうしたら「自分」が見つけられるか。答えがこの後に続くわけですが、著書が述べている「一人一宇宙」については、以前に私もブログでふれたことがあります。

 自分が向き合っているこの世界の一瞬は、人間だけでも60億以上の選択の組み合わせによって無数の結果があるなかのただ一つであり、それが常に連続しているわけです。
 気が遠くなるほどなどという程度の言葉では表現できないほどの小さい確率で、常に「いま」がある。
 次の一瞬には、そこからまた数え切れない別々の一瞬が生まれ、世界は無限大に分かれていく。

 ですから、自分にとっての「いま」の一瞬は、他の人の次の一瞬には全く別々の「いま」になっているわけで、著者はこのことを他人と自分は別々の宇宙に住んでいると表現していますが、私は逆に、常に「一瞬」だけ、世界は共有されていると考えています。

 禅ではここで時間も空間も自分も存在しないことに気づかなければなりませんが、私はそのことは置いておき、宝くじに当たるよりはるかに低い確率でおこっている目の前のことを「どのような姿勢」で受け止めるべきなのかを考えます。

 どうしたら「この一瞬」の自分ではなく、「次の一瞬」の自分を自覚できるか。
 「新しい自分」のイメージが持てるようになると、次のステージに進めます。

こころの時代 ふり返り366日【08/4/6-3】

 「十牛図」に関しては,NHK教育テレビの「こころの時代」で放映された「十牛図を読む」(上田閑照・京都大学名誉教授)が紹介されているHPでも,ある程度知ることができます。

 たまたま見つけたHPで,「ラジオ深夜便・こころの時代」が冊子になって売られているのも初めて知りました。

 何歳くらいになったら,こういう冊子をゆったりと読めるようになるのか,・・・今でも時間さえあれば読んでみたいテーマがたくさんありました。

08/4/6 禅の心と教育現場

 牧人(=真の自分を追い求める自分)と牛(=真の自分)とを登場させて人生を考えさせる「十牛図」は、中国の北宋時代の僧の創案といわれています。

 横山紘一著「十牛図入門」幻冬舎新書は、書名どおり簡単な解説書です。

 苦しみに満ちた教師としての一生はこの十牛図によってどのように救われるでしょうか。

 著書で整理されている「自分探しの旅」とは以下のようなものです。
自分とは何かと追求・探究する情熱を学ぶ(第一図「尋牛(じんぎゅう)」・第二図「見跡(けんせき)」)
「偽りの自分」が次第に薄れて、「新しい自分」「真の自分」がますますはっきりとあらわれてくる喜びを学ぶ(第三図「見牛(けんぎゅう)」・第四図「得牛(とくぎゅう)」)
自分を励まし、社会の中で他者のために生きる意義を学ぶ(第五図「牧牛(ぼくぎゅう)」)
自分の中に、もうこれで大丈夫だと満足するものがあることを学ぶ(第六図「騎牛帰家(きぎゅうきけ)」)
自分の死への恐怖をなくすことができることを学ぶ(第七図「忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん」)
自分を空じきった心境の素晴らしさを学ぶ(第八図「人牛倶忘(にんぎゅうくぼう)」)
自分と他者とを平等視して、他者の幸福のために生きることの素晴らしさを学ぶ(第九図「返本還源(へんぽんげんげん)」・第十図「入廛垂手(にってんすいしゅ)」)
 著者は「自己究明」「生死解決」「他者救済」の三つを「十牛図」から学べることとしていますが、「静かに考える心」としての禅を帰りの会(学活・終礼)の冒頭で実践している立場から、少し考えていきたいと思います。
 「他者救済」に行き着く人間の精神は、統治者からすると都合がよいものなので、日本の教育現場ではけっして定着させることができないものでしょうが、夢は捨てないでいこうと思います。

つらさに耐えられる力 ふり返り366日【08/4/6-2】

 「つらさに耐えられる力」というのは,どのように鍛えることができるのでしょうか・・・。

 特に,自らそういうことを鍛えたいと望んでいない=より鍛えるべきだと考えられそうな人たちに対しては。

 「つらいことに耐えられそうにない人」というのは,どのように見分けることができるのでしょうか・・・。
 
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08/4/6 教員による教員のための家庭訪問

 「正義の正体」(集英社インターナショナル)で佐藤優が外交官試験について紹介している箇所があります。

 >外務省の専門職員試験はあまり一次のペーパー試験を重視していなくて、面接のほうにかなり力を入れているんです。というのも、やっぱり試験の面だと女子のほうが優秀なので、筆記だけで勝負させてしまうと8割方が女の子で埋まってしまうというんです。
 でも、そこで男子が有利(?ママ)かといえば、こいつは体力がありそうかだとか、根気がありそうだとか、あとは情緒が安定しているかなんてことまで含めて、かなり細かい部分まで面接でチェックされています。僕らの時代にはそれに加えて家庭訪問なんてものまでありましたね。
 今は家庭訪問は人権上の問題だということでやめちゃったんですが、僕はするべきだと思っています。どういう家庭で生まれて、どういう育ち方をして、どういう感覚の持ち主なのかとすべて調べる。当時の外務省はそれくらい試験に情熱をかけていたんだと思います。それは人材がすべてだという発想の裏返しだったと思うんですよ。

 試験の成績で女性優位は教員も同じ。しかし女性ばかり採用するわけにはいかないので、少しでも見込みのある男性を合格させるのも同じ人材がすべてだということも同じ

 家庭訪問というのも、不可能であるにしろ、「片づけができないこいつは家の部屋もたいへんなものだろう」とか、「何でもママがしてくれている子どもなのだろう」とかいう教員がいる(欠勤の連絡が母親からの電話で、勘違いした教師が「(そういう名前の生徒はいないので)学校が違うのでは?」と言ってしまったという話も)ので、何か教育する手段がほしいと人事部は考えていると思います。

 実際、教員が不登校(?)になると管理職などが家庭訪問しますし、失踪すると手がかりを求めて警察と部屋に入る可能性もある

 「結局、教員もどういう家庭で育ったか、どういう教育を受けてきたかがでかいなあ」という言葉を残して退職された人もいました。

 今後、大量退職に伴って教員採用のハードルがどんどん下がっていきます。
 すると求められるのは研修の充実ということなんですが、行政はどこもその予算を削れるだけ削っている。
 あとは現場の教育力にかかっているわけです。(新人に逆教育されないように勉強しておくことも大事)
 ところで、若手のとき、先輩教師に叱られたことってどんなことがあるのでしょう。
 私は今でも指導してもらって感謝したいことがたくさんありますが、先生方はどうなのでしょう。

一条兼良と菅原道真 ふり返り366日【08/4/6】

「15世紀きっての碩学であり,貴族文化を体現した大文化人」に一条兼良がいます。

 昔は「かねら」と読むこととされていましたが,現在は「かねよし」説が有力となっているそうです。

 一条兼良は,28歳で左大臣,46歳で関白,52歳で辞任した後,66歳から69歳まで再び関白をつとめた政治家であり,また,有職故実書や和歌の評論書,政治教訓書,古典文学関連書などを記した学者でもありました。

 彼は,「十年に一人の逸材」どころではなく,「500年に一人」の天才と絶賛されました。彼以前の「「500年に一人」の天才とは,菅原道真です。
 菅原道真の500回忌の年にあたる1402年に生まれたのが一条兼良でした。

 一条兼良が自分自身で「菅原道真より優れている」と豪語した理由には,「血筋のよさ」「身分の高さ」ともう一つ,「知識量」というものがありました。

 「知識量」とは,死んだ903年から後に起こった出来事を菅原道真が知らないことは当然として,その中でも,「古今和歌集」「伊勢物語」「源氏物語」及びそれらの解説書を読んだことがないのが大きな不幸だとしています。

 特に「源氏物語」については,「我が国の至宝は,源氏の物語に過ぎたるはなかるべし」と宣言しています。(参考:島内景ニ著「源氏物語ものがたり」新潮新書)

 後世に生きる人間にとって,「国宝」級のものが次々と生み出され,かつその「国宝」についての研究内容も知ることができるのは,とても恵まれているものです。

 伝統・文化については,そもそも「過去の大いなる遺産」がなければ研究も生まれないわけで,「作品」そのものへの出会いと「その作品とかかわった人々の思いや考え」との出会いが,豊かな学びのための両輪になっているわけです。

 歴史や文化についての学習が,作品自体や生み出された時代の背景の解釈にとどまらず,その作品への評価が時代によってどう変わったり,作品がどのような影響を及ぼしていたのかを学ぶことで,「歴史の流れ」というのはよりよく理解できるものだと考えています。

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08/4/6 伝統・文化の教育に関して

 ~よたよたあひるさんのコメントから~
 学習指導要領の記述以前に、日本の「伝統」や「文化」って何であるのか、きちんと考えている人は非常に少ないと思います。今や、「伝統のようなもの」「日本の文化っぽいもの」、つまり、フェイク日本文化ばかりなんじゃないか、と思ったりするわけです。

 内容論的には、東京都には「日本の伝統・文化理解教育推進事業」というものがあります。
 ここに含まれていないものにも、海外から日本が高く評価される国際的な特色としての「伝統」「文化」には、実にさまざまなジャンルのものがあります。

 歴史にさかのぼってそれを紹介しようとすると、「おまえは扶桑社の人間か」などとすぐ言われてしまいますが、「昔はこうだったのに、今は何だ」という嘆き節にも聞こえない純粋な「よき日本観」に一度は子どもを触れさせたいという願望は持っています。

