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主義のための主張と教育のための主張 ふり返り366日【08/4/10-2】

 垂れ流し系の「ヒハン」と,問題解決を強く望む系の「批判」の区別は,現場の実態を踏まえているかどうかで判断すれば,間違いないでしょう。

 ときに,現場の(ひどい)実態を知られたくなくて,あるいは知りたくなくて,強がるタイプの人がいますが,この程度の「信念対立」の解消は,簡単な話です。

 今,こういうことが起こっていますだから・・・で話は先に進むのです。

 ある組合の人と,別の組合の人が喧嘩をしている場面がありました。

 端から見ると,どうでもいいというか,どっちもだめだなと思えるのですが,当人たちは,自分が絶対であると信じきっていて譲りません

 こういう「信念対立」のズレの解消法として最も適しているのは,「現場の経験からして」「子どもの立場になって考えてみて」・・・「なぜそのような考えをもつことに到ったか」を語ってもらうことであると私は考えています。

 大事なことは,「現場の経験」「子どもの立場」から出発することであって,それがスッポリと抜け落ちてしまっている主張は,主義のための主張であって教育のための主張ではありません。

 もっとレベルが低いのは,「自分の仕事の大変さをアピールする」ためだけの主張です。

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08/4/10 ゴミ回収業者としての教師

 Psycheさん、以下のコメントありがとうございました。

 >教師を教育したい保護者、いるでしょうねぇ。塾で勤務していても同様の保護者は見受けますから(笑)
ところで、「社会的地位」であったり「もっと偉い存在だと思われるべきだ」との主張を指導者が唱えているのを見たことがあるのですが私は的外れな気がしてなりません。
 塾の講師とて学歴的にはさまざまですが十分な力量があれば社会的なイメージにとらわれることなく多くの保護者に支持してもらえることは現場で働き強く感じています。
 このような社会的イメージにより自分が正当に評価されないとする指導者ほどたいてい力量不足である印象を受けます。クレーム対応は力量を問われるでしょうね。

 塾へのクレームというのはどのくらい深刻なものなのでしょうか。
 税金でまかなわれている義務教育に対する「費用対効果」の問題が深刻なのはよくわかりますが、塾で学んでも志望校に合格できない場合、成績が向上しない場合の費用負担者の反応はいかがなのでしょう。
 不思議なことに、私の場合、家庭教師で教えていた子が大学受験に失敗したとき、保護者から「子どもの勉強不足でした。すみませんでした」と謝られたことがありました。恐縮の一言に尽きます。塾の講師をしていたときも、悪い点のテストを返されるとき、子どもはみんな「ごめんなさい」といって解答用紙を受け取っていた記憶があります。
 なぜ保護者や子どもは謝ったのでしょう?
 その塾や家庭教師を選んで金を払っているのが自分たちなので、その効果がないということになると、選んで金を払った自分が悪いということになってしまうからでしょうか?
 公立の教師は別に自分たちが選んだわけではないということが、子どもに学力がつかない責任を追及しやすいムードを作っているのでしょうか。もしそうだとしたら、学校選択制というのは一定の効果が見込まれますね。
 塾の先生への信頼というのはときに絶対的なものであり、塾に「受けなさい」といって受験させられた高校のほとんどが不合格だった生徒もいました。子どもの実力を大きく見せてくれる塾は保護者の味方であり、学校は「もっと安全な学校を受けろ」などと言ってくる敵だ!という図式もありました。
 子どもや保護者が「やればできる」という信念を持ち続け、しかしけっして「やらない」タイプが多い中、学校の教師は「現時点での本当の力」を自覚させてあげなければならないつらい立場になることがあります。
 嫌われ役になる場面が教師にはたくさん訪れます。
 保護者の学校へのクレームですが、その原因もさまざまなであり、保護者の話を聞いているうちに、一番腹を立てていたのは父親が子どもの勉強や成績に全く関心を示さないことであったり、成績が悪いのは家で勉強させない母親のせいだと言われたためだったのがわかったことがありました。
 公立学校、そして教師は、教育の不満のゴミ捨て場になっています。
 マスコミがゴミ収集車です。
 どうにかそのゴミを分別して、燃やしたり、資源にしたり、そのまま埋めたりして子どものためになる方向に持っていきたいものです。

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教育」カテゴリの記事

コメント

m9(^Д^)プギャー
>端から見ると…略…当人たちは,自分が絶対であると信じきっていて譲りません。

暗象だ… (^O^)

( ̄ー ̄)ニヤリ

もっとレベルが低いのは,
「自分の仕事がうまくいかないのは、
 他の先生が悪いとアピールする」ためだけの主張です。
どれだけアピールしても、
先生方は耳をかそうともしない。
それは、教育委員会や管理職の指導力が足りないんだ。
ことの重大さを親たちは知らないんだ。
だから、ネットで発信して、
自分の正しさを認めてくれる人を探すんだ…。

暗象のエネルギーのもとは、
この程度のことなんだろうね。

私もランキングに参加してわかったことがある。
更新すると順位が上がるんだね。
でも、つまらないと更新しても順位は下がるんだね。
(^_^)

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
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  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
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    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より