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教育課程の管理 ふり返り366日【08/4/5-2】

 このブログの内容について,日教組を批判するためのものだと勘違いしてコメントをしていた人がかつていらっしゃいましたが,お読みいただければわかる通り,ほとんどの内容は「普通の学校」でありうる,起こりうる「教育の失敗」の輪郭をはっきりさせるためのものです。
 
 山梨県大分県の例のように,日教組の実態が明らかになったからというわけではないのでしょうが,教育ブログの中には,「それ」とはわからないように(巧妙に?)「その立場」での発言を繰り返しているところもあれば,更新されなくなってかなりたっていますが日教組を堂々と名乗って公開されたブログもあります。

 所沢高校の卒業生が告白している,「自由からファシズム(のような様相)が生まれる」仕組みも,近隣の国を知れば明らかなことであって,「左」とか「右」などという区別をするまでもなく,また,政権交代が幻想ではなくなっている現状では,一定の警戒心をもつことは必要になっているようですが。

 ありふれた学校の姿から,何気ないことのなかに実は大きな落とし穴があるのではないか,そんな発想でアンテナをはっていくことが,特に変化が激しく,数年先のことを読むこともほとんど不可能に近いように思える現在では必要になっていることと確信しています。

 たとえば,教育課程というのを各学校は教育委員会に届け,受理されています。
 平成21年度の教育課程の内容は,その年度の在校生に対して示されているものなのですが,その内容が22年度で大きく改正されるとしたら・・・その内容が,22年度に2年生・3年生になった生徒に対して,不利になるようなものだったとしたら・・・このような変更は許されるのか。
 教育課程は,入学時に提示するものが,基本的には3年間通用するものでなければならないのではないか。
 
 学習指導要領の移行期間も行き当たりばったりではなく,計画的に進行していくものなので,一年前にこうなるとは思わなかった,などということはありえないのです。

 ただ一方で,目標としていた学力水準に到達しなかったために,個別指導を充実させるとか,総合的な学習の時間の使い方を工夫するか,そのような「改善」は当然,必要である,そういう考え方もあります。

 それにしても,どの学年の何をどう改善しようとしているのか,はっきりと教育課程には示さなければならないはずです。
 教育課程の適正な管理に,もう少し一般の方の目を向けることができるきっかけがほしいところです。

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08/4/5 学校の基本政策=教育課程

 各学校が編成している「教育課程」の編成、実施、そしてその評価に、校内のだれがどのくらいの密度でかかわっているか。
 学校の弱さが露呈されるところです。
 政府の政策などという非常に大きな枠組みについて口を出す割に、自分の勤務校の教育課程の編成にほとんどかかわっていない教員も多いはず。
 教育課程は学校の基本政策(方針)であり、これに数値目標などを入れればマニュフェストになります
 「教育の成果は数字では図れない」という言い訳ももっともですが、子どもに評定をつけざるを得ないように、教育の成果も数字ではっきり示せるものを開発して、予算を獲得する努力を行政ではなく学校単位で進めていく必要があります。
 「学習指導要領のここがダメ」と言う前に、自分の学校の教育のここが課題、自分の授業のここが問題、そこから何を学校や自分がすべきかを「心の中」にとどめておかず、しっかり文書にしておく。公表するかしないかはそれぞれの課題に応じて判断するとして、情報公開を求められたら堂々と開示する。
 マスコミは人のことだけ批判するのが商売ですからNHKのような団体も存在してよいのでしょうが、教師に果たしてそれが許されるのか。
 学校では「国や郷土を愛する心を育む教育がどの程度実現できたか」などという項目をきちんと評価して次年度の編成・実施に生かすところはほとんどないでしょう。
 教員世界の文化も決して捨てたものではなく、義理と人情で生きていながら、政府に対立する基調をオープンにすると教育上では都合が悪いため、せっかくのよい日本特有の文化が子どもに伝わりません。
 「うちの学校をまねさせてごらん」と政府に言える学校づくりを進めたいものです。

