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学校の社会的責任 ふり返り366日【08/3/27】

 何かの場面で失敗をして,

 「どう責任をとってくれるんだ

と一方的に責められるケースでは,「ではこうします」と答えることができないのが一般的でしょう。

 「辞任します」「賠償金を支払います」「死んでお詫びします」「刑に服します

 いろいろな「責任の取り方」があることを,新聞やニュースで子どもたちも知ることになります。

 「責任」という言葉は,「責任感をもって行動している」・・・たとえば,自分のやるべきことをしっかりとやっているとか,困難にぶつかってもあきらめないで仕事を全うしようとしているというプラスの評価で使われることがある一方で,「責任を負う」「責任をとる」というできれば避けたいような,「重たい」,マイナスの印象も強い言葉でしょう。

 教師になろうとする人への質問で,「師とは,どのような責任を担うべき職業ですか?」「教師にとって責任とは何ですか?」というものは,いくらでも回答がある分,その人の個性がよくわかるものになります。

 具体的な実践的指導力を問おうとするときには,「責任感の高い子どもを育てようとするとき,あなたはどのような教育実践でのぞもうと考えますか」という質問になります。

 初任者に限らず,ベテランの教師,学校の管理職にも,このような問いへの体系的な回答は用意できているでしょうか。

 生徒指導要録は,学校を卒業してもしばらく保管される学習の成績や行動の所見が記録されているものですが,「行動の所見」で評価されるそれぞれの項目について,各学校では「それらの実現に向けてどのように子どもを育てようとしているのか」ということの説明が求められると考えられますが,従来からほとんど見直しがなされていない教育課程にしろ,道徳の全体計画にしろ,まだまだ学校は「目標・それを実現させるための具体的な方策・それがどの程度実現できたかを評価する方法・さらによりよい実現を目指すための目標・方策・評価方法と内容の改善の在り方」がしっかりとしたかたちになっていません。

 学校が担っている社会的責任がどのようなものなのか,教師が具体的にイメージできることで,子どもが学校で身につけることで将来果たすことができる社会的責任とは何かを子ども自身もイメージすることができます。 

08/3/27 私共空間と公共の「命」の重さ

 親の子殺し(虐待死)のニュースは当たり前のようになった日本ですが、小中学生の自殺、無差別殺人のニュースは、幾分かの人々に「臨界点」までの距離を感じさせるきっかけになったのではないでしょうか。

 なぜ世間では「普通の人」「おとなしい人」と見られている人が「だれでもよい」と言って殺人を犯すのか、なぜ小学生が失言の責任を自らの命で償おうとするのか。

 その解明をメディアで示すのは発言者に危険を伴う行為であるためか、あるいはプライバシー保護のためか、突っ込んだ報道は行われていないようです。

 そろそろ、得体が知れない「日本型殺人」の歯止めのための何かを真剣に求める風潮が表れてくるでしょう。

 学校では、「命の大切さ」を訴える道徳授業を展開しようとしても、子どもの「うさんくささを嗅ぎ分ける鋭い感覚」に耐えられる実践ができるかどうかが不安になります。

 ダントツ一位が中国で千人以上。二位がイラン、三位がサウジアラビア、四位がアメリカ・・・日本は一人で十九位。このランキングは何かというと、2005年の死刑執行数です。
 これを経年で調べていけば、死刑が犯罪の抑止力になっているかどうかがわかりますが、世界の情勢としては、死刑は廃止の方向に向かっています。その理由の一つに、たとえばテロの実行犯が死刑執行された場合、かえって殉教者となってしまうということがあります。

 「刑務所に入れるので人を殺す」という殺人の動機はどう考えたらよいのでしょう?

 学校で校則を決めると、それを破ることで目立とうとする生徒が出てきます

 私が使っている「私共(わたくしども)空間」というのは、公共の場で自分勝手なことが行われるところを意味しますが、日本人はその空間への親和性が高く、行動も極端に走りやすい特徴を持っています。
以前にも高校世界史未履修問題にふれましたが、飲酒運転も同じ根の行動です。懲戒免職の教員が出ても、抑止力にならないのは、公共の精神が欠如しているだけでなく、私共空間の論理が強固だからです。
 「落ち着いた学校」という現場では、たいてい「公共の精神」が豊かに育まれています(まれに抑止力が強い学校がありますが、そうした偽物は「高校デビュー」が多くなるのですぐにばれます)。

 「公共の精神」というと「滅私奉公」をすぐにイメージする人が年配に多いのは仕方がないことですが、「開私公共」を重要なスローガンとしている学校なら、「私共空間」を排除する力がはたらきます。
 事実の解明は新たな差別や偏見を生む恐れもありますが、自爆テロと同じような日本における殺人や自殺を食い止めることにあらゆる組織が早く着手してほしいものです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より