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「私共空間化」を食い止める公共施設のあり方 ふり返り366日【08/3/26-2】

 税金でつくられた公共施設が,どのような利用者にどの程度の頻度で利用されているか・・・何をもって「税金の無駄」とよぶのか・・・

 世の中(公共)における「」と「」の区別が非常にあいまいであることが,税金の無駄遣いに直結しているような気がしてなりません。

 たとえば放課後の校庭で,勤務時間中に,教師たちがテニスなどをして遊ぶ行為は,「公共施設の私的な利用」になるのでしょうか?

 「公的」と「私的」の違いは何なのか。

 「公共の施設」といっても,ある特定の人々にしか利用されない施設はたくさんあります。

 そういうときの「」がさすものとは何か。

 「公共施設の無駄」という言い方がされるとき,その多くは,「私共(わたくしども)」とよべる集団によって使われているのであり,その「私共」と,「無駄」といって批判している「私共」が別々の「私共」である。

 そもそも「公共」というものが,「私共」という集団によっては築けないものであることが明らかになろうとしています。

 機能を優先して公共施設を分けてしまうと,いつの間にかそこは「公共空間」ではなく,「私共空間」になってしまう。

 たとえ税金を使って作っても,一度できてしまったものは,「私共空間化」するのが常です。

 「私共空間化」を防ぐ最良の方法は,一つの公共施設に,多機能を混在させて,それこそ多種多様の「私共」が訪れるようにするしかありません。

 多民族国家はただそういう社会であるだけで「公共」が意識されていきますが,日本ではなかなか難しいものです。

 常にジャンルが異なる「私共」とお互いを見せ合うことによって,互いの「異様さ」が認識でき,「誤り」が認識でき,「正しさ」が認識でき,「尊重すべきこと」が認識できるのです。

 「底辺校」というレッテルをはられ,崩壊寸前だった公立高校の中に,その手法で立ち直ったところがありました。

 公立学校も,純粋に「教育だけの場」とするのを見直していってはどうでしょう。

 保健室ではなく,町の小さい病院といっしょにしてしまう。

 高齢者福祉施設といっしょにしてしまう。

 給食室は,宅配の弁当やビザ,寿司店にも利用させてしまう。

 自治体公認の塾を入札で決め,教室は塾に開放する。

 学校を「超複合公共施設」に生まれ変わらせたとき,子どもたちは「公共」の本当の意味を知るようになるのではないでしょうか。 

 政治の世界の話は蛇足ですが,政党は本来は「私共」であってはならないのに,果たして現実はどうなのか。

 「政党政治とは一線を画す」ことを公約に掲げる知事や議員の当選が今後も増え続けたら・・・。

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08/3/26 夜スペを通して考える「営利活動」

 和田中の「夜スペシャル」をめぐり、杉並区民が今月の24日に授業の仮差し止めを東京地裁に申し立てたそうです。原告側の主張は、「税金で建てられた施設を一部企業の営利目的に使うのは違法」というものです。
 「子ども第一主義」をみじんも感じさせない区民の本音はすがすがしく感じますが、これが零細の学習塾経営者のグループだったとしたら、問題はちょっと複雑になったかもしれません。

 昔、私がいた自治体では、学校予算で購入できる店が決まっていました量販店では5割引きで買えるものを、定価で買わされるので、(予算では希望どおりの数を購入できず)ほとんど自腹ですますしかない。
 競争力をもたない企業を税金で救う論理はわからないでもありませんが、もし夜スペが地元の学習塾の通常料金どおりでその塾のアルバイト学生が教えると言っても、生徒は申し込まなかったでしょう。

 夜スペの場合には、安い上に質が高い(これは参観していないので何とも言えませんが)サービスを安全な場所で受けられる、子どもと親にとっては願ってもないことなのですが、申し立てを行った区民の「得をしている企業が許せない」という心情が記事からは伝わってきます。

 日本では、漫画やアニメ、ゲームなどのソフトが世界に受け入れられていますが、まだその重要性を社会が常識としてとらえるレベルには達していないことが、問題の背景の一部にあるような気がします。

 教育というのは、ものづくりではなく人づくりなので、ハードよりソフトの価値に大きな比重がかかっています。
 国立大学附属学校の研究発表などで歴史的遺物のような校舎に入ったことがある方は、その意味をわかっていただけると思います。
 税金で建てられた施設には、企業が生産したたくさんの備品、消耗品が税金で購入され、使われています。
 
 中学生が一年間に払う教材費はどのくらいでしょう。
 ドリルや問題集など、義務教育なのに有料で支払わされているものは多いのです。
 教材会社は学校に製品を売って儲けているのです。インターネットのプロバイダーも、学校に儲けさせてもらっています。学校の教育活動は、一部の企業の営利活動に支えられているのです。
 旅行業者も同じです。教員の多くは、修学旅行などで儲けさせている旅行業者を上手に活用して、個人の旅行の便宜も図ってもらっているでしょう。

 学校でさまざまなサービスを購入しているのは、自治体であり、生徒(の親)であり、教員です。

 私も夜スペに関しては、「目的外利用」という観点で難しい面があると考えていましたが、逆に、今回のことをきっかけにして、「税金で建てられた施設の有効利用」にもっと区民は関心を高めてほしいと願うようになりました。

 愚か者のトップがいることで有名になったある区では、土日の警備員をカットして、PTA活動ができないようにしてしまいました。地域の中のあれだけの施設が、年間100日以上も使用困難になるのです。
 夜スペは、通常より安い金額で授業が受けられるということは、実質的にはSAPIXが施設の使用料を受講者に戻しているということになります。すると、「得をしている受講者が悪い」ということになるのでしょうか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より