 「闇社会の守護神」田中森一と「外務省のラスプーチン」佐藤優の対談書「正義の正体」(集英社インターナショナル)には、「人間」共通の豊かな伝統・文化を感じさせるくだりが何カ所か見られます。
 日本独自の伝統や文化もいいですが、世界と共通性があるよい伝統・文化に目を開かせる教育も必要かと思います。
 日本では、「宗教」に関して特異な国のように見られますが、さまざまな宗教からその良いところをピックアップして、「よりよく生きる」ヒントにしていけるような教材がもっとあってもいいかもしれません。

巨人・阪神戦 褒めたらやられる典型的な一場面

 たまたま今,テレビをつけたら中畑と江川がピッチャー山口をべた褒めした直後に,金本の三打席連続ホームランが飛び出しました。7試合目で第7号HR・・・。

 まだ8回表,新井の場面で6対5と巨人がリードしている場面ですが,レフトスタンドは大盛り上がりです。

 金本がコメントを控えているというところが不気味なところです。

 巨人・阪神線は昨年末,巨人の連勝が続いていたように思いますが,この初戦の勝敗の行方には興味があります。

国宝との出会いの楽しみ方 ~阿修羅展~

 ココログニュースによると,上野の国立博物館で開催中の「国宝 阿修羅展」は,とても盛況のようです。できたら,空いているときに行きたいものです。

 興福寺の国宝館にあるときは正面からしか見られませんが,現在は360度から拝観可能ということで,写真集でも観たことがない角度から鑑賞できるよいチャンスです。

 公立学校の頃は修学旅行で3年に1回の割合で訪れていましたので,もう何度も拝観するチャンスがありましたが,360度OKというのは初めてです。

 自分自身の学生時代の修学旅行のときには,東大寺戒壇院の四天王像が触れる状態で拝観できたのですが,そのときの衝撃は今でも忘れません。その旅行は班別自由行動でしたので,戒壇院に入らなければならないわけではありませんでした(実際,女子の3人は入らなかった?)が,和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んだ後だったので,どうしても自分の目で見たかったという思いをよく覚えています。

 教員になって戒壇院を訪れたときは,もうすぐ近くでは見られなくなってしまっていました。

 もちろん「手で触れる」ことを望むわけではありませんが,四天王像も「手で触れる」ことができるくらい近くでじっくり鑑賞してみたい国宝の一つ(四つ?)です。

 このような国宝を自分の目で見ることができないことも「もったいない」ことの一つですが,ただ「人気があるから見る」のではなくて,『古寺巡礼』のような文章に触れないで見るというのも,ちょっと「もったいない」ような気がしています。

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教育課程の管理 ふり返り366日【08/4/5-2】

 このブログの内容について,日教組を批判するためのものだと勘違いしてコメントをしていた人がかつていらっしゃいましたが,お読みいただければわかる通り,ほとんどの内容は「普通の学校」でありうる,起こりうる「教育の失敗」の輪郭をはっきりさせるためのものです。
 
 山梨県大分県の例のように,日教組の実態が明らかになったからというわけではないのでしょうが,教育ブログの中には,「それ」とはわからないように(巧妙に?)「その立場」での発言を繰り返しているところもあれば,更新されなくなってかなりたっていますが日教組を堂々と名乗って公開されたブログもあります。

 所沢高校の卒業生が告白している,「自由からファシズム(のような様相)が生まれる」仕組みも,近隣の国を知れば明らかなことであって,「左」とか「右」などという区別をするまでもなく,また,政権交代が幻想ではなくなっている現状では,一定の警戒心をもつことは必要になっているようですが。

 ありふれた学校の姿から,何気ないことのなかに実は大きな落とし穴があるのではないか,そんな発想でアンテナをはっていくことが,特に変化が激しく,数年先のことを読むこともほとんど不可能に近いように思える現在では必要になっていることと確信しています。

 たとえば,教育課程というのを各学校は教育委員会に届け,受理されています。
 平成21年度の教育課程の内容は,その年度の在校生に対して示されているものなのですが,その内容が22年度で大きく改正されるとしたら・・・その内容が,22年度に2年生・3年生になった生徒に対して,不利になるようなものだったとしたら・・・このような変更は許されるのか。
 教育課程は,入学時に提示するものが,基本的には3年間通用するものでなければならないのではないか。
 
 学習指導要領の移行期間も行き当たりばったりではなく,計画的に進行していくものなので,一年前にこうなるとは思わなかった,などということはありえないのです。

 ただ一方で,目標としていた学力水準に到達しなかったために,個別指導を充実させるとか,総合的な学習の時間の使い方を工夫するか,そのような「改善」は当然,必要である,そういう考え方もあります。

 それにしても,どの学年の何をどう改善しようとしているのか,はっきりと教育課程には示さなければならないはずです。
 教育課程の適正な管理に,もう少し一般の方の目を向けることができるきっかけがほしいところです。

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08/4/5 学校の基本政策=教育課程

 各学校が編成している「教育課程」の編成、実施、そしてその評価に、校内のだれがどのくらいの密度でかかわっているか。
 学校の弱さが露呈されるところです。
 政府の政策などという非常に大きな枠組みについて口を出す割に、自分の勤務校の教育課程の編成にほとんどかかわっていない教員も多いはず。
 教育課程は学校の基本政策(方針)であり、これに数値目標などを入れればマニュフェストになります
 「教育の成果は数字では図れない」という言い訳ももっともですが、子どもに評定をつけざるを得ないように、教育の成果も数字ではっきり示せるものを開発して、予算を獲得する努力を行政ではなく学校単位で進めていく必要があります。
 「学習指導要領のここがダメ」と言う前に、自分の学校の教育のここが課題、自分の授業のここが問題、そこから何を学校や自分がすべきかを「心の中」にとどめておかず、しっかり文書にしておく。公表するかしないかはそれぞれの課題に応じて判断するとして、情報公開を求められたら堂々と開示する。
 マスコミは人のことだけ批判するのが商売ですからNHKのような団体も存在してよいのでしょうが、教師に果たしてそれが許されるのか。
 学校では「国や郷土を愛する心を育む教育がどの程度実現できたか」などという項目をきちんと評価して次年度の編成・実施に生かすところはほとんどないでしょう。
 教員世界の文化も決して捨てたものではなく、義理と人情で生きていながら、政府に対立する基調をオープンにすると教育上では都合が悪いため、せっかくのよい日本特有の文化が子どもに伝わりません。
 「うちの学校をまねさせてごらん」と政府に言える学校づくりを進めたいものです。

全国学力調査の定着後の動き ふり返り366日【08/4/5】

[学力テスト] ブログ村キーワード

 もし全国学力調査が,5教科で実施されるようになり,(あるいは小論文など,「言語活動」の充実度を測定できるものも含めて)大学のセンター試験のように,最高学年の2月頃実施されて,中学校や高校への進学の資料として使われるように変わっていくようになるとしたら,教育界にはどのような変化が見られるようになるでしょうか。

 さすがに「言語活動の充実」が求められる時代になって,マークシート方式オンリーでは話にならないでしょう。

 記述の部分についての採点業務は上級学校のものになってしまいますが。 

 採点基準は学校ごとに決めればよいわけですが,基準を検討する必要が出てくるような問題を採点者が嫌うとしたら,その採点者が行っている授業がどんなものか容易に想像することができます。
 
 各都道府県別に作成している公立高校の入試問題が統一されたら。

 もちろん,「自校作成問題」でないと選抜できない一部の国公立や私立はあって当然です。

 ナショナル・スタンダード,あるいはナショナル・ミニマムに対して現在よりも注目が集まることになるでしょう。 

 よりよい問題を競い合ってつくっていく,そうことも大切なのですが,そういう業務に時間を割かれるより,日常の研究や授業実践を充実させることが先決でしょう。

 教科書が似たり寄ったりになってしまったり,発行部数が少ない教科書会社がつぶれたりする問題はでてくるでしょうが・・・。

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08/4/5 全国学力調査で分析可能なこと

 学力調査の結果で分析してみる価値があるのは、学校内の得点分布や評定との相関です。
 校内・地域内の学力格差や評定の信頼性は、平均点からだけでは見えません。

 以前の相対評価では、正規分布といって、真ん中にヤマがあり、成績上位と下位にいくにつれて人数が減っていく分布を前提にして評定がつけられていました。

 現在の絶対評価では、たとえば東京都が公表しているデータによると、平成20年度は全教科の平均で、5(十分満足のうち特に優れている)が13.5%、4(十分満足)が25.9%、3(おおむね満足)が42.7%、2が13.6%、1が4.3%で、かなりよい方に偏っている分布になっています。 

 学習指導要領が最低基準を示すものだとすると、学校としては少なくとも1や2を減らす努力をするよう指導されますので、1や2がつかないような基準をつくった結果、「満足できない」状況にある生徒は18%しかいないことになっていますが、いかがでしょうか。
 学力低下大合唱に乗っている人から見れば、「こんな評定は信用できない」と思われるかもしれませんが、評価の信頼性を担保する手段として、全国の学力調査の結果を使うという手も考えられます。

 ただ、公立高校の入試問題以上にこの調査の問題は易しすぎるので、分析方法は限られてきます。
 本当に、「満足できない」学習状況の子どもは5人に1人もいないのか。
 余談になりますが、新しい学習指導要領が完全実施になると、この割合は確実に増えることが予想されます。

