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2009年3月

学級担任のやりがい ふり返り366日【08/3/19】

 中学校の学級担任にとって,人によってはそれこそがやりがいという場合があるかもしれませんが,子どもを公平に見ていくために,見直すことを検討すべき業務内容がいくつか考えられます。

 まず第一には,問題行動への対応

 第二には,不登校生徒への対応

 そして第三に,生徒に任せることができること

 以上の三点について,いずれも学級担任の仕事としてくくっている学校は多いのではないでしょうか。

 もしそうだとすると,そこには問題はないでしょうか。

 第一の,「問題行動」といっても,それは様々なものがあり,その場の指導で一応完結の形がとれるものもあれば,継続して見ていかなければならないこと,定期的に面談を行う必要のあるものなど,すべてを学級担任の仕事してくくるには重すぎたり,むしろ学級担任の仕事としているがゆえに解決が難しくなっているものがあると考えられます。

 不登校生徒への対応も同じです。

 私はたまたま「荒れた状態」から「立ち直った」とよばれるようになった学校に勤務していたのでよくわかるのですが,その過程で,上記の3つの仕事を,学年体制や学校体制で取り組めるようになったことが,「担任をやりたい」と思える教師を増やし,子ども自身も指示まちではなくどんどん動けるようになった様子を見てきました。

 中学校の現場では,「学級担任のなり手がいない」という嘆きを聞くことがあります。

 「ごくせん」のような学級担任にとっての「やりがい」もドラマとしてはいいのでしょうが,実際の現場では,もっと別の「やりがい」を「ふつうの教師」が感じられることが大切でしょう。

 それは,学校経営,組織運営の見直しで改善が可能になるのではないかというのが現場で得た実感です。

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08/3/19 クラス替えの基本情報

 「中学校のクラス替え」ってどうやるんだろう?
 まさか担任が集まっての「トリトリ」では?
 「開かれた学校」とはいっても、クラス替えの方法を公開している学校は少ないかもしれません。

 クラス替えのタイミングも、毎学年行う学校、1年から2年に上がるときだけ行う学校など、バリエーションはさまざまです。

 成績、人間関係、ピアノがひける生徒、リーダーができる生徒など、クラス替えにはさまざまな基本情報を用いるものですが、最近では、学校への要望が多い保護者も考慮する必要がでてきています。

 モンスターまではいかなくても、自分の子どものことだけを考えて担任はめんどうをみてくれていると勘違いしている親が少なくない状況の中、真夜中に電話に応じなければいけなかったり、毎週のように要望を寄せてくる親がクラスに何人かいると、それだけで担任は壊れてしまいます。

 親がすでに子どもの奴隷になっていて、壊れている場合、「目を覚ませ」とつい口にしたくなるものですが、そういう親は自分が壊れていることに全く気づかないか、絶対に気づこうとしない強固な自己暗示がかかっている状態なので、担任はあきらめるしかありません。

 担任の負担を均等にする目的で、そういう保護者の子どもを分散させます。(または、対応ができる教師に集中させます。)

 また、子ども間の相性の良し悪しだけでなく、保護者間の相性まで考えなくてはならない状況もあります。

 生徒の問題行動が発覚したとき、「保護者に来てもらう」ことがさらに新たな問題を生むという状況の中、祖父母による教育が最後の希望となったことがありました。

 指導主事には「クレーム(業界では苦情とは言わずに要望と言いますが)対応」の研修が必ずありますが、初任者研修でも必須の研修になるかもしれません。
 1週間、夜中に毎日2~3時間も話を聞かさせる経験をすると、どんな教材研究も苦には感じなくなります。

生徒による多様な教員評価の手法 ふり返り366日【08/3/16】

A:「校門でタバコを吸っている中学生がいる

B:「教師が注意してやめさせようとしない

 学校選択制が実施されている自治体で,特定の中学校が不人気に陥る主因は,上のAでしょうか,Bでしょうか。
 
 複合的なものでしょうか。

 そもそも,なぜ人目につくところでタバコを吸うのか。

 子どもは,教師の力を測定する技をたくさんもっているものです。

 そして,それを使いこなしています。

 ある学校では,担任がクラスの生徒の問題行動に対応する。

 ある学校では,学年主任が学年の生徒の問題行動に対応する。
 
 ある学校では,生活指導主任が対応する。

 私が知っているある学校では,問題行動を起こしている生徒1人に対し,3~4人の「ふつうの教師」が対応していました。

 子どもにとって,教師は何のために動いているのか。なぜ動かないのか。

 それを見抜くことは容易なことです。

 「学校の人気がなくなるのが嫌だから」か。

 「学年の評判が悪くないのが嫌だから」か。

 「生徒に嫌われたくないから」か。

 「生徒たちに目をつけられたくないから」か。

 荒れた学校ほど,改善の効果が大きいのは,

A:学校を閉じた空間にする。

B:学校を開かれた空間jにする。

 AとBのうちのどちらでしょう。

08/3/16 荒れた学校を経験する効果

 畑山洋太郎著「危険学のすすめ」(講談社)を読んでいて、ある数学の教師が嘆いていたことと結びつく箇所が目にとまりました。

 安全の求め方には、大きく分けて二つの道がある。

 一つは、過去の経験をもとに「うまくいくやり方」を見つけ、それをひたすら愚直に守り続ける道である。

 そしてもう一つは、過去の経験から「まずくなるやり方」を学び、どうすればそれを避けられるか、そのときどきによって行動を柔軟に変えていく道である。

 何か実現したいことがあるとき、人間は理想とされる状態に近づけようと考える。対象の特性を身ながら、「こういうことに気をつけなければならない」「人間の行動はこういうルールでやらなければならない」といった検討を行う。こうしてできあがったのが、成功のための「ノウハウ」、安全のための「マニュアル」である。これらに頼る生き方は、前者の道にあたる。はたして、それで安全は実現できるのか・・・・。

 ある数学の教師は、子どもたちが「解法を覚えよう」とする傾向が高まっていること、そのために応用力が身に付いていかないことを危惧しています。

 これは、進学塾の教育にその原因があることは明らかです。

 数学は、暗記だ。と言いきる講師もいるでしょう。

 こういう発想に縛られた子どもが、進学して全く伸びない

 進学しても、ひたすら暗記に徹すれば、大学進学まではもつかもしれませんが、そこから先が続かない

 こういう子どもの限界に気づかせるのが、定期考査の大きな役割ですが、本質を極めた新しい傾向の問題をつくる能力が、ほとんどの教師には備わっていないのが事実です。

 子どもが試行錯誤によってつかんでいくもの、自分の失敗体験から学んでいくもの、というのが、学校にはどれだけあるのでしょうか。

 極端な話では、教師にとって、荒れて問題行動が山積しているような学校は異動を避けたいと思うのが普通でしょうが、実はその職場は学ぶ機会が豊富にあり、教師も子どもも、そこから得られる知恵や改善への熱意、教育の本質的な意義の発見が将来はかけがえのないものになっていく可能性があります。

 落ち着いた学校しか勤務したことがない教師は、「こうすればうまくいく」ことを繰り返していればよい。

 荒れた学校を経験し、それに正面から立ち向かっていた教師は、「こうすればあの問題は避けられる」ことをたくさん知っている。

 異動というのはさまざまな経験、能力をもつ教師をミックスだけでなく、教師の能力開発を実現する重要な機能ですから、4月から暗い毎日を思い描いている先生方には、「新しい自分」づくりのためにがんばっていただきたいと思います。
 「いい学校」ほど、子どもたちの問題行動は表面化していないのですが、表面下に何がひそんでいるかを見極められる教師にならないと、「文句だけは一人前」と言われるようになってしまいます。

アンケート項目から見えてしまうこと ふり返り366日【08/3/12-2】

 もし,校内の教員研修に対して,「月に1回,2時間程度の研修で,何が身につくのか」という疑問が出されたとしたら,「研修はどうあるべきか」「自分たちに必要な研修は何か」をまじめに考えるきっかけになるでしょう。

 教師の「研修観」をまじめに研究したものがあるかどうかわかりませんが,「研修センター」のような機関がある自治体では,その機関が行っている「アンケート調査項目」そのものを見れば,集計結果を見るよりも早く「研修観」を知ることもできます

 学校評価についてもいえることですが,自己検証のための「アンケート」がどうあるべきか,一度きちんと考えておくことが必要でしょう。

 アンケートがどうあるべきかを考えることは,評価や研修が何のために行われるのかを明確にしていくことにもつながります。

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08/3/12 研修の価値はどこにある?

 教員が研修を「受けてよかった」という基準はどこにあるのでしょう。

 「ビジネス発想源」の著者は、「自己投資したかいがあった」と感謝してくる受講者に「実践しなければ意味がない」という厳しい言葉を投げかける人物ですが、この気持ちはよくわかります。

 教育委員会にも、「すぐに役立つ研修を」という要望がよく寄せられますが、子どもへの教育と全く同じで、すぐに効果がでるようなものにはあまり意味はなく、真の力というのは本人が試行錯誤して初めて身に付くものです。

 私が考える教員研修の意義は、自分が取り組むべき課題がたくさん見つかること、それに尽きます。
 研修が勉強ではなくて、その場から離れたときから勉強が始まる。すぐに書店に行くとか、新しい指導案を構想するとか、研修後のアクションが教員の質の向上を左右するように思えます。
 免許更新制が始まると、そういう意味では、教師の指導力格差はますます広がるでしょう。

かばう相手が違うのでは? ふり返り366日【08/3/12】

 社会的にも生物学的にも,最も弱い立場にある人たちが,「傷つけられる」対象になりやすく,守られなければならい人ほど,「攻撃される」対象になる。

 場合によっては,「傷つけられる」方よりも「傷つけた」方へ,「傷つけないようにする」配慮がなされたりする
 「守られなかった」人よりも,「攻撃した」人の方を「守ろう」と配慮されたりする

 そのような姿勢が100%間違っていると言いたい訳ではありません。

 「罪を憎んで人を憎まず」の精神は大切でしょう。

 しかし,「罪を憎む」精神がなければ,問題は必ず繰り返されるでしょう。

 このような問題を引き起こした人たちすべてが通過している場所が,「学校」です。

 様々なケースで,「学校教育」が批判の対象になっていますが,それをきちんと受け止めることは最低限求められていることです。

 もし学校が=教師が,そのような問題を助長するような機能を果たしてきたとしたら・・・。

 すぐにでも改善すべきことでしょう。

 ニュースを先に紹介して以上のような話をするよりも,この話を先にして,どんなニュースがこれに当てはまっているかを聞いた方が,思考に広がりができるでしょう。

 ニュースに関心をもっているかどうか,そのニュースにどのような関心の持ち方をしているかどうかも,わかってしまいます。

08/3/12 スーパー高齢者の幸福とは?

 今年97歳になる私の祖母は高齢者向けのスポーツクラブに通っているのですが、何時から何時までしか運動してはいけないとか、すぐ休めとか、他の人が70歳代で会話があわないとか、いろいろ不満を言っています。

 100歳近くの人を70代の子どもが介護する時代ですから、一言で「高齢者」という呼び方をするのが不適切な時代になったようです。

 祖母のようなスーパー高齢者は、特別扱いされることを嫌がります。

 しかし、スポーツクラブの方も、いつ倒れるかわからない老人がいつまでも動いていたら気が気でないのでしょう。

 シルバー人材センターの方が、最高の幸福は「ピンピンコロリ」だとおっしゃっていましたが、周囲の人はそれどころではありません。

 少子化も問題でしょうが、長寿大国日本のハイパー高齢化への対応は大問題です。

 教育現場で70代の方が教鞭をとっていても、何の不思議もないような時代だと思うのですが・・・。

教師用語の「成り立つ」を翻訳すると・・・ ふり返り366日【08/3/11】

 日本の社会の特質なのか,学校だけに見られる現象なのか,「言霊の国・日本」では,「スローガンづくり」にとても熱心であるにもかかわらず,スローガンを決めたらもうそれがすんでしまっているような気になってしまう(本来の目標としていることについて具体的には何もしない)ことがよく見かけられます。

 廊下に,「挨拶をしっかりしよう」という貼紙がある学校は,たいてい,挨拶がしっかりできない生徒が多い。

 「時間を守ろう」という貼紙があれば,時間にルーズであることがわかる。

 どんな学校かを知るための定番の見方です。

 教育課程しかり。

 教育課程編成の場面でほとんどの教師が参画していない学校の場合は,まず自校の教育課程がどんなものであるかを教員に周知させなければなりませんが,それをしなくても今までは「成り立ってしまう」ことが普通でした。

 教師が「成り立つ」という言葉を使うときは,たいてい「成り立ってない」と考えて間違いありません。

08/3/11 リサイクルの矛盾

 会議の場でのみ、「生徒のためを思ってこそ」という発言をする人がいます。

 日常的には生徒指導にほとんど関与していないのに、自分の考えを通そうとするときだけ、「生徒」を利用する
 教育現場では、「子ども第一主義」という言葉はある意味で「切り札」であり、自分が「よい教師である」という幻想を抱ける便利な道具になっています。

 一方、環境問題を考えるとき、「リサイクル」というのは「環境に配慮した活動」の一つであり、企業であれば「社会的責任を果たしている」というPR要素です。

 しかし、たとえばペットボトルを再生利用して同じものをつくろうとすると、3.5倍の石油が必要になるなど、矛盾を抱えていることが多い。集めているが、結局はほとんど焼却しているものに、食品トレイがあるそうです。

 「言霊」の国である日本は、プラスの価値観をまとっている言葉を使うだけで、何かしらのことが実現できたりためになることにかかわっている錯覚に陥ります

 「魔法の言葉」で生徒を立ち直らせたこともありましたが、結局最後は本人の自覚と継続的な行動が決め手です。

 「学力向上フロンティアスクール」しかり、「人権教育推進校」しかり。

 「報告書を書くのが面倒くさいから、いっさい引きうけたくない」という学校もありましたが、経営力がある校長がいると、こういう肩書きを「てこ」として、学校を変えることも可能になります。
 しかし、言葉だけでやっている気になることのないよう、今、自分のとっている「行動」をきちんと見つめ、短いスパンの「ふり返り」を繰り返すことが大事です。

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現役教師に求められる「さしすせそ」 ふり返り366日【08/3/10】

 裁量
 使命感
 凄み
 責任感
 創造力
 

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08/3/10
教育の3S

 アメリカの会議では、3“S”=立ち上がり、言うべきことを言い、そして座る。それがルールだそうです。
 

Stand up, Say what you say, and Sit down

 日本の会議では、
 
Silence, Smile, and Sleep

 ・・・こんな風景が一般的でしょうね。
 私が経験したことがある職員会議は、
 
Shout, Say NO, Stand(耐える)

 最近は会議の無駄を減らすことが難しいので、目が覚めるような発言をするように心がけています。
 生徒に訴えたいことと同じです。
 
Speed, Secure, Successful

ネットから遠ざかる=引きこもり?

 ある人気ブロガー(現役教師)が記事の更新をストップしてから2ヶ月近くが過ぎようとしていますが,最後の記事の末尾には,「もうしばらく引きこもります」という一言がありました。

 その一言が,「携帯依存症」「ネット依存症」の一側面に気付かせてくれました。

 その教師はリアルの現場で起こっていることを記事にしており,それが引き起こすであろう問題性を何度か指摘したことがあったのですが,そのようなネットでの情報発信をしないことが「引きこもり」になるという認識は,「一日に100件以上のメール受信・発信を繰り返す」子ども理解及び問題解決への糸口になりました。

 普通の保護者の立場からすると,たとえば問題行動への対応に保護者や同僚たちと連携をとって動いてくれるのが「頼もしい教師」であり,反対に,問題の内容を自宅でネットに流している教師というのは,どちらかと言えば「引きこもり型」の人に近い印象があります。

 しかし,ネットに流すのをやめることを本人は「引きこもり」と表現している。

 ネット社会というのは,価値観の逆転も容易に引き起こす,リスク管理が欠かせない場となっているという印象も強まりました。

 「財団法人 コンピュータ教育開発センター」のホームページに,「ネット社会の歩き方」という学習コンテンツがあります。

 教師が授業等で活用できるようになっていますが,生徒が個別に学ぶこともできます。

 各学校で家庭に紹介してほしいコンテンツの一つです。

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学習ツールが変える学校教育 ~電子教科書の登場へ~

 授業中に,生徒が電子手帳で用語の意味をチェックしたり,関連事項を調べたりしている様子を目にすることが増えてきました。

 学校のルールとしては,学習に必要のないものは持参しないというのが一般的なので,その方針からは,電子手帳を持ってきてはいけない,とは言えないわけで,生徒たちはその便利さが非常によくわかっており,電子手帳を辞書がわりとして授業で利用するような生徒は今後も増えていくことでしょう。

 DSを活用した英語の授業など,ノートや教科書といった紙の媒体だけではその効果が十分に期待できない教科については,特にこのような「教育機器」の活用法が研究されていくことになると思います。

 学校教育における「教育機器利用」というのは,これまで,学校側がどのような機器を用意するかという発想だったのが,これからは,子どもが持っているものをどう活用するか,という新しい視点が加わることになります。

 今後は,最近流行の小型ノートパソコンと電子辞書が合体したような機種が登場するのではないでしょうか。

 ネットに接続ということになると,携帯電話と同じような問題がでてきますから,校内だけの通信機能を使って,授業変更の連絡やプリントの配布,そしてテストの実施なども将来は可能になるかもしれません。

 「電子教科書」の登場も,遠い未来ではないでしょう。

 知識を問うような単純な小テストや,選択式で答えるような定期考査などは,通信で容易に実施でき,得点の集計や個人の成績の把握など,「超短時間」で教師がこなすことができるようになります。

 不登校児童・生徒の自宅学習が可能になるほか,将来的には「学校」の存在や機能にすら変革がせまられることになるかもしれません。

 そういうときのためにも,今あること,やっていることの教育的意義をはっきり自覚して実践していくことが重要になります。

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フィールドワークの教育効果

 「知の技法(東京大学教養学部「基礎演習」テキスト)」(東京大学出版会)第Ⅱ部「認識の技術」の最初の項目でこのフィールドワークが紹介されています(執筆担当:中村雄祐)。

 冒頭で,フィールドワークの魅力について,以下のように語られています。
 

 何気ないささやかな差異の認識から出発して,それが,最終的には,世界史的な文脈を問うことにつながり,さらには,研究主体の文化的立場そのものすら揺らいでくるほどの衝撃になる。フィールドワークは,その意味で危険な,驚くべき出会いの場なのです。


 フィールドワークを特に重要な研究手法としている学問には,たとえば文化人類学があります。

 文化人類学という学問の世界では,たとえば研究対象としている地域に比較的長期間滞在し,衣食住をはじめとした様々な生活の様子,地域の文化などを調査することになります。
 そういう意味では,マラソンのように,「知の筋力」だけではなく,「知の持久力」も求められるのがフィールドワークです。

 フィールドワークは,図書館などでの調査と異なって,たとえば自然条件や政治状況の変化などによって,ときとして思い通りに調査を進められない事態に陥ることが予想されます。
 そのような場合に臨機応変に対応できる力も求められるのがフィールドワークという手法の特質です。 

 フィールドワークによって意義のある研究成果を生み出すために,以下のような専門の研究者の言葉も胸にとどめておく必要があるでしょう。
 

実際に,(フィールドワークで)驚くためにはある程度の知識,経験も必要です。最初のうちは「なんか妙だな?」とちょっと引っかかる程度のことだったのが,いつのまにか恐ろしく手強い問題に化けていたり,ということもあります。そうなると,問題自体,もはやフィールドワークの枠内で論じ切れるものでもなくなり,フィールドワークが終わった後も研究者にずっとついてまわることになるのです。


 全くの無の状態からフィールドワークを始めることはまずありません。

 学校教育での「座学」の意義がよくわかる話でもあります。

 そして,「基礎」と「基本」の違いを説明できるエピソードにもなります。

 フィールドワークという研究方法は,学問(学者)の世界だけではなく,小学校や中学校という教育現場での実践でも,非常に高い学習効果が期待できるものです。
 
 地図をもって知らないまちを歩く

 その準備として,まちの情報をのせた資料や,そのまちの地図から読み取ることができる情報をあらかじめインプットし,フィールドワークを実施する目的・問題意識をしっかりもつ。

 このときに,そのまちの特殊性や課題を資料や地図から読み取れる技能がなければ,そもそもフィールドワークが「行き当たりばったり」のものになり,可能性としてはかなり低い「現場で課題に気付く」ことにかけるしかなくなってしまいます。

 ただ地図をもって歩くことが「フィールドワーク」ではありません。

 「基礎学力」には,地図から情報を読み取ること,地図を使って目的地にたどりつけることなどの学習技能が含まれます。

 基礎がなければフィールドワークの「基本」的な学習が成立しません。

 学問一般にもあてはまる問題構成の主要な要素としては,

1 「問い」があること。

2 研究対象がはっきりしていること。
   ここでは,地域的特色,別の言葉で言えば特異な固有性をもつ対象と,「問い」の一般性がどう結び付けられるかどうかが研究の成否をかぎを握っています。

3 関連対象を選択すること。
   どのような文脈の中で,研究対象を扱うか,特異な固有性を際立たせるために,あるいは,一般性も発見していくために,対象をさまざまなものと関連させていくことが求められます。

4 問題意識を反映した方法論をもつこと。
   研究成果を形にするときに,ただの主観的な記述ではなく,一般化が可能な方向に開いていく方法が,「知の行為」の基本となります。そのためにも,「自らを知る」ことも大切な作業です。

5 双方向的な「出会い」を意識する「主体」を確立すること。

 フィールドワークによる筋力強化を図っていく上で,このような様々なメニューを想定していくことで,「フィールドワークのためのフィールドワーク」「研究のための研究」に陥らずにすみます。

 そして,その手法は学校教育でフィールドワークを実施するときも同じです。

 フィールドワークは,研究の手法としてだけでなく,教育現場でそれを活用すると,その他の教育的な目的を果たすための手段にもなります

 たとえば,グループで調査するとき。

 聞き取り調査を特定の地域の住民等に対して行うとき。

 その二つを想定しただけでも,「教育的な目的」が何かは明らかです。

 私が実感しているフィールドワークの魅力には,「想定外の発見」が多いということもあります。具体的には別の機会でご紹介したいと思います。

 教師にとってのフィールドワークは,子どもに対する学習指導という側面ではなく,「教育とは何か」を教師として問う上で,つまり,自らの教養や教育への使命感を高めていく上での効果も期待できます。

 私の場合は,行政の立場で多くの学校を訪問できたことは,まさに学校という場での「フィールドワークの機会」をたくさん得たことにもなり,勉強になりました。

 教育現場を主なフィールドにしている教師ですが,実は自分がかかわっている現場と,同じ校種の学校ですら,実際に入ってみると全然「同じよう」ではないことに気付きます。

 ましてや異なる校種では,ほとんど「異文化体験」に近い感覚を味わうことすらあるのです。

 異なる校種における授業の実態をふまえた児童・生徒理解というものは,免許更新講習でも大きなテーマにしてもらいたいくらいです。

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全公立での全国学力調査実施と公務員のボーナスカット

[学力テスト] ブログ村キーワード

 全国学力調査を「学テ」と表記する新聞社は,バイアスがかかっている前提で記事を公開しているようです。

 内容は,一応のバランスに配慮したふり,という程度で,「税金の無駄遣い」という印象を根付かせたい魂胆が見え見えです。

 税金の無駄遣いをなくす最良の方法は,「予算の獲得」で「決算」がほぼ決定してしまうような現行の制度を見直して,いかに節約して「余り」を生み出していくか,そしてその「余り」で少しでも「借金を減らしていく」という,家計では当たり前に行われていることを国でも実施できるようにすることです。

 しかし,こういう新しいシステム作りにはさらに新しい予算が必要だなんていっているうちに,いつまでたっても「予算をとったら(後でどんなに無駄だとわかっていても,次の予算が減らされないように)必ず使い切る」体質は変わらず,国の借金は減っていかないでしょう。

 明るい兆しとしては,公務員のボーナスが減額されようとしていますが,これを法改正か特別法の制定で実施できるのであれば,「予算額の見直し」も可能になるはずです。

 公務員のボーナスカットで生まれる財源がどのくらいになるか,計算した人はいるのでしょうか。

 さて,「私立の学校の参加が減っていることが不要の証拠」という勘違い系のコメントが占めになっているあたり,記者自身がよくわかっていないせいで,逆にその意図が明確になってしまっています。

 教師たちのうちで,まともに「学校予算の削減策」を考えている人は,まずいないでしょう。

 休日,出勤してエアコンをつけて仕事をするのに,何の抵抗もない人には,まず無理な注文です。

 以前にも述べましたが,全国学力調査が「税金無駄遣い」だからといって反対する教師たちは,自分が目的を理解せず,求められる仕事をしないことで本当に「無駄遣い」にできてしまう存在です。

 全国学力調査によって明らかになるのは,競争原理の効果ではなくて,一部の教師の「手抜き」原理,「インチキ」原理の実態なのです。

 だから結果が公表されず,「手抜き」や「インチキ」がばれないのが一番なのです。

 そういう教師たちの不満に火をつけるのに仲間うちでよく使う手法は,「全国学力調査の実施と公務員のボーナスカット」をセットで扱うことです。

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教師の裏「時間活用術」としての「調べ学習」 ふり返り366日【08/3/7】

 「調べ学習」といってもその内容や質についてはピンからキリまであり,

 「そのような調べ学習の無駄を防ぐために,カリキュラムというものがある

とも言えるわけなので,実際の効果を考えてそれを実施させるとなると,学習そのものが個別に行われるだけに,教師の側にとってはかなりの工夫が求められます

 教育効果は無視して,ただ「主体的に子どもが学習しているように見えることが重要だ」という信念で固まっている人にとっては,「やっとけ」でその目的は果たせるわけなので,こんなに楽な学習指導はありません。

 小学校などではときどき,子どもが調べたものをそのまま(指導が入っていない状態で)教室などに掲示されている様子をみると,そのような教師の姿勢がよくわかります。

 教師の側が別の仕事をするための時間稼ぎとしての「調べ学習」になっていないかどうか,チェックする機能が必要です。

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08/3/7 「調べ学習」は「写本」の時間のこと?