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教育」カテゴリの記事

コメント

( ^ω^)おっおっおっ
>山梨県や大分県の例のように,日教組の実態が明らかになったからというわけではないのでしょうが…略…更新されなくなってかなりたっていますが日教組を堂々と名乗って公開されたブログもあります。

ストレートに毒を吐いていますね。(^o^)
先生という職以前に、人として問題がありませんか?
日々、いろいろな先生が事件を起こしていますが、
平教員と、教育委員会や管理職の割合はどんなもの?
どう考えても、日教組の組合員より、
そうじゃない人の方が多く事件を起こしていると思うのだが?
暗象のような思考回路は、
犯罪者育成型の思考回路だと思っている。
わいせつも心配だが、
それ以上に、ホームレス襲撃とか…ね。

けんせいさん,ご意見ありがとうございます。
私が以前に勤務していた中学校ほど,「特別な支援が必要な学校」はありませんでしたが,問題は,「だれによるどのような支援」が最も必要なのかを考えることにありました。
結局は職員一丸となって立て直しに成功し,家庭からの応援も増えていったのですが・・・。
さて,給与体系の問題については,教育委員会と組合の関係を抜きにしては語れなくなってしまうでしょうね。
大きな問題がおこらないと,なかなか世論は動かせませんし,マスコミの立場も偏っていますし,この面の改善を目指すのは困難を極めるでしょう。
なかなか自分の収入を減らす覚悟で「子どもの教育の向上」をのぞむ人はいないでしょうし・・・。
ある自治体では,革新の時代にめちゃくちゃな「公務員天国」をつくってしまい,正常化に相当の時間がかけられたようですが,教育の世界も似たようなものでしょう。

東京都の公立学校初任給は?

(1) 初任給 (平成20年4月1日適用)
区分 小学校、中学校 高等学校 特別支援学校
大学卒 約 239,500円 約 239,500円 約 264,200円
短大卒 約 218,100円 ― 約 240,500円

 見ればわかるが、特別支援学校の給与は約一般校の10パーセント以上アップされている。

どこの県もよく似た感じで何パーセントか一般校より上積みされている。

私は当別支援学校も一般校もよく知っている(勤務経験がある)。

これは絶対おかしい給与体系である。

どう考えても絶対あってはならない!

特別支援学校の生徒は確かに支援が必要な生徒たちが涙ぐましい努力で学校生活を送る。

しかし、教師数が多いため、授業数については一般校と大差ないが一人当たりの授業以外の仕事量いわゆる分掌内の仕事量は格段に特別支援学校の教師の方が少ない。

しかも、中学と小学校高学年への生徒対応は今や、一般市民が思っている以上にきつく、精神的ストレスは最悪に極まっている。

中学校で毎日祈るような気持ちで身を削って勤務している先生方にこれでは申し訳ないのだ。

もちろん特別支援学校では土曜日曜のクラブ活動は皆無に等しい。障害者の大会などもほとんど平日に予定されているからだ。

まず、特別支援校と一般校の精神疾患による休養、求職教員の人数比較を提示してほしい。

私の予想ではぜったい一般校、特に中学校での給与九社は多いはずだ。

文科省の取り組み資料からはそれは読み取れないのだ http://www.mext.go.jp/


私の提言!

特別支援学校の給与を一般校と同じにせよ。


そうするとどうなるか?

一校あたり100人ほど教師がいるので、たとえば10パーセント違うならばなら10人分の教師の給与が浮く。

ある都市に特別支援学校が11校あるとすると。11校分で110人分の給与が浮く。

逆にいえば110人分の教師が雇えるわけだ。


これを一般校の困難校に配置せよ!!!!


どれだけ手厚い教育ができるかだ!

しかし、これを非常勤で雇うな!教育の効率が悪いからだ。 せめて常勤講師だ!


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より