 その20%の子どもが抱えている学力格差を埋める努力をすることを教育課程でうたっておきながら、十分に指導していないのが公立学校であり、いままで選択教科で補習的な学習をしてきた学校が、その時数削減によってそれすらできなくなる危惧があります。

 その問題を、通常の授業でクリアしていくために欠かせない存在として、成績上位層の存在を以前に述べました。では、学習状況が「十分満足である」(観点別評価ならAがつく生徒)が、本当に39.4%もいるのか
 この約4割の生徒を抽出して、全国学力調査の平均点を比較するという方法も考えられます。
 しかし、犬山市を筆頭に、「信頼できないデータ」を集計しようとする行政は今の日本にはどこにもいないでしょうから、行政のひもつきでない研究機関が果たすべき存在意義が問われてきます。

真っ白な道路を歩きながら

 新入学の子どもたちを見届けて,自分の役目が終わったかのように一斉に散り始めた桜です。

 真っ白な道路を歩きながら,大役を済ませた子どもがまた脱皮して一回り大きくなったことを振り返っています。

 子どもたちは葉がどんどん大きくなった後の「毛虫の落下」を嫌っていますが,すぐ次の仕事にとりかかる桜の変化に刺激を受けている人も多いのではないかと思います。

 余計なことに時間を費やす暇があったらやるべきことをさっさと片付けるようにと自分に言い聞かせながら,この一息で次の仕事の能率が2倍に,その後の一息でさらにその次の仕事の能率が3倍になる暗示をかけつつ,新学期からの戦略を練っているところです。

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質を下げて喜ぶ人たち ふり返り366日【08/4/3】

 教育行政は,教育現場を知らない人間が教育をいじっているという批判が昔からあり,そういう批判を受けて,官僚を現場に派遣したり,HPで意見を広く募集したりとがんばってはいますが,実はその内部には,そんなことをあえてやらなくても,現場をよく知っている人間もたくさんいるのです。

 文科省なら「教科調査官」,教育委員会なら「指導主事」やその職を長年経験してさらに課長・部長等の幹部に昇進している元現場教師たちです。

 教育を実践を通して語ることができないいわゆる「事務方」と,専門職である「指導主事」が,うまくかみ合っている機関と,あくまでも「事務方主導」で動いている機関とでは,何がどの程度異なっているか,そのうちきちんと公表できる人も出てくるでしょう。

 後者の機関でたちが悪いのは,指導主事の質を下げるのに熱心だったり,その能力が発揮できないように制限をかけたりするところです。

 責任をとらないですむ「官僚」が槍玉に上がり,与党が制度改革に着手しようとして,抵抗によって阻まれている様子がニュースでもよくわかりましたが,文科省や教育委員会の中には,現場を知っているだけに責任を強く感じている人もいることをどこかで扱ってくれると,「本物の教育改革」の担い手が浮上してくるような気もするのですが・・・。
 
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08/4/3 道徳教育の目標は官僚の資質向上にあり?

 よたよたあひるさん、以下のコメント&トラックバックありがとうございました。
 >常々、「愛国心教育」に関する議論にもう一つ納得いかないところがあったものですから、こちらの記事の最後の部分を引用させていただきました。多分、kurazohさんとは、考え方の違いもあるだろうなとは思いつつ、このあたりをもっと丁寧に議論できたらいいと考えています。

 多くの日本人は、「」と聞いたときに、すぐに「政府」や「国家機関」、「戦争」を連想してしまうのです。
 公共空間の中の自分ではなく、「私共空間」の中の自分しかイメージできず、「」は他人事、と捉えてしまう感性は、教育によって育まれてしまったものなのか、教育できなかったためのものなのか。
 自己究明の意識が剥落しているこういう人たちには、横山紘一著「十牛図入門」(幻冬舎新書)などを読んでもらいたいものです。
 「国家機関」の一線にあった人たちの言葉を聞くと、「」に対する意識のレベルの違いを思い知らされますが、官僚や教師に「国を愛する心」がなかったとしたら、喜ぶのはだれでしょう。
 その喜ぶ人たちのために生きている日本人というレッテルを私がはるつもりはありませんが、誤解を招く発言がとかく教師からは出やすいものです。
 佐藤優・村上正邦著「大和ごころ入門」(扶桑社)から、佐藤優の言葉の一部を引用します。
 >能力が基準に達していないキャリア官僚が尊大な態度をとっている。このような輩によるセクハラ、パワハラが横行している。ノンキャリアにはいじけた専門家が多く、モラルも低いので、能力が国際基準に達していない。その根源は日本国家と日本人同胞に対する愛が欠けているからである。ソ連共産党の官僚の多くも、優秀であるが、出世のためにマルクス・レーニン主義を信奉しているふりをしているだけで、ソ連国家とソ連人同胞に対する愛が欠如していた。

 佐藤優は、本省勤務に入ったとき、ソ連という国家が崩壊したときと同じ雰囲気を霞ヶ関で感じたといいます。

新年度入りですぐに始まるクレーム対応 ふり返り366日【08/4/2-2】

 生徒間で問題が発生したとき,ケースによっては,担任が全く気付かず,保護者からの相談によって判明することがあります。
 当たり前ですが,問題になる行動というのは,たいてい,親の目の前,教師の目の前ではやらない行動のことです。

 こういうときの「相談」ではなく「クレーム」のパターンの一つに,「担任なのにこんな重大な問題に気付いていないのか」というものがあります。

 「親と教師では見ているものが違う」と言い逃れる方法もあるのでしょうが,まずは「担任に気付かれないように実行にうつされたという問題性」という点について,保護者と同じ立脚点に立つことが重要です。

 担任や教師を敵対視している保護者(=自分自身の子ども時代に,教師の理解不足で苦しんだ人と想定すれば対応しやすくなります)に対しては,まず「共通の立ち位置」を探すのが先決です。

 対立したままで問題を解決しよう(相手を納得させよう)と思わないことです。

 それでも「担任なら気付かなければおかしいのではないか」と食い下がってくる親には,「気付かれないようにしたのは加害者(と想定されている生徒)だけではなくて,被害者(だと訴えている子ども)もいっしょである」ことに気付かせます。

 親に訴える前に,なぜ学校で担任に訴えなかったのか

 たいてい理由は簡単で,相手だけに落ち度があるとは言えない場合に,自分の子どもの言うことだけが絶対に正しいと信じ込んでいる親だけに対しては堂々と言って「同情(同調)してもらえる」,という仕組みです。
 子どもの心理状態を客観的に分析できるような保護者を増やしていくためには,このようなケーススタディは貴重な「教材」にもなります。
 
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08/4/2 公立学校の優れた環境とは

 藤原和博著「バカ親、バカ教師にもほどがある」(PHP新書)には、14のケースの「バカ親」が登場しますが、私から見れば「その対応のあり方で教師としての力量が問われる」ものばかりでした。
 また、「バカ親」のクレームへの具体的な対応力が乏しい学校には、子どもを通わせたくないと思うのが普通だろうと「バカ親」に同情してしまったりもします。
 生徒・保護者=お客様の私立学校の経営者がこの本を読んだら、「だから公立はダメなんだ」と納得されてしまうような事例も紹介されています。
 「クレーム」こそ保護者を「教育」に引き込み、巻き込んでいくチャンスと考えると、公立学校はもしかしたら私立学校よりも「教育」をしやすい環境なのかもしれません。

コワい顔の記念写真 ふり返り366日【08/4/2】

 情緒障害軽度発達障害についての理解は,公立学校の現場でも徐々に浸透しつつあります。
 問題は,自分の子どもの状態を直視しようとしない保護者がいることを,以前ご紹介した藤原前校長の本でもふれていました。

 自分がどのようなことを相手にしているかをほとんど意識できず,相手が自分のおこした行動によって怒り,反発したり文句を言ったりしていることだけを取り上げて,「自分はいじめられている」と訴える子ども。

 小学校ばかりでなく,中学校でもそのような子どもは目にしてきました。

 そういう親の中には,「何かうちの子が他の子に嫌がることをしたからではないか」という想像をはたらかせ,それを確かめようとしてくれる人もいるわけですが,「うちの子が言っていることだけがすべて」になってしまう「親馬鹿」ではなく「馬鹿親」がいる,そんな指摘がなされています。

 小学校や中学校の入学時に,そのような子どもの存在にいくらかの保護者は気付きます。

 それは,保護者と生徒が一緒になっての集合写真(記念写真)を撮るからです。

 特に小学校に入りたての子どもの中には,発達障害がなくても,短時間,じっとしていられない子どもが目立つようになってしまいます。

 経験豊富なカメラマンなら,そういう子どもはむしろ注意を引きやすい存在なので,うまい声かけで短時間ですませられますが,下手な人だと長時間かかってしまい,保護者もいらいらしだしてしまいにはみんな怖い顔で写ってしまう場合もあります。

 小学校入学当初から始まる学級崩壊を食い止めるには,保護者の理解と協力,学校の組織力が求められます。式辞の中でも,発達障害に関わる内容にふれる校長も出だしていると思いますが,崩壊を防ぐための手は,ほとんどの子どもの保護者が集まる入学式でこそ打っておくであると実感しました。