 小学校の学習指導で、教科書や資料集などを使って読む活動が、「調べ学習」と呼ばれることを知ってびっくりしたことがありました。

 「調べる」という言葉は、「地図帳で国の位置を調べる」「辞書で単語の意味を調べる」などいろいろな用法がありますが、教科書を読んで考えたりまとめたりする学習を「調べ学習」と呼ぶのはおそらく小学校だけです。

 「調べる」というと何だか主体的に学ぶニュアンスがあるので教師が使いたがるのはわかりますが、答えがそこに書いてあることをノートに写す作業を中学校や高校では「調べる」活動とはいいません

 小学校はカリキュラムがスカスカであるために、やたらと時間を「調べる」活動に費やす教師がいます。

 その間にいろいろな事務ができるからでしょう。

 パソコンのような単純な「コピー」「貼り付け」作業ではないので、教育効果が全くないとは言いませんが、その時間を「読む」ことに費やせば、子どもは何倍もの情報と接するチャンスに恵まれます。重くなる欠点はありますが、小学校の教科書こそ分量を増やすべきで、背表紙の字が小さくてわかりにくいような教科書をまずは何とかしてほしい。

 「ビジネス発想源」(弘中勝)にこんなフレーズがありました。
 「郷土知は郷土愛のもとなり
 小学校の校長をしていた郷土史家の言葉だそうです。

 中学校では、「身近な地域の歴史」を扱うことが現行の学習指導要領では定められています。(汎用版を作らねばならない教科書会社泣かせのきまりです)
 自治体ごとに、この内容をおさめた副読本は作られているでしょうか。「地域の歴史的話題」について、義務教育の小学校と中学校それぞれに適した教材を適量学習できるよう、編集されているでしょうか。
 日本のことはもちろんですが地域のことを知らなすぎることが、「社会に生きる実感」をより持てないようにしている原因である気がします。「その方が都合がいい」という考えの人がいるので、なかなか授業は変わらないでしょうが。

小中連携に期待したい施策 ふり返り366日【08/3/6-2】

 小学校の教師にしろ,中学校の教師にしろ,自分の小中学生時代を振り返ってみれば,どのような年齢の子どもの「理解」が難しいか,容易に想像がつくものでしょう。

 だいたい,指導で困難を極める子どものパターンは,「どうしてこんなに悩んでいる自分の気持ちがわかってくれないのか!」と相手の立場になって想像することができない心理状態にあるのが原因です。

 そして,「わかってあげているつもりになってくれている大人」との付き合いが長ければ長いほど,その後で「本当の自分の姿」が見えるようになるまでに時間がかかるものです。

 小中一貫の取り組みをしているような学校では,できるだけ早い時期に,「本当の自分」と向き合わせることが可能になるのでしょうが,表面上の問題の発生時期が早まることになるので,当初はそんなにスムーズにはいかないでしょう

 ですが,ぜひとも行ってほしい施策です。

 小中一貫校での実のある研究が進めば,将来的には,小学校高学年は現在の中学校と同じような「学年・教科組織」に移行していくことになるでしょう。

 そして,そうすることが,学力向上だけでなく,生活指導上でもかなり大きな効果が上げられることが期待できます。

 今,行政の現場では,指導主事は小学校・中学校籍がごっちゃになって指導事務を行っていますから,中学校側の主導権が強いところで,どんどん進めていってほしいものです。

 もしそのような取り組みが難しいのであれば,教員免許の区分をしっかり踏まえて,小学校と中学校・高校で指導行政を分けた方がよほど効果が高いのでしょうが,それでは今までどおり,小学校での負の遺産を返しきれないで終わってしまうことになるのが痛いところです。

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08/3/6 偽装「心の病」にどう対処するか

昔から「保健室いりびたり症候群」というものがありました。
 カウンセラー的な資質が高い養護教諭がいると、とにかく休み時間ごとに話を聞いてもらいたくてやってくる生徒が出てくる。

 養護教諭の中には「物理的な病気・けがの人優先」として、ただぶらぶらやってくる生徒を排除する人もいます(あとは保健室にカギをかけて職員室にいるか)が、実際に、保健室が不登校の生徒の居場所になっている学校が多いのではないでしょうか
 スクールカウンセラーが来ても、保健室で話をするという学校もあります。

 養護教諭が親切?だと、「嫌いな授業」があるときに、悩みを打ち明けにくる。

 「心の病」偽装という強力な技です。

 カウンセリングを受けていることが周知されている生徒には、ふつう、教師は「強い指導」を行いません。

 中学生で髪染め、ピアス、極端なミニスカートなどは指導の対象でしょうが、「心の病」を抱えている生徒には、「不登校にならないで来ているだけで十分である」という感覚になってしまい、事実上、黙認の態度を取りがちです。

 この指導のぶれを生徒は敏感に感じ取って、「私は今、苦しんでいる」ことにし、学校をときどき休みながら、好き勝手なことを繰り返す。

 親も、問題行動への指導に対して、「子どもを不登校にさせる気ですか」と逆ギレして反省しようとしない。 
学校はどう対処したらよいのでしょうか。
 問題行動といった調査と同じように統計をとられるので、不登校=悪という固定観念をもっているかもしれませんが、まず、それを捨てる。

 不登校はいけないことではない。登校が、必ずしも本人にとって望ましいものではない、ということを共通認識することが必要です。そうすれば、「偽装」する意味がなくなります。

「私的公」殲滅に向けて ふり返り366日【08/3/6-1】

 行政という場所は,比較的短い期間に人間が入れ替わる世界ですね。

 仕事が人間を変えてしまうという面も強いので,よく知っている人間に仕事のことで批判をするのはやりにくいものです。
 
 もう少し経つと,顔見知りも減ってくると思うので,そろそろ発言の準備を始めようと思います。

 「私共(わたくしども)空間」を「」の場から排除する動きが,大きな流れになっていますが,まだまだこれからです。

 「私的公」殲滅が大きな課題です。

 すでに観点別学習状況の評価の見直しについては繰り返し述べていますが,もっと他にも課題はありますね。

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08/3/6 行政の人材不足の深刻化と法改正

 行政に対する批判を専門にしている方々がいらっしゃいます。
 行政経験がある私にも、内部で批判したかったことは山ほどありました。

 ただ、行政現場は「責任範囲」が非常にせまい。
 末端になればなるほどせまく、係長や課長といっても、活動範囲は限定されています。
 基本的には、自分の責任のある範囲のことをしっかりやる。
 人事の専門は人事の専門として、教師の採用とか処分,異動のことばかりやっている。
 経理は経理。経営は経営。

 それぞれが担当の責任のもとで学校に調査を出す。それがなければ仕事ができない。
 しかし現場(副校長)は調査の山の処理に追われる(校長と副校長でちゃんと分担すればよいがほとんど副校長まかせになるケースが多い)。

 数も少なく規模も小さいですが私の提案で実現してもらえた改革もありました。
 しかし、なかなか行政と現場の乖離は解消されません。

 文科省のキャリアが現場を見ているようですが、教員から言えばこうした「事務」の人が教育の根本を支えているとは想像もつかないことです。

 国と地方ではレベルも異なっているかもしれませんが、地方の行政の大きな問題は、自治体内では異動があっても、その役所からは出ないこと

 外の論理にふれる機会がない。だから問題が見えにくいことが問題なのです。

 たまに陳情にくる人がいても、話を聞いてあげて、「検討します」と言っておけば、その担当者の任務は終わり。
 
 教育行政の具体的な問題は、教育の専門家でもなければ現場も知らない人が、過去を踏襲しながら教育以外の専門家のいうことをつまみ上げて改革に着手していること
 
 教育行政に入った教育の専門家である指導主事が言うべきことを言わないこと

 改革を軌道に乗せる具体的な戦略を現場が発信する能力がないこと

 改革への反対の声を真に受け、「現場を信じている」と言って心中しようとしているトップがいること。

 一番大きな問題は、行政の方には失礼かもしれませんが、組織内でも気付いていらっしゃる人が多いと思うのであえて言うと、「人材がいなくなっていること」。

 行政というのは、これが究極的に優れたものになってしまうと、「議会」が不要のものになる、という性質があります。立法も「はい、その通り、いい法律案ですね、通しましょう」ばっかりだと、審議する必要がない。
 国会議員が地元のためだけに求めるようなものではなく、今、国民に必要なものを自らとらえ、政策を立案し、制度化して、実施する。究極の政府というのはそういうものかもしれません。国会議員の数は、半分以下でも全然問題ない。
 逆に考えると「いいかげんな行政」というのが「議会」の存在価値を高める条件になっているわけですが(「議員」の質についてはここでは脇に置いておき)、その行政の人材の質の低下が激しい。

 なお、それは、次のようなデータをもとにして言っているわけではありません。
 ここのところ、東大法学部の上位成績者が、官僚を目指さず、もっと高い収入が得られる職を選ぶようになっている。どちらかというと成績の良くない者が官僚を目指す・・・・。天下りがなくなると、官僚になるメリットはない・・・。「国家」のことなどより、「自分の生活」を楽しみたい・・・・。

 改正教育基本法などで「個人主義」から「公共の精神」へのシフトが見られるのは、国家による統制を強めようとすることではなくて、統制ができるような人材が国家機関からいなくなりつつあるという危惧があるからではないか。人材確保というのは、あらゆる組織でつねに重要な関心事ですが、最も危機感が高いのは霞ヶ関なのではないか。教師の質の確保といったレベルではないかもしれない

 私のような教員が知り得る官僚の範囲は限られているのですが、「これで大丈夫なのか」と思う場面が過去にいくつかありました。ニュースにも大勢登場するようになっています。

 現場にある身としては人ごとのようになってしまいましたが、国民の立場で言うと、人ごとではない。
 政治家は選挙で変わるが、官僚は2~3年ごとに順送りでポストにつく人が入れ替わっている。
 昔、ゆとりスポークスマンがテレビに露出していましたが、ああいう官僚が増えてもいいのかもしれません。
 「この人には任せられない」という世論が行政にはたらいてもいいのでは・・・?

伸びるリーダーと勘違いのリーダー ふり返り366日【08/3/5】

 成功しないこと,失敗することがわかっていて実践させることを繰り返していると,子どもによって,様々な「失敗の受け止め方」を見て取ることができます。

 小学校のころは,人よりたいへんな仕事をしたときに,「ここはだめ」「あそこもだめ」などとわざわざモチベーションを下げることを教師は言わないことが多いのでしょう。

 気の毒なことに,よくないリーダーの資質が育ってしまっている子どもがたくさんいます。

 「褒めて伸ばす」ことを信条にしている教師の中には,残念なことですが,問題点そのものが見えていない人がいます。

 そういう教師は,褒めることに嫌味がでません演技ではないわけですから,子どもの受けはよいのです。

 しかし残念ながら,課題を認識できない子どもを育てると,「ただ突っ走るだけ」のリーダーにしてしまいます

 同年代がたくさんいる教師の多くは,自分がリーダーになることなく,リーダーの指導をすることになるので,教師も気の毒といえば気の毒なものです。

 子どもの変容をしっかりと見て,どこまで褒めていいのか,どこから以上は課題の認識を優先させるのか,そういう見極めも難しいものです。

 甘い思い出も大事かもしれませんが,苦い思い出の方が,大きな実を結ぶ芽になる場合もあるということだけは知っておく必要があるでしょう。

 自分自身の成長の原動力がどちらにあるのかを選んでもらい,その違いによって教師をグループに分けるとどんな傾向がわかるのでしょうか。

 勘違いのリーダーおだてておかないと害を発するので始末に終えないのです。
 
 伸びるリーダーには何でも好きなことが言えるので,組織もどんどん伸びていきます。

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08/3/5 もう一度チャンスを・・・

 大きな失敗、ルール違反などを犯した後、最近はすぐにあきらめて投げ出してしまう生徒も多いかもしれませんが、学級委員や委員長などはある程度の責任感をもっている子どもの場合は、「もう一度チャンスをください」と言ってくる場合があります。

 これに対して、「教育的配慮」と称して生徒を許してあげる教師は多く、生徒が行動した結果、また同じ過ちを繰り返す・・・教育とはそんなことの繰り返しだというスタンスの人が多いかもしれませんが、私は原因によってはその失敗を許しませんでした。

 正確に言えば、失敗は許すのですが、「再チャレンジ」の機会を容易に与えることはしませんでした。他の課題を与えて完璧にクリアしたことを確認した上で、望むようなら同じ課題に取り組ませる。

 弘中勝著「アイデアひらめくビジネス発想源」(技術評論社)を読んでいたら、その原則と全く同じ人材育成スタンスが記されてありました。

 「社会人相手だからできるのだろう」と思われるかもしれませんが、学校現場の「人材育成」を見ていると首をかしげたくなる指導が非常に多くあり、企業などにその教育の責務を先送りしてしまっているような気がしています。

 教育してくれる企業ならまだいいのですが、競争にさらされてそれどころではないところでは、結局、「学生時代に身に付かなかったこと」が原因で豊かな社会人生活を手にすることができない子どもたちを送り出しているのではないか・・・。

 定期的にクラス会(学年単位や学級単位、部活動単位などさまざまありますが)をもってくれる教え子たちがよく口にするのが、「あのころは厳しいと思ったけど、そのおかげで今がある」という言葉です。

 生活指導でも学習指導でも「失敗」が「失敗」として教師の責任問題になることがほとんどない学校という職場なら「競争原理排除」とうたっていてもかまわないのでしょうが、教師にならない子どもたちのためになっているのか・・・。

解答がついていない問題集 ふり返り366日【08/3/4】

 教師というのは,日常的な授業スタイルや「強い責任感」による影響からか,「聞き役に徹する」ような生活指導を苦手としている人が多いでしょう。

 何か,アドバイスをしたくなってしまう

 カウンセリングの手法では,「私はあなたの言うことを受け止めていますよ」というサインを送るさまざまな動きがありますが,具体的な言葉によるアドバイスというのを,教師という職業の人間はしなければいけないような脅迫観念にとらわれているような気がします。

 それは,子どもが「アドバイス」「悩みの内容についての解決法」を知りたがっていることとも関係があるでしょう。

 そして,そういうアドバイスができない教師が,「相談してもしかたがない教師」と見られてしまうことに恐怖感を覚えてしまう。

 「教師失格」というキツイ言葉を面と向かって平気で発する子どももいます。

 では,教師に占い師のようなスキルが必要なのでしょうか。

 現行の学習指導要領の理念に「自ら学び,自ら考え,主体的に行動し・・・」というものがありますが,「子どもは教師(大人,専門家)から,常によりよいことを教えてもらえる権利がある」という意識を強くもっている子どもには,「課題解決力の獲得」というイメージをもたせることも難しいのでしょうか。
 
 こういうとき,学級や学校で問題が多く発生する環境にあると,「自ら~」の意味を実感することができる実践を体験させやすいのですが・・・。

 また,皮肉なことに,「教師が頼りない」方が,子どもに力がつく場合もあり・・・。

 でもたしかに,「このレベルでは大人の出番」という「臨界点」については,自分自身も教えた子どもたちを前にしても経験がない教師には,見極めることは困難でしょう。

 人生は解答がついていない問題集のようなもの。

 大人にも,子どもにも,「失敗ができるゆとり」がある方が,成長もしやすくなるような気がします。

 そういえば,教科書というのは解答がついていない問題集の役割も持っていたように記憶しています。

 こういうとき,「教科書ガイド」が果たしている役割というのは・・・?

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08/3/4 教師は「話し相手」になるか?

カウンセリングのクライアントが「相談するときの不安」として、以下のようなものが「カウンセリング革命」に紹介されていました。
 学校での子どもたちも教師や友達に対して、同じようなことを思っているかもしれません。
 自分にもあてはまりそうなものが多く、反省しきりです。
・相談内容をわかってくれるか不安
・バカにされる
・相談者に迷惑をかける
・甘えるなと怒られそう
・弱いと思われたくない
・評価が悪くなる
・相談する元気がない
・うまくしゃべれない
・聞いてもらえない
・明るい人だとついていけない、わかってもらえそうもない
・相談しても仕方がない
・うわさ話にされたくない
・自分が弱い人間だと思いたくない
・くよくよするなと一喝されそう
・自分の汚点をさらけだすのがこわい
・うそを言っていると思われる
・忙しいからと断られそう

 相談者=不安に思う人(不安のプログラムがはたらいている人)=悪い方ばかりに考えるひとであることは、聞き手だけでなく相談者本人もわかっているのですが、こういう人に「性格を変えればよくなる」と言っても逆効果なわけで、相手を「安心ゾーン」に入れてあげることがまず大切だということです。
 「安心ゾーン」とは?

WBC・「何のために」戦う野球が「本物」なのか?

 WBCの決戦を終えて,アメリカや韓国のメディア,ネット上でどのような評価がなされているかの紹介が「ココログニュース」などで行われています。

 短期決戦では,単に成績が良い,調子が良い選手を集めたというだけでは,いい結果を生むことができるとは限りません。可能性は高くなるのでしょうが,まさにその試合で力を出さないと勝てないわけです。

 日本対韓国戦も,一つ一つのプレーが見る側をも極度に緊張させる名勝負で,最終的な勝敗の行方も紙一重の世界だったと思います。

 アメリカの報道にあった「本物の野球」という表現が,最高の褒め言葉だと思いますが,「自分や家族のために戦う野球」ではなく,「チームのために戦う野球」という「野球道」が,アメリカに根付くかどうかは疑問ですね。

 日本代表の勝利報告会の様子が中継されていました。

 選手たちに「話術」や「教育力」までを求めるのは酷かもしれませんが,やはり教科書にも登場している王さんのコメントはすばらしいものでした。
 
 野球選手が野球だけで魅せることができるのは,長い人生の中ではわずかな期間です。

 「野球道」の素晴らしさはプレーで魅せるのが本道だとしても,古田のような解説,野村監督のようなマスコミウケするぼやきなど,「話術」で楽しませてくれる現役選手が登場してくれると,もっとメジャーなスポーツになっていくような気がします。

表情を「読む」ゆとりから「つくる」ゆとりへ ふり返り366日【08/3/2-3】

 中学生を叱ってくれる高校の先生とお話をすると,よく中学生は「かわいい」「素直」という表現が使われます。
 
 叱られた経験がないのか無反応無表情から始まったあの小学校7年生も,立派な高校生になってくれたことがわかるエピソードです。

 小学生が中学校に進学したときの最初に出会うギャップは先生の「表情」ではないかと思います。

 3年間たつと言葉ではなく表情を読んで行動できるようになるのですが,読むゆとりができるようになると,次第に「つくる」ゆとりもでてくるようになります。

 そのあたりを高校の先生方は強く感じられるようになり,「中学生は素直」という表現になっているような気がします。

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08/3/2
授業で使いたい「5つの表情」

 常にたくさんの子どもたちに囲まれている教師にとって、自分がどのような「メッセージ」を発信しているかということは、あまり関心がないというか、「そんなことにかまっていられない」と思えることかもしれません。

 カウンセリングのように一対一で話を聞く場合、カウンセラーは「意識しようとしまいと、その表情、言葉、姿勢、態度などでメッセージを出して」いると言われていますが、多くの教師はその姿をいつも露出しているため、一定のパターンを認識され、これが生徒からの固定的なイメージに結びついているということがあります。

 内職ができる授業とできない授業内職をする授業としない授業など、生徒は何で判断し、行動しているのか。

 多くの学校はこのような分析を独自に行うことをしないのが普通なので、「教師が変わる」「教師を変える」ことが難しい。

 荒れた学校で、個別面接期間を設け、生徒の希望ではなく学校が決めた時間、決めた教師(そういうことがないと、3年間で一度も会話をしたことがない、という教師と生徒との関係が容易に生じてしまいますと短時間ですが会話をするという取り組みをしたことがありました。

 生徒の多くは、「先生は生徒の話をちゃんと聞いてくれるんだな(当たり前のことなのですが・・・)」とか「あの先生は話してみると思っていた印象と違っていたな」という感想を持つようになります。

 1対40でカウンセリングマインドを発揮するのはなかなか難しいですが、1対1の面接のような場面では、教師の名誉挽回?のチャンスが生まれます。

 「カウンセリング革命」では、
①興味津々
②驚き
③疑問
④納得
⑤共感
という5つのステップの表情パターンをしっかりとトレーニングする方法が紹介されています。今、改めて授業が上手だった先生の表情を思い返すと、やはり
①おもしろそうに、楽しそうに話し、生徒の発言も興味深く聞く>、
②生徒のよい発見、意外な答えには、ややおおげさに驚く、
③主要な発問に関して、教師自ら「考える」しぐさを示す、
④生徒の発言から、課題が解決されたときに「すっきり」と納得した表情を向ける、
⑤満足のいった子どもたちと目標を達成した喜びを共有する
・・・
そんな場面があったような気がしました。

WBC・世界連覇で見えたもの

 最終回の粘りにも見えたように,韓国の実力も相当なものでしたが,侍JAPANの勢いが優ったというような結果でした。

 北京オリンピックのイ・スンヨプと今大会のイチローが若干重なるようなところもありましたが,いまひとつ振れていなかったクリンナップのカバーを他の選手でできた「全員野球スタイル」での勝利は,格別の味だったでしょう。

 「フォロー」「カバー」というキーワードで表現できるようなことが,あらゆる集団,職場で実現していくことが理想的に見えてきました。

 川崎が倒れた後のイチローの集中力には,多くの人が釘付けになったのではないでしょうか。

 前の打席でジャストミートされているイチローとの勝負をバッテリーが選んだ背景には,やっと調子が上がってきたという段階のイチローと,好調を持続していた中島のバッティングにありました。

 ところで,ペナントレースが始まる前にここまで仕上げてしまうような体の使い方を,おそらく選手たちはあまり経験してこなかったでしょう。それだけに,このような大会が「選手の寿命に影響しないのだろうか」と,若干の危惧を抱きつつ,また平穏な日々に戻りたいと思います。

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WBC・決勝戦に向けて気がかりなこと

 準決勝の日本対アメリカ戦の一部を見て気がかりになったことの第一は,城島捕手のリードがかなり読まれているか,あるいはサインがばれている可能性があったということです。

 単なるデータから導かれるものであれば,裏をかくことが可能なのでまだよいのですが,何らかの方法で球種が分かってしまっているとすると,横や縦の変化で揺さぶろうとしている日本にとっては不利な状況になります。

 今大会では,もうさすがに「世紀の誤審」は起こらないと思いますが,ハーフスイングに対する判断はまちまちのような気がしており,試合の流れを左右するきっかけになる予感がします。

 残りの気がかりは,やはりイチローのバットでしょうか。

 決勝の韓国戦は,この大会で2勝2敗どうしの決戦ですから,勝てば本物のワールドチャンピオンです。

 勝っても負けても,今後,侍ジャパンの選手たちがどのようなモチベーションでペナントレースを戦うことになるのかにも興味があります。

リスクがとれる学校・とれない学校

 行政は,「だれが担当になっても,同じことができる」システムというのを非常に重視します。

 だから,マニュアルの威力は絶対的なものです。

 というか,そうでないとやっていけない。

 ただ,学校現場というのは,A先生ができたことがB先生にもできるとは,限らないところです。

 職務が多岐にわたるというだけでなく,専門性によって左右されるところもありますが,最も大きな違いは,教師が相手にしているのが,子どもと,子どもと同じ「親年齢」である大人であるということです。

 私としては,「教師がだれになってもこういうことができます」という行政的なシステム重視の学校よりも,
 「この教師たちが9年間,しっかりと面倒をみます」と言いきれるような学校に魅力を感じます。
 
 今の親たちは,マスコミなどのワンパターンの責任をとらせる方法ダメだからやめろ・変えろ~に慣れきっていますから,教師としては,「失敗がしにくい」という困難さが教育実践上のネックになってしまっています。

 失敗がしにくいという実感をもっているのはOKなのですが,失敗をしないようにしてしまうのはマイナスです。

 日常的に虐待を受けている子どもに,中学校の昔ながらの厳しい指導で効果が期待できないように,学校での指導には数々のリスクを伴うものではありますが,明らかにリスクを避けるような指導でも,やはり効果は期待できません

 たとえば小中一貫というのは,仲の良くない子や,いっしょに遊んでほしくない子と9年間も一緒に過ごしていかなければならないというようなリスクもあるわけですが,保護者に対しても,どのようなリスクの取り方が子どもの将来にとって有効であるかをしっかり認識してもらえるような関係づくりをすることが必要かなと思いました。

 怪我などのリスクを伴うことであっても,それを通して得る成果のために,リスクをとってでも実践しようとする学校の姿勢というものに魅力を感じていけるような社会をつくることが今の日本には強く求められているように感じています。

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カウンセラーのタイプもさまざま ふり返り366日【08/3/2-2】

[小中学校] ブログ村キーワード

 職業柄,さまざまなカウンセラーという人とお会いする機会がありました。

 カウンセラーの方は,学会などでお互い通し情報交換や勉強などをされているのでしょうが,「自分はどんなカウンセラーなのか」と聞かれたら,みなさん答えられるのだろうか?・・・という疑問が浮かびました。

 カウンセラーには教科書のような「お手本」,「セオリー」があり,その通りやっているはずだから,・・・などという人はいないと思いますが,子どもにとっては「相談をしたいカウンセラー」と「話しをしにくいカウンセラー」という少なくとも二通りのカウンセラーがいます。

 後者の人たちというのは,「カウンセラー失格」というレッテルを貼られることになるのでしょうか。

 私はそうは考えず,やはり「人間には好き嫌い,得意不得意がある」ので,子どもにとっては「自分に合ったカウンセラー」を選ぶ権利を認めたい気がしています。

 ですから,スクールカウンセラーを全校に配置したからそれでよい,ではなくて,子どもが相談できる人を選べるしくみを先につくるべきではないか,と考えています。

 一番私が問題だと感じているのは,小学校です。

 小学校では,「担任の先生が嫌い」な子どもは,学校ではまず救われません。

 学年の組織がしっかりしている小学校は別として,普通の小学校で,いつも休み時間,隣のクラスの担任のところにいって話し込んでいる(あるいは,自分の担任に対する愚痴をこぼしている)小学生がいたら,その子の担任はどう思うでしょう。
 
 家で発散できればいいのでしょうが,学校でのストレスはたまる一方です。

 中学校では,「好きな先生」や「嫌いな先生」,「苦手な先生」が入り乱れることになるので,相談相手を選ぶことも可能です。しかし,小学校ではなかなかできない。
 
 様々な問題行動不登校などの現象は,中学校に上がって一気に噴出しますが,その原因が中学校への進学後に出現したものだけであることはまれであって,「積もりに積もってきたもの・習慣」が背景にあるわけです。

 小学生による殺人事件が,今後絶対に起こらないという保障はありません。

 問題行動や不登校の「数字」が小さい小学校は,「数字が小さいから問題はない」と捉えてしまうのは危険であり,スクールカウンセラーにとって,実は中学校よりも仕事のやりがいがある職場かもしれないと思っています。

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08/3/2 教師はうなずきのプロになれるか

 精神疾患により休職・退職する教師が多いことからも、教師への専門的カウンセリングの需要は高いことが予想できます(もちろん企業でも同じことが言えるかもしれませんが)。

 昔は若い教師がへこんだとき、年配の教師が飲みに連れていってくれて愚痴を聞いてくれたりするなど、親身になって相談にのってくれる場面が多かったかもしれません。
 しかし、今、精神疾患で職場を離れる教師の多くは40代、50代です

 若い教師に励まされることなどはさらにプライドの傷に塩をすりこむことになりかねず、フォローが難しい

 教師は一方で、生活指導の場面だけでなく、授業でも自分が生徒に対してカウンセリングの技能を発揮することが求められていることは言うまでもありません。

 カウンセラーが精神的に病んでいったとき、やっぱり他の専門家のやっかいになるのか?というのは素朴な疑問ですが、もし一般的な人よりも、カウンセラーが自分自身のカウンセリングの必要性を感じないようであれば、教師はますますカウンセラーとしての資質を高め、技能を習得していくことが必要だと考えられます。

 そういう技能が身に付けば、たとえば初めての苦情対応にも冷静に対処していけるかもしれません。
 下園壮太著「目からウロコのカウンセリング革命」(日本評論社)は、カウンセラーになりたい人がもっているかもしれないカウンセリングへの素朴な疑問に応えてくれる良書です。

 その冒頭で「カウンセリングの3原則」「三つの魔法」とよばれるツールが紹介されています。
 これは教育現場でもすぐに役立てられるものかもしれません。

 第一段階・・・首を振る(いつもより大きめにうなずく)

 第二段階・・・二種類のうなずきを入れる(小さいのと大きいの)

 第三段階・・・うなずき相づち視線の移動リズム良く(うなずきに合わせて、声を出す、話を聞くときは、視線は基本的に相手の口のあたり、うなずくときは首の動作にあわせて、相手の目をちらっと見る)

 この本の著書が他のカウンセラーと少し違うのは、「受け取る力」と「伝える力」のバランス感覚かもしれません。
 著者は、「伝える力」の必要性を強く訴えています。教師としては、かなり共感できる部分が多いカウンセリングの指導書となっています。

透明人間にはなれなかった ふり返り366日【08/3/2-1】

 脅迫のメールや書き込みをした人間が簡単に逮捕される。

 「透明人間」にはなれなかったことがわかっただけでも,ネット社会の安心感はかなり高まったと思われます。

 迷惑メールの除去など,あいかわらずわずらわしい作業に時間がとられることへの不満はあっても,発信している側の手軽さ,便利さに共感ができるような,そんな社会になっているわけです。

 なりすましによる誤解も含めて,相手の「顔が見えないことの不安」はもちろんあるでしょうが,かといって,「顔が見えれば安心」というわけではないことも,もっと強調されてきてもよかったかもしれません。

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08/3/2 子どもに携帯を持たせた保護者必見のサイト

 携帯電話をもたせた親の動機は「家族との連絡の必要性」が第一ですが、子どもが使用する目的は他にあります。
 携帯電話は「インターネット」=「情報に関して完全に自由主義の世界」の入り口であり、子どもたちは社会へ解き放たれた状態になりました。
 「透明人間」としての能力も与えられ、ネット上で好きなことが自由にできるようになりました。
 学校との関係では主に「いじめ」、社会とのつながりでは犯罪へのかかわりと、情報モラル・ネチケットという新たな教育課題が浮上し、警察等との連携も増えてきています。
 携帯電話関係では文科省と警視庁からパンフレットが配付されるようになり、契約者である保護者の第一義的責任が問われるようになりました。
 ここでようやく「当事者間の問題解決」「責任をもつ者が責任を果たす」という市民社会であるべき姿が実現するかもしれません。
 保護者必見の警視庁サイトはこちらです。→(携帯電話と子どもたち)

メディアの紛失リスクへの対応 ふり返り366日【08/3/1-2】

 最近では,キーワードを入れないとのぞけないUSBメモリや,個々のファイルのレベルで,そのようなセキュリティをかける人が増えていると思います。

 USBメモリの大容量・低価格化によって,ネット上でやりとりできない情報をこのような記憶媒体で伝達することが増えてきています。

 フロッピーディスクくらいの大きさがあれば,なかなか紛失もしにくいでしょうが,そもそもケースが必要ないメディアだと,置き忘れ・抜き忘れ・ふとした拍子に落としてしまうことなどが起こりえます。

 家の鍵のようなホルダーをつける人が増えているのは,人との区別だけでなく,使い分けをしている自分のメディアの区別がつくようにしているようでもあります。

 学校では,宿題のデータをUSBメモリに入れさせて回収している教科もあるようです。

 本人の成果かどうかをどのように確かめているのか,ふと気にかかりました。

 宿題もまだノートに写すのなら手間もかかっていますが,コピペで済んでしまうとずいぶん楽ですね。

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08/3/1 校長による個人情報紛失

 都立高校の校長が教職員の自己申告書が入った鞄を電車に置き忘れた事故が報道されていました。
 都教委は明日にでも通達を出し、今後、このような書類を持ち運ぶときは鍵付きのバッグを持たせるように指導するでしょう。
 教員の自己評価などは、流失してもたいした問題はありません。
 全員データをもっていますから、すぐに復元が可能です。
 たまたまその学校の生徒が見つけてのぞいてしまっても、
 「ああ、この先生はこんな経歴(研修歴)だったのか」
 「こんな目標をもって教えてくれていたんだ」
 「自己評価が厳しいから、もっといい教育をめざしているんだ」
と、教師が見直されるきっかけになるかもしれません。
 一般人が見ても、ああ、この高校にはこんなに優秀な教員がそろっているんだなと感心してくれるかもしれないからです。
 紛失して困るのは、生徒の成績等が入った個人情報です
 都教委は、教師に向けても同様な通達を出すと思いますが、それを受け取っても「おれたちには関係ない」「校長がおこした事件なのに何でおれたちまで指導されなければならないのか」と子どもレベルの反応で危機感を持たない教師は多いかもしれません。だから事故はいつまでたってもなくならないのです。

危機感を与えてくれるという恩恵 ふり返り366日【08/3/1-1】

 政治に対して国民が「嘲笑」していればよい日本のような国と,一歩間違えばたいへんなことになりそうな国とでは,政治家の発言や戦略の重さに雲泥の差があります。

 つくづく日本は平和な国だと思います。

 それほど他人事ですんでいる状況にはないようにも思いますが,そういう意味では,危機感を与えてくれる国からは恩恵も受けているような気がしてきました。

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08/3/1 逆ギレ保護者「不登校にさせる気か!」

「子どもはやっていないと言っているのに、先生は信じないんですか」
 「見たと言っている子どもがいるんですよ。周囲にも、自分がやったことをほのめかす話をしているし・・・」
 「そんなに子どもを追いつめて、不登校にさせるつもりですか・・・」
 冷凍餃子事件の中国の対応と全く同じパターンの親が増えてきました。

 国を守る、子どもを守る、「守り方」にはさまざまありますが、それをくずす「攻め」はどうあるべきでしょうか。
 平和主義の日本ならではのやり方は?
 証拠まで突きつけると、そういう親は、また別のことに話を転換する。これも中国と同じ。
 こういうときに使える第三者機関とは何でしょう。
 よりよい対話の方法はないのでしょうか。


イメージング格差 ふり返り366日【08/2/29~3/9】

 イメージングイメージトレーニングの違いは,後者が成功までのプロセスを段階をおってイメージしていくのに対し,イメージングは成功してしまった後のことを考え,「気持ちの高揚」を先取りしてしまう,そういう手法にあるといいます。

 そういう話を聞くと,芸能人にあこがれるだけでなく,ほとんどなりきってしまうほど「イメージング」が進んでいる女子中学生,女子高校生を見るにつけ,「大丈夫か?」と思ってしまいますが,このような「心のブレーキ」というのがはずれない限り,なかなか素人には「イメージング」は難しそうです。

 心はブレーキをかけないつもりでも,深いところのブレーキはきいていて,体に湿疹ができたりするなどの「ブレーキ症状」が出現する人がいるようです。 

 子どもたちは,無意識的にイメージングを行っているのではないかと思ってしまうのは,私などは学校だけでなく塾にも通って,何時間も机に向かうことは絶対に耐えられそうにないのに,それに耐えている・・・というか,喜んでそうしている子どももたくさんいる・・・ことへの疑問が,なかなか解決されないからです。

 なぜそんなに長時間勉強しなければいけないのか。
 しかも,たいして創造的ではないことばかりに。
 テキストの内容をひたすら覚え,確認テストだの基礎問題だの練習問題,演習問題などといってひたすら「与えられた問い」に「期待される答え」を出し続ける行為を繰り返す姿。

 それは,「よい学校に合格でき,そのあと,楽しい生活(=親からのプレッシャーや勉強から解放される??)が待っている」というイメージングが成功しているからではないか・・・・。

 もしかしたらその先までイメージングできているかもしれません・・・。

 もし,そういう機能が学習の動機付けに有効にはたらいているのであれば,ふつうの学校でもできることはないのか?と考えてしまいます。

 そうでないと,「イメージング格差」が「断層」を決定付ける大きな要因になるような気がしています。

08/2/29 教師のイメージング その1

 「読むだけで夢がかなう!」というコピーは目をひかれるものの、「そんな簡単にいくか!」と冷静に考えればわかるもの。だからそういう冠がついている本はあてにできないと思っていましたが、ジョイ石井著「読むだけで夢がかなう!イメージング・ブック」(王様文庫)は、子どもに読ませてあげてもよい本かなと思いました。
 冒頭の方に、「私たちは、自分が抱いているセルフイメージ以上の自分にはなれない」という核心的な言葉が登場しています。

 教師にとって、自分に抱くセルフイメージとはどんなものでしょうか。

 生徒にこわがられている?生徒になめられている?

