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イメージング格差 ふり返り366日【08/2/29~3/9】

 イメージングイメージトレーニングの違いは,後者が成功までのプロセスを段階をおってイメージしていくのに対し,イメージングは成功してしまった後のことを考え,「気持ちの高揚」を先取りしてしまう,そういう手法にあるといいます。

 そういう話を聞くと,芸能人にあこがれるだけでなく,ほとんどなりきってしまうほど「イメージング」が進んでいる女子中学生,女子高校生を見るにつけ,「大丈夫か?」と思ってしまいますが,このような「心のブレーキ」というのがはずれない限り,なかなか素人には「イメージング」は難しそうです。

 心はブレーキをかけないつもりでも,深いところのブレーキはきいていて,体に湿疹ができたりするなどの「ブレーキ症状」が出現する人がいるようです。 

 子どもたちは,無意識的にイメージングを行っているのではないかと思ってしまうのは,私などは学校だけでなく塾にも通って,何時間も机に向かうことは絶対に耐えられそうにないのに,それに耐えている・・・というか,喜んでそうしている子どももたくさんいる・・・ことへの疑問が,なかなか解決されないからです。

 なぜそんなに長時間勉強しなければいけないのか。
 しかも,たいして創造的ではないことばかりに。
 テキストの内容をひたすら覚え,確認テストだの基礎問題だの練習問題,演習問題などといってひたすら「与えられた問い」に「期待される答え」を出し続ける行為を繰り返す姿。

 それは,「よい学校に合格でき,そのあと,楽しい生活(=親からのプレッシャーや勉強から解放される??)が待っている」というイメージングが成功しているからではないか・・・・。

 もしかしたらその先までイメージングできているかもしれません・・・。

 もし,そういう機能が学習の動機付けに有効にはたらいているのであれば,ふつうの学校でもできることはないのか?と考えてしまいます。

 そうでないと,「イメージング格差」が「断層」を決定付ける大きな要因になるような気がしています。

08/2/29 教師のイメージング その1

 「読むだけで夢がかなう!」というコピーは目をひかれるものの、「そんな簡単にいくか!」と冷静に考えればわかるもの。だからそういう冠がついている本はあてにできないと思っていましたが、ジョイ石井著「読むだけで夢がかなう!イメージング・ブック」(王様文庫)は、子どもに読ませてあげてもよい本かなと思いました。
 冒頭の方に、「私たちは、自分が抱いているセルフイメージ以上の自分にはなれない」という核心的な言葉が登場しています。

 教師にとって、自分に抱くセルフイメージとはどんなものでしょうか。

 生徒にこわがられている?生徒になめられている?

 生徒に信頼されている?生徒に信頼されていない?

 生徒に嫌われている?生徒に好かれている?

 苦しんでいる教師は多く、だから精神疾患による休職が後をたたない。

 日本でも「カウンセリング」がはやってきています。カウンセラーは「聞く専門家」で、問題の解決に責任をもつ人ではありません
 ある人は「どうして友達に相談せずに、お金をはらってまで愚痴を聞いてもらう必要があるのか?」と揶揄していました。
 スクールカウンセラーは、子どもより教師のため、また、子どもより親のためというニーズが高いのでは?
 ただ、教師は実力はなくてもプライドだけは高い人が多いので、やはり最後は自己対話が成立する人間になれるかどうかにかかっています。
 どういう自分、どういう教師になりたいのか。
 「生徒に信頼される教師になりたい」と若い人は言うかもしれませんが、子どもは「信頼できる教師」に何を期待しているのでしょうか。カウンセラーとしての役割でしょうか。学力を身に付けさせてくれることでしょうか。校則違反を見逃してくれることでしょうか。
 「生徒に嫌われたくない」という心理はわかりますが、そのために大切な指導を行わないできた教師がどれだけいることか
 何度も紹介していますが、荒れた学校で、「にこにこしていれば生徒は反抗しないよ」と若い人にアドバイスしていた教師がいました。
 エスケイプしようが、煙草を吸おうが、人のものを盗もうが、「決して怒らない。」「笑顔をたやさず指導する。」「逃げるが勝ち。」
 結局自分のことしか考えていない。
 教師にとってイメージングが役に立つものかどうか、考えていきたいと思います。

08/2/29 教師のイメージング その2

 「自分が抱いているセルフイメージ以上の自分にはなれない」という、カウンセラー・ジョイ石井の言いたいことは、「なりたい自分の具体的な姿がわからなければその姿にはなれない」という当然のことです。

 教師のコンピテンシーモデルでは、「あるべき教師の姿」を分析的に描こうとしていますが、そういう姿を提示されても、教師はその姿に「なろうと思えるか」。

 「こんなたいへんなことはしたくない」「それは私にはできない」「方法を教えてくれ」「時間の制約があるから無理だろう」と反応してしまう。自分の仕事は「ここまでの範囲」と決めてしまう。
 これはまさに逆コンピテンシーの典型です。