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08/4/2
藤原前校長が越えられなかった壁

藤原和博著「バカ親、バカ教師にもほどがある」(PHP新書)を読んで、長い間抱いていた違和感(経営者であっても教育者ではないなという感覚)の原因がわかりました。
 この本は、和田中の教師や親を非難する形にしないために、川端裕人が聞き手になって、藤原前校長がこたえるという体裁になっています。
 本のタイトルにある「バカ教師」の記述は少なく、全体としては教師・学校擁護の内容になっています。

 違和感の具体的な内容は示しませんが、結局藤原前校長は、優秀な教師やよい授業というものにあまり出会ったことがなかったのだということです。

 現役の教師にそれを期待してなかったから、自身で授業づくりをし、ゲストティーチャーを招き、カメラを入れて教壇に立ったのでしょう。

 ダメ教師に対しても、「それが子どもの自立を促進する」という褒め殺し?のような表現をしていました。
 ご自分はそれで成功してきたのでしょう。
 
 もしかしたら、「優秀な教師だ」というふれこみで異動してきた教員が、全くの期待はずれで、行政の人間の「人を見る目のなさ」に落胆し続けていたのかもしれません。

 教員への不信は、「六時間の授業にじっとたえて受け続ける子ども」への同情になり、教員以外の人とのかかわりを重視するようになっています。

 また、教員が対処すべきトラブルと対処不能なトラブルをまとめ、たとえばソーシャルワーカーを増やすべきという提言をしていますが、公立学校に求められている機能を放棄する宣言に見えました。

 以前からの著書で「校長」という立場の「力のなさ」はくどいほど強調していましたから「責任(の大きさ)に見合わない待遇への不満」が強いことはわかっていましたが、結局「公立学校の校長の意識改革」は促せずに現場を去ることになってしまいました。

 心ある教員や校長は、藤原前校長があきらめた大きな壁を越えようと今も励んでいるのです。

iPodを活用した授業

 3月31日に電子機器の教育利用についてふれましたが,本日付の朝日新聞に,埼玉の中学校でアップルジャパンから提供されたiPodを活用した授業が行われていることが記事になっていました。

 特定の教科ではなく,さまざまな教科での取り組みが行われている=学校として実践している点が評価できると思いますが,参観した保護者のコメントとして紹介されている「集団で学ぶ(という,学校の)本来の姿ではない」という(「いかにも」という内容ですがそのことについてここではふれずに・・・)懸念は重要なポイントなので,学習の「個別化」と「学びあい」の関係について,学校として回答できる用意は必要だと思われます。

 電子辞書の機能も相当に高まっていますから,iPodを授業で活用するとなると,音楽系のもの,あるいはリスニングなど「一人で聴けて集中できる」環境に適したものなどで威力を発揮することになるかもしれません。

 学校によっては,まだカセットテープを利用しているところもありますが,SDカードなどでデータがやりとりできるボイスレコーダーの活用など,英語科などで実践が始まっていくことでしょう。

 ノートや資料集など,紙の上で行う作業の絶対的優位や有効性は変わらないと思いますが,学習のとりかかりや抵抗感の軽減など,電子機器の果たす役割に期待する人は増えていくと思われます。

 まだ携帯電話も触ったことがない人には何の話かわからないかもしれませんが。

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公共を「公」と「共」に分ける国 ふり返り366日【08/3/31】

 日本語で「公共」と表現したときに,抵抗感というか違和感を覚える人がいるのは,公共を「公(政府,国)と共に」というイメージで捉えることが原因でしょうか。
 ある新聞の夕刊でも,記事の中にそのような表現方法をとっているものがありました。

 「公と共に」では,何でも「おしつけ」と受け止められて,「やる気がなくなる」という条件反射が用意されている人たちがいるので,「言魂」の国としては,新しい言葉をつくり出す必要があるかもしれません。

 公的な文書を紹介するだけで嫌悪感を表明する人がいる国ですから・・・。

 日本には横文字嫌いの人も多いので,「パブリック・リテラシー」と聞いても,「何,それ?」という反応をされかねません。
 
 「公共」「パブリック」を表現するのに何かよい言葉はないでしょうか・・・?

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08/3/31 新学習指導要領の道徳について

 新学習指導要領の総則に示された教育課程編成の一般方針の中の、道徳教育に関する記述を文科省HPから引用します。下線部のところが、2月に出された案では書かれていなかった内容です。
 
>学校における道徳教育は,道徳の時間を要として学校の教育活動全体を通じて行うものであり,道徳の時間はもとより,各教科,総合的な学習の時間及び特別活動のそれぞれの特質に応じて,生徒の発達の段階を考慮して,適切な指導を行わなければならない。
 道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,人間尊重の精神と生命に対する畏(い)敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し,個性豊かな文化の創造を図るとともに,公共の精神を尊び,民主的な社会及び国家の発展に努め,他国を尊重し,国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓(ひら)く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。
 道徳教育を進めるに当たっては,教師と生徒及び生徒相互の人間関係を深めるとともに,生徒が道徳的価値に基づいた人間としての生き方についての自覚を深め,家庭や地域社会との連携を図りながら,職場体験活動やボランティア活動,自然体験活動などの豊かな体験を通して生徒の内面に根ざした道徳性の育成が図られるよう配慮しなければならない。その際,特に生徒が自他の生命を尊重し,規律ある生活ができ,自分の将来を考え,法やきまりの意義の理解を深め,主体的に社会の形成に参画し,国際社会に生きる日本人としての自覚を身に付けるようにすることなどに配慮しなければならない。

 ここで「我が国と国土を愛し」の部分が加えられたことに批判的な方がたくさんいらっしゃいます。

 改正教育基本法の理念を受けているところなので、唐突すぎる加筆ではないのですが、「他国を尊重し」という文言が入ったとしても、やはりインパクトが大きいようです。
(なお、内容の「4 主として集団や社会とのかかわりに関すること」の(9)に「日本人としての自覚をもって国を愛し,国家の発展に努めるとともに,優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献する。」とあるのは、案と変更がありません。)
 実はこのようなこと(学習指導要領に「国を愛する」という記述があること)に批判的な考えをもっているのは大人だけではなくて、子どもたちの方にも、マスコミ等を通じて定着しようとしています。
 社会科を教えていてここ十数年の子どもの変容を見ていると、「」「政府」「政治家」に対して感じているマイナス印象は強まるばかりです。
 「できて当たり前」の部分はいっさい報道されませんから、「悪いことばかりしている」印象しか子どもには残りません。
 教育現場でもマスコミの後追いをした方が子どもの受けはいいし、「リベラル」の空気はいかにも快適なのでしょう。
 しかし、問題は、批判するしか能のない人間ではなく、本当に日本の舵取りを任せられる人材を育成できるかどうかが教育に問われているわけです。何も政府の言いなりになる人間が期待される「国を愛する」人間ではなく、国を支えていけるような人材というものを育てていきたいものです。国を支えるのはエリートだけではないことは言うまでもありません

全国的な学力調査まであと16日 ふり返り366日【08/3/30】

[学力テスト] ブログ村キーワード

 基礎的・基本的な学力が身についていないと,発展的な学力が伸びることはない。

 これはデータからも明らかなことなのですが,では,基礎的・基本的な学力を徹底的につければ,発展的な学力が必ず伸びるかというと,そうでもない

 そこを勘違いしているかしていないかが,全国的な学力調査ではわかるわけです。

 「こういうタイプの問題はいつもやっているけど,こういう考え方は授業でもやっていないな

という子どもの気付きが,学力向上のきっかけになっていきます。

 当然,質の高い学力を育てていくのは教師の指導力にかかっています。

 基礎的・基本的な学力を身につけさせる方法が,発展的な学力を身につける方法とリンクしてこそ,学力は伸びていくことができるわけで,たとえば学級の中で,基礎も発展も身についている子どもと,基礎は身についていても発展ができない子どもの差異はどのようにして生まれるのか,塾に行っている行っていないが原因なのか,それとも他に原因があるのか,検証していく作業が必要です。

 学力調査を毎年実施することの意義は,検証・改善という学校独自の取り組みの成果をはかることにもあり,教師の異動によってよりよい方法がどんどん広まっていくという効果も期待できます。

 子どもは毎年変わりますが,おそらく多くの教師は,学年が終わった後,「もっとこうすればよかった」「こういうことも試してみるべきだった」「もっとこの子どもにはわかりやすい指導が必要だった」とか反省点をもっているはずです。それが次の年度の指導に生きるかどうかが教師はもちろん,子どもの成長の鍵になっていくわけです。

 犬山市の学力調査の結果は,おそらく全国が注目してしまうことになるのでしょうが,「何がほかと違うのか」「どのような当たり前のことを当たり前にしているから成果が上がるのか」ということが明らかになれば,公立学校の教育の質を向上させていくきっかけになるでしょう。
 独善的なところは,他から学ぶ姿勢が身につくでしょう。

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08/3/30 犬山市の「攻め」と「逃げ」

ぺっしんさん、以下のコメントありがとうございました。

>3/30のバンキシャの報道を見て教育委員会のすばらしい取り組みに、本当の教育はやればできるんだなと感激しました。当方も年長の子供がおりますので、出来るのなら愛知県犬山市に引っ越したくなりました。全国統一テストなど無意味です。サンプルだったら任意の各県1校やればいいのです。それより教師が子供と向き合える環境、手をかけられる環境を作る姿勢に共感いたしました。いい齢ですが私が犬山市の小学校に入学したくなったほどです。教育するのは現場の教師です、どうぞ国には左右されないで下さい。

