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あくまでも、現場を見るきっかけに!

[教育現場] ブログ村キーワード

 いじめ関連の記事について、今夜は絶好調(?)ないちろうさんから、以下のような「但し文」がありましたので、こちらでもご回答させていただきます。

 暗象は何をしたんだ?  解決に向けての努力をしたのか?  仲間がいないからネットで愚痴っているのか?  世間に学校不信を広めたいのか?

 私が直接関わる教育活動について記事にしないことは以前にも申し上げていますが、その理由はのちほど改めてご説明します。
 
 特に最後の「世間に学校不信を広めたいのか?」という部分については、このブログを始めた時点から、以下のような大きな使命がありました。

 それは、保護者の多くが、子どもの教育を「学校任せ」にしていることが、今の「教育の荒廃」の一因でもあること。

 もちろん、学校がすべてを担えれば問題は起こらないのかもしれませんが、その能力がないことと、能力がないことに気付きもしないでいる現状があること、それを発見し、正していくことが、今は社会全体にも要請されていることを知っていただくため、ということです。
 学校は、外部に評価を公表するようになってきていますが、学校自体が評価項目を設定している学校評価だけから判断するのでは不十分です。

 教育に関する問題の解決には、特に現場を知ろうとしない保護者の方の協力も必要となります。

 問題が起こった後、しかも、問題を隠されていた後の対応では、問題はこじれるばかりであり、なかなか解決へはたどりつけません。

 保護者として学校のことをもっとよく知り、早い時期から言うべきことは言っておけるようなきっかけが、このブログの記事を通してなされていくことを願っています。

 当たり前の話ですが、すべての学校(教師)に共通する問題もあれば、一部の学校(教師)の問題にすぎない話もたくさんあります。

 学校が起こす様々な不正が明らかになるパターンとして、内部告発という形態が増えていますが、これはむしろ組織の健全性を示すものでしょう。
 そして、不正防止の強力な抑止力になります。

 しかし、内部の自浄作用に頼ってばかりでは、問題は根絶できないでしょう。 

 また、いちろうさんにように、労働問題とリンクさせてコメントをいただける方もいますが、教師に対する厳しい目が注がれている背景は、単なる「労働者」としてではなく、それが「公務員」であること、「教育者」であることに由来するものであり、直接の利害関係者が将来の日本を担う子どもたちであるということがあるわけです。

 「教師だけ特別扱いする」ことにいちろうさんは批判的でしたが、以上のことからそれなりの理由はあるでしょう。
 また、自分は政治家や企業経営者のことは本や報道でしかわからないのに対し、教師のことは様々な角度からよく状況がわかっていますので、記事にしやすいわけです。

 いちろうさんのように「お前の学校はどうなんだ」「お前は何を解決したんだ」と直接の答えをうかがいたい方もいらっしゃるでしょうが、このブログの趣旨である「自分の目でしか判断できないことはぜひご自分の力で」ということをご理解ください。

 今は学校を通り越して、教育委員会に数多くの苦情や相談が持ちかけられるようになっていますが、結局、一番学校のことをよくわかり、事実認識ができるのは当事者としての保護者・教師・子どもなのです。
 
 「実際はどうなんだ」と気にかかることがこのブログでは大切なポイントです。

 マスコミの論調がすでに追い風になり、学校や教育委員会の方でも情報公開を進めるようになっており、私が求めている環境は整いつつあると思います。

 もちろん、マスコミのミスリードの問題もありますし、ただ情報公開していればいいというわけでもないので、報道などから気が付いたこともコメントしていくつもりです。

 読まれた方がどのような行動をとられるかということが大切なのであって、パソコンに向かって何か特別なことができるわけではないのです。

 さらに付け加えれば、いちろうさんの決まり文句として、私自身の教師としての資質・能力を疑う文言がコメント欄をにぎやかなものにしており、いちろうさんは私の教え子たちの現状を心配されているのですが、その問題については、私一人の力だけでなく、優れた資質・能力をもつ同僚や管理職の努力で対応できております。

 何が問題であるかを指摘できているということは、その問題に気付いているということであり、「気付いているかいないか」だけでも学校の信頼性は左右されるものであるということはご理解いただけると思います。

 教師は、「自分の子どももまともに育てられないのに、どうして他人の子どもが育てられるんだ」とお叱りを受ける宿命もありますが、不思議と、自分の子どもはまともに育たないが、他人の子どもがまともに育っていく姿というのは、数限りなく見ることができるのが教職というものです。当然、「このままでは心配だな」という子どもの姿もたくさん見ることになりますが。

 「自分のことは棚に上げて」「自分自身の資質・能力が足りないくせに」と反発されることは承知のまま、すばらしい成長を遂げる子どもたち・成長できずに苦しんでいた子どもたちをたくさん目にしてきた経験から、勝手気ままに記事を書いていくつもりです。

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教育」カテゴリの記事

コメント

すべて、聞く人次第ということでしょうね。
自浄作用が働くのが一番よいのでしょうが、それが最も難しいのが学校でしょう。

( ´艸`)プププ
そうそう、大事なことを書き忘れた。
酔っ払い公務員の批判を聞いた人たちは、
公務員の社会をただすために頑張るの?

(´,_ゝ`)プッ
新橋辺りで、
公務員が、酔っぱらって上司や職場、
果ては仕事自体を批判している。
そういう姿をよくみますが、
暗象のしていることと、
酔っ払いの役人と、どれだけの差があるの?
文字に残っているだけ、
暗象の方がダメだと思っているよ。(^_^)

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
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  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より