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一条兼良と菅原道真 ふり返り366日【08/4/6】

「15世紀きっての碩学であり,貴族文化を体現した大文化人」に一条兼良がいます。

 昔は「かねら」と読むこととされていましたが,現在は「かねよし」説が有力となっているそうです。

 一条兼良は,28歳で左大臣,46歳で関白,52歳で辞任した後,66歳から69歳まで再び関白をつとめた政治家であり,また,有職故実書や和歌の評論書,政治教訓書,古典文学関連書などを記した学者でもありました。

 彼は,「十年に一人の逸材」どころではなく,「500年に一人」の天才と絶賛されました。彼以前の「「500年に一人」の天才とは,菅原道真です。
 菅原道真の500回忌の年にあたる1402年に生まれたのが一条兼良でした。

 一条兼良が自分自身で「菅原道真より優れている」と豪語した理由には,「血筋のよさ」「身分の高さ」ともう一つ,「知識量」というものがありました。

 「知識量」とは,死んだ903年から後に起こった出来事を菅原道真が知らないことは当然として,その中でも,「古今和歌集」「伊勢物語」「源氏物語」及びそれらの解説書を読んだことがないのが大きな不幸だとしています。

 特に「源氏物語」については,「我が国の至宝は,源氏の物語に過ぎたるはなかるべし」と宣言しています。(参考:島内景ニ著「源氏物語ものがたり」新潮新書)

 後世に生きる人間にとって,「国宝」級のものが次々と生み出され,かつその「国宝」についての研究内容も知ることができるのは,とても恵まれているものです。

 伝統・文化については,そもそも「過去の大いなる遺産」がなければ研究も生まれないわけで,「作品」そのものへの出会いと「その作品とかかわった人々の思いや考え」との出会いが,豊かな学びのための両輪になっているわけです。

 歴史や文化についての学習が,作品自体や生み出された時代の背景の解釈にとどまらず,その作品への評価が時代によってどう変わったり,作品がどのような影響を及ぼしていたのかを学ぶことで,「歴史の流れ」というのはよりよく理解できるものだと考えています。

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08/4/6 伝統・文化の教育に関して

 ~よたよたあひるさんのコメントから~
 学習指導要領の記述以前に、日本の「伝統」や「文化」って何であるのか、きちんと考えている人は非常に少ないと思います。今や、「伝統のようなもの」「日本の文化っぽいもの」、つまり、フェイク日本文化ばかりなんじゃないか、と思ったりするわけです。

 内容論的には、東京都には「日本の伝統・文化理解教育推進事業」というものがあります。
 ここに含まれていないものにも、海外から日本が高く評価される国際的な特色としての「伝統」「文化」には、実にさまざまなジャンルのものがあります。

 歴史にさかのぼってそれを紹介しようとすると、「おまえは扶桑社の人間か」などとすぐ言われてしまいますが、「昔はこうだったのに、今は何だ」という嘆き節にも聞こえない純粋な「よき日本観」に一度は子どもを触れさせたいという願望は持っています。

 「闇社会の守護神」田中森一と「外務省のラスプーチン」佐藤優の対談書「正義の正体」(集英社インターナショナル)には、「人間」共通の豊かな伝統・文化を感じさせるくだりが何カ所か見られます。
 日本独自の伝統や文化もいいですが、世界と共通性があるよい伝統・文化に目を開かせる教育も必要かと思います。
 日本では、「宗教」に関して特異な国のように見られますが、さまざまな宗教からその良いところをピックアップして、「よりよく生きる」ヒントにしていけるような教材がもっとあってもいいかもしれません。

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コメント

(○゚ε゚○)
>おまえは扶桑社の人間か」などとすぐ言われてしまいます

暗象の語る歴史や伝統が偽物なんだよ。
扶桑社の語る歴史や伝統って、
明治以後につくられたものと、皇室行事ばかり。
懐古主義者も否定はしないが、
社会を悪い方へ引っぱって欲しくはないな。
特に先生であるというのならば… (^_^)

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より