 犬山市だけでなく、いまはどこの教育委員会も独自性を出そうと必死です。
 市教育委員会の存在意義が問われているからです。
 背景には、自治体が分権にたえられる「体力」を備えているかどうかが求められていることがあります。
 これまでは、「金がない」で逃げてきていました。
 学校は、「教師を増やさないと無理」といって逃げてきました。
 「本当の教育」の成果はいかなる方法でも測定困難であり、50年後に実感できるような質のものかもしれません。しかし、「知徳体」のうち、「知」の面で「特色ある教育」を実施するためには、国語・算数の最低学力の保障がどうしても必要になるというのがようやく常識となりました。
 今までの各校ごとの教育課程は、まるで最低学力が十分に保障されているのが前提の文言が多く、「絵空事」にすぎないことが(調査をするまでもないことだったのですが)明白になりました。
 学習指導要領の最低基準性は学校には酷な責務なのですが、公立学校の存在意義はそこにあるわけです。
 最近はようやく公立学校の一部が「知」の面でレベルの高い教育を提供できるようになっていますが、現状では私立や国立に「基準以上のレベル」の教育は任されているのが現状でしょう。
 都道府県レベルでも、市区町村レベルでも、「学力調査」というのはおおはやりです。
 これは、国が実施するような簡単すぎる問題では本当に調べたい力が測定できないという課題もあるわけで、今後は調査の重複を避ける意味で、調べたい目的に応じて区市町村が選択できるよう、いくつかのパターンを用意するということも現実的な施策になるかもしれません。一部の私立のレベルでは全員ができることがわかりきっているので時間の無駄でしかないのです。
 「参加しない」という選択肢もあっていいのでしょうが、せっかく犬山市の教育の成果を子どもにも実感させることができたのに、もったいないことです。
 くどいようですが、文科省の学力調査で測定できるのは「知」の領域のそれも最低限度のレベルのものなので、これを通して、子どもの学力が本当に自分の自治体では保障されているかどうかを保護者が判断できればよいのです。「うちの市では立派な教育をしていますよ」というメッセージに、そしてその一部だけを取り上げた報道に、他の自治体の人は「いいなあ」と思うのは本当に日本人らしい反応ですね。
 「よいものは常に外にある」と思うのが日本の典型的な精神構造です。
 市のレベルで独自の教育政策ができることが理想かもしれませんが、「知」のレベルでは中上位の子どもの多くが教育産業に助けられていることも忘れてはいけませんし、まだ現状では人事権をもっている都道府県レベルでの施策の充実も求められています。
 現場の教師は、学習指導要領という教育の最低基準を示したものを熟読して、各校の教育課程で示されたさまざまなねらいを達成するための手段を子どもの実態をふまえて練り上げ、教育を実施し、適切に評価して、つねに指導の改善に役立てる工夫をしなければなりません。
 残念ながら犬山市は、「攻めの政策」をとっていながら、「成果の測定・評価では逃げる」自治体、「子どもと教員をかばう」自治体にしか見えません。

巨人VS広島 第2戦から

 今年も開幕戦をTVで観ることができなかったものの,巨人VS広島の第2戦の5回裏と6回はライブで観ることができました。
 

(1番打者のポストというのは)与えたものではない,実力(結果)で守り抜いてもらいたい

という原監督の亀井選手に対するコメントが紹介されていました。

 競い合う環境というのは,実力はあってもそのポストでの活躍ができない選手もいるわけで,贅沢というか,恵まれた環境であることは間違いありません。
 
 打席では2アウトランナー2塁で甘い初球をショートに強い当たりを飛ばし,ショートがはじいてランナー脇谷が本塁をねらったのですが,カバーしたセカンドからの好送球をキャッチャーが完全なブロックをして得点はできませんでしたが,プロ野球らしいすばらしいプレーを見ることができました。

 紙一重のプレーというのはWBCでは毎日のように堪能できましたが,ペナントレースでもこうした場面がたくさんあると,また仕事に支障がでるかもしれません。

学級づくり ふり返り366日【08/3/29】

[小中学校] ブログ村キーワード

 小学校や中学校の教育実践の多くは,個性よりも集団をより重視する傾向があります。

 そうすると当然,大きな力を発揮することが求められるのは学級担任ということになります。

 しかし,その影響力が大きすぎると,集団主義のはずが,学級担任の個性重視の傾向の方が強くなってしまい,結局,子ども集団はしっかり育たないという結果に陥ってしまいます。

 「学級王国」などという言葉は,王様はたいてい担任ですから,そんな状況を象徴する教育用語になっています。

 これが高校生になると,そういう結果も影響してか,今度は学級担任の言うことは聞かなくなるので,後は試行錯誤しながら自分たちの力を伸ばしていこうとするか,あるいは,あまりにも自分たちに力がないので,まだ学級担任に頼らざるを得ない状況になってしまう。
 
 そう考えると,小中学校における「学級づくり」は,いかに子どもを主役にしたものになるかが大切になってくるのですが,「人をひっぱっていく」=「ときには人に言うことを聞かせる」,「うまくいかないとき,責任を感じさせられる」立場よりも,「人にひっぱられる」=「人の言うことを聞いていればよい」「失敗しても,責任を感じずにすむ」立場の方が精神的にも楽なものであり,従順な日本人らしさの表れか,教育の結果としてそうなっているのか,なかなか「リーダー」が育たないことが課題となります。

 あえて「リーダー」を育てない学校もあるようなので,「どうやって人を動かしていけばよいかわかならい」子どもが機会を得ることもなくそのまま成長し,そうやって成長した若者が新しい教師となって教育現場に入ってくるわけです。

 たとえば小中の連携を行うときに,発達段階もふまえつつ,学級担任がすべきこと,してはいけないこと,子どもがすべきことの共通認識を教師間でしっかりともっていくことが,「集団づくり」には欠かせないでしょう。

 教室で落し物を拾ったときに,すぐに担任のところに持ってくるような子どもではなく,まず落ちていた周辺の席の子どもに聞いてから持ってくるとか,そういう配慮ができるかできないかだけでも,「学級の力」は見えてくるものです。

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08/3/29 中学生に必要な「もとは同じ」感覚

 昔から、地方の純朴な生徒は、都市部の学校に行くと、感化されて、たちまちに悪くなる。
 または、カルチャーショックを受けて、外の風に耐えられずに引きこもる。
 こういうことをよく耳にします。

 高校側は、「免疫力が弱い」「社会を知らない」と批判する。
 中学校側は、「そっちの教育がなってない」と反論する。

 都市部にある私の学校では、修学旅行がコース別に企画されており、1クラス規模の単位で学習します。
 私のコースでは、山間部にある中学校との交流が実現し、2時間ほどでしたが楽しい時間を過ごすことができました。合唱発表、総合的な学習の時間の研究発表、ゲームによるレクなどを行いましたが、「学び」の質は全国どこでも同じであることが実感できました。

 学習指導要領に基づく日本の教育が悪いと批判する人もいるようですが、学習面で安心して子どもが交流しあえるのは中学校までの教育の特色です。

 これが高校となると、スクールライフ以外の部分の比重というか現実味がクローズアップされてくる。
 隠れてでもアルバイトをしないといけない高校生もいるし、遊びが中心の子も増える。
 一方で、スポーツ一本槍、大学受験まっしぐらの子どもも増えて、「個別性」が高まるのが高校です。

 「もとは同じ」であるのに、そのことが実感できないで多様な「個別性」にふれると、子ども達は「自分とは違う人間」「人と違う自分」に戸惑うことになります。

 「全国大会」がある活動に参加し、勝ち残ってくる中学生はごく一部なので、多くの子どもは「もとは同じ」体験ができない。

 人間理解を深めようとするとき、同年齢の子ども達の交流がもっとあってもいいように思います。
 国語の入試問題では、そういう主人公が登場する素材がよく使われますが、「文章を読んでわかる範囲」のレベルではなく、やはり実際に会話をかわすなかで育まれていく相互理解が大事でしょう。
 ゲームを通しての交流でもいいのですが、現実世界での交流が少なくなっていることが、直近のさまざまな犯罪の原因の一つであることは間違いないようです。

北朝鮮と「他人事」 ふり返り366日【08/3/27-2】

[教師] ブログ村キーワード

 北朝鮮の動向から目が離せないタイミングですが,『41歳からの哲学』を読み直してみると,6年前の平成15年のときも同様の騒動があり,池田晶子が「ミサイル,それがどうした―北朝鮮」という文章を書いていました。

 そこで池田晶子は,「他人事」というキーワードで対外戦争に対する若者の反応を批判していました。
 

イラク戦争の折に,ネット上で反戦の声を上げた若者たちを扱った番組を観た。・・・同じ時代に,同じ地球上で,戦争が起こっているというのに,何もできない自分に無力感を覚える。と,彼らは言っていた。・・・つまり彼らは,無力感を覚えるというまさにそのことによって,戦争を他人事だと思っているのである。自分のことではないと思っているのである。・・・何もできない自分に無力感を覚えるほどに,暇なのである。自分の人生を他人事みたいに生きているから,そういうことになるのである。(・・・は略した部分)