 生徒に信頼されている?生徒に信頼されていない?

 生徒に嫌われている?生徒に好かれている?

 苦しんでいる教師は多く、だから精神疾患による休職が後をたたない。

 日本でも「カウンセリング」がはやってきています。カウンセラーは「聞く専門家」で、問題の解決に責任をもつ人ではありません
 ある人は「どうして友達に相談せずに、お金をはらってまで愚痴を聞いてもらう必要があるのか?」と揶揄していました。
 スクールカウンセラーは、子どもより教師のため、また、子どもより親のためというニーズが高いのでは?
 ただ、教師は実力はなくてもプライドだけは高い人が多いので、やはり最後は自己対話が成立する人間になれるかどうかにかかっています。
 どういう自分、どういう教師になりたいのか。
 「生徒に信頼される教師になりたい」と若い人は言うかもしれませんが、子どもは「信頼できる教師」に何を期待しているのでしょうか。カウンセラーとしての役割でしょうか。学力を身に付けさせてくれることでしょうか。校則違反を見逃してくれることでしょうか。
 「生徒に嫌われたくない」という心理はわかりますが、そのために大切な指導を行わないできた教師がどれだけいることか
 何度も紹介していますが、荒れた学校で、「にこにこしていれば生徒は反抗しないよ」と若い人にアドバイスしていた教師がいました。
 エスケイプしようが、煙草を吸おうが、人のものを盗もうが、「決して怒らない。」「笑顔をたやさず指導する。」「逃げるが勝ち。」
 結局自分のことしか考えていない。
 教師にとってイメージングが役に立つものかどうか、考えていきたいと思います。

08/2/29 教師のイメージング その2

 「自分が抱いているセルフイメージ以上の自分にはなれない」という、カウンセラー・ジョイ石井の言いたいことは、「なりたい自分の具体的な姿がわからなければその姿にはなれない」という当然のことです。

 教師のコンピテンシーモデルでは、「あるべき教師の姿」を分析的に描こうとしていますが、そういう姿を提示されても、教師はその姿に「なろうと思えるか」。

 「こんなたいへんなことはしたくない」「それは私にはできない」「方法を教えてくれ」「時間の制約があるから無理だろう」と反応してしまう。自分の仕事は「ここまでの範囲」と決めてしまう。
 これはまさに逆コンピテンシーの典型です。

 ただし、「子どもや親の要求をいちいち聞いていたらきりがない」という現状から、このような防衛本能は自然のなりゆきで生まれてしまいます

 だからそこに「戦略」が必要になる。

 人は、すぐそれを聞きたがる

 でも人から教えてもらったアドバイス、戦略が、自分にぴったりあっているかどうかはわからない。
 ジョイ石井は他の成功哲学書との違いを明確に述べてくれています。

 ジョイ石井は、夢への入り口は、とにかく「なりたい姿をしっかりイメージすることであって、「どうやって?とは考えない」の章で、「~だからできないだろう」という発想にならないようなアドバイスをしています。
 ・・・カウンセラーのところに行けるのはある程度お金に余裕があって、傍目には成功しているように見える人が多いでしょうから、この本の趣旨で多くの人が夢を実現できるようになるかどうかはわかりませんが・・・。

08/3/1 教師のイメージング その3  子どもにも勧めたいアドバイスとして、「成功(幸せ)のハードルを低く、失敗(不幸)のハードルを高く」というのがあります。

 多くの人はそれが逆であるため、何かにつけてがっかりしたり腹を立てなければいけなくなり、よりよいセルフイメージがつくりにくくなっています。

 多くの教師はレベルの違いはあっても、「生徒はこうあってほしい。みんなこれだけの成績をあげてほしい」と考えているでしょう。そしてそれが実現できる教師が理想の教師で、自分はそれにほど遠い教師・・・。

 どうしても現実が強く足を引っ張っていて、「とてもそんなテレビのような教師にはなれない」と思ってしまう。そして、絶対になれなくなる。

 子どもたちにはスモールステップで力をつける指導をしているつもりでも、あまりそのステップには目を向けず、定期考査のたびに「やっぱりだめか」と納得してしまう。

 ジョイ石井はここで、「小さい成功」を喜ぶくせをつけようというアドバイスをしていますが、これを教師が実行するメリットは、「生徒に期待をかける」場面が多くなることでしょう。

 「予言の自己実現」は多くの人が知っていることですが、なかなか「負の予言」から教師は脱却できない。

 授業の中でも、小さな喜びを、生活指導で説諭としている中にも、期待をこめて、小さな変化・成功を願う
 この積み重ねが大きな成長のきっかけになるかもしれません

08/3/4 教師のイメージング その4 想像の創造力

 イメージングの極意は、想像の創造といったところでしょうか。
 ジョイ石井は、「ポジティブな口ぐせだけではうまくいかない」として、次のような理由をあげています。

 口にする言葉ばかりがポジティブになったとしても、心によぎっているイメージがマイナスばかりでは、結局あなたの心の状態は、陽性にはなってくれない

 ポジティブな言葉を使うことによって内面をポジティブにしていくよりも、さらにもっと奥にあるイメージを普段からポジティブにしていったほうが、そのイメージに対する感想も無理なくポジティブになるのではないか?
 よいイメージ(想像)をどんどんつくりだしていく(創造)ことができれば、「夢の実現」に近づけそうです。
 自分自身のポジティブなイメージがわかない場合は、「あこがれの人だったらどうするか」を考える、というアドバイスもしています。

 コンピテンシーモデルが苦手なら、以前に紹介したロールモデルシートの活用でもかまいません。
 やはり教師の場合は、より力のある実践者、指導者に恵まれていることが、実力を伸ばす条件になってしまうのでしょうか。
 ある小学校の研究会に信じられないくらい大勢の参観者が訪れる理由もわかったような気がします。

08/3/9 教師のイメージング その5 教師へのご褒美

 教師にとって最大のご褒美とは何でしょうか。
 文科省がくれる表彰状でしょうか。
 わずかばかりの昇給でしょうか。

 イメージングによる自己実現、成功の法則には、「ご褒美の想定」というものがあります。

 お金のことについて言うと、私の場合は実家が自営業で、一日と一年のほとんどを仕事に費やしていた両親が得られる収入を知っていたので、自分の月収がそれを上回るようになったときから、「給料に値することをしなければ罰が当たる」という意識で仕事に没頭し始めました。

 毎年の昇給は、それだけ自分に対するプレッシャーを高めていくもので、ある意味ではつらいものでした。(この3年間は減収になった上に昇給停止が続いているのでそれはそれでつらいですが・・・。)

 きっとサラリーマン家庭に育った教師は、収入が年ごとに増えていくのは当たり前、ボーナスがあるのも当たり前という感覚で仕事をしていると思います。
 しかし、学校でPTA活動に携わる方の中には自営業者も多いでしょうが、この方々にはボーナスはないし(人を雇っている人はボーナスを出す側)、翌年の収入を今年より増やすことはそう簡単なことではない
 会社でも、中小企業なら同じようなことが言えます。
 そういう立場の方から見て、自分たちの税金で生活している公務員というものは、やはり厳しい目、批判の目で見られるのは仕方がないことです。

 あえてここでは書きませんが、教師は生徒と向かい合っている間に無数のご褒美を頂戴しています
 生徒が卒業していくとき、そのご褒美は最高のものになっています。
 自分はそのご褒美に値する何をしてきたのか。
 「もらい得」の人をひがむつもりはありませんが、この時期は、勘違いしている人をたくさん見かけるときでもあります。

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「志望校合格」絶対主義への道 ふり返り366日【08/2/29-1】

 子どもを宿題漬けにするのは,大手の塾では常套手段のようです。
  
 出題される内容がほぼ想定内にあるテストでいい点を取らせるには,できるだけ長時間,大量に練習させれば効果が上がると考えるのは当たり前だし,実際に効果は出るでしょう。

 なぜか学校の宿題には苦情は言うものの,塾の宿題に苦情を言う子どもは少数派なのでは。

 「もう来なくてもいい」と言われるからでしょうか?

 わざわざ大金を払って,宿題をもらってかえる,それをまじめにやり抜いて,費用対効果を感じる・・・?

 大手の塾は,経営統合や吸収合併を繰り返して現状があるようですが,そうやって消耗戦をさけ,「進学実績」さえ維持できれば,「まじめな子どもたち」をドル箱に稼ぐことができるのでしょうか。

 しかし,塾の宿題に追われて学校の宿題が提出できず,低い評価しかもらえない子どもが後を絶たない現状をみると,「本末転倒では?」と学校側としては言ったとしても,やはり子どもや親の価値観というのは「次のいい学校に入ること」絶対主義にかなり縛られてしまっているような気がします。

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08/2/29
子どもたちの悲鳴?

 ある教育関係の雑誌の、新学習指導要領批判の記事を読みました。
 いくつかの記事を読みましたが、この雑誌の執筆者は文科省・学習指導要領批判という右へならえ(左へならえ?)が徹底しているらしく、わざとらしい曲解が多いことが特徴でした。

 これだけ批判を書けるのに、それに変わるものが提案できないのはなぜか。それは、批判する方が楽だからであり、自分が(心理的な面も含めて)責任を負わないですむからです。

 ある部分を引用すると、「小学校では低学年で週二時間増、高学年で週一時間増になる。このことを話すと、子どもたちは悲鳴を上げる。こんな時間増で学力が上がらないことは子どもたちが一番分かっている。こんな学習指導要領に振り回されてはいけない。・・・」

 この教師は、子どもたちの悲鳴の意味がわかっていないのではないか。

 小学校のある教科で有名な先生は、「子どもはもともと勉強が大嫌いなものだ」とおっしゃっていました。

 それでもおれの授業にはよくくいつくんだから、おれの授業はすばらしい。という意味だったようです。

 「これから、新学習指導要領の実施までに現場の英知で、それぞれの子どもたちの最善の利益のためにつくりかえなければならない。」
 なお、読んでいてわかったのですが、この人は、「教育課程」と「総合的な学習の時間の指導計画」の違いがよくわかっていなかったようです。
 そもそも一部の関係者しか読まない教育雑誌だから許されるのかもしれませんが・・・。

入学式で一言 ふり返り366日【08/2/28】

 私は地元の公立小学校の父親親睦会の副会長になったので,新年度からは学校に顔を出すことが多くなると思います。

 父親親睦会といっても,スポーツで汗を流すことが中心で,あとは行事のお手伝いが年何回かあるだけですが。
 
 入学式では新しい会員の募集をするために挨拶をさせてもらうのですが,ここではあることのアピールをしっかりしたいと思います。

 当然,公立ならではのよさを実感していただくことのPRですが,できれば,より先生方の方に耳を傾けてほしい内容になります。
 

08/2/28
「子どもは公立に預けるな!」最終回

 和田秀樹のこの本は、最後は「お受験の心得」講座になっています。
 その中で、「学校の特色をしっかり理解しよう、学校説明会で聞くべきことは聞いておこう」とアドバイスしています。当たり前のことなんですが、ネームバリューだけで選んで進学してくる子どもとその親に、勘違いによるトラブルが多いのは進学校にとってつきものです。

 私は私立のことはあまり詳しくないのですが、著書の中でも「塾に通うことを禁止している学校」が紹介されています。これは、学校の自信の現れであるとともに、相当たくさんの宿題が出ることを覚悟しなければなりません。

 今後、公立学校でも問題になるかもしれませんが、宿題が短期間に集中すると、本当に子どもは寝る時間がなくなります教科間で宿題量の調整(夏休みなどはあるかもしれませんが)を日常的にやっている学校は少ないでしょう

 授業はいい加減でも、いい問題集を買わせている教科の場合には、宿題だけでも学力は十分につくことが考えられます

 私立でも国立でも、子どもが優秀なところは、教師はだれであっても勉強しますから、特別に優秀は人材は必要ありません
 問題さえ起こさなければ、若いのでもどんどん雇える。
 
 「同一労働同一賃金」の原則が守れるのが私立の特徴です。
 公立は「同一労働差別賃金制」である上に、ちょっとでも給与をいじられると大騒ぎする。
 効率が悪い上に志の低い若い教師のモチベーションが低い。
 「私はそこまでの仕事に見合った給料はもらってません」となってしまう。そこまで言い切れる若い教師はさすがにいないでしょうが、「あなた、給料分はたらいてよ!」と言いたくて我慢している教師はものすごくたくさんいるはずです。
 とんでもない脱線をしました。
 学校説明会は、けっこう多くの教師の姿を見ることができるチャンスですが、私の親はある学校の説明会で教師の姿を見て、「ここには子どもを入れさせたくないな」と思って受験をさせなかった、ということがありました。
 学校選択制がない公立中には、「どうせ入ることになってるんだから、入った後に説明すりゃいいじゃないか、異動もたくさんあるし、自分に関係ない子どもに何で説明してやる必要があるんだ」という会話が成立してしまいます。地元の中学校はいかがですか。

通知表の見方・考え方

 引き続き,プレジデントファミリー5月号の内容に関してですが,タイムリーな話題として,「通知表の読み方」というのが特集されていました。

 そもそも通知表というのは法令で定められているものではなく,つまり,学校が出す必要があるものではないのですが,慣例として行われているもので,昔から「評定は上がったのか下がったのか」「担任の教師はどのように子どもを見ていたのか」などを生徒と親が知るためのものだと考えられています。

 2学期制3学期制の学校があるのでおわかりになるかと思いますが,2学期制なら前期や後期の成績,3学期制なら1学期や2学期の成績は,公式な記録として「指導要録」に残ることはありません
 残るのは,学年の評定だけです。

 もちろん,5段階評価で4→4→4ときて学年が5になることはありませんから,相関はありますが,記録上は学年の評定が大切だということです。

 現在は観点別学習状況の評価から評定が求められることになっているので,5段階の5だったのか,4だったのか,3だったのかという根拠は,「関心・意欲・態度」「思考・判断」「知識・理解」などの4つ(国語は5つ)の3段階評価(A,B,C)がもとになっています。

 ただし,Aは「十分満足」で,評定の4も「十分満足」なので,AAAAで「4」という可能性があります

 よくトラブルの原因となるものです。

 そういうトラブルを回避しようとする学校は,AAAAでないと5にならないようにして,4は必ずBを1つつけるきまりにしているところもあるかもしれませんが,それは決して正しいつけ方ではありません。

 5は「十分満足でかつ特に優れている」というものですから,Aの上のSがあれば,Sがついているような生徒が5になるわけです。

 このように,今の評価では3段階評価のデータをもとにして5段階評価をつけるという仕組みから混乱をきたしており,その改善が求められるところです。

 次に,「所見」欄ですが,特集では教師が使っている「言い換え用語集」まで紹介されてしまっており,それを知ると「ただいい気分になるものではない」ことがわかってしまいます。

 たとえば目立った活動はなく,特に優れている点も見つからないおとなしい子どもには,「まじめだ」という言葉が使われることが多いなど。

 自己表現が活発で,ときには周囲の言うことも聞けない身勝手な子どもには,「積極的に自分の意見が言える」など。

 この所見も,指導要録に記入するような「良い面」を中心に書かれていることが多いので,「何が課題か」「どこが問題か」という「改善の指針にならない=役に立たないという声も多く,学校によっては「所見」欄をなくすところもあるようです。

 その代わりに,生徒や保護者との面談の時間を確保して,しっかり面と向かってよい点,課題などを伝えること,保護者からは担任がうかがいしれない家庭や地域などの姿を伝えてもらうこと,そういう機会を設けることが大切でしょう。

 雑誌が学校と家庭とのつなぎ役になるようなはたらきを持っているわけですが,これは本来,学校の仕事でしょう。 

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現役の教師にとって「わが子を預けたくない先生」の年齢・性別は?

[教師] ブログ村キーワード

 「普段はなかなか聞けない学校のこと,先生のこと,親の疑問や悩みまで,全国津々浦々の先生に直撃取材を決行しました。親と学校がもっともっとフランクに話せたら,解決できない問題はないのかも」

 これがプレジデントファミリー5月号の特集「無理な注文も大歓迎!? 小学校の先生のホンネ公開30 ~クラス決めは親の思い通りになる!?」を編成した趣旨らしいのですが,内容はかなり学校や教師の実態に踏み込んでいます。

 「東京都指導主事」の回答も多いので気になって全部に目を通すことにしました。

 30項目を以下に列挙します。

 なお,勝手に私が判断した「ホンネ度」を,A=かなり高いB=まあまあC=まだまだとして,評価してみました。(*:別記)

○娘が苦手な友達と別のクラスにしてくれませんか?・・・A
○息子を親友と一緒のクラスにしてくれませんか?・・・A
○親子とも大好きな先生を担任に指名できますか?・・・A
○クラス決めは誰がどう行っているのですか?・・・B
○授業が下手な教師を辞めさせてくれませんか?・・・B
○最近,どんなモンスターペアレントがいましたか?・・・C
○うちの子に個別指導をしてもらえませんか?・・・B
○寝坊ばかりする子に厳しく指導してもらえませんか?・・・B
○目が悪いから席を前にしてもらえませんか?・・・A
○新任や若い教師の指導力は大丈夫ですか?・・・C*
○やる気のない校長先生をなんとかできませんか?・・・B
○転勤の多い先生はダメ教師って本当ですか?・・・A
○先生もひいきをすることはありますか?・・・A
○相性の悪い子,嫌いな子はいますか?どんな子ですか?・・・C
○私立中をやめて公立中に行ったらどうなりますか?・・・C
○特定の学校にいい先生を集めることがありますか?・・・C
○国立大学付属の先生ってやっぱり優秀なのですか?・・・B
○公立中高一貫校の教師は精鋭揃いですか?・・・A
○私立中学の先生はどのように選考されていますか?・・・B
○無能な先生も優秀な先生も給料は同じですか?・・・B
○小学校時代の情報は中学校に伝わるものですか?・・・C
○両親が離婚したら学校にばれますか?・・・B
○近所の悪い評判はどこまで知っていますか?・・・B
○問題の多いクラスを担当するのはどんな先生ですか?・・・A
○先生は忙しいと聞きますが,本当ですか?・・・C
○表向きはいい先生なのに無能という場合もありますか?・・・B
○先生が評価する先生は,どんな人ですか?・・・C
○私立中学ならではのデメリットはありますか?・・・C
○職員室ではどんな話をしているのですか?・・・C
○先生同士でケンカをすることがありますか?・・・B

 「現役の先生がわが子を預けたくない先生の年齢」というアンケート項目があって,
1位が50代女性(32%)2位が20代女性(24%)3位が20代男性(16%)4位が50代男性(14%)という結果になっています。

 結果を見ると身もふたもなくなるアンケートに教師もよく協力したものだと思いますが,「預けたくない」理由の方が重要ですよね。直接記事では説明がありませんでしたが・・・。

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「賢い親」とクラス替え

 プレジデントファミリー5月号の特集は,親として,学校や塾に何をどの程度要望できるのか」がテーマです。

 タイトルは雑誌らしく,「100倍活用術」となっていて大げさですが,確かに,たった一つの情報が,両者の関係をよくしたりも決定的に悪くしたりもすることがあるので,実際に困っている人がいれば読む価値のある内容なのでしょう。

 タイミングとしては,「クラス替え」「クラス決め」は学校サイドではすでに完了していますが,直前まで変更ができないわけではありません。

 以前にもこの内容にはふれたことがありますが,ネットで検索しても,「クラス替え」についてはさまざまなサイトで紹介されているようです。「110番」までありますね。

 雑誌では,「小中学校の先生のホンネ公開」とあり,現場の声らしきものが紹介されています。

 一通り目を通してみましたが,あたりさわりのない,当たり前のことばかりでした。

 小学校から中学校に進学するときは,基本的に中学校の新学年の担任が小学校の担任から直接聞き取りをするわけですが,それは中学校の教師にとっては絶好の機会です。
 「どのような教師がこの子どもと1年(2年)間いっしょに過ごしていたのか」を知ることができるからです。

 実は,小学校の教師の中には,「色眼鏡で子どもを見ないでほしい」との願いから,大きな問題を隠して伝達しない場合があるのですが,こういうときは,色眼鏡をかけているのが小学校の教師であることがあとではっきりしたり,伝達されなかったために「なぜ同じクラスにしたのか」と両者の保護者から中学校が苦情を受けるケースがあったりするのがお決まりのパターンです。

 中学校としては,小学校の教師の評価をそのまま鵜呑みにするわけではなく,だいたい中学入学と同時に激変するケースも多いため,できれば「どのような経緯で問題がおこり,どのような解決の道をたどったか」という知識を得ておきたいという願望の方が強いわけです。

 ただ,具体的なことを聞こうとすると,小学校の教師が自分の指導力不足を疑われるような恐怖感に見舞われるためか,あいまいにごまかす(か,きちんと記録をとっていないために説明できない)ことが多いのが困った点です。

 そういう情報は何で補完できるかというと,これは保護者から伝えてもらうことしかありません。できれば,保護者が直接に中学校に出向いて,話をしてくれることが,その後の3年間にとっては状況が非常にうまく運ぶ可能性を高めてくれます。小学校担任への愚痴を聞くことになるかもしれませんが,中学校側としては真摯な態度で「おうかがいする」姿勢をくずさないことが大切でしょう。

学力「低下」に歯止めをかける小学校での定期考査の導入 ふり返り366日【08/2/27-3】

 小学校と中学校の違いの中で最も大きなものの一つに,定期考査の有無があります。
 
 これがギャップになって不登校が増える主因になっているわけではないと思いますが,少なくない影響はあるでしょう。

 小中の連携を深めていく上で,実行可能かつ効果も期待できるのは,小学校における定期考査の導入でしょう。

 ある程度の長さのスパンで総合的な問題に取り組ませてみて,「忘れている大事なポイントはないか」を確かめる・・・・・そうすれば,小学校の指導の問題点が明らかになってくるかもしれません。

 小学校では,観点別学習状況の評価を,評価のためだけに利用してしまっている学校が多い。

 そうするとどういうことがおこるかというと,たとえば関心・意欲・態度とか,思考・判断などについて,「そのとき・その場の子どもの動きにしか目がいかなくなってしまう

 子どもは,「その場をだましとおせればOK」という感覚が身についてしまう。

 実は,中学校の現場で,今,最も切実に感じている学力問題がこれなのです。

 授業では反応もよく,自分の意見を出し,積極的に取り組んでいるようなのですが,他の人の意見を聞いたり,教師によるまとめをしっかりのみこんだりせず,教科書に書かれているような基本的な内容を理解しないままで定期考査にのぞむ生徒の得点が伸びないという問題です。

 観点別学習状況の評価規準は,指導目標や指導の改善のための材料として使うべきで,ゴールに近い姿を適正に判断するには向かないものです。

 日本の学力低下の問題解決の切り札の一つが小学校にあることが実証されるのが難しいのは,「先進校」が落とし穴にはまっていて,一般の学校がその穴の底ばかりを見ているからです。
 
 「定期考査の実施」はそれほど難しくなく,どの小学校でも実現可能です。

 まずはそこから,改革に取り組んでほしいと思います。

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08/2/27 テスト問題をつくれなくなったときが教師をやめるときか・・・

 定期考査の問題づくりには平均で何時間くらいかけられているのでしょうか。
 私の学校の場合は、過去問題が塾で売られているような現状があり、毎年違った骨のある問題を作り続けなければなりません。内容が限られている分、新しい素材づくりはけっこうきついものです。

 さらにたいへんなのは、採点です
 角度を変えて出題するため、さまざまな正解も出てきます。
 授業の何倍も密度の濃い発表が解答用紙に刻み込まれています。
 その対話にも相当の時間を費やし、途中で基準が変わるケースもありますから、また全員のを読み返し、点数を変える・・・。

 しかしこれは楽しみでもあるわけです。

 特に学年末の考査は、自分の指導の集大成とも位置づけられるため、論述の問題が多く、思考力・判断力・表現力がどのくらい伸びたかを調べる機会になっています。

 私が教師をやめるとしたら、採点がたいへんというよりも、問題づくりができなくなったときでしょうか。

 ところで、公立高校の入試ですが、たとえば社会科の場合、一部の県では記述が多いですが、ほとんどの県は選択式ですよね。これは学習指導要領の趣旨と合いませんから、いずれ見直されると思いますが、やはり「採点がたいへん」「正解のパターンが増える」という高校側の理由から、表現力を問う出題は難しいでしょう。

 しかしこの程度の問題が公立中学校の定期考査で実施されているとすれば、習得したことの数少ない活用の場としては、不十分だと言わざるを得ません。
 いろいろな意味で、学力問題というのは、入試の課題に直結しているわけですね。
 中学受験の裾野が広がり続けると、小学校でも今のままではいけなくなると思われます。

08/2/28 小学校での定期考査

小学校でスパンの長いテストをしない最大の理由は、おそらく「クラスの成績にばらつきがでることがまずい」ということではないでしょうか。

 学年に3クラスあったとして、1組は中堅で研究主任を務め、毎年研究授業を実施している教師。2組は新規採用2年目で、1年目は学級崩壊で他の学年からとばされてきた教師。3組は、指導力不足判定すれすれの定年間近の教師。結果を出してしまうと、非常に厳しいことになりそうです。

 短いスパンのテストでも差が開くようでは、子どもが気の毒で目も当てられませんが、長いスパンというのは学習内容がどれだけ定着していたか、子どもが根っこのところからしっかり理解できていたかが問われます
 
もしテストの平均点を公表しようものなら、それこそたいへんな騒ぎになるでしょう

 小学校では、教師ごとの指導力格差が明るみに出たら大問題なのです

 みんなすごく優秀か、みんな頼りないとかならば問題ない?のですが、偏ると親としては「当たりはずれ」「運のよい悪い」の問題になってくる。しかし、それで済ませられた時代はもう終わってしまった。

 学校はその防衛策として、成績が取れそうな子どもを上のケースでは2組や3組に集めておくという方法をとることが考えられます。
 逆にそのことへの防衛策としては、プレテストを実施し、あとでどのくらいその集団の能力が高まったのかを検証できるようにする手段が効果を発揮します。
 和田秀樹の著書は、中学受験を薦める本ですから、こんな小学校の問題を言っても仕方がないのでしょうが、公立は教科担任制で、以上の問題が表面化しにくい仕組みになっているということです。しかも、塾に通っている子どもが多いところは、教科担任のおかげで習得できたのか、塾で習っていたおかげかがわからない。もし教科指導の能力をきちんと測定しようとしたら、子どもへのアンケート調査が欠かせないわけですが、・・・ちょっと横道にそれてしまいました。

