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「不易」と「流行」は必ずセットで

 教育改革を推進しようとする立場の人は,「不易流行」の「流行」に重点を,それに反対しようとする人は,「不易」に重点をおいて持論を転換しようとしがちです。

 しかし,そもそもこの「不易流行」は,「不易を知らざれば基立ちがたく,流行を知らざれば風新たならず」がもとですから,両者の根本は一つ,という「教訓」として捉えていくことも大事です。

 芭蕉が「不易」にあたる「人の心を打つもの」を,俳諧という「流行」に沿った「新しい手法や手段」の工夫によって表現しようとしたことを念頭においておく必要があります。

 不易ばかりを「大切だ」という立場の人たちには,古いやり方を強引に「これが正しいのだから」とおしつけるような教育観をもっているイメージがつきまといます。

 もちろん,「流行」の中に「不易」の要素を見ようとしない人たちが,ただの「新しもの好きにすぎない」「飽きっぽい人」というイメージに覆われるケースもあるでしょう。

 社会や状況の変化によって,今までにはない概念の「不易」が「流行」で生み出されたり,「流行」の中で「不易」が見直されながら,人や社会は成長・発展していくものなのでしょう。

 「不易」はあらかじめそこにある明白なもの,それ以上のものはないもの,固定的なものとして,それを追求していくような態度を失ってしまっては,結局,本質的な「不易」を知らないまま,自分も成長せず,人も成長させられず,終わってしまいます。 

 より人間や社会の本質に近いイメージの不易を追求していくために,刻々と変わる社会や状況=流行から目をそらしていてはいけません

 「改革」「改善」への意欲というものが,人間の「不易」の一部であるという側面を忘れてはいないでしょうか。

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コメント

真の「不易」というのは,わかっているようで,わからないものが多いのです。
たとえば基礎・基本の習得が大切,といいますが,どのようにしたら基礎・基本が習得できるのか。
その指導法にすら絶対的な正解はありません。
新しい方法の開発,目の前の子どもに合った対応が常に求められているのです。
そのとき考慮に入れなければならないのが,社会や環境,子どもの変化ということになります。
発達障害という課題など,新しくわかってきていることも,考慮に入れていく必要があります(法令化もされました)。
「不易」は「流行」の中で絶えず追究していかなければ到達できない部分もあり,それを「踏まえる」ことが容易にできるようなものでもないのです。

不易と流行が一体として意味があるというのは言うまでもないことです。いま問題なのは,不易を踏まえずに流行に惑わされている教育の動きです。さて,教育における「不易」とは何か。そこをまず押さえるべきではないでしょうか。

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» 教育における「不易」と「流行」 [考えるのが好きだった]
 見渡して思うに、「流行」はカネと物を動かす。ファッションを見れば一目瞭然である。一方の「不易」は、時の流れを耐え抜く抽象的な事項であることが多く、目に見えてはっきりとしない。他に例えて言うと、多くの場合非常に形式的な「儀式」にしても、「儀式の形式」は「流行」によって変化するが、「儀式の存在や意義」は「不易」である。儀式のない人間社会は存在しえないだろう。そういった不易こそが「ヒト」が「人間」足るべくに重要な働きをするのではないか。しかるに、不易は一般に目に見えないから流行と見間違えられる。不易は決... [続きを読む]

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より