 このような考え方は,「他人事」ではすまされません。

 なぜ「他人事」という言葉に引き付けられたかというと,どれくらい前からかわかりませんが,学校現場を「他人事」の空気が徐々に侵食しているように思えているからです。

 あるクラスには,いじめが全くない。

 これは,非常にドライに考えてみると,すべての子どもがあらゆることに対して「他人事である」という態度をとっていれば,確かにいじめは絶対におこらないのです。

 いじめられている子どもがいて,見て見ぬふりをすればその生徒がとっているのは「他人事である」という態度ですが,いじめをしている生徒にとっては「他人事」ではないわけです。

 教師の側には,「他人事」の空気をかもし出す人間はいないでしょうか。

 教育関係者たちは,「教育の評論家になったら教育者としては終わり」という根強い嫌悪感をもっていますが,それは,学校現場にも,「評論家的教師」がいて,すぐ目の前で起こっていることに対しても,まるで「他人事」のように批評・評論するような,わかりやすく言ってしまえば,「無責任のかたまり」みたいな態度をとって反感を買っていることがあります。

 決して多くはそうではないかもしれませんが,各学校に一人,または学年に一人くらいの割合で,評論専門の教師がいるでしょう。
 「われわれ教師は無力な存在ですね」とか,「わたしたちには発言力がありませんからね」とか・・・。 

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08/3/27 歳をとるほど時間が早く流れる理由

 『41歳からの哲学』(新潮社・・・週刊新潮の連載をまとめたもの)の中で著者の池田晶子は、「歳をとるほどに時間がたつのを早く感じるのはなぜか」という問いに対して、次のような仮説を述べています。

 >子どもの時間が遅いのは、肉体が完成に向けて努力しているからで、山登りにたとえると、頂上を目指して登っている最中だからである。そして、いったん頂上に登ってしまえば、あとは下りるだけ。下りる方が登る方より早い。あるいは作るより壊す方が早い。

 こういう話を聞くと、「ただ漫然と下りる」のはやめよう、と自戒の念が持てるようになります。
 歳をとっても、学校を建て直すような経験をするときは登山と同じで、1年が経つのが異様に長く感じる(多くの教師は早く土曜日曜にならないかと月曜から考えている)ものです。いったん落ち着いてくると、ああ、もう卒業か、ということになる。後者の感想というのも悲しいものです。油断しているとまた奈落の底に落ちてゆく。
 「縦走」という道もまた生きがいを持てる生き方かもしれません。

学校の社会的責任 ふり返り366日【08/3/27】

 何かの場面で失敗をして,

 「どう責任をとってくれるんだ

と一方的に責められるケースでは,「ではこうします」と答えることができないのが一般的でしょう。

 「辞任します」「賠償金を支払います」「死んでお詫びします」「刑に服します

 いろいろな「責任の取り方」があることを,新聞やニュースで子どもたちも知ることになります。

 「責任」という言葉は,「責任感をもって行動している」・・・たとえば,自分のやるべきことをしっかりとやっているとか,困難にぶつかってもあきらめないで仕事を全うしようとしているというプラスの評価で使われることがある一方で,「責任を負う」「責任をとる」というできれば避けたいような,「重たい」,マイナスの印象も強い言葉でしょう。

 教師になろうとする人への質問で,「師とは,どのような責任を担うべき職業ですか?」「教師にとって責任とは何ですか?」というものは,いくらでも回答がある分,その人の個性がよくわかるものになります。

 具体的な実践的指導力を問おうとするときには,「責任感の高い子どもを育てようとするとき,あなたはどのような教育実践でのぞもうと考えますか」という質問になります。

 初任者に限らず,ベテランの教師,学校の管理職にも,このような問いへの体系的な回答は用意できているでしょうか。

 生徒指導要録は,学校を卒業してもしばらく保管される学習の成績や行動の所見が記録されているものですが,「行動の所見」で評価されるそれぞれの項目について,各学校では「それらの実現に向けてどのように子どもを育てようとしているのか」ということの説明が求められると考えられますが,従来からほとんど見直しがなされていない教育課程にしろ,道徳の全体計画にしろ,まだまだ学校は「目標・それを実現させるための具体的な方策・それがどの程度実現できたかを評価する方法・さらによりよい実現を目指すための目標・方策・評価方法と内容の改善の在り方」がしっかりとしたかたちになっていません。

 学校が担っている社会的責任がどのようなものなのか,教師が具体的にイメージできることで,子どもが学校で身につけることで将来果たすことができる社会的責任とは何かを子ども自身もイメージすることができます。 

08/3/27 私共空間と公共の「命」の重さ

 親の子殺し(虐待死)のニュースは当たり前のようになった日本ですが、小中学生の自殺、無差別殺人のニュースは、幾分かの人々に「臨界点」までの距離を感じさせるきっかけになったのではないでしょうか。

 なぜ世間では「普通の人」「おとなしい人」と見られている人が「だれでもよい」と言って殺人を犯すのか、なぜ小学生が失言の責任を自らの命で償おうとするのか。

 その解明をメディアで示すのは発言者に危険を伴う行為であるためか、あるいはプライバシー保護のためか、突っ込んだ報道は行われていないようです。

 そろそろ、得体が知れない「日本型殺人」の歯止めのための何かを真剣に求める風潮が表れてくるでしょう。

 学校では、「命の大切さ」を訴える道徳授業を展開しようとしても、子どもの「うさんくささを嗅ぎ分ける鋭い感覚」に耐えられる実践ができるかどうかが不安になります。

 ダントツ一位が中国で千人以上。二位がイラン、三位がサウジアラビア、四位がアメリカ・・・日本は一人で十九位。このランキングは何かというと、2005年の死刑執行数です。
 これを経年で調べていけば、死刑が犯罪の抑止力になっているかどうかがわかりますが、世界の情勢としては、死刑は廃止の方向に向かっています。その理由の一つに、たとえばテロの実行犯が死刑執行された場合、かえって殉教者となってしまうということがあります。

 「刑務所に入れるので人を殺す」という殺人の動機はどう考えたらよいのでしょう?

 学校で校則を決めると、それを破ることで目立とうとする生徒が出てきます

 私が使っている「私共(わたくしども)空間」というのは、公共の場で自分勝手なことが行われるところを意味しますが、日本人はその空間への親和性が高く、行動も極端に走りやすい特徴を持っています。
以前にも高校世界史未履修問題にふれましたが、飲酒運転も同じ根の行動です。懲戒免職の教員が出ても、抑止力にならないのは、公共の精神が欠如しているだけでなく、私共空間の論理が強固だからです。
 「落ち着いた学校」という現場では、たいてい「公共の精神」が豊かに育まれています(まれに抑止力が強い学校がありますが、そうした偽物は「高校デビュー」が多くなるのですぐにばれます)。

 「公共の精神」というと「滅私奉公」をすぐにイメージする人が年配に多いのは仕方がないことですが、「開私公共」を重要なスローガンとしている学校なら、「私共空間」を排除する力がはたらきます。
 事実の解明は新たな差別や偏見を生む恐れもありますが、自爆テロと同じような日本における殺人や自殺を食い止めることにあらゆる組織が早く着手してほしいものです。

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T大学附属「育鳳学園」開校!(フィクションです)

 

最初にお断りしておきますが,以下の話はフィクションです。

 このたび,省庁再編で誕生した教育省の「社会改革プログラム」に応募した結果,パブリックガーデン=「新しいタイプの総合公共施設」内に特別教育区指定を受けた「育鳳学園」(仮称)が誕生することが決定いたしましたのでお知らせします。

 発足時の教師及び生徒は,T大やT大附属学校から希望者を募って決定いたしました。

 来年度からの入学者選抜については,いずれ詳細を公開いたします。

 教育省の「社会改革プログラム」の詳細については,ここでは省略いたしますが,パブリックガーデン=「新しいタイプの総合公共施設」の概要をご紹介します。

 パブリックガーデン内の主要な施設は,
 1階部分に保健室及び併設している診療所,保育施設と高齢者及び障害者の福祉施設,食堂・給食用施設があり,
 2階に図書館と教員の研究用の資料室,会議室,各教科の研究室,
 3~5階が「育鳳学園」の各教室,教科の特別教室,生徒用のロッカールーム,
 6階がセミナーやサークル活動用の会議室,歴史と民俗の郷土資料館となっています。

 別棟に,体育館とプール,天然温泉の公衆浴場,大講堂があります。

中庭は文字通りの「公園」になっており,研究・学習用の「植物園」「農園」もあります。

 ICT環境が整備された育鳳学園の各教室・特別教室は,毎週水曜日,連携して研究する附属小学校及び希望する公立学校に開放し,使用を認めることになっています。

 そのため,育鳳学園の生徒は,水曜日は自宅学習になりますが,パブリックガーデン内の各施設で職業体験や実習も行います。年間で行わなければいけない時間が決まっています。

 土曜日は午前中に授業があることと,いわゆる「夏休み」が1週間しかないことが大きな特色でもあります。

 「春休み」と「冬休み」は2週間で,二期制のため,「秋休み」も1週間あります。

 毎週,必ずどこかのクラスで,日曜日に公開研究授業が実施されます。

 運動会や文化祭,合唱コンクールなどの学校行事は,すべて土曜日または日曜日に実施されます。

 入学した生徒には,一人一台の携帯端末(リース)が貸与されます。

 登校時間,下校時間,出席した授業等は,すべてこの端末に内蔵されている機器で記録され,希望するご家庭には,メール等で学校到着や下校等をお知らせします。

 学校からのお知らせ等はすべて端末にデータとして送信しますが,ご家庭宛のメールに添付することも可能です。

 生徒会の組織,教育方針やカリキュラム等は,T大附属学校のものを引き継ぎますが,学校経営に関する研究もあわせてスタートいたしますので,年度内に幾度となく変更される場合も考えられます。
 内容につきましては,学校HPでも公開いたしますので,ご注意ください。

