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学力「低下」に歯止めをかける小学校での定期考査の導入 ふり返り366日【08/2/27-3】

 小学校と中学校の違いの中で最も大きなものの一つに,定期考査の有無があります。
 
 これがギャップになって不登校が増える主因になっているわけではないと思いますが,少なくない影響はあるでしょう。

 小中の連携を深めていく上で,実行可能かつ効果も期待できるのは,小学校における定期考査の導入でしょう。

 ある程度の長さのスパンで総合的な問題に取り組ませてみて,「忘れている大事なポイントはないか」を確かめる・・・・・そうすれば,小学校の指導の問題点が明らかになってくるかもしれません。

 小学校では,観点別学習状況の評価を,評価のためだけに利用してしまっている学校が多い。

 そうするとどういうことがおこるかというと,たとえば関心・意欲・態度とか,思考・判断などについて,「そのとき・その場の子どもの動きにしか目がいかなくなってしまう

 子どもは,「その場をだましとおせればOK」という感覚が身についてしまう。

 実は,中学校の現場で,今,最も切実に感じている学力問題がこれなのです。

 授業では反応もよく,自分の意見を出し,積極的に取り組んでいるようなのですが,他の人の意見を聞いたり,教師によるまとめをしっかりのみこんだりせず,教科書に書かれているような基本的な内容を理解しないままで定期考査にのぞむ生徒の得点が伸びないという問題です。

 観点別学習状況の評価規準は,指導目標や指導の改善のための材料として使うべきで,ゴールに近い姿を適正に判断するには向かないものです。

 日本の学力低下の問題解決の切り札の一つが小学校にあることが実証されるのが難しいのは,「先進校」が落とし穴にはまっていて,一般の学校がその穴の底ばかりを見ているからです。
 
 「定期考査の実施」はそれほど難しくなく,どの小学校でも実現可能です。

 まずはそこから,改革に取り組んでほしいと思います。

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08/2/27 テスト問題をつくれなくなったときが教師をやめるときか・・・

 定期考査の問題づくりには平均で何時間くらいかけられているのでしょうか。
 私の学校の場合は、過去問題が塾で売られているような現状があり、毎年違った骨のある問題を作り続けなければなりません。内容が限られている分、新しい素材づくりはけっこうきついものです。

 さらにたいへんなのは、採点です
 角度を変えて出題するため、さまざまな正解も出てきます。
 授業の何倍も密度の濃い発表が解答用紙に刻み込まれています。
 その対話にも相当の時間を費やし、途中で基準が変わるケースもありますから、また全員のを読み返し、点数を変える・・・。

 しかしこれは楽しみでもあるわけです。

 特に学年末の考査は、自分の指導の集大成とも位置づけられるため、論述の問題が多く、思考力・判断力・表現力がどのくらい伸びたかを調べる機会になっています。

 私が教師をやめるとしたら、採点がたいへんというよりも、問題づくりができなくなったときでしょうか。

 ところで、公立高校の入試ですが、たとえば社会科の場合、一部の県では記述が多いですが、ほとんどの県は選択式ですよね。これは学習指導要領の趣旨と合いませんから、いずれ見直されると思いますが、やはり「採点がたいへん」「正解のパターンが増える」という高校側の理由から、表現力を問う出題は難しいでしょう。

 しかしこの程度の問題が公立中学校の定期考査で実施されているとすれば、習得したことの数少ない活用の場としては、不十分だと言わざるを得ません。
 いろいろな意味で、学力問題というのは、入試の課題に直結しているわけですね。
 中学受験の裾野が広がり続けると、小学校でも今のままではいけなくなると思われます。

08/2/28 小学校での定期考査

小学校でスパンの長いテストをしない最大の理由は、おそらく「クラスの成績にばらつきがでることがまずい」ということではないでしょうか。

 学年に3クラスあったとして、1組は中堅で研究主任を務め、毎年研究授業を実施している教師。2組は新規採用2年目で、1年目は学級崩壊で他の学年からとばされてきた教師。3組は、指導力不足判定すれすれの定年間近の教師。結果を出してしまうと、非常に厳しいことになりそうです。

 短いスパンのテストでも差が開くようでは、子どもが気の毒で目も当てられませんが、長いスパンというのは学習内容がどれだけ定着していたか、子どもが根っこのところからしっかり理解できていたかが問われます
 