 ただし、「子どもや親の要求をいちいち聞いていたらきりがない」という現状から、このような防衛本能は自然のなりゆきで生まれてしまいます

 だからそこに「戦略」が必要になる。

 人は、すぐそれを聞きたがる

 でも人から教えてもらったアドバイス、戦略が、自分にぴったりあっているかどうかはわからない。
 ジョイ石井は他の成功哲学書との違いを明確に述べてくれています。

 ジョイ石井は、夢への入り口は、とにかく「なりたい姿をしっかりイメージすることであって、「どうやって?とは考えない」の章で、「~だからできないだろう」という発想にならないようなアドバイスをしています。
 ・・・カウンセラーのところに行けるのはある程度お金に余裕があって、傍目には成功しているように見える人が多いでしょうから、この本の趣旨で多くの人が夢を実現できるようになるかどうかはわかりませんが・・・。

08/3/1 教師のイメージング その3  子どもにも勧めたいアドバイスとして、「成功(幸せ)のハードルを低く、失敗(不幸)のハードルを高く」というのがあります。

 多くの人はそれが逆であるため、何かにつけてがっかりしたり腹を立てなければいけなくなり、よりよいセルフイメージがつくりにくくなっています。

 多くの教師はレベルの違いはあっても、「生徒はこうあってほしい。みんなこれだけの成績をあげてほしい」と考えているでしょう。そしてそれが実現できる教師が理想の教師で、自分はそれにほど遠い教師・・・。

 どうしても現実が強く足を引っ張っていて、「とてもそんなテレビのような教師にはなれない」と思ってしまう。そして、絶対になれなくなる。

 子どもたちにはスモールステップで力をつける指導をしているつもりでも、あまりそのステップには目を向けず、定期考査のたびに「やっぱりだめか」と納得してしまう。

 ジョイ石井はここで、「小さい成功」を喜ぶくせをつけようというアドバイスをしていますが、これを教師が実行するメリットは、「生徒に期待をかける」場面が多くなることでしょう。

 「予言の自己実現」は多くの人が知っていることですが、なかなか「負の予言」から教師は脱却できない。

 授業の中でも、小さな喜びを、生活指導で説諭としている中にも、期待をこめて、小さな変化・成功を願う
 この積み重ねが大きな成長のきっかけになるかもしれません

08/3/4 教師のイメージング その4 想像の創造力

 イメージングの極意は、想像の創造といったところでしょうか。
 ジョイ石井は、「ポジティブな口ぐせだけではうまくいかない」として、次のような理由をあげています。

 口にする言葉ばかりがポジティブになったとしても、心によぎっているイメージがマイナスばかりでは、結局あなたの心の状態は、陽性にはなってくれない

 ポジティブな言葉を使うことによって内面をポジティブにしていくよりも、さらにもっと奥にあるイメージを普段からポジティブにしていったほうが、そのイメージに対する感想も無理なくポジティブになるのではないか?
 よいイメージ(想像)をどんどんつくりだしていく(創造)ことができれば、「夢の実現」に近づけそうです。
 自分自身のポジティブなイメージがわかない場合は、「あこがれの人だったらどうするか」を考える、というアドバイスもしています。

 コンピテンシーモデルが苦手なら、以前に紹介したロールモデルシートの活用でもかまいません。
 やはり教師の場合は、より力のある実践者、指導者に恵まれていることが、実力を伸ばす条件になってしまうのでしょうか。
 ある小学校の研究会に信じられないくらい大勢の参観者が訪れる理由もわかったような気がします。

08/3/9 教師のイメージング その5 教師へのご褒美

 教師にとって最大のご褒美とは何でしょうか。
 文科省がくれる表彰状でしょうか。
 わずかばかりの昇給でしょうか。

 イメージングによる自己実現、成功の法則には、「ご褒美の想定」というものがあります。

 お金のことについて言うと、私の場合は実家が自営業で、一日と一年のほとんどを仕事に費やしていた両親が得られる収入を知っていたので、自分の月収がそれを上回るようになったときから、「給料に値することをしなければ罰が当たる」という意識で仕事に没頭し始めました。

 毎年の昇給は、それだけ自分に対するプレッシャーを高めていくもので、ある意味ではつらいものでした。(この3年間は減収になった上に昇給停止が続いているのでそれはそれでつらいですが・・・。)

 きっとサラリーマン家庭に育った教師は、収入が年ごとに増えていくのは当たり前、ボーナスがあるのも当たり前という感覚で仕事をしていると思います。
 しかし、学校でPTA活動に携わる方の中には自営業者も多いでしょうが、この方々にはボーナスはないし(人を雇っている人はボーナスを出す側)、翌年の収入を今年より増やすことはそう簡単なことではない
 会社でも、中小企業なら同じようなことが言えます。
 そういう立場の方から見て、自分たちの税金で生活している公務員というものは、やはり厳しい目、批判の目で見られるのは仕方がないことです。

 あえてここでは書きませんが、教師は生徒と向かい合っている間に無数のご褒美を頂戴しています
 生徒が卒業していくとき、そのご褒美は最高のものになっています。
 自分はそのご褒美に値する何をしてきたのか。
 「もらい得」の人をひがむつもりはありませんが、この時期は、勘違いしている人をたくさん見かけるときでもあります。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
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    「沈黙の王」より
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    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より