「3+2×4=」の計算方法を忘れていく小学生 ふり返り366日【08/2/27-2】

 「学力低下」を示す材料として,下の記事で紹介した数字ほどわかりやすいものはないでしょう。

 学力には,年を重ねるごとに積み上がっていくイメージがあるのが一般的でしょうが,「理解」が十分でない内容は,時間がたつと「忘れてしまう」のです。

 観点別学習状況の評価を短いスパンで実施し,ほとんどそのデータに依拠して総括的な評価を行うことの最大の弊害はこれです。

 たとえば小学校から中学校に進む時点での,正しい学力というのが把握されないまま,怪しげな評価・評定のもとでしかクラス替えができないこと。

 人数が多いクラスなら,全体として学力が平均化するでしょうが,少人数だと,クラスによって学力のばらつきが多かったり,特別に配慮を必要とする子どもが一部のクラスに偏ったりしてしまいます。

 このようなことから,「学力向上をめざす調査」とともに,小学校の修了段階での学力を調査すること(中学校の修了段階では入試がある)の必要性が,将来的には叫ばれるようになるかもしれません。

 単なる「理解」にとどまらず,活用することによって習得していく方法はさまざまあります。

 「3+2×4=」にどのような意味があるのかといったときに,たとえば長さ3cmの付箋が5つあって,それを1cmずつ重ねてつなぎあわせたときの全体の長さを求める式の一つというイメージがあれば,計算間違いはおこらないはずです。

 月曜日に3ページ問題集をやって,火曜日から金曜日まで2ページずつ進んだとき,5日間では何ページ進むか・・・など,子どもでも思いつきそうな例はいくらでもあるでしょう。

 このように,どのような数字を求めるために使える式なのか,ということを考えさせていれば,計算のルールも自然と身についていくはずなのです。
 
 「文章題が不得意」という声を算数ではよく聞きますが,国語力の問題によるものは別として,「式の意味」を考えさせる指導をしていないことが大きな原因の一つでしょう。

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08/2/27 小学校の評定について

 中学校では、定期考査の結果を子どもに示すときに、自分が全体でどのような位置にいるかを「偏差値」や「順位」で示している学校が多いのではないでしょうか。
 それが好ましくないという学校でも、「平均点」くらいは公表しているでしょう。

 集団全体としてどの程度の達成度だったのかがわかることや、学習が苦手な子どもにとっては、まずはみんなと同じくらいの点(平均点)をとりたい、という努力目標になると考えていることが、「平均点」を出す意義でしょう。

 問題と平均点を分析すれば、その教師の指導力、生徒の学力をある程度、管理職が把握することもできます

 小学校ではどうでしょうか。
 小学校では、差がつくようなテストはあまり行われないため、もともと大きな点数の差がつきません
 短いスパンで業者のプリントをやっていると、まるでみんなマスターしてしまったかのように錯覚してしまう
 しかし、時間がたったら忘れている

 私が小学校でも定期考査を設けるべきだと主張しているのは、そのためです。

 定期考査をやらないなら、せめて全国学力調査はしっかり取り組ませてほしい

 特定の課題に関する調査のように、抽出ではいけません。全員が受けることが学力の保障になります。
 しかし、そういう調査を実施すると、こんなことが明らかになります。

 抽出の調査ですが、 3+2×4= という問題を小学生はどのくらい解けると思われますか。
 国立教育政策研究所の調査では、小4で74%小5は66%小6は58%の正解率でした。

 どんどん計算の仕方を忘れている。
 これは日本での2006年の調査結果です。
 もし小学校が、短いスパンだけの、覚え立てのほやほやのときだけのテストをもとに評価を出しているのであれば、即刻見直すべきです。
 学習内容を習得したかどうかを活用できるのがテストだけだという批判があって、指導の見直しが図られていますが、そのテストすらないとなると問題でしょう。

小学校の評定と食品の偽装表示の共通点 ふり返り366日【08/2/27-1】

 子どもに対する総括的な評価結果は,ある意味ではその教師の総合的な指導力の成果を示す数字であるので,多くの場合,「甘め」になりがちであるのはわかりやすいことです。

 評価の場合には,そもそもその観点や基準に見合うような指導というのがなければ始まらないものなのですが,目標・評価規準や評価基準はしっかり定まっているはずなのに,PDCAの「」ですでにつまずいてしまっている場合があります。

 PDCA計画=目標を達成するための方法等)と実行=指導)の内容を吟味するために有効なのは,「観点別学習状況の評価規準」です。

 私が提言したいのは,「観点別学習状況の評価規準」は,あくまでものために使うことを主眼として,直後のチェック=評価)を行うためには使わない(使うとしたら「知識・理解」の評価のみ)とすること,改善点の実行)をとりあえずのゴールにしておく,ということです。

 繰り返しますが,観点別学習状況の評価が適正に行われるためには,まず,その目標に準拠した内容についての指導が適切に行われなければなりません

 ですから子どもの観点別学習状況の評価をする前に,教師の側の観点別「指導」状況の評価を行って,それがみんな良い評価であることが,子どもの評価を実施できる条件になるということです。

 名称を「観点別指導目標」とでも改めて,「評価の工夫」よりも「指導の工夫・改善」が重要であることを気付かせていく必要があります。

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08/2/27 「子どもは公立に預けるな!」その5

小泉首相のストレートな自由主義を受け入れる人は、「競争社会」という言葉をプラスのイメージで、小泉改革を批判し「負け組」ができるのを不当だと訴える人は、それに対して負のイメージを持っている。

 競争社会を負のイメージでとらえるのか、それとも前向きなイメージでとらえるかによって、公立学校のあり方の議論も全然違ったものになります。 

 和田秀樹の主張は、子どもたちは将来、みんな競争社会に旅立とうとしているのに、それに対する耐性が学校で育っていない。公立学校はその意味で子どもを学ばせるのに最も向かない環境である、という主張です。

 そもそも公立学校には、学校の自由選択制などが始まるまで、「競争」というものがなかった。
 自分の教え子がどんなに成績が悪くても、基本的生活習慣に問題があっても、「自己責任」だと言って、教師は何の責任もとらされることもなかった

 学校自体も子どもや保護者に選択肢を与えなかった。
 地域の学校が荒れていてこんな学校には通えない、と保護者が判断し、受験させられた子どもは30年以上前からたくさんいたでしょう(今は保護者に感謝していることと思いますが、そういう人が今、保護者になって、自分の子どもに同じことをしてあげているのでしょう)。

 それが学校を「選ぶ自由」が認められるようになると、大あわてで取り乱す。
  「競争はいけない」と叫ぶ。
 自己申告を課せられると、「結果が出ないのは私のせいではない。学校は組織で仕事をしているんだから、組織が悪い。管理職が悪い」と反発する。
 そういう声を上げて、ますます公立学校への不信感を強めてしまった。

 ・・・競争とは、公立学校の教師にとって、「のぞましくない」問題というより、「ふれてほしくない」問題なのです。
 公立学校では全国大会を頂点とした部活動での競い合いがあるのはもちろんですが、和田の話は「いい勉強」「いい大学」「いい会社」をあくまで理想としているので、もともとカリキュラムとは関係がない部活動は関心外のことのようです。

 小学校での評価の問題点についても、通知表の「よくできる」「できる」「もうすこし」などという3段階評価に苦言を呈しています。小学校では、できるだけ「あなたはできない」というメッセージを子どもに伝えたくないそれを隠すために、一番下の評価に「もうすこし」という表現を使う。しかしこれでは、本当に「もう少しでできるようになる」のか、実は本当にできないのか、ということがわからない

 小学校の評価の問題を読むと、私は一連の食品関係の偽装表示が頭に浮かびます

 小学校の評定はまったくあてにならないので、公立の中高一貫校以外は受験のときにこの数字を使うことはまずないのではないでしょうか。

 公立中学校の場合は、高校入試のときに、成績一覧表というものを提出することになっていて、照合作業がある。小学校にはそれがない。受験ではそういう問題もあります。担任が勝手に評定を上げ下げしても、それが本物であるかをいちいち確認することができませんだから最初から信じていない

 通知表というものですが、これは学校が出さなければならないという法的根拠はなく、慣習として続いているものですので、「うちの学校には通知表がない」というのもあり得るわけです。
 しかし、通知表を出す学校でも出さない学校でも、問題なのは、今、学習していることが理解できているのか、できていないのか。できていないなら、どうすればよいのか、ということが家庭に知らされることがほとんどないということです。年に4回とか5回ではスパンが長すぎる。

 ところで、最近の子どもは、通知表を互いに見せ合う子どもたちが多いのはご存じでしょうか。これは、目標準拠評価になってから、評定の妥当性に疑問をもつ子どもが増え、複数の生徒同士でそれを確かめ合うというねらいも隠れているわけです。
 ですから中学校では、定期考査の得点と評定が逆転している場合、保護者を使って子どもが苦情を訴える場合があります。
 目標準拠評価になってから、「客観的で信頼できる評価」が求められているのですが、「嫌われたら評定が危なくなる」という疑念を子どもが少しでも持つようになったらよくないですね。しかしこれは子どもが保護者に成績が悪い言い訳として役に立つ場合もあるようです。

学校を道場に ふり返り366日【08/2/26-2】

 小中学校に通う子どもたちにとってのタブーとは何か?

 それは,「A先生よりB先生の方が授業が分かりやすい」という考えを表明することです。

 「今日の授業はつまらなかった」という意見を教師に表明することです。

 このことが,教員間でも同じようにタブーになってしまっている学校では,授業改善は望めないでしょう

 優秀な教師が集まっている学校では,「ほとんど同じ指導案の授業を,A先生とB先生が行ったときの違い」というテーマで研究することができます。

 どちらがより優れているか,という勝ち負けを決めるためではもちろんなく,子どもの反応などで見られる「違い」から,授業で実践すべき課題を見つけていくための取り組みです。

 こういう授業は,自分に自信がない教師にはできないでしょう。

 自分が劣っていること,未熟なことの根拠がたくさん明白になる恐れがあるからです。

 若い先生たちには,年配の教師にどんどん「試合」を申し込んでいくべきです。

 そういう研究が習慣化できるような学校では,すべての教師が今よりもっと「勉強」するようになるでしょう。

 望むべくもないこととわかりながら書いていますが・・・・。

08/2/26 優越願望のジレンマの克服    ヘーゲルの言葉かどうか忘れてしまいましたが、人間は、優越感を持ちたがる動物です。  このことが成長の原動力であるとともに、競い、争い、ときには戦う動機にもなる。    他人より優れていたいのに、自分より優れた他人はたくさんいる

 ここからは私の勝手な解釈ですが、そのジレンマから救われる道は、相手も、自分も、「共に生きている」「共に学んでいる」と思うことです。

 そうすると、人の成長が自分の喜びになり、自分も成長しやすくなる。教師は、そのことを感じさせつつ、でもやっぱり重要なのは、成長させてあげること、本当に自分なりの優越感が持てるようにさせてあげることです。

子どもと同じラインに立って ふり返り366日【08/2/26-1】

 小学校英語は,小学校教師たちから「不安」の声が高まりだしたことで,その足元が大きくゆらぎました。
 中学校理科教師の「苦手意識をもつ分野」の統計も,子どもが直視したらかなりショックな記事だったでしょう。

 このような状況では,逆転の発想で教育,いえ,学習に臨むことが,もしかしたら最良の方法かもしれません

 教師も,子どもといっしょに「学ぶ」。

 「指導ではなく支援」などという言葉が一時期はやりましたが,「指導ではなく共同で学ぶ」。

 もしかしたら,総合的な学習の時間も,そのような方法がより子どもの課題解決力を伸ばす結果になるかもしれません。

 ビデオやパソコンなどの教材を,教師が子どもと一緒に活用しながら,ああでもない,こうでもないとやっている「学び」の雰囲気は,きっと子どもたちの学習意欲を高めてくれるでしょう。

08/2/26 【危険!】小学校の悲惨な英語指導

知人が最近、小学校の悲惨な英語指導の実態を見てきて報告してくれました。
 小学校教師は教科の専門性がないですが、どうせ「コミュニケーション活動」くらいなのだから問題ないだろう、というのは大きな間違いです。
 小学校の教員養成系の大学に優秀な英語の教師がいるとは思えませんし、英語活動に慣れ親しんでいる小学校教師はまず想定できません。指導能力に全く保障がなく、検証もされないシステムは即刻中止すべき。
 「相手は子どもだから」という安易な発想が指導者にあるのが許せません。
 授業は、教師と、習い事で英語をやっている子どもとだけで進行したそうです。
 他の子は傍観者。
 知人の子は、すっかり英語嫌いになってしまったそうです。
 中学校の先生はこの子を救えるでしょうか?

英語活動→問題行動の増加?

 “しょう”さん、“まずろ”さん、共感&応援コメントありがとうございます。
<「子どもたちが成長できる」環境を創っていくためにも、教師を育てることや学校づくりは重要ですよね。
 小学校の先生は、字が丁寧で上手なのが最大の魅力です。
 ???の発音の英語は聞きたくありません。
<私自身は小学校で英語をさせるのもひとつの考え方ではあれど、もっと母国語を楽しませることが出来たらと思います。
 ピーターフランクルさんの話は以前も引用したことがありますが、ハンガリーにノーベル賞受賞者が多いのは、「ハンガリー語が難しい言語である」からだそうです。天声人語か何かで使われていましたね。
 日本語も、そうとう難しい。だから、日本語を母国語とすること、日常的に「脳トレ」していることに感謝したいと思います。
 小学校英語は、学校で取り組む必然性に乏しい。塾や習い事でやった方が、はるかに高い効果が得られる。
 何でも直接投資して得たものは身に付けやすく、いつでもやめることができる。教室や先生が選べる。
 望んでなくても与えられて、しかもそこから逃げ出すことはできない。
 小学校の問題行動はこれからもっと増えるんじゃないか。・・・・そんなことまで言っている人がいました。

WBC・地獄からの生還 イチロー

 バント失敗で更新されたイチロー選手のWBC・連続無安打は,チームのムードを逆に盛り上げる結果になったのだと私は想像しています。

 イチロー選手の心情を,実力主義第一線で生きている選手たちは,痛いほど感じていたと思います。

 ただでさえ,バント失敗という「痛さ」は非常に大きなものです

 その「痛さ」に連続無安打更新が重なったイチローは,まさに地獄のどん底に落ちていく感覚を味わっていたことでしょう。

 これが,もし1点差でリードされている最終回におこっていた出来事だったら(失敗したときのダメージを考えて,そういう作戦は想定できないかもしれませんが),そして日本が負けた試合だったら,・・・。

 試合後のコメントでも,本人が「天国と地獄」という表現をしていました。

 苦しみ抜いているスーパースターの姿を間近で感じているトップ選手たちは,ヒットが生まれることを祈るような気持ちで見守っていたことでしょう。

 一塁の頭を抜けたゴロで出塁したイチローはベース上で笑みを浮かべていましたが,それは,ベンチから伝わってくるものへの「苦笑い」だったかもしれません。

 センターオーバーの当たりで,他の選手たちの「心のおもり」は吹き飛びました

 明日の韓国戦は期待できるところだと思います。

 初回先頭打者ヒットを祈っています。

WBC・「心中型敗退」の典型か

 往年の名選手が,「老化」が激しくなって成績が悪化しても試合に出続ける状況が続いているチームは,たとえば「優勝」というチームにとっての栄誉の希望をその一人の選手のために捨てることになりかねません。

 野球に比べ,相撲では引退の決断が早いのは,「個人企業」だからなのかもしれませんが,「チームスポーツ」での「実力が出せない元実力者」ほど始末に終えない選手はいません。

 韓国戦を観戦することはできませんでしたが,結果からは,あまりよくない予想が的中してしまったことがわかりました。

 大勝できた理由の全くの裏返しが,連敗という形でよりくっきりと浮かび上がってしまいました

 監督がどうこうする,というのではなく,やはり本人に決断してもらうしかありません。

 教育現場がかかえる問題の解決も,望ましい方法は実はそれしかないのです。

 優秀でかつ好調な選手を起用しても,もちろん勝てる保障はありませんが,成績の悪い本人が悔いを残すことになるでしょう。

 野村監督は「天才だから修正できない」という趣旨のことを言っていました。

なぜもっと早く見直せなかったのか? ふり返り366日【08/2/25-3】

 評価の問題は言い出せばきりがないものですが,たとえば受験をするような小学生の学校の評定は,何の役にも立っていません。
 中高一貫校が小5と小6の成績を使っていますが,ほとんどの生徒が最高の「3」なので,差がつきません。

 小学校の3段階という評価ほど,はてしなくおおざっぱかついい加減なものであることは,入試を行っている中学校ならみんなよくわかっていることです。

 こんな評価のために,ひたすら資料を集めて,よくわからない足し算をするような意味のない労力から,早く教師は解放されるべきです。

 形成的な評価の利点が全く生きていない現在の観点別評価は,ただの時間の無駄でしょう。

 現状でこの評価がいかに無駄であるかを示す資料はすでにいくらでもあるはずですが。

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2008/02/25 「子どもは公立に預けるな!」その4

 和田秀樹著「子どもは公立に預けるな!」(ソフトバンク新書)の内容について、「学歴社会」「学習環境」「公立中高一貫校」の面から考えてきましたが、今日は「内申書」についてです。

 著者は「内申書が子どもの心を歪めている」ことを指摘し、その背景に「関心・意欲・態度」の評価の問題を上げています。これはもう十数年前の議論ですから、さすがに今は「手を挙げる」「気に入っている」だけで評価を高くする教師はいないはずです(心配な保護者の方は、授業参観や保護者会などで「評価基準」を見せてもらうか、直接質問していただくといいと思います)。

 この観点は授業への姿勢ではなく、その教材になっている事象についてのことですから、課題解決などの姿勢によって評価するものです。モーションだけで上げられるものではありません。

 ただ、データとして提示されている、この評価が始まってからの校内暴力の増加との因果関係は「全くない」とは言えないかもしれません。

 「指導より支援」などいう言葉がはやって、習得をおろそかにしてしまったため、「もっとしっかり教えてほしい」「もっと厳しくしかってほしい」「もっと指導してほしい」という子ども(と親)の声がとどかなくなったことが原因かもしれないからです。
 今の子どもたち(「学力」が高い親たちも)は、昔よりもずっと教師の指導力を見極めるゆとりがありますから、「小言」ではなく「指導」になっていれば応えてくれるはずです。

 公立学校の問題点があるとすれば、評価資料の収集におわれて指導がおろそかになっている教師がいることと、「目標」が達成できないでいるたくさんの子どもたちが、さまざまなデータに基づいて「あなたはできません」ということを証明され、自信をなくしてしまっていることです。

 よく、教師の評価も「自信をなくさせるからよくない」といって、研究協議会などでは甘くなりがちですが、公務員と子どもは違います公務員の評価はもっと厳しく、子どもの評価はもっとおおらかに習得を通して「できたような気」ではなく「できる」自信がもてるレベルに引き上げてあげることです。
 教師は「教えたつもり」になっていて、成果が上がっていない子どもの「できない証拠」をせっせと集めている。
 優先順位をしっかりしてほしいものです。

教師を人質に!? ふり返り366日【08/2/25-2】

[教師] ブログ村キーワード

 私も何度か「人質」になった経験がありますが,保護者の力というのは,それが強力に発揮された場合,公務員である学校の教師たちは非常に弱い立場になります。

 特に住民の代表者である議員さんが登場されると,役所ごとかかりきりの状態になり,主導権は行政側にうつりますから,教師たちはますますみじめになります。

 学校教育に対する,「子どもを人質にとられているようなもの」という表現が言わんとすることは,「何か余計なことをしてしまうと,子どもにどんな不利なことが行われるかわからない」という不安・不満感でしょう。

 これを,逆の立場で考えてみるとどうなるのか。

 親が教師を人質にとることは可能なのか。

 いいえ,子どもが教師を人質にとることは可能なのか。

 地域住民でもある保護者の学校における権限が高まる全く新しい教育環境が生まれつつありますが,この環境のもとでは,「自分がいかに優秀な教師であるか」を子どもだけでなく,保護者にもわかってもらう必要があります。

 ただ「優秀なだけ」ではなく,そうであることをはっきりと提示することが,教師には可能でしょうか

 小中学校は,大学のように,何人が読んでどのくらい役に立つのかわからないような論文を書くことで「実績」となるような世界ではありません。

 保護者や子どもとして,どのような教師が自分たちにとって必要であるか・・・そのニーズにあった教師を選べるような環境が,民間からでもどんどん広がっていくと,様相も変わってくるのでしょうが・・・。

 先は非常に長い話ですが,現在でも,少なくとも,強制的に行政側からあてがわれる教師を無条件に信頼する,という中身のない権威主義の時代はすでに去ったのでしょう。

08/2/25 教育の第一義的責任と「保護者教育」

 改正教育基本法では、「家庭教育」に関する条文があることをご存じでしょうか。
 第10条に、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
 第2項には、「国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」とあります。
 保護者が子どもの心身を傷つけ、命まで奪うことがある昨今、「保護者教育」というジャンルが誕生しようとしているのは、このような法的根拠があります。昔から育児雑誌進学情報誌はありますが、国や地方公共団体ができる施策とは何でしょうか。

 このことは、先日もふれた第2条(教育の目標)の三、「・・・公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」と、第13条(学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力)「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」ことをあわせて考えると、保護者がすべきことはもっとたくさんあること、それはときには学校を動かすほどのものである必要があることがわかります。
 よく親は学校に「子どもを人質にとられている」という言い方をすることがありますが、地域の学校として「教師を人質にとる」方法もあります。

異様な学校 ふり返り366日【08/2/25-1】

 「どうしたら教師に授業研究にまじめに取り組ませるか?

 こんな議論がまじめに行われている会議など,一般の方から見ると異様なことでしょうか,それとも,なるほどな,と思われることでしょうか。

 「どうしたら教師のやる気を損なわないように,問題を指摘するか?

 こういう問題で悩んでいる管理職が,日本中の学校にどれだけいることか・・・。

 あるブログでは,とうとう「教師は子どもと同じ」という宣言まで行われてしまいました。

 昔の組合のように,教育の議論がきちんとできればおもしろいのですが,批判ばかりで議論から逃げたり,ただポーズとして反抗しているだけだったり,知識が欠けていたりと,手ごたえが全くなくなってしまうと,エネルギーを感じない分,まだ昔の方がましだったという印象が強くなってしまいます。

 反骨のエネルギーすら失った無気力な教師が多い学校の空気は異様なものです。

08/2/25 強制的に時間を奪い、何を与えているか

 たびたびの応援メッセージをいただいてありがとうございます。
<kurazohさんと同じような考え方をしている教員が多いのが本当であれば、それは非常に心強く感じます。
<また、記事にもあるように自己保身ばかりが前面に出された教員を見ると、それ以上に悲しくもあり情けなくもあります。
<指導者は大きな役割を与えられていますし、それは「負担」ではなく「やりがい」として受け止めるべきだと思っています。
<自分の頑張りが子ども達の成長につながる実感を持てておれば、結果として彼らからエネルギーをもらうことになり、いったいどっちがエネルギーを与えているのかと感じることもしばしばです。
 教師は、後輩ができると(学年主任、分掌の主任、管理職、指導主事の立場だと年上の先生も含まれますが)、子どもだけでなく教師も育てる必要があります
 私の場合は本当にたくさんの先生に育てられたので、その「やりがい」のために言うべきことを言い、成果(手柄)を教師につかんでもらう努力をしてきました(しています)。
 人から感謝されることの少ない教師ですが、50分という時間を強制的に子どもから借り、時間のかわりの「大切なもの」を与え続けることができる教育の仕事はけっして手放したくないものです。

新学習指導要領の先行実施に向けた準備チェックリスト ふり返り366日【08/2/24-3】

 教師たちは「管理」を嫌っているのか,望んでいるのかよく分からないところがあります。

 両極端なタイプとしては,事細かで具体的な指導・助言を望んでいる人と,何があろうが一切おかまいなしという人がいます。

 行政としては,前者に合わせてできることをやるしかない,といったところでしょうか。

 文科省も,現場と協力しながら,新学習指導要領の周知・徹底に熱心になっています。

 問題は,全教師に配布した指導要領が読まれているかどうか・・・。
 恐ろしくて調査なんてできないでしょう・・・。

 文部科学省と全国連合小学校長会及び全日本中学校長会が、新学習指導要領の先行実施に向けた準備チェックリストを作成しました。

 校長会を通じて周知,ということですが,HPに載っているので,こういう伝達ルートのタイムラグがどのくらいあるのかを現場の教師は知ることができるようになります。

 すでにチェックしている学校はどのくらいあるのでしょうか

 中学校のチェック項目をご紹介すると・・・

【共通事項】

□ 新学習指導要領を読んだ。
□ 新学習指導要領の解説を読んだ。
□ 平成21年度からの移行期間中の各教科等における授業時数の増減を理解している。
□ 平成21年度から全面実施される総則、道徳、総合的な学習の時間、特別活動の変更点を理解している。

【各教科別事項】
□ 平成21年度から数学、理科で追加される指導内容を理解し、教育課程の編成で具体化している。
□ 平成21年度に数学、理科で追加される指導内容について、現在使用している教科書に準拠した「補助教材」(冊子)が本年3月中に全中学校に配付されることを知っている。
□ 平成21年度に理科で新たに必要になる実験器具等、教材の準備を進めている。
□ 移行期間中の音楽(平成21年度から)、社会(平成22年度から)、国語(平成23年度から)のそれぞれの移行措置の内容を理解している。

2008/02/24 管理を嫌う教師たちができない管理

 教育の世界では、「自由」「実践の自主性」「自主的な創造の道」をはばむものとして学習指導要領などを批判している人がいます。評論家も大学の先生も学校現場をやめて言論活動をしている人は、ニーズはそういう教員くらいしかないのですが同じような主張をします。
 せっかく時数を減らして「自由」「実践の自主性」「自主的な創造の道」を開いたのに、総合的な学習を充実させられず、「学力低下」批判に何の抵抗も子どもや保護者へのアピールもできなかった現場は、その責任をまた行政に向けるのです。
 こういう人たちに共通するのは、「管理」を「悪」と決めつける態度で、その語句を使う場合には必ず負のニュアンスの語句とセットにします。
 「国家の統制や管理
 「行動を縛る管理システム」など。

 しかし、管理が行き届いていないために、世の中にどれほどの問題、不祥事が噴出していることか

 個人情報の紛失や守秘義務違反など、教員には個人としての「管理能力」がないことも大問題ですが、教育管理職は教員が処分され職を失うのを防ぐためにその本来の職務をどれだけ全うできているか。
 自分たちに都合のよい管理や統制を要求する教師たち。
 自分たちに都合の悪い管理や統制を嫌う教師たち。

 行政の期待に応えられず、子どもや保護者の期待に応えられない現場は、もちろん過度な期待、困難な状況の中で仕事をしているわけですが、それへの対応としては、逆ギレして行政や子ども、保護者を攻撃するのではなく、現場で結果を出していくしかないことは言うまでもありません。

 もちろん不満を表現するなとは言いませんし、「世論」を形成できないような弱い政党はなくていいとは言いません。しかし、言えば言うほど信頼をなくしていくことに気付く必要はあります。

 本多勝一と佐高信の違いは、毒舌でやっつける相手に隠された愛情・期待をもっているかどうかです。
 同じ批判なら、佐高のようなスタンスで語ってもらえると、理想の改革が見えてくるかもしれません。
 以前にもふれましたが、完全に制御不能に陥るまで「この学校(学年)は大丈夫です」と保護者に訴えていたのが、授業が成立しなくなってはじめて保護者会を開き、「家庭でも何とか言ってくれ」というのは間違いです
 子どもは早い時期から不満を漏らし、親は「いつかは何とかしてくれるだろう」という期待で見守ってくれていたはずなのです。取り返しのつかない状況になるまで情報開示をしない体質のある学校は、一連の偽装企業を笑うことはできません。

知の筋肉を強化する新学習指導要領

 よくスポーツ選手は,「脳みそまで筋肉でできている」と自称(自傷?)したり他者からからかわれたりしますが,能力開発,知の技能UPをするという意味で,「知の筋力強化」「知の筋肉をつける」という表現はわりあいしっくりくるような気がします。

 今までの教育は,心の筋肉をつけることには比較的力を入れてきたように思いますが,「知の筋肉」については,それを育てているという実感自体がなかったように感じています。
 
 心の筋肉は,自分自身や友達などとの葛藤を通じて,ときに乳酸がたまって疲労を感じたり,激しい運動で痛みを覚えることはあっても,決して切れることはなく,だんだんと太くなっていく,そのように「育つ」イメージはありました。

 ただ,葛藤を避けたり,みんながみんな他人の顔色ばかりうかがっていると,摩擦はなく痛みも感じない代わりに,筋力はつかないか衰えていくように思えてきます。

 トレーニング→休息→トレーニングというサイクルを,自分でコントロールできるような子どもは,どんどんたくましくなっていき,そのコントロールができない子どもが,疲れすぎて動けなくなったり,筋力がつかないで重さへの抵抗力が不足してしまったりするのでしょう。

 このようなたとえを,「知の筋肉」にあてはめてみるとどんなことが言えるのでしょうか。

 そもそも,「筋肉」自体には「感情」はないのでしょう。「心の筋肉」でも,「筋肉」が「」を強くすることはあっても,あらかじめ強い「心」はない。
 
 「」が安定して強そうに見えるのは,周りの手厚い保護があっての賜物で,一歩その保護圏から足を踏み出すと,とたんに不安定になってしまう
 栄養が行き届いている体でも,自ら動かないと,筋肉は成長しません。

 「知の筋肉」と言ったときにも,イメージとしては,遺伝でもとから優秀な「知」はない

 「筋肉」を効果的に動かすことによって,「知的」になっていく。

 ここで今までの「学習」の問題点を挙げるとすると,この知の筋肉の強化がおろそかだった。

 「筋肉」への栄養分ばかり補給しようとしていて,肝心の運動が欠けていた

 中には必要のない脂肪ばかりが筋肉を圧迫し,動くこともままならない,そんな子どもまで登場しました。
 
 昔から言う「頭でっかち」というのは,知的筋肉質ではなく,ただの脂肪太り知的肥満体であることを指しているのです。
 
 「活用と探究」という新学習指導要領のテーマを,「知の筋力強化」というイメージでとらえてみたらいかがでしょう。

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「不易流行」対話編

不易と流行が一体として意味があるというのは言うまでもないことです。いま問題なのは,不易を踏まえずに流行に惑わされている教育の動きです。さて,教育における「不易」とは何か。そこをまず押さえるべきではないでしょうか。(madographosさんより)

 真の「不易」というのは,わかっているようで,わかっていないものが多いのです。
 たとえば基礎・基本の習得が大切,といいますが,どのようにしたら基礎・基本が習得できるのか
 その指導法にすら絶対的な正解はありません。
 新しい方法の開発,目の前の子どもに合った対応が常に求められているのです。

 そのとき考慮に入れなければならないのが,社会や環境,子どもの変化ということになります。

 発達障害という課題など,新しくわかってきていることも,考慮に入れていく必要があります(法令化もされました)。

 「不易」は「流行」の中で絶えず追究していかなければ到達できない部分もあり,それを「踏まえる」ことが容易にできるようなものでもないのです。

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最多世代の親と最少世代の子ども ふり返り366日【08/2/24-2】

[学習指導要領] ブログ村キーワード

 現在の小中学生の親の世代は,学習指導要領が示す内容が最も多い時期を過ごした「詰め込み」世代であり,その子どもたちはと言えば,最も内容が少ない学習指導要領のもとで学ぶ「ゆとり」世代となっています。

 今の親たちが小中学生のころは,その親たちの高校進学率がまだ低かった時代でもあり,親から見て「新しいこと,自分たちが習っていないことをたくさん学んでいるなあ」という実感があったわけですが,今はその逆(「自分たちが習ったことも学んでいない。大丈夫なのか?」)になっていること。

 おそらくこのことが,「より多くのことを学ばせたい」「より高度な教育を受けさせたい」という動機のもとになっているのではないかと考えられます。

 そして,経済的な状況が許せば,自分たちがやってきたのと同じように,子どもを受験に向かわせるようになる・・・。

 中学受験の塾のテキストを見ると,やはり昔とほとんど同じ「網羅主義」です。

 特に社会科などは,習っていない漢字を書かせることも当たり前になっていますから,おそらくこのことは,「社会科嫌い」に拍車がかかっている原因になっているとも思われます。
 とりわけ地理的な内容は,よく実態が飲み込めないまま「地名」「物産名」ばかり大量に覚えさせられますから,それが絶対によくないとは言いませんが,興味がない子どもにとって苦痛であることは間違いないでしょう。

 ただ,「たくさん知っていること」で安心感をもつことができるというのが,子どもにも大人にも共通していることは確かなわけで,それを今度は「テスト向け」「受験向け」ではなく,どう「活用」するかが大テーマになる次の指導要領というのは,ある意味では一歩進んだ教育に変身していくきっかけになり得ると考えることもできるわけです。

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08/2/24 改正学校教育法をご存じですか?