もしテストの平均点を公表しようものなら、それこそたいへんな騒ぎになるでしょう

 小学校では、教師ごとの指導力格差が明るみに出たら大問題なのです

 みんなすごく優秀か、みんな頼りないとかならば問題ない?のですが、偏ると親としては「当たりはずれ」「運のよい悪い」の問題になってくる。しかし、それで済ませられた時代はもう終わってしまった。

 学校はその防衛策として、成績が取れそうな子どもを上のケースでは2組や3組に集めておくという方法をとることが考えられます。
 逆にそのことへの防衛策としては、プレテストを実施し、あとでどのくらいその集団の能力が高まったのかを検証できるようにする手段が効果を発揮します。
 和田秀樹の著書は、中学受験を薦める本ですから、こんな小学校の問題を言っても仕方がないのでしょうが、公立は教科担任制で、以上の問題が表面化しにくい仕組みになっているということです。しかも、塾に通っている子どもが多いところは、教科担任のおかげで習得できたのか、塾で習っていたおかげかがわからない。もし教科指導の能力をきちんと測定しようとしたら、子どもへのアンケート調査が欠かせないわけですが、・・・ちょっと横道にそれてしまいました。

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コメント

教師が思いつきで「テスト」を実施しようとすると,気の弱い人は子どもたちからの「ブーイング」で中止に追い込まれることもあります。
単元ごとのテストでは,ほとんど短期記憶に近いような,「まだ忘れていない」程度のことを調べて終わりになってしまうので,いくつかの単元ごとに実施するのが中学校の定期考査でしょう。
もちろん単元ごとに確認することも大切であり,中学校では小学校とは逆にそれがおろそかになっていて,わからないまま先に進んでしまうというのが現状です。
一方,長いスパンのチェックも必要ですが,中学校の学年末考査といっても,実際は最後の学期の中間考査以降の範囲になっている学校もあるのではないでしょうか。
教科の特性などを含めて,このようなチェック機能は年間計画にしっかり位置付けて実施すべきであり,年度当初に示しておけば,子どもや保護者からクレームを受けることはないわけです。
ただし,特に苦手な単元とか,理解が不十分なときは,「テスト」とはまた別の形式で補充していくことも大事でしょう。

なるほど。私が普段感じているのは、テストが形式的なものだけになっていないか、という疑問です。先生によっては(例えば、気が弱い…生徒に迎合している…など)強制力を持たない、つまり子供にとって影響力のない先生が実施するテストであれば、意味がないということですね。まずは、これがなければ広い範囲のテストなど到底できることはありません。

kurazohさんがおっしゃっているのは、中学校でいう実力テストのようなものでしょうか。私の感覚では、定期テスト程度の範囲は相当狭いものと考えています。生徒からすれば決して狭くないのでしょうが、どちらにしても小さな積み上げを確認する診断テストは必要ですね。そして、それが子供にとって存在感を感じさせるものとすることが、成功させるにあたって非常に重要なポイントと思います。

Psycheさん,コメントありがとうございます。
今回の記事で私が小学校にあるとよいなと思ったのは,年4回程度の比較的範囲が広いテストです。
小学校では単元が終わるたびに確認程度のごく易しい業者プリントを解かせていますが,学習直後は覚えていても,1ヶ月たつと忘れている,そんなことがかなりおこっているのではないかと考えられます。
短いスパンだけで評価をし,総括ではそれを足し算しているだけだと,「現在の学力」「本当の学力」を評価していることにはなりません。
漢字テストのような短いスパンのものは,中学校でも,毎時間行っているところがあります。
問題は,本当に「定着しているかどうか」を判断するための手段をどう開発するか,もし定着しないのであれば,定着する方法をどう開発するか,小学校ではその研究が急務でしょう。

小学校でもこまめなテストを実施してほしいですね。形だけではなく、子供にとって「意味を持つもの」として。

入塾したての子供は漢字が弱いものです。しかし、危機意識を持っている子供は非常に少ない。危機意識を持つことができれば少しは変わるのでしょうが、危機意識すらない子供は本当に危険です。勉強のできる子供ほど、自分の不足している点を理解しているものです。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より