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学習指導要領が求めている「言語活動」 ふり返り366日【08/2/22-2】

[学習指導要領] ブログ村キーワード

 新しい学習指導要領が実施されると,確実に課されることになる「宿題」があります。
 それは「レポート」のように「自分の言葉」で表現するタイプのものです。

 以前にも解説の総則編からひきましたが,教育課程実施上の配慮事項の第一が,中教審答申等の流れを受けて,「生徒の言語環境の整備と言語活動の充実」というものになっています。教科では・・・

 

国語科は、従来から言語に関する能力を育成する中核的な教科として重要な役割を担ってきましたが、話すこと・聞くこと、書くこと、読むことのそれぞれに記録、要約、説明、論述といった言語活動が例示されています。

 国語以外の教科についても、それぞれの特質に応じた言語活動の充実について記述されています。
 (以下、中学校の教科)

 社会→持続可能な社会を形成するという観点から、私たちがよりよい社会を築いていくために解決すべき課題を探究させ、自分の考えをまとめさせる活動

 数学→数学的な表現を用いて、根拠を明らかにし筋道立てて説明し伝え合うといった数学的活動の充実

 理科→問題を見いだし観察、実験を計画する学習活動、観察、実験の結果を分析し解釈する学習活動、科学的な概念を使用して考えたり説明したりするなどの学習活動の充実

 音楽→音楽を形づくっている要素や構造と曲想とのかかわりを理解して聴き、根拠をもって批評するなどして、音楽のよさや美しさを味わうことの重視

 美術→造形的なよさや美しさ、作者の心情や意図と創造的な表現の工夫、目的や機能との調和のとれた洗練された美しさなどを感じ取り見方を深め、作品などに対する自分の価値意識をもって批評し合うなどして、美意識を高め幅広く味わうことの重視

 技術・家庭→衣食住やものづくりなどに関する実習等の結果を整理し考察する学習活動や、生活における課題を解決するために言葉や図表、概念などを用いて考えたり、説明したりするなどの学習活動の充実

 保健体育→作戦などについて話合いに貢献しようとする活動の重視

 授業の場ですんでしまうものもありますが,表現する子どもの数が限られるのと,それをその場で評価できる教師の能力という問題もありますから,授業外での「書く活動」が今後は一段と増えるようになるのでしょう。

 この他,外国語科,道徳,総合的な学習の時間,特別に活動において配慮すべきことや,「学校生活全体における言語環境の整備」をする上で,留意すべきとして例示されているのが以下の6点です。

1 教師は正しい言語で話し,黒板などに正確で丁寧な文字を書くこと
2 校内の掲示板やポスター,生徒に配布する印刷物において用語や文字を適正に使用すること
3 校内放送において,適切な言葉を使って簡潔に分かりやすく話すこと
4 適切な話し言葉や文字が用いられている教材を使用すること
5 教師と生徒,生徒相互の話し言葉が適切に行われるような状況をつくること
6 生徒が集団の中で安心して話ができるような教師と生徒,生徒相互の好ましい人間関係を築くこと

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08/2/22 学力観の誤解が諸悪の根元か

 Psycheさんからいただいた、~宿題を「やらない」権利は子どもにあるか~の記事に対するコメントをご紹介します。

<仰るとおりだと思います。
<どうも公教員のブログなどを見ていると違和感を感じることは多いのですが
<kurazohさんの意見は共感できるものが多いです。
<内発的動機付けが大切なのはいうまでもありませんが
<弱いからこそ流されがちな子どもに対して向き合える
<指導者としての毅然とした姿勢は必要でしょう。
<子ども達が自分で学ぶことが大切ということに終始する指導者には
<だったら指導者の存在意義は何かといつも問いたい気持ちになります。

 ブログをつくったり読んだりしない、普通の忙しい公務員や教師は私と同じような意見の人が多いと思いますので、あまり悲観的になられることはないと思いますが、ご自分やご子息が困った教師の影響を受ける当事者になったら、「教師はみんなこんなものか!」と憤りになることは間違いないでしょう。
 ブログを読むと、学習指導要領の「最低基準化」の意味を誤解している人がいるようです。
 「最低基準化」とは、「これだけはみんなに身に付けさせて!」というもので、それが定着できたら、どんなに発展的な学習をやってもよいわけです。
 これに対して、「最高限度化」は、「これ以上は学習してはダメ」と制限をかけるもので、入試の出題範囲の原則に役立つようなものです。
 ゆとり教育は、ゆとりのなかで「基礎・基本」だけでなく「課題解決能力」を育成することが使命だったのに、基礎・基本が不十分な上に、総合とのリンクがうまくいかなった学校は、思考力・判断力・表現力も育っていない
 そういう判断力が身に付いた保護者が、子どもを受験に向かわせたわけです。
 さて、前回の記事の補足ですが、「宿題をやらない権利は子どもにあるのか」という問いに対して、二つのケースについて、「ある」と回答する用意があります。
 ひとつは、学校で完全に習得させてもらっている場合。
 もうひとつは、宿題よりも優先して学びたいものを子どもがもっている場合。
 後者の場合は、小学生では難しいかもしれませんが、中学生は読書、塾、本人の趣味や研究のために、カリキュラムで定められた以上の時間を強制的に特定の教科のために振り分けられるのは、免除してあげてもいいかなと思います。
 かつてもふれたことですが、「関心・意欲・態度」の評価はさまざまな矛盾を生むものです。
 他の内容の関心が高まってしまうと、学校の学習単元の意欲が低下してしまう
 教師の授業中の話に触発されて、私はよく学校の帰りに岩波新書やブルーバックスを買って読んでいました。単元の学習とは関係のない高度な内容の本ですが、読みたい衝動にかられ、時間がたつのを忘れてしまいました。ここで障害になるのが、英語の宿題です。
 英語という教科は、机やラジオの前に強制的に向かせるもので、「学習習慣」「言語的な諸能力」をつけるという意味では最適な教科です(それ以上は言わないことにします)。しかし、最低30分か1時間か家で勉強しなければいけないのは、他にやりたいことがある自分にとってはマイナスでした。
 小学校の場合は、塾に通っていない場合、「宿題がなければ家でまったく机に向かわないので困る」という親が強いプレッシャーをかける以上、担任は出さざるを得ません。
 内容がやさしくなった分、学校での理解で十分だと思う子どもが多くなり、家で勉強しなくなりました。これは調査の結果、明らかになっています。
 宿題の目的を学校、保護者、子どもが共有化できているかが課題だと言いたかったわけです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より