 改正された教育基本法については、教育の目標が5つ示され、その中に「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」が含まれていることなどをご存じの方も多いと思いますが、学校教育法についてはいかがでしょう。

 改正学校教育法では、第21条に義務教育の目標が9つ、そしてそれらの目標を達成するために「特に意を用いなければならない」こととして、第30条の2に次のような内容が示されています。

 生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うこと

 ・・・このように示されて初めて気付く人もいるかもしれません。

 「主体的に学習に取り組む態度」とは、まず「基礎的な知識及び技能が習得され」なければならないこと、そしてこれらを活用して課題を解決する能力をはぐくむことで養われるものだということです。

 学習指導要領の改訂でも、ここが強調されています。
 今までは、何も教えず、習得させず、「活用してみろ」と言って、子どもがやったことは、本やインターネットに示されたものを写して読むことでした。
 「主体的な学習」とは自分で課題を見つけ、解決するようなもので、学校で言われなくてもやることです。それが「生涯にわたって学習する基盤」になるのです。

 ゆとりの中で育成しようとしたのは、こういう「生きる力」のことでした。

 しかし、ゆとりの方に比重がかかり、分量を減らしたのにできない、教えないからできない、習得させないからできない、という状況が生まれ、非難の対象になっていました。

 次の学習指導要領の完全実施は少し先ですが、移行期間に前倒しで実施できることも多く、来年度からの教育も大きく変わるでしょう。
 各学校は来年度の教育課程届けを教育委員会に受理してもらうため、審議する時期ですから、今、教務や管理職は時数の調整におわれていることでしょう。
 教育委員会から指示が出ていると思いますが、改正教育基本法、学校教育法をどれだけふまえた目標づくりができているか、授業時数はどうなるかがポイントになりそうです。

子どもが感じ取る教師の規範意識 ふり返り366日【08/2/24-1】

 競争原理に否定的な教師の態度は,当然のことですが,その負の側面を忌避していることが背景にあります。

 ただ,これも当然のことですが,競争原理は社会をより良くしていく方法の一つでもあります。

 負の側面への忌避には,たとえば「努力も嫌いだが,競争には負けたくないという一心で行われる不正」が行われること(実際にテストの答案の書き換えなど,教師も不正を起こすものであることが実証されています)の想定もあります。

 このような想定があること自体,教師は自分たちに対する誇り」と「信頼を失っている証拠になります。

 企業による偽装行為などの不正は,消費者への直接的な被害とか,存続が危ぶまれるほどの信用失墜を招くことになりますが,教師の場合は,社会の方も「やっぱりやったか」という程度の認識だったり,処分が行われなければ「子どものことを思って軽い気持ちでやってしまった」という言い訳ですまされてしまう可能性もあります。

 ルールを守ろうとしない,そういう態度を子どもにとって最も身近な教師がとってはなりません。
 時間にルーズなところなど,教師の規範意識のレベルの低さが子どもに与えている悪影響は以前にもふれたことがありました。

 現行の学習指導要領を最初に読んだときも痛感したことですが,ここで育てようとしている人間像は,実はまず第一に教師たちに求められている人間像であるということです

 「不易」にすがろうとする教師たちは,それが実現されない原因を「社会の変化」というものに求めようとします

 しかし,社会が変化するのは当たり前であって,「不易流行」の考え方がない限り,時代に取り残されてしまうのは明らかです。

 特に現在が厳しい状況にあるのは,その社会の変化のスピードが上がってきていることと,変化によってもたらされる課題への対応が容易なものではないということがわかっているからです。

 ですからたとえば競争原理の利点を最大限に活用しながら,それが引き起こす問題には厳正に対処していくような姿勢とか,競争原理の負の面が出にくいシステムを構築するとか,そういう「現実的な対応」が求められているわけです。

 「自ら学び,自ら考える力」「問題解決力」のある教師が求められています。

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08/2/24 「子どもは公立に預けるな!」その3

 公立をひとくくりにすると、どんどん新設されている中高一貫校はどうか。
 以前にふれたとおり、公立の中高一貫校は「ゆとり教育」の充実とセットで設置が構想されたものですから、和田秀樹の主張にしたがうと「薦められない」学校に含まれることになります

 TVで放映されたインタビューでも、「進学のため」というよりは、「高校のときに受験がなくてすむから選んだ」という子どもの素直な動機が報道されていました。

 こういう学校の場合、塾に通い、高校進学段階で、大学進学実績のよい私立高校を受験したくなる生徒が出てくるかもしれません。それについてはここでは触れませんが、学校側にとっては定員管理の難しい問題です。

 著書で和田秀樹は、「進学実績のデータがないから態度は保留」としています。
 国立はどうか。
 国立の中には地方だと附属高校がなかったり、都内だと小学校から上がってくる生徒が多くて定員が少ないために難関だったり、小学校からは学力が高くない生徒が多く進学するので大学進学実績はたいしてよくないなどの理由があって、和田の理念から言うと薦められなくなるようです。

 なぜ「学歴」が必要になるかについて和田は、前回紹介したように、「これから学歴社会になること」「より厳しい競争社会になること」が根拠のようです。

 和田は教員批判をしていませんが、「競争原理の排除」を訴える教師がいる公立学校には絶望しています
 子どもにどこまで「競争力」を求めるか。議論が必要なところです。

開成高校の異変の原因? ふり返り366日【08/2/23】

 学力に関する発言は,分かりやすいものほど一面的なものであり,そういう場合に使われる最も典型的な数字が「東大(・京大)合格者数」というものです。

 今年は開成高校の東大現役合格者数がかなり減ったことが「異変」として扱われているようですが,まさかこれが「学習指導要領の趣旨を踏まえない教育をしていたせいだ」と考えている人は少数派でしょう。

 私立ですから「ゆとり教育が原因ではない」ことははっきりしているのでしょうが。 

 東大の入試問題はもともと「思考・判断力」「要約力」「表現力」などが問われる「良問」がそろっており,そういう能力を伸ばそうとしているのが現行の(そしてその趣旨をさらに引き継ぐのが次の)学習指導要領ですから,学校教育の質がより問われてくるようになるのではないかと思います。

 ただ,一般的な公立学校では,教師の「表現力」「要約力」のみでかなりのウェートがかかっている授業が展開されていますから,その力量がそのまま子どもに反映されやすくなっています。

 教師はもっと「良問」とよばれる問題群を分析し,そのような質の高い教材を取り込みながら,授業改善に努めていく必要があると思います。

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2008/02/23 「子どもは公立に預けるな!」その2

 和田秀樹が私立の中高一貫校を薦める理由の一つに、「周囲による動機づけ」がはたらくというものがあります。
 一部の人はこれを競争をあおるものとして受け止められるかもしれません。
 ただ、「周りが勉強している環境であれば子どもも勉強する」が、「周りが勉強していない環境だと子どもは勉強しない」というのはある程度の一般性がありそうです。
 そう考えると公立学校で勉強している子どもというのは、もしかするとすごい能力の持ち主かもしれない
 しかし、公立学校では、勉強していない環境の中で勉強をしている(これはもちろん普通の定期考査でいい点をとるという意味での勉強ではありませんが)子どもがさらに力を伸ばせる機会がない
 和田秀樹の場合には、それを学習指導要領のせいだと主張します。
 だから、それを逸脱している私立の中高一貫校がお薦めだという考えです。
 私立の方がまともに勉強している子どもが多いから、そういう環境だけでもお薦めできる、ということ。
 学ぶ環境の面で公立は私立に負けている。これに反論できる方はいらっしゃいますか。

WBC・際立つ韓国の強さ

 野球はピッチャーの好調さが打線の勢いを呼び,打線の勢いが投球の余裕と大胆さを呼ぶ,この理想的な好循環をつかんだ側が当然,有利になります。

 今日のキューバ戦は,ストレートもスライダーもきれていた松坂のいいピッチングがすべてだとも考えられますが,キューバもエースで戦っており,得てして「投手戦」になる場合も多いわけです。

 キューバのエースを日本打線が攻略できた鍵は,「変化」にありました。

 ボールを見る1・2回,積極的に打ちに行く3回。

 積極的に打ちに行けたのは甘いコースにカウントを取るためのボールが来たおかげでもありますが,「甘いボールを呼び込む」作戦が的中した形です。

 相手の動きの「変化」に気付くのが遅れたのと,松坂の左右を揺さぶる「変化」に対応できなかったのが,キューバの敗因となりました。

 テレビでは「事実上の決勝戦」という紹介もありましたが,ちょっと首をかしげたくなってしまいます。

 日本の次の大きな壁は,韓国戦です。

 強いチームには,小手先の技は通用しないわけで,調子のいい選手をどんどん起用して,「勢い」を味方につけるしかないでしょう。 

 それにしても,ミスもたくさんありながら大崩れしない韓国の強さは際立っています。

 予選の緒戦のように,ワンサイドゲームになることはもはや想定しにくいでしょう。

 「切り替え力」が勝利の決め手になってくるのではないでしょうか。

アンケートにご協力ありがとうございました

 2009/01/15から実施させていただいていた「FC2投票」(アンケート)ですが,「中学校で一番好きだった先生は、どの教科を教えている先生でしたか?」については,19人の方に投票していただきました。ご協力ありがとうございました。

 結果は社会8票(42%),国語,数学,英語,そして美術と技術・家庭(これだけ抱き合わせで恐縮でした)が2票,理科,音楽,保健体育が1票でした。
 「社会科」の教師が特に多かったのですが,これは偶然でしょうか。

 また,「一番好きな『授業』のイメージは?」については,わかりやすい授業4票(25%),おもしろい授業とやる気がおこる授業とが3票,参加型の授業と飽きない授業が2票,やりがいのある授業とあたたかい授業が1票でした。

 今回は「裏返し」で考えることはしませんが,人間の「好み」によって左右される教育の効果については,研究する価値があると考えています。

 「好き」ではなく「ためになる」とか,異なる価値観で問うことで,また回答も変化するかもしれません。

 ただ,やはりどの授業もわかりやすく,楽しく,先生方みんなが好かれるような学校が理想的であることは間違いないでしょう。

「子どもを公立に預けるな!」の真意 ふり返り366日【08/2/22-3】

 今年度の中学受験の状況はいかがだったのでしょうか。
 不況のときは,私立中受験者が減るのは当然のことなのでしょうが。
 あとは,受験する学校の数をしぼるなど・・・。

 1年前の記事ですが,もし「子どもは公立に預けるな!」が公立学校に勤めている教師が語る後輩への教訓になっていたとしたら,深刻な状況でしょうね。

 最近は,指導力不足などの教員の質の問題ではなく,学習指導要領の改訂や教育委員会主導の「教育改革」が公立学校の教育を崩壊させている原因だと主張する人まで現われましたから,そういう話もあながち空論ではなくなりつつあるかもしれません。

 どっちにしても「公立に預けてはいけない」状況が生まれてくるようになるのでしょうか。

 「教育改革」抵抗勢力には,「昔よかった」と懐古主義にひたろうとする人もいますが,それでは「昔からよかった」学校にはかなわないでしょう。

 私は子どもを公立に預けていますが,もし「私立」や「国立」に子どもを進学させることができていたとしたら,「子どもを預ける」ことになったかもしれません。

 しかし,公立に子どもを進学させる上で,私は「公立に預ける」という認識を持たないようにしていました。

 「公立に預ける」のではなく,「公立で育てる」という意識が大切だと考えているわけです。保護者としての参画意識が必要なのです。
 保護者の参画が想定されていない「公立」はあり得ません。
 
 「子どもを公立に預けるな!」という言葉の望ましい意味が広まっていくことを期待したいと思います。

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2008/02/22 「子どもは公立に預けるな!」その1

 和田秀樹著「子どもは公立に預けるな!」(ソフトバンク新書)は、その内容がほとんど想像どおりだったのと、独自の取材内容が目につかなかったので買ってちょっと損した気分になりましたが、「これからが本当の学歴社会」という「受験宣伝文句」は実感がよく伝わってきました。

 今までは本当の学歴社会ではなかった
 東大出身だからといって、入社していきなり高給とりになるわけではなく、スタートはどこの大学を出ていようが、みんな一緒。ただ、大学全入時代になると、出身大学ごとに異なる給料で人材を集めようとする企業が増えてくる。

 どんな大学出身だろうと、学力がついているかどうかが判断基準であることも、もちろん間違いない。
 だから、有名大学附属のエスカレータで手を抜いていた人は、当然、採用されない。

 「学歴」プラス「学力」がセットで求められる時代が来るというのです。
 受験産業をバックアップするコピーとしては優秀なものです。

学習指導要領が求めている「言語活動」 ふり返り366日【08/2/22-2】

[学習指導要領] ブログ村キーワード

 新しい学習指導要領が実施されると,確実に課されることになる「宿題」があります。
 それは「レポート」のように「自分の言葉」で表現するタイプのものです。

 以前にも解説の総則編からひきましたが,教育課程実施上の配慮事項の第一が,中教審答申等の流れを受けて,「生徒の言語環境の整備と言語活動の充実」というものになっています。教科では・・・

 

国語科は、従来から言語に関する能力を育成する中核的な教科として重要な役割を担ってきましたが、話すこと・聞くこと、書くこと、読むことのそれぞれに記録、要約、説明、論述といった言語活動が例示されています。

 国語以外の教科についても、それぞれの特質に応じた言語活動の充実について記述されています。
 (以下、中学校の教科)

 社会→持続可能な社会を形成するという観点から、私たちがよりよい社会を築いていくために解決すべき課題を探究させ、自分の考えをまとめさせる活動

 数学→数学的な表現を用いて、根拠を明らかにし筋道立てて説明し伝え合うといった数学的活動の充実

 理科→問題を見いだし観察、実験を計画する学習活動、観察、実験の結果を分析し解釈する学習活動、科学的な概念を使用して考えたり説明したりするなどの学習活動の充実

 音楽→音楽を形づくっている要素や構造と曲想とのかかわりを理解して聴き、根拠をもって批評するなどして、音楽のよさや美しさを味わうことの重視

 美術→造形的なよさや美しさ、作者の心情や意図と創造的な表現の工夫、目的や機能との調和のとれた洗練された美しさなどを感じ取り見方を深め、作品などに対する自分の価値意識をもって批評し合うなどして、美意識を高め幅広く味わうことの重視

 技術・家庭→衣食住やものづくりなどに関する実習等の結果を整理し考察する学習活動や、生活における課題を解決するために言葉や図表、概念などを用いて考えたり、説明したりするなどの学習活動の充実

 保健体育→作戦などについて話合いに貢献しようとする活動の重視

 授業の場ですんでしまうものもありますが,表現する子どもの数が限られるのと,それをその場で評価できる教師の能力という問題もありますから,授業外での「書く活動」が今後は一段と増えるようになるのでしょう。

 この他,外国語科,道徳,総合的な学習の時間,特別に活動において配慮すべきことや,「学校生活全体における言語環境の整備」をする上で,留意すべきとして例示されているのが以下の6点です。

1 教師は正しい言語で話し,黒板などに正確で丁寧な文字を書くこと
2 校内の掲示板やポスター,生徒に配布する印刷物において用語や文字を適正に使用すること
3 校内放送において,適切な言葉を使って簡潔に分かりやすく話すこと
4 適切な話し言葉や文字が用いられている教材を使用すること
5 教師と生徒,生徒相互の話し言葉が適切に行われるような状況をつくること
6 生徒が集団の中で安心して話ができるような教師と生徒,生徒相互の好ましい人間関係を築くこと

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08/2/22 学力観の誤解が諸悪の根元か

 Psycheさんからいただいた、~宿題を「やらない」権利は子どもにあるか~の記事に対するコメントをご紹介します。

<仰るとおりだと思います。
<どうも公教員のブログなどを見ていると違和感を感じることは多いのですが
<kurazohさんの意見は共感できるものが多いです。
<内発的動機付けが大切なのはいうまでもありませんが
<弱いからこそ流されがちな子どもに対して向き合える
<指導者としての毅然とした姿勢は必要でしょう。
<子ども達が自分で学ぶことが大切ということに終始する指導者には
<だったら指導者の存在意義は何かといつも問いたい気持ちになります。

 ブログをつくったり読んだりしない、普通の忙しい公務員や教師は私と同じような意見の人が多いと思いますので、あまり悲観的になられることはないと思いますが、ご自分やご子息が困った教師の影響を受ける当事者になったら、「教師はみんなこんなものか!」と憤りになることは間違いないでしょう。
 ブログを読むと、学習指導要領の「最低基準化」の意味を誤解している人がいるようです。
 「最低基準化」とは、「これだけはみんなに身に付けさせて!」というもので、それが定着できたら、どんなに発展的な学習をやってもよいわけです。
 これに対して、「最高限度化」は、「これ以上は学習してはダメ」と制限をかけるもので、入試の出題範囲の原則に役立つようなものです。
 ゆとり教育は、ゆとりのなかで「基礎・基本」だけでなく「課題解決能力」を育成することが使命だったのに、基礎・基本が不十分な上に、総合とのリンクがうまくいかなった学校は、思考力・判断力・表現力も育っていない
 そういう判断力が身に付いた保護者が、子どもを受験に向かわせたわけです。
 さて、前回の記事の補足ですが、「宿題をやらない権利は子どもにあるのか」という問いに対して、二つのケースについて、「ある」と回答する用意があります。
 ひとつは、学校で完全に習得させてもらっている場合。
 もうひとつは、宿題よりも優先して学びたいものを子どもがもっている場合。
 後者の場合は、小学生では難しいかもしれませんが、中学生は読書、塾、本人の趣味や研究のために、カリキュラムで定められた以上の時間を強制的に特定の教科のために振り分けられるのは、免除してあげてもいいかなと思います。
 かつてもふれたことですが、「関心・意欲・態度」の評価はさまざまな矛盾を生むものです。
 他の内容の関心が高まってしまうと、学校の学習単元の意欲が低下してしまう
 教師の授業中の話に触発されて、私はよく学校の帰りに岩波新書やブルーバックスを買って読んでいました。単元の学習とは関係のない高度な内容の本ですが、読みたい衝動にかられ、時間がたつのを忘れてしまいました。ここで障害になるのが、英語の宿題です。
 英語という教科は、机やラジオの前に強制的に向かせるもので、「学習習慣」「言語的な諸能力」をつけるという意味では最適な教科です(それ以上は言わないことにします)。しかし、最低30分か1時間か家で勉強しなければいけないのは、他にやりたいことがある自分にとってはマイナスでした。
 小学校の場合は、塾に通っていない場合、「宿題がなければ家でまったく机に向かわないので困る」という親が強いプレッシャーをかける以上、担任は出さざるを得ません。
 内容がやさしくなった分、学校での理解で十分だと思う子どもが多くなり、家で勉強しなくなりました。これは調査の結果、明らかになっています。
 宿題の目的を学校、保護者、子どもが共有化できているかが課題だと言いたかったわけです。

「宿題」運用規則の策定を ふり返り366日【08/2/22-1】

 塾に通う子どもたちの中には,そこから出される宿題も含めれば,たとえば5教科の学習についていうと,通っていない子どもの倍以上の時間,机に向かっている場合もあるでしょう。

 同じような能力の子どもで比較してみても,「長時間,机に向かうこと」の効果は大きいものがあるでしょう。

 それはだれでも考えることなので,学力向上に子どもの自己責任が欠かせないとして取り組ませたい学校では,教師の方から課題=宿題を課すことになります。
 
 宿題は,その内容や量,質にもよりますが,子どもにとってさまざまな意味での負担になります。

 まず,学校の授業内容が理解できておらず,自分ではできない,分からないタイプの子どもの場合。

 次に,塾に通っていたり,自分でやるべきことがわかっていたりして,要は学校の宿題がなくても十分である子どもの場合。

 たとえば,宿題の提出が成績に加味される場合,こんな問題も考えられます。

 授業も分からないし,宿題も出せないから,成績がどんどん下がる

 授業は分かっているし,その証拠に,定期テストでは高得点をとっているのに,宿題を出していないという理由で,成績が下がる

 授業は十分に分かっていないし,宿題も答えを見ながらやっているだけなので,定期テストでは点数がとれないのですが,「自宅学習をやっている」「宿題を出した」というだけの理由で,成績が上がる

 これが,何と「関心・意欲・態度」の評価に加味されたりする・・・・。

 また,学級担任をしていると分かることなのですが,各教科担任は他の教科担任の授業の内容や進度,宿題の量などを調べようとはしないので,ある特定の期間に多くの教科の宿題がかぶってしまうケースもあります。それも,時間的なことも考慮すると,特定のクラスの子どもにだけ負担がかかる場合もあります

 小学校では,1組は宿題がほとんどでないのに,2組は宿題が多い。

 テストの結果はほとんど同じ・・・。
 
 以前にもふれた内容かと思いますが,目的,結果の利用等を含めて,「自宅学習」「宿題」「課題」「自主課題」などのガイドラインを各学校では作成する必要があると思われます。

08/2/22 宿題を「やらない」権利は子どもにあるか

 子どもには、学力が不振でも、教師から特別な課題を与えられたり、補習を受けさせられたり「しない権利」はあると言えるでしょうか。
 その子どもが道徳的価値をしっかりもっていて、生活態度もよく、健康であれば、教師は「人間の個性はいろいろだから」と学力面を何としても上げなければ・・・と思わない傾向があるのではないでしょうか。
 一方で、道徳的実践ができておらず、基本的生活習慣に課題があり、学力が不振である生徒にも、まずは勉強よりも生活の建て直しを、と教師は考えるのでは。
 「規範意識がもてて、共同生活がきちんと送れてさえいれば、低学力でも問題ない」という考えを、すべての公立の教師が思っているわけではないと思いますが、そうわりきっている教師は多いのではないかと思います。
 教育心理学の教科書を読まなくても、「内発的動機付け」が大切なことはわかりきったことなのですが、教科指導の専門家である中高の教員が、「やる気」のない、しかし「よい子」である子どもには、勉強の負担をかける必要はないだろうという立場をとることは、保護者から見ればどうなのでしょう。
 子どもの立場から、「勉強ができなくても、提出物が出せなくても、そっとしておいてくれる先生が好き」という要望があるとして、学校はどのような姿勢であるべきなのでしょうか。
 そういう子どもに優しい公立学校というのは、長所なのか問題なのか。
 学校はこれまで自己責任回避能力では際だった面を見せていましたが、その責任はだれが問うものなのでしょうか。

視聴率至上主義と不易流行 ふり返り366日【08/2/21-2】

 報道番組が,ニュースの力ではなく,タレントの力に支えられていることは,子どもでも気付いていることでしょう。

 視聴率至上主義の世界では,「視聴者」の目から見た,「期待通りのパフォーマンス」があるかないかが勝負になります。

 教育の世界では,「改革」が「飽き飽きする」対象の言葉になっていますが,報道の世界でも,「聞き飽きていること」が,たいてい,とても重要な課題であることが多いのではないでしょうか。

 どうしても「真新しさ」が必要なのであれば,「不易流行」の言葉通り,常に新しい角度から「聞き飽きていること」に光を当ててくれるような報道を期待したいと思います。

2008/02/21 子どもも飽きる報道番組

 テレビのニュースを見るたびに、マスコミは子どもたちをよく教育しているのだと感じます。
 「責任をとって辞任しろ
 「**が悪い
 同じような態度を子どもは学校でよくとっていました。
 自分は当事者ではない安全圏から好き勝手に文句を言う
 そういう思いこみをなくすために、
 NHKなどは、「人のことは言えませんが」などとニュースの後にいちいち付け加えておくと、道徳的価値が高まるというか、信頼感が増すのですが。
 問題がおこると、すぐにその監督責任が話題になります。
 米軍の問題については、問題を追及する政府の姿勢をニュースにします。(アメリカによく行き届いた配慮のようです。)
 マスコミの報道パターンはいつも同じなので、子どもですらコメンテーターが何を言うかが予想できるようになってきました。
 新聞記事でも、記者に書く力がない場合は、ここではこういう事例、あそこではこう、有名なだれだれはこう言っている、という紹介で終わり。教育に関する記事はほとんど参考になりません。
 新聞は情報リテラシーを育てる教材としての適性が高いのですが、本当に参考になる記事が少ないのが気がかりです。

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何度目でしょうか? 不易と流行について

 「不易」が何である,ということは,決して軽々しく言えるものではありません

 「真の何何」は「何」である,ということは,口に出すのはかまわないのでしょうが,十人いれば十通りの「真」があり得ることを想定しなければなりません。

 教育現場においても教師としてだけではなく,あくまでも一人の人間として,その時代の流れや子どもたちの実態を踏まえて,そのときにあった最善のかたちを追いかけていく姿勢こそが求められるのであって,「成功したあかし」があるわけではないのに,過去のことをそのまま踏襲したり,過去はあったと思えるような(幻想かもしれない)「権威」にすがろうとしたり,そういう「後ろ向き」の姿勢というのは,「不易」を追求していくかたちとしては課題が大きいものと言わなければなりません。

 「不易」とは「流行」の中で永遠に追求していく「テーマ」であると考えることができるのです。

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反論できないタイプの人の典型的なパターン

 ものの考え方の相違があるときに,何かを指摘されて反論できないタイプの人の反応には,典型的なものがいくつかあります。

 それは,「あなたが偏っている。」という「悪いのはお前だ」という責任押し付けパターン

 それから,「よく意図をくみとれ。」という「悪いのは私ではない責任逃れパターン

 あとは,そもそも「議論をしたいわけではない」という「逃げ」のパターン

 話がかみ合わない原因には,見えている風景,見ようとしている風景が違うことが挙げられます。

 たいてい,「目をそらしている風景」のことを指摘されるのは痛いのと,そのことを背景にして考えてしまうと反論できなくなってしまうので,「見る必要はない」という指摘になって帰ってきます。

 現場で一番困るのが,現実から「目をそらす」タイプの人で,「見えていない」人よりもこれはやっかいな存在です。

 「変化を好まない」のが島国人の特徴なのかもしれませんが,だからこそ芭蕉は「不易流行」を有言実行したわけで,この「だからこそ」が伝わっていくような教育環境が今,求められていると考えています。 

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線をまたぐ「切り替えのスイッチ」

 ディズニー・ワールドには,5時間かけてその「舞台裏」を体験できるツアーがあるそうですね。

 それを体験したレポーターが,「黄色い線」の話をしていました。

 その線をまたいだ瞬間から,従業員は完全にキャラクターになりきる

 切り替えのスイッチの一つなのでしょう。

 ここでは,「黄色」というカラーも一つの鍵になっている気がします。

 信号の色にしろ,電車のホームの点字ブロックにしろ,マクドナルドの看板にしろ,黄色には注意を引き付ける効果があります。

 学校にも,このような危険な箇所であることを示すためのラインや,このラインから先はおしゃべり禁止,とか,勉強に集中,とか,そういうものがあってもいいかもしれませんね。

