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新聞記者の教育観のどこが問題かー5 ふり返り366日【08/4/14】

 ちょうど,毎日新聞の「先生:競争の現場から」も,17日に管理職がテーマになっていました。

 東京都の管理職選考の倍率が1.4倍。
 「校長や教育長による推薦枠」まで登場している始末です。

 記事ではこの大問題を,「競争の現場」という視点から描いているために,「目標をクリアするため,ただ走らされる」という副校長のコメントを載せたりして,あたかも「行政の動きについていけない」教師の現状に原因があるかのように思わせようとしていますが,管理職の力量不足の問題がどのような構造のもとに生まれてきたかを掘り下げてしまうと,読者が減ってしまうという「数値目標」に縛られた新聞社の事情もよく理解することができます。

 「管理職をめざそうとする教員が減っている

 ことの最も大きな背景は,「管理職をめざす年齢層の教員がとても少ないこと」にあります。

 そのために考え出したのが「A選考」という仕組みでしたが,そもそも働きが異なるため選考も別立てだった指導主事と管理職をごちゃまぜにしてしまったのが,状況を悪化させる原因になってしまいました。

 このような背景や教育管理職任用制度の課題に全くふれずに,管理職の休職者数だけをあげて「管理職はたいへんな仕事だからなり手がいないのだ」という印象を強めようとするような記事を載せるのが新聞というメディアの特色です。

 「紙面が足りない」ことが言い訳ですか?

 「子どもとふれあう時間がない」といって,子どもが学校にいるのに机に向かって仕事をしている教師とイメージが重なってしまいます。

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08/4/14 望ましい教育管理職の任用制度とは?

 すずめ@先生からコメントをいただきました。
 
 >管理職の人材については,私自身は大変恵まれており,行動力,指導力ともに抜群の校長と,細かく指導してくれる教頭にめぐまれております。書類作成などに関しても,過去3人の教頭にイヤというほど仕込まれ,やっと最近は「適当に出しとけ」と言ってもらえるようになりました。
 ただ,周りを見ると,どうしてこの人が??と思われる人は数多く,その下で働く人たちは大変だろうなと思います。
 管理職の人材登用の選考の基準,または選考方法(あるいは選考に当たる人)が,どうにも間違っているのではないかと私には思われてなりません。委員会から見ても,事務処理能力の不足している教員を教頭に登用してはなりませんし,指導力のない教頭を校長に採用するのは,現場を混乱させるだけだとよく分かっていると思うのですが,なぜそんな選考がなされるのでしょうね。

 ご存じのように、東京都は教育管理職の任用制度を平成12年度から変更し、指導主事、行政、企業、現場の主幹などのジョブローテーションを行い、高いマネジメント能力をもった教育管理職をつくりつつあります。

 ただ、対象となる年代の教員数が少ないことや、「わざわざたいへんな思いをしてからさらにその後、たいへんな職につこうとは思わない」という教員を増やしてしまったため、この任用制度が見直されていることは以前にも述べました。
 はじめから「優秀な副校長」として採用するのではなく、研修や実務をさせながらその資質を磨き、これでOKとなったら任用する、そういうシステム自体はよいのですが、年齢別の人数があまりにもアンバランスで、養成が間に合わない、これが東京都の悩みです。もっと前に実行したかったということを、遅れて実施してしまっているだけ、そして見事に失敗している、という印象があります。
 私見では、あまり若すぎて学年主任、教務主任、生活指導主任、研究大会での発表者としての経験がない教師がいきなり行政にはいっても、逆に教えられる立場になってしまうので、いくら管理職から受験しろと言われても、断るのが良識ある教師像だと考えています。そもそもリーダーシップをとれるような資質がないと、管理職はつとまりません事務員のような副校長ならまだしも、「校長にはさせられない」と判断されている副校長も少なくない。ですから、「校長は無理だ」と本人が悟ったり校長から指導を受けて納得したりした場合は、降格させてあげることが本人のためになります。
 他県との違いかもしれませんが、教師は「副校長の下で働いている」という認識はほとんど持っていないと思います。「副校長は自分の上司にあたる」ということを知らないのではないかと思わせる教員もいます。
 中学校の場合、学校内で「リーダー」にふさわしいのは学年主任であり、それがよくわかっていないのが現行の「主幹制度」の最大の欠陥です。
 なお、私が採用したい管理職試験の方法は、保護者3人、教員3人、企業の管理職3人、行政から3人くらい選んだ試験官の前で、「目指す学校づくり」「私がかかわった学校づくり」を語らせて、評価の合計を競うようなスタイルです。こういう試験をすると、採点の偏りを分析することによって、学校のリーダーに求められる資質があらためて浮き彫りになるかもしれません。

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コメント

「時間が足りない」という当たり前のことをわざわざ言い訳にする教師のほとんどは、そもそも子どもに向き合っていないのです。
新聞記者(に限らないかもしれませんが)は、今回の記事のような場合は取材からスタートする訳ではなく、下書きが最初からあってそれらしい(=自分の記事にピッタリ合う)「教師の言葉」を入れるだけですから、最初から「子ども」など視野にないのはよく分かりますが。

( ^ω^)おっおっおっ

>「紙面が足りない」ことが言い訳ですか?

時間が足りないことが言い訳ですか?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より