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カウンセラーのタイプもさまざま ふり返り366日【08/3/2-2】

[小中学校] ブログ村キーワード

 職業柄,さまざまなカウンセラーという人とお会いする機会がありました。

 カウンセラーの方は,学会などでお互い通し情報交換や勉強などをされているのでしょうが,「自分はどんなカウンセラーなのか」と聞かれたら,みなさん答えられるのだろうか?・・・という疑問が浮かびました。

 カウンセラーには教科書のような「お手本」,「セオリー」があり,その通りやっているはずだから,・・・などという人はいないと思いますが,子どもにとっては「相談をしたいカウンセラー」と「話しをしにくいカウンセラー」という少なくとも二通りのカウンセラーがいます。

 後者の人たちというのは,「カウンセラー失格」というレッテルを貼られることになるのでしょうか。

 私はそうは考えず,やはり「人間には好き嫌い,得意不得意がある」ので,子どもにとっては「自分に合ったカウンセラー」を選ぶ権利を認めたい気がしています。

 ですから,スクールカウンセラーを全校に配置したからそれでよい,ではなくて,子どもが相談できる人を選べるしくみを先につくるべきではないか,と考えています。

 一番私が問題だと感じているのは,小学校です。

 小学校では,「担任の先生が嫌い」な子どもは,学校ではまず救われません。

 学年の組織がしっかりしている小学校は別として,普通の小学校で,いつも休み時間,隣のクラスの担任のところにいって話し込んでいる(あるいは,自分の担任に対する愚痴をこぼしている)小学生がいたら,その子の担任はどう思うでしょう。
 
 家で発散できればいいのでしょうが,学校でのストレスはたまる一方です。

 中学校では,「好きな先生」や「嫌いな先生」,「苦手な先生」が入り乱れることになるので,相談相手を選ぶことも可能です。しかし,小学校ではなかなかできない。
 
 様々な問題行動不登校などの現象は,中学校に上がって一気に噴出しますが,その原因が中学校への進学後に出現したものだけであることはまれであって,「積もりに積もってきたもの・習慣」が背景にあるわけです。

 小学生による殺人事件が,今後絶対に起こらないという保障はありません。

 問題行動や不登校の「数字」が小さい小学校は,「数字が小さいから問題はない」と捉えてしまうのは危険であり,スクールカウンセラーにとって,実は中学校よりも仕事のやりがいがある職場かもしれないと思っています。

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08/3/2 教師はうなずきのプロになれるか

 精神疾患により休職・退職する教師が多いことからも、教師への専門的カウンセリングの需要は高いことが予想できます(もちろん企業でも同じことが言えるかもしれませんが)。

 昔は若い教師がへこんだとき、年配の教師が飲みに連れていってくれて愚痴を聞いてくれたりするなど、親身になって相談にのってくれる場面が多かったかもしれません。
 しかし、今、精神疾患で職場を離れる教師の多くは40代、50代です

 若い教師に励まされることなどはさらにプライドの傷に塩をすりこむことになりかねず、フォローが難しい

 教師は一方で、生活指導の場面だけでなく、授業でも自分が生徒に対してカウンセリングの技能を発揮することが求められていることは言うまでもありません。

 カウンセラーが精神的に病んでいったとき、やっぱり他の専門家のやっかいになるのか?というのは素朴な疑問ですが、もし一般的な人よりも、カウンセラーが自分自身のカウンセリングの必要性を感じないようであれば、教師はますますカウンセラーとしての資質を高め、技能を習得していくことが必要だと考えられます。

 そういう技能が身に付けば、たとえば初めての苦情対応にも冷静に対処していけるかもしれません。
 下園壮太著「目からウロコのカウンセリング革命」(日本評論社)は、カウンセラーになりたい人がもっているかもしれないカウンセリングへの素朴な疑問に応えてくれる良書です。

 その冒頭で「カウンセリングの3原則」「三つの魔法」とよばれるツールが紹介されています。
 これは教育現場でもすぐに役立てられるものかもしれません。

 第一段階・・・首を振る(いつもより大きめにうなずく)

 第二段階・・・二種類のうなずきを入れる(小さいのと大きいの)

 第三段階・・・うなずき相づち視線の移動リズム良く(うなずきに合わせて、声を出す、話を聞くときは、視線は基本的に相手の口のあたり、うなずくときは首の動作にあわせて、相手の目をちらっと見る)

 この本の著書が他のカウンセラーと少し違うのは、「受け取る力」と「伝える力」のバランス感覚かもしれません。
 著者は、「伝える力」の必要性を強く訴えています。教師としては、かなり共感できる部分が多いカウンセリングの指導書となっています。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より