 天窓のまわりに黄色い線があるのとないのとでは,教師の意識も子どもの意識も変わっていたでしょう。

 個人的には,(野球の)グラウンドに入る,アスファルトと土の境目や,一塁と三塁のラインなどが,「切り替え」のための線になります。

 礼儀作法として,「踏んではいけない」ものに「敷居」がありますが,「またぐもの」として,ただの「」ではなく,このような役割を果たすものもあります。

 一方,「線引き」をしないで「あいまいなまま」であることを受け入れるような文化もあり,「」と日本人には調べていくとまだまだたくさんの「」があるのかもしれません。

抵抗勢力の頑強さ

 授業改善学校改善は,例外なくすべての教師や学校が取り組むべき課題です。
 
 しかし,教師の犯罪行為をはじめとした多くの問題は,「改善という段階以前の問題」として学校にのしかかってきています。

 授業改善や学校改善に取り組む前の段階で,たとえば次年度の組合の「役付き」「学校代表」をだれにするのかで紛糾して時間が無駄になるという,役員立候補者が出ないで抽選で決まってしまうようなPTA保護者会のような実態を見せている学校すらあるでしょう。

 とにかく多くの教師たちは,「人から命令されること」が嫌いです。

 たとえ形の上でも,「自分たちが自主的に行っている」ような研究でないと,やる気になりません

 しかし,だからといって,自主的にすべての学校や教師がやる気になるわけではないのは,組合の役員決めなどでも見られるし,そもそも授業等で「自ら学び自ら考える」子どもを育成する難しさを知っている自分たちが一番よく分かっているはずなのです。

 組合の話は置いておくとして,授業改善などは,行政からの要請があろうとなかろうと,常に必要なのです。

 そこに子どもたちの「満足できない」学習状況,生活状況がある限り。

 ただ,「抵抗勢力」の強さに打ち勝てるほどの人材が,管理職を含めて学校にそろっているかどうか。

 多くの学校では難しいでしょう。

 だから結果として,改善の姿勢や実行や実績が不十分であることを理由に「差をつける」ことが行われることになるのです。

 「子どもを差別するな」と言う前に,自分たちがすべきことをすればよいのですが,身分が保障されている公務員を動かすのは,本当に難しいものです。

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黒板・壁面の機能 ふり返り366日【08/2/21-1】

[小中学校] ブログ村キーワード

 小学校と中学校で,「文化や価値観の違い」を見せつけられる場面はたいへん多いのですが,パッと見で一番違うのは,「壁面構成」とよばれる,壁への掲示物の貼り方です。

 多くの小学校では,子どもの作品やら何やらが壁を覆い尽くすように貼られており,「○○先生の教室を見習おう」などと号令がかかったりもするのでしょう。

 中学校から見れば,毎日が文化祭のような浮かれた感じがするわけです。(中学校でも似たような取り組みをしている担任がいるかもしれませんが)

 中学受験を扱ったテレビドラマでは,壁だけでなく天井にまで暗記すべきポイントなどを貼っているものが紹介されていますから,そういう「勉強」のムードがある,あるいは「友達の顔」がわかる,そういう環境がいいものだと信じて疑わない人は多いのかもしれません。

 特別な目的意識や教育的な意義が認識されているのなら別にとやかく言うこともないのですが,私がもし教室を一から設計できるとしたら,正面と壁面には,授業で子どもが活用できる黒板(あるいはホワイトボード)を設置します。ロッカーが廊下に設置できるのであれば,窓以外はすべて黒板でもかまいません。

 教師が黒板に「教える」ことを書き,子どもはそれをノートに「書く(写す)」,そういう「普通の授業」スタイルが,いつまで「普通」でいられるか。

 私のイメージでは,今まで教師が黒板を使って説明していたようなものはすべて,プロジェクターか大画面テレビで示し,黒板やホワイトボードは,子どもが自分の考えなどを書いて表現する場所として機能することを期待したいのです。

 たとえば,たくさん意見が出されそうな発問に対して,口頭での発表をさせるとしたら,一度に一人にしか発言させられませんが,黒板に書かせるのであれば,スペースが許す範囲で大勢の子どもが一斉に自分の考えを表現することができるわけです。将来的にはそこに書かれた文字はそのままパソコン上で示され,プリントアウトできるようになるでしょう。

 算数などでは,到達度などに応じて,教室を3~4のグループに分けて,教師役=発表者の子どもがそれぞれ黒板を使っての表現活動ができるわけです。

 授業が始まるまでは教室の壁面は真っ白で,授業が終わると,壁面が学習の成果で埋まって真っ黒になっている,そんな学習環境を理想としているのです。

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08/2/21 読むスピードを上げるための指導

 「アメリカ式読書法」では、「読むスピードを上げるために」という項目で、次の点を薦めています。
 それはそのとおりだろう、と教師や親も思ってしまう内容ですが、こういうことを学校できちんと指導しているか、指導されてきたか、と聞かれたら、いかがでしょう。

注意力と集中力を発揮する
気が散るものを徹底的に排除する
整頓された居心地よい環境を整える
個々の単語や文に拘泥しない。しかし、文の要旨をつかむカギとなる言葉は必ず辞書で調べる
細部にこだわらず、全体の要旨を把握する

 読む目的が変われば、読む方が変わるのは言うまでもありませんが、学校や家庭ではこの環境はどうでしょう。
 小学校に行くと、「壁面構成」などといってやたらと子どもの作品やら九九表やらを貼りまくっているのに気付きます(中学校でもこれに凝っている教師はいるでしょう)が、「学ぶ環境」として、そういうものはプラスの効果だけでなく、マイナスの効果ももっていることに気付かされます。

 子どもへの励ましを増やしたり、クラスへの所属意識を高めたりする指導なのでしょうが、一歩間違えると担任の自己満足になってしまいます。

 数学の問題を解いているとき、掃除当番の表がいつも目に入ったら集中できなくはならないか。
 常にクラスの団結を促す標語を視界に入れながら勉強しなければならないのか。
 ちょっとしたことですが、「殺風景な教室」のプラスの面も捨てがたいのです。
 たとえば、私の勤務校では側面黒板というのがあるのですが、これは一面では書ききれない教科で活用するためのものです。ただ、子どもが掲示板代わりに使って、書くスペースがないクラスが出てきてしまいます。
 担任も連絡板として使う場合があり、ときどき注意を受けているようです。
 子ども部屋の机に座って、集中できそうな場所かどうかは親ならすぐ判断できますね。

学習のキーワード ふり返り366日【08/2/20-3】

 1年前の記事の[  ]にあてはまる答えは,

 達成感,短時間,目的,ノート,学年,机,教科書  でした。

 当たり前のようなこれらの言葉が,学習の上では大事なキーワードになるのだということです。

 学習する「目的」あたりは,「宿題なんだからやりなさい」「教科書に書いてあるんだから覚えなさい」的な発想から脱却するためのキーワードでもあります。

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08/2/20 自学自習7カ条

 小学館の雑誌に「小学生ママの子育て応援マガジン edu[エデュー]」というものがあります。
 特集がおもしろそうなときと、けっこうしっかりした付録がついているときに購入しています。
 2月号は、学力世界一「フィンランドのヒミツ」、学力日本一「秋田県のヒミツ」のほか、メインの特集に「塾に行かないという選択 第2弾 学力格差を家庭で解消する 自学自習のルール」が紹介されていました。

 「小学生の先生に聞いたものの共通項」ということでしたが、次の7つ、[ ]に入るキーワードに学校でしっかり教育してほしいポイントがありました。

子どもが[  ]を得られる工夫をする・・・進歩を目に見えるかたちに

予習復習は決まった時間に、[  ]集中でやらせる・・・子どもの集中力は続かない?

プリント学習の[  ]を自覚させる

[  ]を見やすく書けるようにする・・・学校で指導してほしい!

[  ]の枠に縛られずに勉強する・・・学校でこれをやると「差別」になるからしかたないか・・・。

[  ]の上だけの勉強にこだわらない・・・生活の中で学べる工夫と言っても・・・。

親も[  ]に目を通す・・・共通の話題をもつためですね・・・。

 これ、教師に研修させるときも同じようなポイントがあることに気付きました。
 ちなみに私が重視したいルールは、親もテレビをみるのを我慢する・・・です。

知的な学習と機械的な学習 ふり返り366日【08/2/20-2】

 小中学校では,あまり「知的」とか「知的センス」を磨く授業という言い方はされないかもしれませんが,大学で「知の論理」とか「知の技法」を学んできた教師たちは,やはり「知的」な活動にあこがれることが多いでしょう。

 だから,「百ます計算」や「ドリル」という,知的というより「機械的」な作業ばかりを子どもにさせるのに抵抗感がある人がいるのだと思います。

 ただのウォーミングアップと割り切っていれば問題ないのでしょうが,なぜか本題の授業よりこっちに力が入ってしまう学習集団が出来上がってしまっては危険です。

 「機械的」な学習ばかりを行っていると,優秀な子どもの中にも,「すぐ解答を知りたくなる」=「自分の答えが合っているのかどうかを早く知りたくなる」「合っていることがわかれば,それでその問題への思考はストップして,すぐ新しい課題に取り組みたくなる」子どもが増えていき,「熟考」「多面的思考」ができなくなっていく,そんな危機感も覚えることになります。 

 そのような危機感がもてるだけで実はしめたもので,自分の「知的打たれ強さ」を検証することができるようになれそうです。

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08/2/20 打たれ弱い症候群

 東郷雄二著「打たれ強くなるための読書術」(ちくま新書)では、読書論の分類と批判から入って、「知的に打たれ強くなる」ための読書のあり方が述べていますが、著書によると「知的に打たれ弱い症候群」とは、

すぐに解答を欲しがる
どこかに正解がひとつあると信じている
解答に至る道をひとつ見つけたらそれで満足してしまう
問題を解くのは得意でも、問題を発見するのが不得手である
自分の考えを人に論理的に述べる言語能力が不足している

 というもので、「個人生活における読書という行為の衰退」が症状の要因の一つになっているということです。
 ここで、「打たれ強い教師」「打たれ弱い教師」がどんなイメージかも想像することができます。
 また、「打たれないようにする教師」「他人を打つ教師」という存在も無視できなくなります。
 たとえば、学力格差や学力低下の問題
 これを「学力は低下していない」として向き合わないという選択肢もあるわけですが、「低学力の何がどう問題なのか」「格差が広がることの問題は何か」を校内できちんと議論できているでしょうか
 「学力とは何か」をきちんと教員間で議論しあえる土壌はあるのでしょうか。
 行政が悪い、文科省が悪い、教育委員会が悪い、校長が悪いと言うことで、どんな問題がどのように解決するのでしょうか。

推薦願書出し忘れ報道で気がかりなこと

 同じ過ちが繰り返されないことを願って,都立高校の「願書出し忘れ」というとんでもない過ちについて少し述べようと思います。

 受験生にとって,このような教員のミスというのは悔やんでも悔やみきれない,取り返しのつかない「大事故」です。

 教員に限らず,「うっかりミス」は仕事につきものですが,今回の一件は自動車事故にたとえれば原因は「居眠り運転」です。

 大学側に特例措置を要求できるような「機関」があれば・・・とも思いますが,現状では目標の立て直し,気持ちの切り替えを該当する高校生にしてもらうしかないかもしれません。

 実は今回の報道で私が最も気になったのは,校長先生のコメントです。

 「事故の再発防止にマニュアルを・・・・

というマスコミへの対応は,現在の都教委と都立高校の校長の関係を露わにするものなのだと推測します。

 おそらく,そのような都教委からの「指導」(あるいは「厳重注意」)があったのでしょう。

 しかし,当たり前ですが,マニュアルがなかったことが事故発生の原因ではありません

 あくまでも教員の不注意・怠慢が原因です。

 組織として,指定校推薦関係のマニュアルがなく,チェック機能が働いていないことが原因ではありません

 今回の件でよくわかるのは,「マニュアルがあれば大丈夫」というような安易な思考回路を組織がもってしまっている問題点です。

 むしろ,「そうだからだめ」なのです。

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「蛍の光」の3番と4番をご存知ですか?

 卒業式シーズンです。

 たいていの学校で使われる,小学校唱歌『蛍の光』の3番4番は,以下のとおりです。

 三,つくしのきわみ。みちのおく。
   うみやまとほく。へだつとも。
   そのまごころは。へだてなく。
   ひとつにつくせ。くにのため。

 四,千島のおくも。おきなはも。
   やしまのうちの。まもりなり。

   いたらんくにに。いさをしく。
   つとめよわがせ。つつがなく。

 成立は1882年で,1875年の樺太・千島交換条約で千島列島が日本の領土になったため,初案の「千島のおくも。おきなはも。やしまのそとの・・・」が「やしまのうちの・・・」に変更になっています。
 その後も領土の拡張があったごとに改変されています。
 なお,「やしま」は日本のことです。

 さすがに今は1番と2番しか歌えないわけです。

 もとの曲がスコットランド民謡(「久しき昔」)だったことは知られているかもしれませんが,韓国の国歌のメロディーだったこともあるなんてことを,子どもは知っているでしょうか。 

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知らないこと以上に,人に聞くことが「恥」になってしまう困った伝統をもつ教師 ふり返り366日【08/2/20-1】

 日本とアメリカの教育を比較すると,アメリカでは「学習技能」とよばれるジャンルに関するノウハウが豊富です。
 このことは,またいずれふれることになるかもしれません。

 日本では,大学教師向けに,「教授技能」の解説本がたくさん出されています。

 日本の場合,情けないのが,そのような本が翻訳本ばかりであることと,それを大学の出版会のようなところが出している,ということです。

 「授業で学生が寝てしまった。さて,どうすればよいか」・・・といったものをまともに取り上げているアメリカの本もどうかなと思いますが,「本当に教師が知りたいこと,聞きたいこと」が網羅されている,という利点もあります。

 日本の場合は,「知らないこと」=「」という意識が低く,「」であるという意識が高いのと同時に,「聞くこと」=「」という意識も高い文化が足を引っ張っているのでしょうか。

 さすがに大学教師向けに「こんなことを教師に教えないといけないの?」と恥をさらすような本はよほどの大学でないと出せないということでしょうか?

 しかし,こういう本を教師だけでなく,学生や一般の方も読めるようになって,初めて「教師選び」の威力も発揮できるような気もしてきます・・・。

 私が生徒主導の「学習自治組織」をつくりたいと願い始めたのは,そんなことが背景にあるのかもしれません。

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2008/02/20 読書技術の習得をめざす総合的な学習

 東郷雄二著「打たれ強くなるための読書術」(ちくま新書)には、アメリカの高校生(とその親)を対象に書かれた「アメリカ式読書法」(ロン・フライ著)の目次が紹介されています。技術論として書かれている本というのは、その目次だけ読んでも参考になります。

はじめに あなたがこの本を手にするまでの話
序論 読書・・・それはあらゆる学習技術の基盤
第1章 読書は仕事にあらず
第2章 目的を持って読む
第3章 メイン・アイデアをつかむ
第4章 事実を収集する
第5章 理科系のテキストを読む
第6章 批評読みのできる読者になる
第7章 文学作品を読む
第8章 集中力を高めるために
第9章 読んだ内容を記憶する
第10章 ADD(注意力欠如障害)への理解を深めよう
第11章 自分だけの図書館を作り上げる
第12章 読書、それは人生の宝

 新学習指導要領の改訂の基本的な考え方に、言語の能力を高めていくことがあるので、いわゆる「教養主義的な読書のすすめ」ではなく、「読書技術の習得」をめざした読書指導が必要になるかもしれません。
 これを総合的な学習の核にすることもできそうですね。

WBC・野村監督との見解の相違

 古田が野球解説の力量を見せつけた,韓国の三塁線を抜けるヒット。

 痛恨の1点に対して,野村監督は,シュートを続けた城島を責めていたようですが,私は内角シュート攻めは正解だったと考えています。

 山を張られたとしても,打球はそれほど強烈ではなく,村田が捕球できればベースを踏み,1塁転送でダブルプレーというイメージもありました。

 球審はテレビの画面から見ると,かなりバッターよりに立っており,右バッターのインコースのストライクゾーンが広いことも攻めの材料だったと思います。

 岩隈はこの点を取られた回に若干制球を乱しており,高めに浮く可能性がある変化球よりは,引っかけてくれる可能性が高いシュートを選んだリードは悪くなかったのですが,場面の状況だと三塁線を固めておくのが常識だったところを村田がサボっていたのが,計算外だったということになります。

 プロ野球選手は,わざと三塁線をあけているように見せかけて,打つ瞬間に少し移動するという技を使うこともありますから,ベンチからは声もかけずらくて,結果としては「何も考えていなかった」ことが分かった時点では遅かった,ということでした。

学校における暗闇体験

 ココログニュースに「感覚研ぎ澄ます“暗闇”の体験が好評」という記事が紹介されていました。
 まさかよく行く浅草で,視覚だけでなく,味覚や嗅覚までもフル回転するタイプの体験ができるとは,意外でした。

 私が経験したことがあるのは善光寺のお堂の下を歩くもので,とにかく太陽の光が見えたときはその有難さに感動したものです。

 「あって当たり前なもの」への感謝は,「失ったときしか分からない」とよく言われますが,そういう経験を私が異動先で味わうことになるとは思いもよりませんでした。

 とにかく「挨拶ができる」学校から「挨拶ができない」学校へ異動したときのカルチャーショックは強烈なものでした。

 学校で長時間,「暗闇」を体験することになろうとは・・・。

 「挨拶する気がないんだから,仕方がないだろう」という教師たちが,長年かけて,そういう学校をつくってしまったわけですね。授業も成立しないわけです

 また違う学校では,「挨拶をしない」という堂々とした姿とは別に,「悪いことを見つかって注意されたくない」というコソコソ逃げるような態度が目立っていたことも印象的でした。

 「恥ずかしい学校」という意識を教師や生徒のどのくらいがもてるかが別れ道なのでしょう。

 学校の統廃合があると,この温度差は片方にとってはいたたまれないものになるものです。教師を総入れ替えするわけにはいかないので,どうしてもギクシャクした関係がしばらく続くことになります。

 こういう問題の改善を,生徒指導部の仕事にしてしまうような校長の指導力は二流以下で,教師全員が「授業できちんと指導する」ことが徹底できるかどうかが勝負なわけです。

 公立学校では教師全員に徹底させることが困難なので,「暗闇」体験がうまく生かせないものかと,少しだけ思案してみましたが・・・無駄でした。

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インセンティブを与えようとしない教師

 インセンティブ与えたり,高めようとしない教師を子どもが認めるとしたら,よほど強烈な個性とか教養などが必要になるのでしょう。

 何度もふれていることですが,観点別学習状況の評価が導入されてから,教師たちが改めて「悩む」(もっと前から悩むべきことだったのですが)材料に,「関心・意欲」をどう高め,それを「態度化」させていくか,という課題がありました。

 よく理解ができない教師には,「観点別学習状況の評価」ではなく,「観点別学習指導の重点」とでもして,指導案を改善させなければなりません。

 評価の項目があるということは,そのことを指導して「高めていく」のが教師の役割だからです

 「目の前に問題があるんだから,ただそれをひたすら解くのが君たちの仕事だろう」という態度でやっていける学校が,この世の中にいくつあるのでしょう?

 もしそういう態度の教師に教えられて何も考えずに育っていって教師になった人間がいたとしたら,一度立ち止まって,「なぜ他の人たちは自分のようにできなかったのだろう」「しなかったのだろう」と考えてもらう必要があります。

 学校時代にまわりが見えていなかった人間が教師になると,多くの子どもの「迷惑」まで自動的に繰り返されてしまうことになるでしょう。

 授業の工夫の中で最も大事なものの一つ,「子どもをひきつける教材」「子どもをやる気にさせる教材」の開発が無理な場合に,話術とか人柄に頼ることになるのでしょうが,その人がいなくなるとできなくなる学習ではなく,やはり教材学習材があるときに子どもが自ら考え,学ぶことができるようになっていないと,教科のねらいは達成できないはずです。

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犠牲になるのは社会人だけでなく,中学生も・・・ ふり返り366日【08/2/19-2】

 既得権益の確保に,教師も走り始めなければならない時勢になったようです。
 矛盾するのは,「自分の力ではできない」といいながら,民間の力は借りたくない,といったことでしょうか。
 中学校の部活動などは,先細りの指導体制で未来が描けなるばかり。
 突然の「廃部」で涙を流しているのは社会人のスポーツの世界だけではありません。
 贅沢な「ハコ」はあるのに,人材の投入ができないためにそれが使い切れない学校。
 日本ではかつては,昼夜間交代制の授業を行っていた時代もあったのですが・・・。

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2008/02/19
日経新聞 学校だけでは力不足
 本日付の日経新聞「学校は変わるか③」のテーマは、また「現場の負担」「現場とのすれ違い」。
 授業時数の増加で、「行事を削らなければならず、たいへんだ」という一方、「学校の個性化(特色ある学校づくりのことか?)を求めているのに自由に使える時間を減らすのは矛盾」という声があることを紹介しています。
 記者が取材してつかんだ実感でしょう・・・学校だけでは力不足・・・結局この一語に尽きるということでしょうか
 宿題が多い「クラス」があります(不思議なことに同じ学年で他のクラスは出なかったりする)。
 放課後に30分残れば終わってしまうような課題を、わざわざもって帰らせてやらせる。
 学校の授業中は、授業をすればいいのに、プリントをやらせておいてその宿題のチェックで忙しくなる
 最近、小学校では業者のテストとか違法コピーのプリントとか、やたらと問題をやらせていますが、その採点だけだけで時間がなくなってしまうのでは?と心配になります。
 小学校の授業の実態を密かにレポートしてくれる小学生はいないでしょうか
 家庭生活点検表を配る。
 特に小学校では、家庭に「学力向上」の責任を負わせようとしています
 仕事などの関係でそれが難しいところは、塾にその責任を負わせる
 これで向上する学力はごくごく限られた範囲の力であることは言うまでもありません。 
 いろんなことが大事だと言おうとすると、現場からは「時間がない」「負担が重い」と反発を受ける。
 それはよくわかりますが、何だか教師がつくっているような記事ですね。

失敗はどのように繰り返されるか ふり返り366日【08/2/19-1】

 さすがに総合の時間に百ます計算をしているような小学校はないと思いますが,各学校によって,総合の時間の取り組みは千差万別でしょう。

 「効果がすぐ見えない教育よりも,すぐ力がつくことが実感できる教育を」という要請は,子どもや保護者の側からだけのものなのか。
 教師自身もそんな浅い教育を求めていたのではないか。

 新教育課程への移行の前に,しっかりふり返っておかなければならないことであり,そうでなければまた同じような「失敗」が繰り返されることになるでしょう。
 教師の指導力がおいつかない,だから子どもは乗ってこない,余計に教師の徒労感ばかりがつのる・・・そんな悪循環は絶っておくべきであり,教師は常に自分の指導力の向上に努めていなければなりません。

08/2/19 日経新聞 「総合の敗因」?

 総合的な学習の時間が削減されることを、多くの教師はのぞんでいる。これは理解できます。
 特に中学校では、教科の専門性で食べてきた人々が、「課題解決力の育成」という新たな課題をせまられ、自分自身が特に高い関心をもっているわけではない人権、環境、国際理解、福祉などに指導者やコーディネーターとしてかかわらなければならないのは、負担感だけが重くのしかかってくるだからその負担を少しでも減らしてほしいというのが、多くの教師の本音でしょう。
 ですが残念なのは、専門教科のない小学校教師の多くもそれを望んでいるということです。
 「創造的な仕事」ができる機会を奪われても、負担が減るのだから反対しない、という感覚。
 たとえ仕事に負担感があっても、それを打ち消してくれるのが「創造」「自発」「創意工夫」の取り組みではないかと思うのですが、能力も体力もないのが、現場の実状だということです。
 これを総合が「敗れた」、文科省と現場との間で学力観の共有が不十分だったと表現する記者の言わんとするところが、結局は現行の指導要領が悪かったとしか読み取れないことが問題なわけです。
 文科省と現場もそうですが、文科省と新聞社の学力観の共有がほしいところです。
 そうしないと、いつまでたっても新聞から正しい情報が入手できません。
 昨日の記事で紹介されている総合の先進校、研究推進校の取り組みを見て、「うちの学校の子どもにはできない」と感想をもつ教師はいないのです。ただ、うちの学校の教師には指導できない、ということです。
 公立学校で、学校間格差をなくそうとしたら、先進校の取り組みをやめさせなければならない
 総合で成果を上げた学校と、上げていない学校の学力の格差はどれだけ開いたのか、それとも開いていないのか。総合の時間に、計算や漢字の練習をしていた学校がどのくらいあるのか。
 そういうことの検証が必要なのでは。

10万アクセスを超えると・・・?

 10万アクセスを超えるとどこかで感知されるのでしょうか?
 昨日は200人を超える方にご覧をいただきました。
 ご祝儀みたいなものでしょうか。

 また一つの通過点を過ぎたようなものですが,昨年度の記事が多かったためか,「ふり返り」が追いつかなくてこまっています。また,一年たってもなかなか進歩していない(あるいは退化していってる?)自分に気付かされる感じです。

 公立小中学校でも卒業式シーズンを向かえ,卒業生は儀式のための形式的な練習を,学校によっては在校生側の準備も佳境に入っているころでしょうか。

 教師の側は,異動することが決まっていても生徒に言うことができませんから,長年同じ学校に勤めていた人などは,やはり生徒に気付かれないようにしながら感慨にふけることになるのでしょう。

 「去るのがつらい」と思える教師は幸せなものでしょう。そう思ってくれる教師を失う学校はつらいものです。

 「やっと出られる」と思える教師も幸せなものでしょう。そう思ってくれる教師を・・・。

何から学ぶことができるかでわかるトップの実像

 宮城谷昌光著「孟嘗君 2」(宮城谷昌光著)講談社文庫(161頁)に,

師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。

という言葉がありました。

 似たような話を,糸川英夫著「第三の道~インドと日本とエントロピー~」(中公文庫)でも見つけました。

 糸川英夫の問いは,「トップになったとき,どこから学ぶか」というもので,

 正解は「ボトム(底辺)から」ということです。

 あるチェロの名手がデビューしたてのころ,聴衆席の真ん前に当時の大巨匠が座っているのを知り,緊張のあまり,しどろもどろの演奏をしてしまった。

 にもかかわらず,大巨匠は後の名手に思いもよらぬ大拍手をした。

 その理由は,「ある一つの音が,長い間,捜し求め続けていた音だった。感動した。あの音はこう弾くことで,美しい音になるものだ」というものでした。

 「たとえ,あなたが出した百の音が悪くても,そのうちの一つを私が学べば,あなたは私の先生だ

 明らかな失敗である教育実習生の授業の中に,普段は気付くことがないような美点が発見できることがあります。

 たとえば,自分の授業では発言することがまれな生徒が,必死に実習生に食らい付いている

 たとえば,失敗のはずの発問を,生徒が「問いの真意」を想像していく過程で,資料に対する新しい観点を発見してしまった。

 たとえば,ゆったりしている講義のペースが,子どもが思考を練っていくために必要な「間」を生み出している。

 たとえば,普通の人がしたことがないような体験談を話し,子どもの注意を引き付けている。臨場感の大切さが分かる。

 たとえば,教材解釈の勘違いを子どもに指摘される過程で,子どもが誤りやすい資料の特徴に気付く。

 指導教官をトップ,教育実習生を「ボトム」と呼んでいいかどうかは別として,教育実習期間に対して,「何か新しい発見があるわくわくした時間」という価値観をもっていないとつらいばかりの時間になってしまいます。

WBC解説者・古田の的確な状況判断

 WBC中継を試合途中でたまたま見たときに,解説者の古田が「岩隈はシュートを多投しているからサードの村田はベースよりに守るべき」と指摘したとたん,三塁線を抜かれ,結果,決勝点となった1点を献上してしまいました。

 ランナー1,2塁で0対0の場面では,高校野球でも長打を警戒するため,三塁手をラインよりに守らせる指示をするはずなのに・・・古田もセオリーどおりのことにふれていたのに・・・

 野球解説なんていい加減なもので,だいたいピッチャーを褒め出せば打たれるし,打者をけなせば一発を食らうし,だれでもできそうな気がするものですが,古田の解説だけは一味違いますね。


 今日の試合では,韓国が度重なる走塁ミスで,まだ実戦感が戻っていないことを露呈した側面がある一方,日本のおかしな采配も目立ちました。

 連覇への夢にかなりの不安を生じてしまうような,そんな一戦でした。

観点別学習状況評価の見直し提言 ふり返り366日【08/2/17-3】

 一年以上前の,観点別学習状況の評価に対する見直し提言の主旨は,現在でもあまり変わっておりません。

 小学校は最大で40人の特性が把握できればよいのでしょうが,中学校では600人以上の観点別評価を行わなければならない教師もいます。国語以外では4観点ありますから,2400項目,その評価のために必要な情報は・・・と考えるだけで,気が遠くなります。

 この評価は,「観点」が「別々」なだけであって,別々の学力があるわけではないのに,思考・判断だけを伸ばそうとする研究とか,その側面だけを評価するような問題を作成する,などというおかしなことがおこっているわけです。

 そもそもは形成的評価に向いている項目ですから,指導の改善に役立てるならまだしも,「関心・意欲・態度」がCのまま放置される,そんな学習指導自体に問題があるわけです。

 中学生にもなって手を挙げた回数とか発表した内容ごとにせっせとシールをもらって集めるような低レベルなことを繰り返しても,子どもは目的を勘違いするだけであって,教師は授業の概観自体をよくしているだけにすぎません。 

 もし,指導が改善されていないのであれば,この評価を行うために費やされた時間の無駄というのも,はかりしれないものがあります。いやらしい話,教師の勤務時間に占める割合を計算して合計すると,無駄な会議どころではないお金が浪費されていることになるでしょう。