 給食がありますが,お弁当を持参してもかまいません。

 お弁当は機械によって栄養やカロリーが分析され,その内容は携帯端末にお送りします。

 食堂は,午後6時~7時に限り,生徒でも利用できます。

 放課後の各教室は,育鳳学園が策定した「補充・発展学習プラン」に沿った指導が実践できる塾・予備校等の授業の開講を認めています。各自が希望する塾・予備校等の講習を有料で受けることができます。なお,この塾・予備校等は,地域の公立学校の生徒でも受講することができます。
 時間は午後9時までです。

 月・火・木・金は,図書館で午後9時まで学習ができます。

 図書館は一般の方のコーナーと生徒向けのコーナーが別になっており,生徒向けのコーナーには個別指導用のブースがあります。
 上記の4日間は,T大学の教員養成課程で学んでいる学生がアドバイザリースタッフとして派遣されているので,自由に質問をすることができます。

 水・土・日の夜は,生徒用の図書館の開放はありません。塾もありません。必ず家庭で過ごすようにしてください。

 まもなく新年度が始まります。(この内容はすべてフィクションです)

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「私共空間化」を食い止める公共施設のあり方 ふり返り366日【08/3/26-2】

 税金でつくられた公共施設が,どのような利用者にどの程度の頻度で利用されているか・・・何をもって「税金の無駄」とよぶのか・・・

 世の中(公共)における「」と「」の区別が非常にあいまいであることが,税金の無駄遣いに直結しているような気がしてなりません。

 たとえば放課後の校庭で,勤務時間中に,教師たちがテニスなどをして遊ぶ行為は,「公共施設の私的な利用」になるのでしょうか?

 「公的」と「私的」の違いは何なのか。

 「公共の施設」といっても,ある特定の人々にしか利用されない施設はたくさんあります。

 そういうときの「」がさすものとは何か。

 「公共施設の無駄」という言い方がされるとき,その多くは,「私共(わたくしども)」とよべる集団によって使われているのであり,その「私共」と,「無駄」といって批判している「私共」が別々の「私共」である。

 そもそも「公共」というものが,「私共」という集団によっては築けないものであることが明らかになろうとしています。

 機能を優先して公共施設を分けてしまうと,いつの間にかそこは「公共空間」ではなく,「私共空間」になってしまう。

 たとえ税金を使って作っても,一度できてしまったものは,「私共空間化」するのが常です。

 「私共空間化」を防ぐ最良の方法は,一つの公共施設に,多機能を混在させて,それこそ多種多様の「私共」が訪れるようにするしかありません。

 多民族国家はただそういう社会であるだけで「公共」が意識されていきますが,日本ではなかなか難しいものです。

 常にジャンルが異なる「私共」とお互いを見せ合うことによって,互いの「異様さ」が認識でき,「誤り」が認識でき,「正しさ」が認識でき,「尊重すべきこと」が認識できるのです。

 「底辺校」というレッテルをはられ,崩壊寸前だった公立高校の中に,その手法で立ち直ったところがありました。

 公立学校も,純粋に「教育だけの場」とするのを見直していってはどうでしょう。

 保健室ではなく,町の小さい病院といっしょにしてしまう。

 高齢者福祉施設といっしょにしてしまう。

 給食室は,宅配の弁当やビザ,寿司店にも利用させてしまう。

 自治体公認の塾を入札で決め,教室は塾に開放する。

 学校を「超複合公共施設」に生まれ変わらせたとき,子どもたちは「公共」の本当の意味を知るようになるのではないでしょうか。 

 政治の世界の話は蛇足ですが,政党は本来は「私共」であってはならないのに,果たして現実はどうなのか。

 「政党政治とは一線を画す」ことを公約に掲げる知事や議員の当選が今後も増え続けたら・・・。

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08/3/26 夜スペを通して考える「営利活動」

 和田中の「夜スペシャル」をめぐり、杉並区民が今月の24日に授業の仮差し止めを東京地裁に申し立てたそうです。原告側の主張は、「税金で建てられた施設を一部企業の営利目的に使うのは違法」というものです。
 「子ども第一主義」をみじんも感じさせない区民の本音はすがすがしく感じますが、これが零細の学習塾経営者のグループだったとしたら、問題はちょっと複雑になったかもしれません。

 昔、私がいた自治体では、学校予算で購入できる店が決まっていました量販店では5割引きで買えるものを、定価で買わされるので、(予算では希望どおりの数を購入できず)ほとんど自腹ですますしかない。
 競争力をもたない企業を税金で救う論理はわからないでもありませんが、もし夜スペが地元の学習塾の通常料金どおりでその塾のアルバイト学生が教えると言っても、生徒は申し込まなかったでしょう。

 夜スペの場合には、安い上に質が高い(これは参観していないので何とも言えませんが)サービスを安全な場所で受けられる、子どもと親にとっては願ってもないことなのですが、申し立てを行った区民の「得をしている企業が許せない」という心情が記事からは伝わってきます。

 日本では、漫画やアニメ、ゲームなどのソフトが世界に受け入れられていますが、まだその重要性を社会が常識としてとらえるレベルには達していないことが、問題の背景の一部にあるような気がします。

 教育というのは、ものづくりではなく人づくりなので、ハードよりソフトの価値に大きな比重がかかっています。
 国立大学附属学校の研究発表などで歴史的遺物のような校舎に入ったことがある方は、その意味をわかっていただけると思います。
 税金で建てられた施設には、企業が生産したたくさんの備品、消耗品が税金で購入され、使われています。
 
 中学生が一年間に払う教材費はどのくらいでしょう。
 ドリルや問題集など、義務教育なのに有料で支払わされているものは多いのです。
 教材会社は学校に製品を売って儲けているのです。インターネットのプロバイダーも、学校に儲けさせてもらっています。学校の教育活動は、一部の企業の営利活動に支えられているのです。
 旅行業者も同じです。教員の多くは、修学旅行などで儲けさせている旅行業者を上手に活用して、個人の旅行の便宜も図ってもらっているでしょう。

 学校でさまざまなサービスを購入しているのは、自治体であり、生徒(の親)であり、教員です。

 私も夜スペに関しては、「目的外利用」という観点で難しい面があると考えていましたが、逆に、今回のことをきっかけにして、「税金で建てられた施設の有効利用」にもっと区民は関心を高めてほしいと願うようになりました。

 愚か者のトップがいることで有名になったある区では、土日の警備員をカットして、PTA活動ができないようにしてしまいました。地域の中のあれだけの施設が、年間100日以上も使用困難になるのです。
 夜スペは、通常より安い金額で授業が受けられるということは、実質的にはSAPIXが施設の使用料を受講者に戻しているということになります。すると、「得をしている受講者が悪い」ということになるのでしょうか。

花の豪華さを競う教育と美しく咲くことを重視する教育

 強風にもめげず,桜の花は何とか入学式までもちそうです。

 散るときはあっけないのに,どんなに強風でも散らないときは散らない
 
 散るときを自分で選べるというところが,桜のよさでしょうか。
 
 すでに死期を悟っていた伯父が生前,最後に外出をして眺めたシーンが,文字通りの桜吹雪,満開だった桜が一斉に散るところだったのを今でもよく覚えています。

 花の豪華さを競う教育をすればするほど,子どもも外見を変えることに一所懸命になり,大切なものを見失うことになります。

 美しい花を咲かせるための日々の営みを重く見る教育は,見る人から見ればその美しさがわかるものの,花見のときしか木に近づかない人にとっては,「時期はずれ」と言って不満ばかりがつのるのでしょう。

 花は散るものであり,次の開花までの長い充電期間を「どう生きるか」「どう学ぶか」が学べる教育を重視する学校もあります。

 ある行事を参観しての感想が掲示板に書かれているのを読みました。

 その学校の教育をよくご存知の方が回答されているのを知り,改めて質の高い書き込みがある掲示板というものがあることを知りました。

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学校という戦場のルール ふり返り366日【08/3/26】

 映像は言葉だけの表現によるものよりはるかに記憶・印象に残りやすく,かつ,容易に模倣することができるようになります。

 武道やスポーツのようなものの動きはなかなか身につかないのですが,ダンス・踊りの振り付けというのは,子どもたちでも簡単に覚えて動くことができるようになります。

 4月1日から新しい学校に勤務しても,子どもがあまり登校しない学校では,「どのような学校か」はほとんどわかりません。

 学校は,子どもがいなければ,どこも静かで平和な空間,「なつかしい空間」です。

 ところが,入学式や始業式が過ぎると,とたんに戦場になる学校があります。

 一番厳しいところは,異動のために「抑止力」を失った学校です。

 「次の役回り」を期待されて入った教師でも,子どもの名前も覚えていないうちからフル回転でいくわけにはいきません。

 戦場の中では,まず子どもの「演技力」をしっかりと見極めることです。

 背伸びしている子どもは演技が板についていないので,1週間以内に正常化できるよう無駄に気付かせます。

 一方の,演技が板についてしまっている「ほんもの」には,中・長期の戦略が必要になります。

 この10年間くらいを境に,問題行動を起こす生徒を学校から排除して中に入れない方針のところも増えてきたように思いますが,「ほんもの」に混じっている「背伸びしている子ども」だけは救ってあげないといけません。

