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学級づくり ふり返り366日【08/3/29】

[小中学校] ブログ村キーワード

 小学校や中学校の教育実践の多くは,個性よりも集団をより重視する傾向があります。

 そうすると当然,大きな力を発揮することが求められるのは学級担任ということになります。

 しかし,その影響力が大きすぎると,集団主義のはずが,学級担任の個性重視の傾向の方が強くなってしまい,結局,子ども集団はしっかり育たないという結果に陥ってしまいます。

 「学級王国」などという言葉は,王様はたいてい担任ですから,そんな状況を象徴する教育用語になっています。

 これが高校生になると,そういう結果も影響してか,今度は学級担任の言うことは聞かなくなるので,後は試行錯誤しながら自分たちの力を伸ばしていこうとするか,あるいは,あまりにも自分たちに力がないので,まだ学級担任に頼らざるを得ない状況になってしまう。
 
 そう考えると,小中学校における「学級づくり」は,いかに子どもを主役にしたものになるかが大切になってくるのですが,「人をひっぱっていく」=「ときには人に言うことを聞かせる」,「うまくいかないとき,責任を感じさせられる」立場よりも,「人にひっぱられる」=「人の言うことを聞いていればよい」「失敗しても,責任を感じずにすむ」立場の方が精神的にも楽なものであり,従順な日本人らしさの表れか,教育の結果としてそうなっているのか,なかなか「リーダー」が育たないことが課題となります。

 あえて「リーダー」を育てない学校もあるようなので,「どうやって人を動かしていけばよいかわかならい」子どもが機会を得ることもなくそのまま成長し,そうやって成長した若者が新しい教師となって教育現場に入ってくるわけです。

 たとえば小中の連携を行うときに,発達段階もふまえつつ,学級担任がすべきこと,してはいけないこと,子どもがすべきことの共通認識を教師間でしっかりともっていくことが,「集団づくり」には欠かせないでしょう。

 教室で落し物を拾ったときに,すぐに担任のところに持ってくるような子どもではなく,まず落ちていた周辺の席の子どもに聞いてから持ってくるとか,そういう配慮ができるかできないかだけでも,「学級の力」は見えてくるものです。

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08/3/29 中学生に必要な「もとは同じ」感覚

 昔から、地方の純朴な生徒は、都市部の学校に行くと、感化されて、たちまちに悪くなる。
 または、カルチャーショックを受けて、外の風に耐えられずに引きこもる。
 こういうことをよく耳にします。

 高校側は、「免疫力が弱い」「社会を知らない」と批判する。
 中学校側は、「そっちの教育がなってない」と反論する。

 都市部にある私の学校では、修学旅行がコース別に企画されており、1クラス規模の単位で学習します。
 私のコースでは、山間部にある中学校との交流が実現し、2時間ほどでしたが楽しい時間を過ごすことができました。合唱発表、総合的な学習の時間の研究発表、ゲームによるレクなどを行いましたが、「学び」の質は全国どこでも同じであることが実感できました。

 学習指導要領に基づく日本の教育が悪いと批判する人もいるようですが、学習面で安心して子どもが交流しあえるのは中学校までの教育の特色です。

 これが高校となると、スクールライフ以外の部分の比重というか現実味がクローズアップされてくる。
 隠れてでもアルバイトをしないといけない高校生もいるし、遊びが中心の子も増える。
 一方で、スポーツ一本槍、大学受験まっしぐらの子どもも増えて、「個別性」が高まるのが高校です。

 「もとは同じ」であるのに、そのことが実感できないで多様な「個別性」にふれると、子ども達は「自分とは違う人間」「人と違う自分」に戸惑うことになります。

 「全国大会」がある活動に参加し、勝ち残ってくる中学生はごく一部なので、多くの子どもは「もとは同じ」体験ができない。

 人間理解を深めようとするとき、同年齢の子ども達の交流がもっとあってもいいように思います。
 国語の入試問題では、そういう主人公が登場する素材がよく使われますが、「文章を読んでわかる範囲」のレベルではなく、やはり実際に会話をかわすなかで育まれていく相互理解が大事でしょう。
 ゲームを通しての交流でもいいのですが、現実世界での交流が少なくなっていることが、直近のさまざまな犯罪の原因の一つであることは間違いないようです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より