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2008/02/17 新しい評価システムの提言

 このブログでは何度かふれていた内容ですが、新学習指導要領案へのパブリックコメントが募集されている時期なので、まとめて掲載しておきたいと思います。
 今回の学習指導要領の改訂の基本的考え方に、「知識・技能の習得と思考力・判断力・表現力等の育成のバランスを重視」があり、小中学校段階では「知識・技能を活用して課題を解決するための思考力、判断力、表現力等の育成」が重視されています。
 私は、このことをもとに、評価観も変え、現行の「観点別評価」からもっとシンプルでかつ信頼性、妥当性が高い「段階別評価」に改めることを提言いたします。
 現行の観点別評価は、学習指導の過程で行い、個別指導や授業の改善に活用するのなら問題はありませんが、この形成的評価に適したものを、総括的評価である「評定」の根拠として使うのは問題(合成の簿謬等)があります。
 国立教育政策研究所でも、観点別評価の客観性、信頼性などの問題点は十分に把握しているようですが、私はこの評価が「学力向上」の達成への非常に大きなネックになっていると現場では実感しております(最大の原因は評価に時間がかかる上に有意なデータになっていないこと、観点別評価に値する学習活動が行われていないこと)。 
 私が提言したい「段階別評価」とは、学習のステップを「習得」「活用」「探究」のレベルに分け、習得レベルのABC評価をまず実施し、次に習得レベルがB評価以上(AかB)については「活用」レベルのABC評価を実施する。「活用」レベルがB評価以上(AかB)になったら「探究」レベルのABC評価を実施する。
 「習得」レベルの評価対象になるのは、知識・技能面です。このレベルは、ペーパーテストで容易に測定することが可能で、評価の信頼性が最も高いものです。ですからCの場合には先に進めませんから特別な支援が必要になります。全員を「習得」レベルでB以上にすることが義務教育の「義務」です。
  「活用」レベルの評価対象になるのは、習得したことを活用して思考・判断し、表現したもので、授業での発表(説明)、論述の課題(レポート)、討論活動などが評価材料になります。
 習得レベルがAでも、活用レベルではCの評価になる場合があります。これは、「暗記したことをそのまま再現することはできても、その知識を活用して有意な形に再構成する能力がない」ということで、「生きる力」としてはまだ不十分な状態にあり、やはり「活用」レベルがCなら特別な支援が必要となります。ただし、私の経験では、(カッティングポイントにもよりますが)習得レベルがAであれば、活用レベルはほとんどの場合はBになると思われます。
 最後の「探究」レベルは、現在では「発展的な学習」に当たるもので、これはたとえば「総合的な学習の時間」とリンクした学習活動を行い、教科をまたいだ評価も可能になるものです。
 「改訂の基本的考え方」では、「知識・技能の習得と思考力・判断力・表現力等の育成のバランスを重視」とありますが、これは学習活動としては車の両輪のようで、大事なことです。
 しかし、評価対象となると、知識・技能が習得されていないのに思考力や判断力はあるという状況は考えられないので、ここは「育成のバランス」の重視であって、実際に思考力・判断力・表現力を使う場面で活用されるのが習得した知識や技能であることを強調すべきです。
 実践では、さあ「習得が大事だ、知識を詰め込め、そこがスタートだ」ではなく、観察や実験、調査活動を実施して、「課題が何かをつかみ、追究しようとする思考活動、学習意欲を高める活動」が先にあるべきなので、指導過程としては「思考力、判断力」が問われる場面、「知識・技能」を習得させる場面、それらを生かして「思考力、判断力、表現力」を使う場面という順になります。
 この考え方は、社会科歴史的分野の内容(1)「歴史のとらえ方」のウの「内容の取扱い」などで反映されているので、事例としてわかりやすい参考になります。
 このように観点別評価を段階別評価に改めると、以下のような効果が期待できます。
 まず、中学校では「定期考査」の見直しが進みます。
 中学校の定期考査は、どの教科も最大50分の試験時間で出題されるので、ほとんどが「習得」レベルの評価で終わってしまいます。しかも、「思考・判断」や「資料活用の技能」といってもほんの部分的なもので、ほとんどが「知識・理解」のみの内容です。
 基本的には評定はこの点数が目安になるので、そもそも現在の観点別評価は総括的評価としては機能していません。ほとんどの教師が実感できていることだと考えられます。
 定期考査はどう見直されるかというと、極端な場合は、それが廃止できます。
 習得レベルの評価は、活用レベルの評価のための学習活動を行う前に各教科で実施すべきであって、テスト前一週間で詰め込んで後はすぐ忘れるなんてことを繰り返さないですみます。
 そして、本当の評価材料は、授業の発表やレポート、討論活動で行うべきことが教師に実感させることができます。「生きる力」の重要な箇所が評価対象になってきます。
 「学習習慣」の定着にも結びつきます。
 教師の学力観、評価観の転換が期待できるのです。
 学年等の「習得」の総括的評価は、文科省の全国学力調査をもってかえることも可能です。「活用」レベルの評価は時間がかかるので、学校ごとに実施します。
 定期考査のような「詰め込み」学習がなくなると、入試のシステムの改善にも役立ちますが、この具体案はここでは省略します。  以上

松尾芭蕉から現代人が学ぶべきこと

 夢のない人間に夢を強調・強制される欺瞞は決して許せません。

 夢を追いかけている人間に勇気付けられることが今の子どもには特に求められていることだと考えています。

 松尾芭蕉から現代人が学べることは,「変わらぬものを変わらぬ方法で伝える」ことではなく,「変わらぬものを変わりゆくときの流れに合わせ,新たな価値を加えて改めて認識させていくよう努力する」という向上心にこそあります。

 夢は必ずかなえなければならないものではなく,夢をもつことができれば生きていく上で欠かせない成長への大きな原動力になる,そのような経験をした人の生の声を子どもにはたくさん届けてあげたいと思います。

 道徳では,「より高い目標を目指し,希望と勇気をもって着実にやり抜く強い意志をもつ」という観点があり,理想どおりにいかない現実に悩み苦しむ姿も想定した上で,そのような葛藤が人間をより強くたくましくさせる力になることを教えていく必要があります。

 「」自体が大事なのではなく,それに向かって努力していく姿が美しいのであり,障害や困難を乗り越えながら成長していくことが大切なのです。

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改めて,教育の不易と流行について

 不易静的あるいは不変かつ本質的なものなので、時代の動きに「即して」行うようなタイプのものではありません。

 現場の教師は,まず,学校に求められている不易として,最低限の学力保障を果たすべきであること,健全な精神と健全な体を育んでいくべきことを認識した上で,なぜその責任を果たすことができないでいるのかを考える必要があるわけです。

 子どもの学力が向上しないのは子どもの責任である不易とは自分の学力に自分が責任を負うことである、その責任に教師の指導力とはかかわりがない、などという「不易」は迷惑以外の何ものでもありません。

 無責任な教師の側に都合の良いこのような「不易」だけを守ろうとし、「時代の不易」を知らない現場の教師がいるのは迷惑な話であって、だからこそ「学校の常識は世間の非常識」と言われるわけです。

 このことは、行政に入ったり、保護者の立場から現場を見ているとよく感じることです。

 「いつかはよくなる」などという「静態的な教師」がこれまで解決できなかった諸問題を「動態的な教師」が解決に向けて引っ張っていく、そんなイメージを求めているのが今の「時代」でしょう。

 「不易を知らざれば基立ちがたし」などは当たり前のことであって、新しい風を入れることや改善に努め続けていくことが真の「不易」を得るという、芭蕉風に言えばこちらが本質的な「不易流行」なのでしょう。

百ます計算の「必勝法」

 百ます計算では,ストップウォッチが必ず使われているようで,計算が速い子どもには,「競争に勝つ」楽しみがあるようです。

 ただ,ある子どもは,「競争に勝つ」コツとして,「文字を小さく書いて時間のロスを減らす」方法に気付いてしまい,教師を困惑させてしまっているようです。

 まさかそんな影響ではないのでしょうが,たまに中学校の定期考査でも解答欄の大きさに比べて極端に小さい字を書く生徒がたまに現われ,指導を受けることになります。

 こんな場合,小学校の教師はどのような指導をするのでしょうか?

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「不易」と「流行」は必ずセットで

 教育改革を推進しようとする立場の人は,「不易流行」の「流行」に重点を,それに反対しようとする人は,「不易」に重点をおいて持論を転換しようとしがちです。

 しかし,そもそもこの「不易流行」は,「不易を知らざれば基立ちがたく,流行を知らざれば風新たならず」がもとですから,両者の根本は一つ,という「教訓」として捉えていくことも大事です。

 芭蕉が「不易」にあたる「人の心を打つもの」を,俳諧という「流行」に沿った「新しい手法や手段」の工夫によって表現しようとしたことを念頭においておく必要があります。

 不易ばかりを「大切だ」という立場の人たちには,古いやり方を強引に「これが正しいのだから」とおしつけるような教育観をもっているイメージがつきまといます。

 もちろん,「流行」の中に「不易」の要素を見ようとしない人たちが,ただの「新しもの好きにすぎない」「飽きっぽい人」というイメージに覆われるケースもあるでしょう。

 社会や状況の変化によって,今までにはない概念の「不易」が「流行」で生み出されたり,「流行」の中で「不易」が見直されながら,人や社会は成長・発展していくものなのでしょう。

 「不易」はあらかじめそこにある明白なもの,それ以上のものはないもの,固定的なものとして,それを追求していくような態度を失ってしまっては,結局,本質的な「不易」を知らないまま,自分も成長せず,人も成長させられず,終わってしまいます。 

 より人間や社会の本質に近いイメージの不易を追求していくために,刻々と変わる社会や状況=流行から目をそらしていてはいけません

 「改革」「改善」への意欲というものが,人間の「不易」の一部であるという側面を忘れてはいないでしょうか。

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「これからの時代」のことを考える必要がない?教師たち

[教師] ブログ村キーワード

 教育の現場に入ってから,「どうして年配の教師たちはこんなに新しいことが嫌いなのだろう」と実感したことがたびたびありました。

 自治活動がさかんな学校を卒業した私は,きちんと筋さえ通っていれば,教師たちは生徒の言い分を聞いてくれるし,やりたいことをやらせてくれる,そんな感覚がしみついていました。

 しかし,自分が教師になってから,身近にいる教師というのは,新しいことの導入にいたって消極的で,自分のやり方とか,先例とか,そういう「過去のもの」を大事にして,変化させないことに力を注いでいる,そんな風に見えました。

 「不易」の価値を知るなど,教師としての経験を重ねていくうちに,その理由がよく分かったこともありましたが,「変化しないこと」は楽なことであり,惰性で流れていくので負担がかからない,そういう方に重い価値を置いている人が少なくないこともよくわかってきました。

 学習指導要領の改訂に際しても,そもそもその変化の内容を知ろうとしない人がいるのにはびっくりしました。

 授業時数が減ったのに,以前と全く同じ授業しかしないので,当然,全部が終わらなくなる。

 年間指導計画というものがつくられていない時代もあったのです。

 そういう時代と比べると,今は少しはましになったのでしょうか。

 改訂された学習指導要領の内容に興味がない教師が多いということは,さらにその先,これからの時代を生きる子どもにはどのような力が特に必要となってくるか?などということには,関心も何もないのでしょう。

 「これからの時代」云々は,教育の世界だけの話ではありません。その読みを誤れば未来がなくなる世界もあれば,国や世界レベルでも問われるべき課題です。

 教育の世界では,「公共の精神」の大切さなど,不易のはずなのに「公」のものになっていなかったものもあるなど,「不易」の実態すらはっきりしていません

 現実としての社会の変化のスピードは非常に早く,親が経験はおろか想像したこともないことを子どもが当たり前のようにしていたり社会に出たら雇用のかたちが変わってきたりと,「同じことを経験してきただれかに教えてもらえる安心感」が薄れてきているのが現代の特色であるといえます。

 「これからの時代」は,実はそれほど先のことではなく,「今,変わりつつあるこの時代」も含めてのイメージとして捉えるべきであり,だからこそ「何が今後大切なのか」をしっかり議論すべきことが大事なのでしょう。

 そこで,「先のことは分からない」ではなく,その変化を想定してもなお,「このことが大切だ」と言い切れる力が学校には必要なわけです。

 今後は,公務員ですら,「今までと同じことをしていればいい」という立場の人間ではなくなっていくでしょう。

 「未来のことは分からないのだからだれのどんな言葉も信じない」というのも一つの生き方でしょうし,「今までのままでいい」という判断を下すのはいっこうにかまわないのですが,それを新しい苦労をしないですむ自分への言い訳と捉えられずにすむほど教師は信頼されている存在ではないでしょう

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授業中の教師の「注意」 ふり返り366日【08/2/17-2】

 「子どもの集中力が持続しない

という悩みをもつ教師は多いようです。
 
 意地悪く,「会議のときの教師のようにですか?」と聞き返すことはしませんが,確かに授業の進行に支障をきたすような,子どもの「手持ち無沙汰」加減がエスカレートすると,「どうにかして授業に向かわせる手はないものか」と必死になるのもうなずけます。

 必死に「授業技術」に関する本を読んだり,教材研究に没頭したりする・・・。

 しかし子どもの目から見ると,「授業の質を高めて授業妨害を防止しようとする心がまえ」は理解できるが,「とにかくうるさい人をその場でだまらせてほしい」という願いの方も切実なようです。

 教師というのは,「静かにしなさい」などという「自由の規制」に当たるような行為を避けたがる人が多いようで,話を聞かない生徒がいようが騒いでいようがお構いなしに自分の話を進めるタイプがいます。

 それが一部の子どもには我慢ができないようで,怒りの矛先はうるさくしている生徒だけでなく,教師にも向けられてしまっています。

 ある教師は,授業時間の中で,「3回だけ,注意を与えることにしている」そうです。

 2回では少なく,4回では多い・・・その微妙なところは何となくですがわかります。

 ゆとりが出てくると,教材で振り向かせる自信があるそのポイントまでは注意せずに引っ張っていき,振り向く瞬間の子どもの変化を楽しみにする・・・なんて技も使えるのかもしれませんが・・・。

 いずれにせよ,授業時数が増えたという情報で,子どもが「嫌だなあ」と不満を覚えるような授業はしたくないものです。

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08/2/17 日経新聞 授業時間増「どう生かす」

 日経の社会面では、今日から「学校は変わるか 新学習指導要領」の特集が組まれています。
 記事の取材は現行のもとでの学校の工夫を紹介していますが、1回目のコンセプトは「授業の時間が増えればそれだけ子どもの集中力の持続が難しくなる」というもので、朝の運動や昼の瞑想の時間、45分授業の実施が紹介されていました。
 相変わらず新聞では問題の本質を直視せずに表面的な「だれでもわかる」ことしか記事にしないようなので、学校の方からは「これからどう変えるか」を発信しなければなりません。これを「どう変えるのか、文科省、教育委員会は教えてくれ」という姿勢ではなく、どれだけ「自分たちのアタマで考えられるか」が課題になりそうです。
 「どう生かすか」は「改訂の基本的考え方」に示されています。
 記事では「学習指導要領」を「教えの手引書」と表現しているので、比較的高齢の記者が担当していることが予想されます。この「手引書」という用語ですが、多くの小学校教師が「手引書」として使えているのは教科書会社が作成している「教師用指導書」くらいで、年度末に出される指導要領の「解説」ですら読まない教師がいるくらいですから、ねらいから見ても実態から見ても適切な表現方法ではないことがわかります。 
 現在ですら「集中力が持続しない」子どもの実態、教師の指導の実態をふまえないと、不登校やいじめ等が増加したとき、この新学習指導要領の「詰め込み」がよくなかったという結論ですまされてしまいそうです。
 増えた時間にドリルをたくさんやらせる教師が増えそうなことを予測して、「新しい評価観」を提言することが「変わる学校」の役割です。

「教材」から「教財」へ 「学習材」から「学習財」へ

[研修] ブログ村キーワード

 以下、Z会寺西さんのブログへコメントさせていただいた内容を再構成して掲載します。

 寺西さんは、教育再生会議などが提言する「ポジティブリスト」の問題点を取りあげていました。

 このブログでも、苅谷剛彦がそれについてネガティブに捉えていることを紹介したことがありました。

 私の場合は、ポジティブリストあくまでもポジティブに捉えていこうとする考え方をとっています。

 だいたい、教育再生会議のようなものは、構成員も含め、会議の性質上、その提言がポジティブリストになるのは避けられないことでしょう。

 ただ、すべて突拍子もないようなものではないですね。平凡なものです。

 予算の会計年度ごと、9月始まりに移行する、などといったレベルの大胆さはありません。

 私は、財界だけではなくて、様々な立場の社会人が教育への関心を高めつつあるという「ポジティブ」な受け止め方をしています。

 もちろん私にもその中には、小学校英語など、「これはいかがなものか」と思えるものもあります。

 ただ、教師の側では、このような社会からの要請に対して、その優先順位をしっかり示せる学校ごとの「経営力」「企画力」「指導力」「見極め力」は求められてしかりだと考えています。

 コミュニケーションの取り方が下手で、国語の指導も満足にできない教師に英語活動を頑張らせても意味がないように、教師一人一人の能力の見極めも重要になってきます。

 各学校では、毎年きちんとテーマを定めて研修を行うのが普通ですが、総花的にやるタイプの学校の教育力はたいてい低く、一つのテーマ、例えば「IT機器の活用」でじっくり全員が研究授業に取り組むような学校は教師の指導力が高くなっていく傾向があります。

 教育の場合、優先順位を決め、あることに力を入れたとき、カットしたことによるデメリットより、その他の面にも良い影響が及び、状況が好転するきっかけになるというメリットが目立つケースが多々あります。

 何でもやろうとする企業、やらせようとする経営者を寺西さんは批判されていますが、それはその通りです。

 では、どんなことに重点を置いて、研修をしたり、教育活動を展開したらよいのか。

 あるいは、重点をおくべきところははっきりしているのだが、そこに注力していこうという全教師の「やる気」をおこさせるにはどうしたらいいのか。

 子どもだけではなく、教師にも、何かを特に「学びたい」と思わせる「教師用教材」が必要になってくるのかもしれません。

 子どもだけでなく、大人にとっても、学習向け刺激剤(刺激「材」?)というのは必要です。

 それで学ぶスイッチが入ったとしたら、「」から「」へ、社会的な財産、「教財」「学習財」になるでしょう。

 *個人的には、「教育財政」という用語が略して「教財」などと使われていることに少し不満が・・・

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定期考査の概念の転換 ふり返り366日【08/2/17-1】

 一人一人の学習の理解度や到達度、進度などをふまえる指導の工夫をしたとしても、「定期考査」というのは、一律、全員が同じ時期に、同じ問題を、同じ時間で解くテストであり、その結果によって子どもの能力の一部を測定するための「平等」な機会ということになります。

 ただ、入試でも、障がいの内容や程度によって、試験時間の延長や、文字を大きく印刷し直したものを使うなどの簡単な配慮がとられることは可能である、このような「違い」は「能力に応じた平等性」ということになるのでしょう。試験の内容や解答がもれるおそれがあるため、日程をずらすような配慮は取りにくいので、当日の工夫次第ということです。

 「障がい」の内容が多様化し、その程度も様々なものであるため、将来的には、全員一律の試験時間というのが見直しされる可能性はあるでしょう。

 明らかに理解度、到達度が異なる結果にばらつきがあることが想定されているような「定期考査」自体にどのような意味があるのか、そのような見直しも始まってくるかもしれません。

 私の場合は、定期考査は授業の一環であり(だから授業時間をさいて実施する)、授業との違いは、生徒が私=授業者の代理としての「考査問題」に個別に向き合ってもらう、という点にあります。

 もし可能であれば、テストだけでなくアンケート調査も含めて時間をとってもらい、少し長めの「学習のまとめ」やさらに追究したい課題を整理するための時間にしてもらいたいものです。

 定期考査の内容については、活用・探究的なものを中心として、習得に関するものはより短いスパンで日常的に実施する方が学力はつくでしょう。

 イメージとしては、大手中学進学塾の「週例テスト」のようなものです。

 将来的には、「土曜日はいつもテスト」というタイプの学校があらわれてもおかしくありません。

08/2/17
定期考査の廃止が教育を変え、入試を変える?

 小学生が中学校に進学した後、まず最初の試練にあたるのは「定期考査」でしょうか。
 2~3日間を使って、テストだけの日になります。
 テスト1週間前は部活動等が禁止になり、「テスト勉強期間」となる。
 980時間の確保のために、テストを2日にするとか、3日目の午後は授業をするとか、2期制にするとか、3学期制の学校は1学期中間考査をなくすとか、学校ごとに工夫はされていると思います。
 ただし、「定期考査」を廃止している学校はほとんどないでしょう。
 新しい指導要領で「詰め込み」教育が復活すると危惧している方がいらっしゃったとします。
 その方は、「定期考査」ほど「詰め込み」教育の象徴的なものはないと理解していらっしゃるでしょうか。
 「ゆとり教育」を推奨していた方。「定期考査」の廃止を校内で訴えたことはあるでしょうか。
 「定期考査」をなくしたら、「子どもが勉強しなくなり、学力低下に拍車がかかる」と思われる方。
 評価の場面、子どもが勉強する場面がなくなるわけではありません。いつ生徒たちは勉強し、教師はいつ評価したらいいのでしょうか。
 「定期考査」前の一週間だけ、勉強すればいいのですか。それで学力は向上しましたか。
 「定期考査」を廃止する意義。それは何でしょうか。
 学習指導要領改訂の時期は、大きな改革を実施する最高のタイミングです。

勤勉性に依拠するタイプの教育の質は? ふり返り366日【08/2/16-4】

 「習得させるのに精一杯なのに、活用などは・・・、ましてや探究など・・・」
 「標準時数が増えたといっても、内容も増えているのでは活用に力を入れるのは難しい・・・」

 教育活動、学習指導、内容のレベル、授業の展開などで、欲を出せばきりがありません。

 ただ、「習得させるのに精一杯」という教師が、「習得」=「暗記」のイメージを固定的にもっているとすれば、たとえば仮に教師の立場になって考えてみても、「なぜこんなに単純なことが覚えられないだろう」と立ち止まれば、その原因に様々な心当たりが生じてくるはずです。

 学習者の立場になってみれば、「習得」ばかりにあくせくしているような学習が楽しいはずはありません。

 「活用」や「探究」の楽しさが想像できるからこそ、あるいは分かるからこそ、「習得」する意欲もわいてくるというものです。

 ですから、「習得」の過程で、「活用的な」展開、「探究的な」導入などのおもしろさや役に立つことの実感がわく学習が組み込まれていなければ、授業をただ受身で受けている生徒に責任を押しつけるのは気の毒なことになるでしょう。

 子どもによっては、もちろん、何の迷いもなく「習得」にあけくれる姿を見せてくれることもあるでしょうし、その日本人らしい「勤勉さ」に依拠して成立している教育産業もあるわけです。

 このような「勤勉さ」「目の前の課題・仕事への集中力」に頼って目的を果たそうとする、動かす立場からの都合のよさとは別に、学習をする主体の側の本当の「目的意識」を大切にする教育が、今は求められているといえます。

 計算練習にのめり込んでいる子どもが、ふと鉛筆を置いて、「今、なぜ、自分はこのことに時間を費やしているのだろう?」と考え込むような姿は、あまり見られそうもありませんが、授業から「抜け出す」という行為に向けられる子どものエネルギーの使い方に、「怠惰」という見方だけで責めるような姿勢は考え直さなければならないのかもしれません。

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2008/02/16 もうひとつ、改訂が必要なもの。

 今回の指導要領改訂では、知識・技能を活用して課題を解決するための思考力、判断力、表現力等の育成が大きなポイントとなります。
 ここで忘れてはいけないのが「観点別学習状況の評価」です。
 知識・理解資料活用の技能をベースに、思考・判断をして表現することで課題解決力を証明する。
 4つの分析的観点は並列ではなく、層をなしている学習成果を評価することになります。
 家庭学習のレベルでも学力をつけることが可能な知識・理解と資料活用の技能を「習得レベル」。これがCなら思考・判断して表現するレベルには達しないので先の評価は不能。
 習得の次のレベルは思考・判断して表現できる「活用レベル」。習得レベルの評価を活用レベルが上回ることはない。ただし、活用の場面を増やすことで、習得レベルはアップさせることが可能になります。
 最後は「探究のレベル」。これは自分で課題を見つけ、調べて価値のある発表ができるレベル。従来の「関心・意欲・態度」で評価する意味があるのはこのレベルです。
 授業の記録、内容の説明、課題の論述、討論活動である程度客観的(これはどの教師がどの学校で実践しても同じような評価基準がつくれるということ)な評価が可能になります。
 学習過程のバラバラな観点別評価は、指導の改善、個別指導に役立てて終わり。総括には使わない。
 評定という総括は、やはり「総括」にあたる場面の学習成果をもとに評価します。
 このようにすれば、中学校の教育は具体的に何が変わるでしょうか。

授業におけるWBC「イチロー効果」

 イチローの先頭打者ヒットから、日本が一気にペースをつかんだWBC対韓国戦(現在、5回表のイチロー第四打席)。

 5打数ノーヒット、打率ゼロだった選手が、3連打で打率3割7分5厘

 短期決戦では、打率4割程度では、「いつも打っている」という実感がでてこないものです。

 イチローや2試合連続ホームランの村田に大きな注目が集まりやすい「人気と実力」の世界ですが、実は今日のゲームの中では2番打者の中島、6番打者の内川の仕事というのが非常に意味があるように思います。

 ただ、その中島や内川の仕事も、イチローが口火を切って作り出した「流れ」の中で、目立たないものになってしまうのは仕方がないでしょう。

 野球に限りませんが、ゲームが動くきっかけ、「流れを呼び込む」とか、「流れを変える」と表現されるキーになる選手、プレーというものがあります。

 すばらしい選手をそろえて試合に備えるように、授業でも、非常に練られた教材を用意して臨めることが理想ですが、どんなにいい教材でも、大切な「きっかけ」がないと、うまく盛り上がらなかったり、教材を生かしきることができなくなる場合があります。

 先日、ある授業が終わった後に、「楽しかったけど、1時間目からやるにはきつかったですね」という感想を寄せてくれた生徒がいました。

 「もっと頭が冴えていれば、より盛り上げられたのに・・・

 そういう実感があったのでしょう。

 確かに、50分の授業時間で、実質40分弱の「討論中心」の学習だったので、徐々に回転は速くなってきたとはいえ、暖まってきたと思ったら終わってしまった、そういう印象が強かったかもしれません。

 このような場合には、貴重な40分のわずかな時間をさいてでも、他の時間帯とは異なる刺激や追加の教材が必要だったかもしれません。

 授業は生き物であり、よい「流れ」を生むための技術も磨いていかなければならないことを再確認しました。

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授業の記録ノートで育てる能力 ふり返り366日【08/2/16-3】

 聞く力要約力書く力を育てる最良で最重量級の方法が、「記録ノート」づくりです。

 教師の一方的な講義ではなく、子どもからの様々な考えが発表されやすい、国語や数学という教科で特に向いている指導法です。

 このノートは普通、子どもが学校から持ち帰って家で仕上げますから、保護者は他の生徒の要約力、授業の要点、重点を捉える力、感想を通してのものの見方・考え方も知ることができます。

 担当する生徒はその時間中、記録することに没頭しなければなりませんので、議論には参加できません。

 そこで、言いたいことがあった場合は、最後の「感想欄」に書き込むことになります。

 その内容が優れたものであると、次の授業はその点を取りあげることからスタートすることができます。

 教師や子どもには授業をふり返る材料になり、保護者には授業の内容や子どもの様々な能力を知る材料になり、ノートは学校の財産になります。

08/2/16 国語科の授業でお薦めの「記録ノート」

 言語の能力の重視は、単に「知的活動」「測定可能な学力」の面だけでなく、コミュニケーションや感性・情緒の基盤づくりとして特に欠かせない指導のポイントです。
 私の勤務校には、授業で「記録ノート」をつけるという伝統が何十年も受け継がれています。
 これは、授業中の教師の指導のポイント、生徒の発言をくまなく記録し、最後に自分の考えや感想を書いて次の時間までに提出する(それを受けて教師もコメントする)というもので、書く本人の言語能力の向上はもちろん、欠席者の補助、教師が自身の授業評価や生徒の評価をするための材料になります。
 まさにWinーWinーWinの関係になる典型的な教育活動です。

平成30年には法教育が教科化か? ふり返り366日【08/2/16-2】

 今回の改訂を受けた教育活動で成果が認められないと判断された結果、起こりうる最も現実的な平成30年頃の改訂の柱は、「道徳」(「徳育」)の教科化ということになるのでしょうか。

 あるいは、道徳教育は全教育活動を通して行うものであることに変わりはありませんから、「法化」社会への対応も考え、「法教育」の教科化も考えられます。

 現在、実践事例もたくさん発表されている法教育は、知識習得型ではなく、思考・活用型の教育ですから、理念としては平成20年改訂と同じ趣旨になります。
 
 若い世代の割合がかなり増えている平成30年、教育現場からは、どのような反応があるでしょうか。

 引退した教師たちは、どのような目で日本の教育を見つめていくことになるのでしょうか。

08/2/16 改訂のポイントと教育内容の改善事項

 新しい指導要領の改訂案等のポイントで、「今回の改訂の基本的考え方」とは以下の3点です。

○教育基本法改正等で明確となった教育の理念を踏まえ「生きる力」を育成
 キーワードは、「知識基盤社会」、「生きる力」を支える「確かな学力」、「豊かな心」、「健やかな体」の調和、「公共の精神」、「伝統や文化の尊重」。

知識・技能習得思考力・判断力・表現力等の育成のバランスを重視
 キーワードは、「観察・実験」、「レポートの作成」、「論述」=「知識・技能の活用」。「言語の能力」の育成(あらゆる教科で)。(いわゆる5教科=「主要科目」の)授業時数の増加。「キャリア教育」。「学習習慣」の確立。

○道徳教育や体育などの充実により、豊かな心や健やかな体を育成
 キーワードは、「体験活動」、「安全指導」、「食育」。

 「教育内容の主な改善事項」は以下の6点。

○言語活動の充実 
 キーワードは、「記録、説明、論述、討論」といった学習活動の充実。
○理数教育の充実
 キーワードは、「国際的な通用性」、「内容の系統性」、小・中学校での学習の「円滑な接続」
○伝統や文化に関する教育の充実
 具体的には、古典(国語科)、歴史学習(社会科)、唱歌・和楽器(音楽科)、我が国の美術文化(美術科)、武道(保健体育科)の指導の充実。
○道徳教育の充実
 キーワードは、「道徳教育推進教師」を中心とした道徳教育の展開。「感動を覚える教材」。
○体験活動の充実
 具体的には、小学校での集団宿泊活動、自然体験活動、中学校での職場体験活動。
○外国語教育の充実
 具体的には、小学校高学年に「外国語活動」を導入。

親や子にとって「都合のよい教師」 ふり返り366日【08/2/16-1】

[教師] ブログ村キーワード

 今、最も必要とされている教師のタイプは? 