 学校という戦場のルールは,敵を倒すことでも,追い出すことでもありません。
 無駄な戦闘意欲を殺ぐことが一番です。

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08/3/26 荒れた学校の子どもの演技

 毎日新聞が福岡県の荒れた中学校の特集を組んでいます。
 私もほぼ同じような学校に勤務していたので、先生方のつらさはよくわかりますが、管理職がいなくなり、教員の多くが休みがちになるようではもはや「学校閉鎖」のレベルだったのでしょう。

 教員の専門家でない行政マンのアドバイスを聞いて自滅する管理職がいますが、福岡ではどうだったのでしょう。

 町は当然のように教員の入れ替えを行うでしょうが、「出られて天国」「入って地獄」。 

 その学校への内示を受けた先生は、期待されて配置されるのですが、「なぜあんな学校に行かなければならないのか」と嘆く人も少なくないのでしょう。

 それが子どもの人権を無視した発言であることなど、当事者は気づきようがないほど余裕がないのが教員です。
 
子ども達はくだらない学園もののドラマの役者を演じているのであって、彼らを盛り上げる効果がある人間が増えれば増えるほど、行動がエスカレートするのは目に見えています
 演技に酔いたい子どもが求めているものはわかりきっていますので、教員が無理ならここは本物の役者の出番です

 学校を建て直すとき、「戦場の心理学」というものが役に立ちました。

 地域では、「一人一人はいい子と見られている子どもが学校で暴走するのはなぜか。そこにはどんな心理があるのか。

 ただ、これを知ってしまうと、平穏な学校の教員の姿に我慢ができなくなるおそれもあるので、知らないですませられればそれにこしたことはないかもしれません。

 「教師は子どもに何をしてあげられるのか。」
 その問いに答えればよいだけなのですが。

「家族」についての作文 ふり返り366日【08/3/23】

 小学生のころ,父親が趣味にしていることについて作文にしたところ,それが文集として公開され,後で大目玉をくらったことがありました。

 自由に何でも書かせるのが「表現力を育てる」という目的を達成する手段になるのはわかりますが,それを公開するとなると,全く別の問題が出てきます。

 以前にも書いたことですが,家族の人間関係に関すること,たとえば,今の自分の父親は実の父親ではなく,上の兄や姉の父親も別の人である。その父親たちとはまた別の男性と,母親が今度再婚することになった・・・などを「家族」というタイトルの作文で子どもが書いたとき,これを文集に載せるような担任は,私が今住んでいる地域にはまずいないと思いますが,日本は広いところで,そういうことに無頓着ですませられる地域もあるようです。

 ですからそういう地域出身の人が教師になったときには,あたりまえのように文集に載せてしまうわけです。

 おそらく,これこれこういう内容が書かれたものは公開しないとか,公開する場合はこれこれこういう部分は書き直させるとか,編集するとか,そういう「ガイドライン」「マニュアル」のようなものは存在しないでしょう。

 そういうものが必要になる時代というのも情けないものですが・・・。

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08/3/23 読んでも気づかない担任?

 小学校の子どもが持ち帰ってきた文集を読むと、スリル満点の内容で満載でした。

 この子が作文で書いたこのことは、いじめではないか。

 この子は、家で虐待を受けているのではないか。

 印刷しているのは担任でしょうから、問題にはならないはずの内容でしょうが、ここまでの実態は作文を読むまでは知らなかった、という親が多いはずで、なかなかの代物です。

 卒業文集などには入念なチェックが入るはずの学校関係の出版物ですが、学年や学級単位のものにはときどききわどいものが混じってきます

 あるいは、子どもの教育の責任は親がとるものだから、この作文を読んでわかったことをふまえ、それなりの対応をしてください、という学校側からのメッセージなのか。

 作文集には、できれば担任や学年主任、校長のコメントなどがついていると安心します

 「何も知らないのは担任だけ」
 「作文を読んでも気づかない(ふり?の)担任」
 「何も知らないのは本人の親だけ」
 「作文はおろか学校だよりも読まない保護者」

 いろんなことに気づかされるきっかけづくりになるのはたしかです。

感情のハイジャック ふり返り366日【08/3/21】

 とても力のある教師が集結したような学年を見たことがありましたが,その学年にはあまり組織力がなく,子どもにも落ち着きがありませんでした。

 同じように力のある教師が集結したある学年は,とても団結力があり,子どももよくまとまっていました。

 卒業式を迎えると,その学年がどのような集団だったのかがよくわかります。

 組織の団結力の源は何だったのか。

 さまざまなファクターがそこにはあったのでしょうが,今振り返れば,一番まとまっている学年というのは,教師も子どもも一番よく笑う学年でした。

 授業中に,笑いがある。

 職員室に,笑いがある。

 廊下に,笑いがある。

 休み時間の校庭でも,放課後の教室にも。

 「EQリーダーシップ」(日本経済新聞社)の「笑いは能率を向上させる」というコラムに,以下のような一節がありました。
 

感情は伝染するが,すべての感情が同じように伝染するとは限らない。・・・職場では快活な感情や心温まる感情が最も伝染しやすく,不機嫌は伝染しにくく,憂鬱はほとんど伝染しないことがわかった。・・・明るい雰囲気は職場における協調体制や公平性や能率を向上させるという。
 なかでも,笑い声は感情の伝染性をはっきりと示してくれる。笑い声を聞くと,わたしたちは自然に笑顔になったり笑い声をあげたりする。そして,それが連鎖反応のようにグループ全体に広がっていく。・・・いい意味での感情のハイジャックが起こる。
 感情を表現する信号のなかでも,笑顔は最も伝わりやすい。笑顔には,相手まで笑顔にさせる抗しがたい力がある。笑顔の伝染力が強いのは,進化の過程で有益な役割を担ってきたからかもしれない。・・・

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08/3/21 笑顔のバリエーション

ある学校の職員室を訪れたとき、その空気の「かたさ」に違和感を覚えました。
 私が入ったからということもあるかもしれませんが、そこに数人の元同僚がいて、気さくに話している中で、何だか息苦しい感じがする空気。
 教師らしい「堅さ」?
 頭の「固さ」?
 やはり表情の「硬さ」・・・が一番気がかりでした。
 行政にいたときと同じような空気。
 初めて会った人に、どういう表情を向けられるか。
 自然な表情とはどんなものでしょう。
 やはり日本では「笑顔」が基本なのではないでしょうか。

 意味のないタイミングで笑顔になる日本人の不思議を外国人は感じるかもしれませんが、私が出会った外国人は初対面は必ず笑顔で応対してくれていました。

 教室でも、今までさまざまな空気を感じる機会がありました。
 子どもや教師の「笑顔」にはどれくらいのバリエーションがあるのでしょう。
 子どもへ向ける「笑顔」のメッセージをいくつか考えてみました。

 「おれは知っているよ」
 「今日も元気だぞ」
 「昨日、巨人が大勝したよ(勝ち方によって表情が若干異なる)」
 「また寝癖ができているな」
 「つまらない冗談を期待するなよ」
 「次の質問は少し難しいぞ」
 「ここはつっこみを入れてもいいところだぞ」
 「よくできたね」
 「はい、笑顔のお返しです」
 「何で笑顔かわからないの?」
 「また隣が寝ているな」
 「次やったらどうなるかわかっているだろうな」
 ・・・今度、テレビや映画の笑顔だけの場面にせりふを入れてみる遊びをしてみようと思います。

スタートから気が滅入る初任者研修 ふり返り366日【08/3/19-2】

 初任者研修の初回は,「教育公務員としてのモラル」など,教師としての心がまえなどを教育長や指導室長などから講話という形で学ぶことが多いのですが,現実にどのような問題を教師が引き起こしてきたかを具体的に学ぶことが最も効果的であると思われます。

 調書のレベルまでいくと衝撃が強すぎるかもしれませんが,報道されるよりもっと具体的な内容の方が,意識レベルを上げるのに役立つでしょう。

 教師がなぜ信頼されていないのか。

 その理由がよくわかるはずです。

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08/3/19 教職員の非行(と処分量定)一覧

 東京都教育委員会のHPに、「教職員の主な非行に対する標準的な処分量定」が公表されています。
 非行の種類とその内容が非常にリアルなので、あまり子どもに見せたくはない情報ですが、このような処分がたくさん行われている現実をどう考えたらよいのか。教育現場に「信頼」が寄せられる未来は訪れるのか。
 とにかく現実は重くのしかかってきます。
 非行の種類(内容・程度はHPをご参照ください)
 体罰
 児童・生徒へのいじめ
 性的行為・セクシャルハラスメント等
   児童・生徒に対する性的行為等
   保護者に対する性的行為等
   職場におけるセクシャル・ハラスメント
   一般の者に対する性的行為等
 公金公物の横領等
 収賄、供応等
 勤務態度不良
 欠勤
 秘密の漏洩
 個人情報の不適切な取扱い
 職場のコンピュータ不正利用
 違法な職員団体活動
 交通事故 
    飲酒運転での交通事故
    飲酒運転以外での交通事故
 悪質な交通法規違反
 傷害・暴行
 強盗、恐喝、窃盗、横領、詐欺、占有離脱物横領、器物破損
 無許可の兼業・兼職
 監督責任

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より