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リスクの少ない「平等」 ふり返り366日【08/4/22-2】

 私にとっての恩師たちは,その恩師たち自身が,かけがえのない恩師をもっているのだろうと想像することができます。

 今の目の前にいる子どもにとって,褒めることが一番いいのか,問題を指摘して叱ることがいいのか,慰めることがいいのか,自分で考えさせることがいいのか・・・。

 本当は,それぞれの子ども自身のことをよく理解した上で,それぞれの子どもに合った接し方をすべきだと考える人が多いのでしょうが,そうすると「格差」が大きくなってしまい,「平等」「公平」な教育ではないと見られるようになってしまう・・・おそらく,今の時代の最も大きな問題はそれでしょう。

 行為として「同じ」ものが,「平等」であるとは限らないことは,性別や年齢の違いだけをとってもみてもよく分かることです。

 しかし,「違う」ことをすれば,簡単に「差別」だと非難する口実になってしまう。

 そのため,おそらく,現場の多くの教師たちは,最も安全で,安易で,リスクの少ない,結果として,ほとんど教育的効果がない,そういう「指導」を選択しがちなのでしょう。

 ほとんどの子どもたちが,「満足」な学校生活を送っているということがあるとしたら,「とてもよくないこと」「まずい状態」と感じ取れるような力が必要なのかもしれません。

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08/4/22 恩師の教えと「否定の連続」

十牛図ー7 忘牛存人
 十牛図の第七図には、もう牛は描かれていません。牧人は庵の前でのんびりうたた寝をしている場面です。
 牛がいなくなったとは何か。牧人がのんびりしていることの意味は何か。
 私は小学校の低学年と中学年に、おそらくその後の一生を左右したと思われる影響を担任の教師から受けています。
 低学年の教師からは、ただただほめられ、(図に乗ることなく,)そして「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」という賛辞をもらい、親も満足していました。
 中学年の教師には、ほとんど怒られた記憶しかありません。「上に立つものがすべての責任を担うものだ」という論理で、無法者の排除という行動も「差別」という罪状で処罰されました。 私はたったの一度も、一瞬でも反抗したことはありませんでしたが、これほど徹底した指導ができる教師は、今は皆無でしょう。
 禅の修行では、「人生を向上的に生きるには、否定の連続が必要になる」と説かれています。
 「空じ、空じきっていく」ことは、「ほめられたい」「満足したい」欲求にとらわれている人にとっては、決してやりたくない作業でしょう。
 「教育失敗学」というタイトルを見ただけで、見る気もおきない、という人もたくさんいるでしょうが、それでも読んでくださっている方は、きっと禅の教えを理解されているのでしょう。
 偽りの自分に気づき、自分が新しくなる、そして真の自分を得るが、それを得たという満足をもった時点で偽りの自分となる。このことを、小学校4年生までに体得させてくれた担任の先生には本当に感謝しています。
 ただ、完全に「」になりきる感覚は、どうも偽物っぽくてなりきれません。
 まだまだ修行は足りないようです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より