 私の答えは、授業力・生徒指導力という軸はゆるぎなく、変化に適切に対応できる教師・・・というものです。

 行政の側、あるいは、管理職から見ると、都合のよい教師かもしれません。

 しかし、同じ「都合のよい教師」でも、子どもにとって「都合のよい教師」と、親にとって「都合のよい教師」と、教師にとって「都合のよい教師」では、どれが最も「よい教師」なのでしょうか。

 親や子にとって「都合のよい教師」は、圧倒的に私立に多いのかもしれません。

 私立の公立に対する差別化は、たとえば授業時間数、特に入試で使う教科の時間数の違いにあり、「受験に役立つ」指導がなされていることが特色となっています(それがすべてではありませんが)。

 そして、授業内容も、テスト形式も、おそらく効率重視型、たとえば穴埋めプリントで網羅的にやること、小テストを多く実施すること、一問一答式に強くなることなどに指導の重点がおかれることになります(すべての学校がそうとは限りませんが)。

 一方の公立は、学習指導要領に準拠した教育が行われますから、そういう「簡易正解取り出し装置」のようなタイプのような人間ではなく、「自ら学び、自ら考え、主体的に・・・」という「生きる力」をもった人間の育成に力を入れるため、一見すると無駄に思えるような活動をして、「ゆとりのある」時間を過ごすことになります。

 ところが、公立の中でも差別化が求められるようになると、必然的に、私立のような学校が登場し始めます。

 そのような学校の行く末を、今後、データを集めながら、長い目で観察していこうと思います。

08/2/16 数学の教師への感謝  文科省の指導要領案「理数系、最大3割授業増」のニュースに関連して。  数学理科は、テスト問題などでは「まぎれのない正解」が必ずあるために、学力の一部を測定しやすい教科で、かつ内容が万国共通のものでは学力の国際比較ができることに特徴があります。  今、多くの子どもたちは「ものごとには常にひとつの正解があると信じる(信じたがる)」「少しでも効率よく正解にたどりつく方法を知りたい」「正解と信じたものを発見すると、それで終わり。判断や思考が停止する」傾向が強くなっているように思います。  ややもすると数学や理科の教師は「解き方」を解説することに終始し、本来の「おもしろさを十分に伝えていないことが、全国の質問紙調査でも明らかにされています。  私が恩師である数学の教師に感謝しているのは、「さまざまな解法」を追求する楽しさを味わわせてくれたことで、裏返せば「正解を求めて終わりの数学観・学習観を持たせなかったことです。  理科でも、惑星の定義などかつての常識が書き換えられている内容が多くあるようです。  「追求する姿勢」を鍛えるのに、数学や理科のような自然科学の分野の学習は「証明」や「実験」ができるので適していると考えられます。  社会科学には本来「正解至上主義」はなかったはずですが、たとえば社会科で、目先の得点力、特に安易な形で出題できてしまうような問題ばかり重視していると、「正解信仰」に陥らせるばかりの授業になってしまいます。  神奈川県の公立高校では日本史が必修とされるようですが、そこで鍛えるべき「連続する思考」のかたちをしっかり周知すべきだと考えます。

レポートがつくれない大学生

 学生にレポートを課した大学教師の嘆きです。
 まだ手書きが主流だった時代(今でも、コピペ防止のために手書きを条件に課している人もいる?)。

○レポート用紙を綴じていない。
○結論が書かれていない。
○内容がない。
○何が言いたいのか分からない。
○レポートがうまく書けない理由が詳しく書かれている。
○辞書で引いた言葉の意味がたくさん書き写されている。
○参考文献が書かれていない。

 内容構成以前に、体裁の指導から始めなければならないわけですね。

 確かに、中学校の学習指導要領解説にも、「レポート用紙の綴じ方」までは説明されていません。

 地理的分野の学習指導では、以下のような方法を身に付けることができるはずなので、もう少し他の教科の方にも頑張っていただくことが必要です(総合的な学習の時間の指導はどうなっている?)。

 レポートの一般的な構成例

1) 調査の動機:なぜ、この主題を選んだのか。どんなことに興味や関心、疑問をもったのかを書く。
2) 調査の目的:この調査で何を知りたいのか、分かりたいのかを書く。
3) 調査の方法:いつ、どこで、どんな方法で何を調べていくのかを書く。
4) 調査の内容と結果の考察:調べて分かったことを調査前の予想と比べたり自分の解釈を加えたりして論述するとともに、図表や写真、地図などを入れて具体的にまとめる。
5) 感想や今後の課題:調べて分かったことに対して、どんなことを感じたかを記述するとともに、もっと深めてみたい内容をまとめる。
6) 参考資料など:調査に用いたり、参考にしたりした書籍名などを記す。

*なお、レポートの作成に当たっては、調査結果も大切であるが、事実と自分自身が考えたり解釈したりしたこととをはっきり分けて書くことそのように判断した根拠を示してまとめること図や表を使ったり地図上に表現したりすること要点を自分の言葉で簡潔にまとめることなどに留意することが大切である。
***以上、中学校学習指導要領解説社会編(平成20年9月)より。

危険・情報不足・選択不能・鈍重 ふり返り366日【08/2/15-3】

 次の4点を共通してもっている場所はどこでしょう?

○安全に生活を送ることができない恐れがある
○重要な情報を知らされないことがある
○自由に選ぶことができない
○意見がなかなか反映されない

 ケネディ大統領の「消費者の4つの権利」をもじったものですが、答えは公立学校です。

08/2/15 行政の締め付けを期待する「市民」  夜スペ問題への反対派の意見には、行政の介入(教育委員会の指導)を望む声が含まれていたように思います。  日本人がヨーロッパ風のシティズンシップを持てない最大の原因は、何かあると「お上だのみ」の本性が現れることに端的に示されていると言われます。  テレビで偽装ややらせがあると、「行政はしっかり指導しろ!」「テレビ局は責任をとれ!」と怒る人は想定できますが、「しっかりした賢い情報の受け手になろう」と自覚し直せる人はどれだけいるでしょうか。  なぜヨーロッパの観光地に、落下防止の柵や手すりが設けられていないのか。  日本では「危険防止」の責任は、行政にあるというのが一般的な通念ではないでしょうか。  これではいつまでたっても「賢い市民」が日本に生まれることはないかもしれません。  「賢い市民」を育てる学校教育とはどのようなものでしょうか。  中学校の社会科公民的分野の資料集などには、1962年にケネディ大統領が述べた「消費者の四つの権利」が載せられています。  「安全を求める権利」  「知らされる権利」  「選択できる権利」  「意見を反映される権利」  公立学校の実態はどうでしょう。

すべてをポイントに換算すると・・? ふり返り366日【08/2/15-2】

 結果はともかく、「努力をした」ということの証がほしい、それを認めてほしい、それはどの世代にも共通する感覚なのでしょうか。

 通信添削の大手では、課題を出すと「シール」がもらえ、それを集めると景品がもらえる仕組みになっています。

 ・・・単純に、払っているお金で買っているだけともいえるのでしょうが・・・。

 このようなポイント制を、学校でも採用したらどうなるのか・・・?

 勉強はともかく、たとえば不登校が異常に多い学校では、一人一枚ずつカードを発行して、出欠席、登校・下校時間管理と連動させていったら・・・。

 出席数も、宿題の提出数も、自由課題の数も・・・あげくの果てには、定期テストの得点まで・・・「ポイントに換算して・・・」

 本当にこれで、数字だけはUPしそうなのが怖いところです。

08/2/15 学力向上にもポイント制  ポイント制は大阪の人に特に人気があるようですが、その交換比率が下がっているなどの異変がおこっているようです。  学校が集中する駅近くで、多いときには6人くらいの学生アルバイトが予備校などの勧誘資料を配っています。ほとんどの子どもがなかなか受け取らないので、クリアファイル入りにしたり、消しゴムを入れたりして数がはける工夫をしているのですが、先日は新たに、チョコレート入りという作戦に出たようです。  これを受け取って校内で食べていた子どもが生活指導の対象になってしまいました。  「ものでつる。」  近隣の塾では、週末のテストでとった点に応じてポイントがつき、集めると賞品と交換できるようです。  ただ、友達を紹介すると、何十回分のポイントが一気につくという話でした。  塾業界の営業努力、外発的動機付けというのはすさまじいものですね。  ブログランキングもポイント制ですが・・・。これも動機付けになっているのでしょうか。

生徒がキレるタイミング ふり返り366日【08/2/15-1】

 言語活動の充実という改訂の趣旨が明らかになったときに、最初に思い浮かんだのが、「言葉よりも先に体が動いていくタイプ」の子どもの指導でした。

 授業中のエスケイプの常習者でも、中にはコンビニに行ったり校庭に遊びに行ったりするのではなく、トイレに行くために教室を離れるケースがあるわけです。

 普段、見て見ぬふりをしてしまう教師が、こういうタイミングで子どもに注意するのが、事件のもとになります。

 罵声の浴びせ合いが想像つきますか?

 「社会人らしい言語活動」「中学生らしい言語活動」が、その場からは消え去ってしまいます。

 たった一言、「トイレ」だけでも、問題は起こらないですむ。

 「どうしたの?」だけでも、普通の言葉のやりとりが期待できる。それなのに・・・・。

 そんな場面がどれだけあったことか。

 問題行動を繰り返す生徒だけに課題があったわけではありません。

 度重なる嫌がらせに、「嫌です」と言えない生徒。

 かばわなければならない側の生徒も、いつしか「何で言い返さないの?」などと追い詰めてしまうケースもしばしば。

 寡黙が美徳とされた武士道の精神が、まだ生きているということでしょうか・・・?。

 充実した言語活動が学校現場に根付くために、「言語活動の場」「言語活動の時間」をしっかりと意識して確保することが、授業でもその他の教育活動でも求められていると考えられます。

2008/02/15 「言葉」による指導  “しょう”さんに取り上げていただいたコメントの一部を改変してご紹介します。  私が困難校で経験したことは、中学生の場合ですが、自分の感情や考えを言葉で表現することが苦手な子どもが非常に多いということです。人をけなす単語は次々に飛び出すのですが、まとまった意味のあるフレーズを語ることができませんでした。  私が「問題」としたことは、荒廃した家庭でも教室でも、「言葉」を使った課題の整理や解決が行われていないこと。自分に対して本気で向き合うための「道徳」の時間が、全くいい加減であること。  教員間では、たったこれだけの「課題認識」を共有化するだけで、「何を指導すべきか」はわかるのですが、経験不足のために「どう指導すべきか」がなかなかついてきませんでした。  数々のステップを経て、「本来すべきである教師の役割」に気付いた教師が口にするのは、結局、学習指導要領やその解説に書いてあることをする、あるいはしようとすることが大事だ、ということでした。

大学教師にも必要な「教員免許」

 教育免許更新講習を多くの教師が受けるようになることも背景に、「大学の教師に教員免許がないのはおかしい」という考えの確からしさが、今後、徐々に浸透していくことになるでしょう。
 
 ある大学関係者から、「初めて大学の授業を担当することになって困った人が読む本」を紹介されたことをきっかけに、ネットで調べたり実際の何冊かを手にとって分かったことですが、大学教師の教授法参考書の多くが、翻訳本であること。
 
 このことがまさに日本の大学教育のレベルの象徴になっているわけです。

 研究のレベルもそうですが、日本の大学は、どの程度の「教育のレベル」を保っているのか?

 そんな評価に注目が集まるようになるでしょう。

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大画面液晶テレビの教室配置へ ふり返り366日【08/2/14】

 液晶大画面のテレビが安くなっており、音も含めて直接パソコンから映すこともできるようになったため、教室内ではプロジェクターと同じような効果が発揮できるようになりました。

 やはりテレビは明るく鮮明なため、62型程度の大きさになると、教室の一番後ろからでも、昔の小さいテレビだとかなり前で見ているような感覚になります。

 軽量化が進むと、天井から下げる形で、全小中高のすべての教室に設置されるのも遠い未来のことではないでしょう。

 どんなに優れた教育機器でも、手軽に、準備も短時間で、いつでも使用できる環境が大切です。

2008/02/14 20年後の教室と教師  携帯電話、パソコンを使うようになって、その分、減ることになった時間は何か?という新聞の世論調査で最も多かったのは「読書」の時間だそうです。ある大学の先生は、携帯の普及率の上昇とともに大学生の学力低下が顕著になったと語っていますが、そこに因果関係はあるのでしょうか。  小中学生、高校生、そして大学生は、それぞれの環境の中で本当に多忙な時間を過ごしているようですが、携帯電話やゲームをいじる時間が、テレビを見る時間より長くなったとき、世の中はどのように変わるでしょうか。  子どもにとって昔はテレビ、今は携帯とゲーム(今はテレビとゲームと携帯という複合型ももちろん)が学力向上を蝕む最大の敵と認識されていますが、携帯電話や通信機能をもっているゲームは、そのコンパクトなサイズと長時間の使用が可能なことから、教育への利用が進むのは時間の問題だと考えられます。  そういう時代でも「黒板とチョーク」の授業の意義、「読書」の効果を教師は子どもに伝え続けることができるでしょうか。単純に知識や技能だけの能力をつけさせるのに、教師の力はコンピュータの力を上回り続けることができるでしょうか。  家庭でゲーム機に何時間も向かった経験がない世代の教師は実感をもてないかもしれませんが、そういう経験のある20代、30代の教師は、漠然と「自分が教えるよりソフトで学習させた方が効果が高いのでは?」という危機感をもっているかもしれません。  まだ50分の授業で使える実用的なソフトや便利なインターフェイスが開発されていませんが、それが可能になったとき、教師の役割とは何か。その専門性とは何かが問われてくると思います。  昔、授業で使うソフトの開発に何年かかけて取り組んだことがありますが、10分の学習用のソフトをつくるのに10時間以上かかるのは毎度のことでした。今は、その開発中に取り組んだ授業分析、「わかる」までの思考の流れの整理など、学習者の立場にたって授業を考えていたことは役に立ったかと思います。  20年後、「ふつうの教室」「ふつうの教師」はどんな姿になっているでしょう。

職場の一体感 ふり返り366日【08/2/13】

 何年も前から「構想」だけで何の進展もしてないかった教師だけのスポーツ大会が、昨年末に実施することができました。
 
 一番心配していたのが怪我でしたが、予想以上に年輩の先生方も動きがよく(それがまた危ないのですが)、気温も暖かだったこともあり、大成功に終わりました。

 近所の空き地で野球をやるのが当たり前だった世代は、歳を重ねても「嫌らしいプレー」が自然とでき、経験の重み?を実感させてくれます。

 教師たちが和気あいあいと汗が流せる「ゆとり」の時間が今の忙しい現場ではなかなか取れないものだと言いますが、最も忙しい時間をぬっての実施ができただけに、今後の期待も膨らみます。

 一体感のできる職場というのは、とてもいいものです。

 時間にゆとりのある小学校などでは、学校対抗のバレーボール大会などがさかんなところもあるでしょう。

 子どももそのような試合で活躍する先生方の姿を、本当は真剣になって応援したいものなのかもしれません。

2008/02/13 教師が「生きがいを追求できる」学校とは?

ハイ・コンセプト「モノ」よりも「生きがい」
 「もの」より「思い出」というCMのコピーがありました。
 教師にとって大切なのは、「残業手当」より仕事の「やりがい」でしょうか。
 学校が、一人一人の教師にとって「生きがいを追求できる場」になるためには、どういう条件が必要なのでしょうか。また、どういう制約が不必要なのでしょうか。
 私の場合は、保護者たちが参加する地域のスポーツチームにさそってもらい、その一員として体を動かしていたことが、生きがいの一部になっていました。今は子どもが在学している学校のPTAチームが優先ですが。
 私は社会科の教員ですが、2校目の学校の1年目に、夏休みの20日間、数学と英語の補習を実施しました。みなさん寛大によくやらせてもらったなという実感です。参加してくれた生徒も、よくついてきてくれました。
 大学時代に塾講師や家庭教師のバイトをやってから教師を本気で志望した経緯がある自分は、原点の一つに受験指導というのがあり、ボランティアで実施してかつ成績が上がった生徒には賞品もプレゼントするなど、今から考えればとんでもないことをしたものです。「機会均等」に反する、「」の営業妨害だ、と袋だたきでしょう・・・。
 中には塾に通いながら学校の補習に出てきた生徒もいました(塾のテキストの質問にも丁寧に答えてあげました・・・)。この活動で成績上位の子どもたちから認められたことが、その後、学校を建て直すのに役立ったのを覚えています。他教科の指導も夏休みという時間ですが現場でやった経験が、総合の構想などで生きました。
 社会科教師としての生きがいには、徹底した現地調査を通した教材づくりというのがあります。特に教育実習の教材を1年間かけてつくった経験も教師としての原点になっているため、現在も長期休業中に休暇をとって学校の外に出るのも抵抗がありません。大学時代は交通費が安く済みましたが、今はきつい。できれば旅費がほしいものです。
 最近特に残念だと思うのは、教師が高齢化しているためか、校内の教師たちと一緒にスポーツレクで汗を流すことが全くなくなってしまったことです。企画をたのまれているのですが、すぐだれか大けがをしそうなので、躊躇しています。
 90歳になったら何をしているか・・・。私は母校で教員をしているので死ぬまでちょっかいを出していたいですね。

小学校からの負の遺産 ふり返り366日【08/2/12-2】

 小学校ではいわゆる「人物学習」として歴史を学ぶのですが、「時代背景がわからないと歴史上の人物の仕事の意義もわからない」というので、結局、中学校のような政治や社会の学習にまでふみこんでしまうような学習事例を散見します。
 「内容が難しくなる」ので、「よくわからなくなる。」「自分の言葉で説明できなくなる。」・・・当たり前のことです。

 実は小学校教育の中でもいろいろな意味で問題が多いのが社会科であり、その最も大きな影響が子どもの「社会科嫌い」として出てしまっています

 さらにその背景には、教師の「社会科嫌い」があることは言うまでもありません。

 大事な場面はビデオ頼り、展開は指導書に出ている自分でもできそうなところだけ力を入れる。

 そのために翌年には中学校の「通史学習」をひかえている子どもたちに、「体験型学習」と称して総合に毛がはえたようなことを教えてしまう。

 授業改善の基本は、「あのとき学んだ学習の意味や意義はわかっていましたか?」「楽しかったですか?」「学びがいはありましたか?」と子どもに問うことであり、それを怠ってきた長い歴史をここでは転換していかなればなりません。

 平和教育だけに重点をおく教師とか、カルタ遊びに興じることに重点をおく教師とか、何でもありの状況を改善することが、学力向上への第一歩でしょう。
 

08/2/12
最も印象の薄い時代とは?
 義務教育の歴史の学習で、最も印象の薄い時代というのはいつでしょうか。
 それぞれの時代には特に印象的な人物や事件があるので、時代ごとのだいたいのイメージは浮かべられるかもしれませんが、少し時期が限定されるだけで「ほとんど知らない」空白の時間があることに気づきます。
 小学校も中学校も、簡単な戦後史にふれることになっていますが、授業がそこまで「進んだ」人の割合はどのくらいでしょう。「三丁目の夕日」の時代も教科書には載っていますが、20代までの人で当時の生活がイメージできる人はいるでしょうか。
 また、戦時下の生活はくわしく学ぶとしても、1920年代から40年代の日本はどうなっていたか、説明することは難しいのでは。戦後の占領期、日本にいた米兵に「ギブ・ミー・チョコレート」とせがんでいる子どもたちをビデオで見たことがある人は多いかもしれませんが、子どもたちはそのとき初めてチョコにふれたわけではなく、戦前にも森永と明治製菓のチョコが売られていたんですね。
 中学校程度の「薄さ」で歴史を学ぶと、暗いの時代の前にあった繁栄がイメージできません。明治の前の江戸のイメージさえ、まだ「暗黒性」で彩られている印象があります。
 歴史学習では「どういう経緯でそうなった」「なぜそうなった」かを考えるトレーニングをしますが、そういう材料が十分に与えられないで学んでしまうと、非常に一面的な歴史認識・時代のイメージが生まれてしまいます
 時間の制約という縛りが結果として「多面的・多角的なものの見方や考え方を養う」基盤を奪ってしまっている好例です。
 教師は「受験にでないからいいや」という安易な発想ではなく、授業のどこに「本物の重点」をおくか、指導計画とにらめっこしながら練り上げなければいけません。
 「ここ大事ですよ・・・」は子どもに気づかせることであって、教師が言うせりふではありません。

あくまでも、現場を見るきっかけに!

[教育現場] ブログ村キーワード

 いじめ関連の記事について、今夜は絶好調(?)ないちろうさんから、以下のような「但し文」がありましたので、こちらでもご回答させていただきます。

 暗象は何をしたんだ?  解決に向けての努力をしたのか?  仲間がいないからネットで愚痴っているのか?  世間に学校不信を広めたいのか?

 私が直接関わる教育活動について記事にしないことは以前にも申し上げていますが、その理由はのちほど改めてご説明します。
 
 特に最後の「世間に学校不信を広めたいのか?」という部分については、このブログを始めた時点から、以下のような大きな使命がありました。

 それは、保護者の多くが、子どもの教育を「学校任せ」にしていることが、今の「教育の荒廃」の一因でもあること。

 もちろん、学校がすべてを担えれば問題は起こらないのかもしれませんが、その能力がないことと、能力がないことに気付きもしないでいる現状があること、それを発見し、正していくことが、今は社会全体にも要請されていることを知っていただくため、ということです。
 学校は、外部に評価を公表するようになってきていますが、学校自体が評価項目を設定している学校評価だけから判断するのでは不十分です。

 教育に関する問題の解決には、特に現場を知ろうとしない保護者の方の協力も必要となります。

 問題が起こった後、しかも、問題を隠されていた後の対応では、問題はこじれるばかりであり、なかなか解決へはたどりつけません。

 保護者として学校のことをもっとよく知り、早い時期から言うべきことは言っておけるようなきっかけが、このブログの記事を通してなされていくことを願っています。

 当たり前の話ですが、すべての学校(教師)に共通する問題もあれば、一部の学校(教師)の問題にすぎない話もたくさんあります。

 学校が起こす様々な不正が明らかになるパターンとして、内部告発という形態が増えていますが、これはむしろ組織の健全性を示すものでしょう。
 そして、不正防止の強力な抑止力になります。

 しかし、内部の自浄作用に頼ってばかりでは、問題は根絶できないでしょう。 

 また、いちろうさんにように、労働問題とリンクさせてコメントをいただける方もいますが、教師に対する厳しい目が注がれている背景は、単なる「労働者」としてではなく、それが「公務員」であること、「教育者」であることに由来するものであり、直接の利害関係者が将来の日本を担う子どもたちであるということがあるわけです。

 「教師だけ特別扱いする」ことにいちろうさんは批判的でしたが、以上のことからそれなりの理由はあるでしょう。
 また、自分は政治家や企業経営者のことは本や報道でしかわからないのに対し、教師のことは様々な角度からよく状況がわかっていますので、記事にしやすいわけです。

 いちろうさんのように「お前の学校はどうなんだ」「お前は何を解決したんだ」と直接の答えをうかがいたい方もいらっしゃるでしょうが、このブログの趣旨である「自分の目でしか判断できないことはぜひご自分の力で」ということをご理解ください。

 今は学校を通り越して、教育委員会に数多くの苦情や相談が持ちかけられるようになっていますが、結局、一番学校のことをよくわかり、事実認識ができるのは当事者としての保護者・教師・子どもなのです。
 
 「実際はどうなんだ」と気にかかることがこのブログでは大切なポイントです。

 マスコミの論調がすでに追い風になり、学校や教育委員会の方でも情報公開を進めるようになっており、私が求めている環境は整いつつあると思います。

 もちろん、マスコミのミスリードの問題もありますし、ただ情報公開していればいいというわけでもないので、報道などから気が付いたこともコメントしていくつもりです。

 読まれた方がどのような行動をとられるかということが大切なのであって、パソコンに向かって何か特別なことができるわけではないのです。

 さらに付け加えれば、いちろうさんの決まり文句として、私自身の教師としての資質・能力を疑う文言がコメント欄をにぎやかなものにしており、いちろうさんは私の教え子たちの現状を心配されているのですが、その問題については、私一人の力だけでなく、優れた資質・能力をもつ同僚や管理職の努力で対応できております。

 何が問題であるかを指摘できているということは、その問題に気付いているということであり、「気付いているかいないか」だけでも学校の信頼性は左右されるものであるということはご理解いただけると思います。

 教師は、「自分の子どももまともに育てられないのに、どうして他人の子どもが育てられるんだ」とお叱りを受ける宿命もありますが、不思議と、自分の子どもはまともに育たないが、他人の子どもがまともに育っていく姿というのは、数限りなく見ることができるのが教職というものです。当然、「このままでは心配だな」という子どもの姿もたくさん見ることになりますが。

 「自分のことは棚に上げて」「自分自身の資質・能力が足りないくせに」と反発されることは承知のまま、すばらしい成長を遂げる子どもたち・成長できずに苦しんでいた子どもたちをたくさん目にしてきた経験から、勝手気ままに記事を書いていくつもりです。

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中世人気質の増加の危険性 ふり返り366日【08/2/12-1】

 恐喝等の書き込みで逮捕者が相次いでいることから、ネット上でも実は「透明人間」ではいられないことが周知されつつあり、同じような事件は減っていくことになると思いますが、「この程度なら」という甘い認識で、人を傷つけようとする行為をやめない人は、残念ながら後をたたないでしょう

 批判的な記事を真に受けて、あたかも自分が批判を受けたように感じ、過剰反応に出るタイプの人の共通点は、愚痴が言える「仲間」がいないか、同じレベルの仲間しかいないかのどちらかではないでしょうか。
 普段、「人と接触すること」が極端に少ない人の中にも、当然ですが「おかしな人たち」を冷静に判断できる人はいるでしょう。

 こんなことを「興味深い」と言っては失礼かもしれませんが、現代人の一部に、「中世人タイプ」が増えてきていることが気になっています。命の軽さも、異常な名誉心も、すぐキレルことも、粘着質な性格も、中世人ならではの行動に近いものが最近増えてきます。
 
 このような人たちは、一般的な社会生活を送ってきた人から見ると、理解しにくい行動に出ることが多く、それだけ距離が離れていってしまうのです。

 しかし、このようなタイプの人が「いじめられる対象」になるとき、「折中の法」を持ち出すのは危険です。

 「いじめられて当然」という空気が小中学校にないとは限りません。

 どの時点から予防が可能なのか、学校はしっかり考えるべき時にきています。

2008/02/12 文科省「ネット上のいじめ問題」に対する4つの呼びかけ  文部科学省は12日、「ネット上のいじめ問題」に対する4つのよびかけという保護者向けのリーフレットを作成し、各学校に配付することを発表しました。  4つの呼びかけとは、 「利用の実態」に目を向けよう! 「情報モラル」についてしっかり学ぼう! 「チェック体制」を強化しよう! 「いじめられた子ども」を守り通そう!  というもので、子どもが利用できる内容やその危険性の理解してはいけないこととチェック体制の確認いじめにあったときにすべきことを学校と相談しているかを訴えています。  しかし、いつの間にか「いじめ」が示す行動の範囲はずい分広がったものです。  学校だから「いじめ」という用語を使うという安直な注意喚起ではなくて、この際、名誉毀損や誹謗中傷という言葉を使って理解させてもよいのかもしれません。「犯人」は特定が可能だということも。  また、「情報モラル」という特化した問題ではなくて、「そもそも」というレベルで社会のルールやマナーを学ばせるきっかけにしてほしいものです。

叱られるべきときに叱られることの意義

 神垣さんのブログ「ライター・カミガキ 臨機応変日記」の2月25日の記事「叱る・叱られる」に、同年代の人が持っている「思いやり」のパターンの一つが紹介されていました。
 ご本人の了解がいただけたので、以下に一部を引用させていただきます。
 取材された対象の方は、10年で8店舗を展開されている飲食店経営者の方だそうです。

アルバイトの大学生でも間違ったことをしていると容赦なく怒り飛ばします。泣き出す子もいるというほどの大迫力で。でも、社員・アルバイトの定着率は95%。

ほとんどの従業員がやめないのは、彼に愛があるから。

「僕、どうでもええやつのことは叱りません」と彼はきっぱり言います。
あ~、確かに。自分にとってどうでもいい相手のことは深入りしない。愛情がなければ、叱ることもない。自分に置き換えたら、叱られないことの方がずっと寂しくて苦痛でしょう。

幾つになっても、叱ってくれる人がいることはありがたいことなのだと改めて思うのでした。


 今、学校現場では、「叱る」ということが難しくなっています。
 管理職が新任教師を叱ると、それで「不登校」になるケース。
 校長・副校長で「家庭訪問」をしたら、親の甘やかしぶりが小学生と同じレベルだったという話。

 担任が子どもを叱るケース。
 「叱り方が悪い」と逆ギレする親。
 担任が目撃した問題行動でも、「子どもがやっていないと言っている」といって、絶対に過ちを認めない親。

 「叱れない」教師、「叱ったことがない」教師、「叱られたことがない」教師が大量発生するのを防ぐには、どうしたらよいのでしょう。

 それには、叱られる材料が豊富なときに、叱れるだけ叱っておく、そういう立場の人の自覚が必要なのでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より