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黒板・壁面の機能 ふり返り366日【08/2/21-1】

[小中学校] ブログ村キーワード

 小学校と中学校で,「文化や価値観の違い」を見せつけられる場面はたいへん多いのですが,パッと見で一番違うのは,「壁面構成」とよばれる,壁への掲示物の貼り方です。

 多くの小学校では,子どもの作品やら何やらが壁を覆い尽くすように貼られており,「○○先生の教室を見習おう」などと号令がかかったりもするのでしょう。

 中学校から見れば,毎日が文化祭のような浮かれた感じがするわけです。(中学校でも似たような取り組みをしている担任がいるかもしれませんが)

 中学受験を扱ったテレビドラマでは,壁だけでなく天井にまで暗記すべきポイントなどを貼っているものが紹介されていますから,そういう「勉強」のムードがある,あるいは「友達の顔」がわかる,そういう環境がいいものだと信じて疑わない人は多いのかもしれません。

 特別な目的意識や教育的な意義が認識されているのなら別にとやかく言うこともないのですが,私がもし教室を一から設計できるとしたら,正面と壁面には,授業で子どもが活用できる黒板(あるいはホワイトボード)を設置します。ロッカーが廊下に設置できるのであれば,窓以外はすべて黒板でもかまいません。

 教師が黒板に「教える」ことを書き,子どもはそれをノートに「書く(写す)」,そういう「普通の授業」スタイルが,いつまで「普通」でいられるか。

 私のイメージでは,今まで教師が黒板を使って説明していたようなものはすべて,プロジェクターか大画面テレビで示し,黒板やホワイトボードは,子どもが自分の考えなどを書いて表現する場所として機能することを期待したいのです。

 たとえば,たくさん意見が出されそうな発問に対して,口頭での発表をさせるとしたら,一度に一人にしか発言させられませんが,黒板に書かせるのであれば,スペースが許す範囲で大勢の子どもが一斉に自分の考えを表現することができるわけです。将来的にはそこに書かれた文字はそのままパソコン上で示され,プリントアウトできるようになるでしょう。

 算数などでは,到達度などに応じて,教室を3~4のグループに分けて,教師役=発表者の子どもがそれぞれ黒板を使っての表現活動ができるわけです。

 授業が始まるまでは教室の壁面は真っ白で,授業が終わると,壁面が学習の成果で埋まって真っ黒になっている,そんな学習環境を理想としているのです。

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08/2/21 読むスピードを上げるための指導

 「アメリカ式読書法」では、「読むスピードを上げるために」という項目で、次の点を薦めています。
 それはそのとおりだろう、と教師や親も思ってしまう内容ですが、こういうことを学校できちんと指導しているか、指導されてきたか、と聞かれたら、いかがでしょう。

注意力と集中力を発揮する
気が散るものを徹底的に排除する
整頓された居心地よい環境を整える
個々の単語や文に拘泥しない。しかし、文の要旨をつかむカギとなる言葉は必ず辞書で調べる
細部にこだわらず、全体の要旨を把握する

 読む目的が変われば、読む方が変わるのは言うまでもありませんが、学校や家庭ではこの環境はどうでしょう。
 小学校に行くと、「壁面構成」などといってやたらと子どもの作品やら九九表やらを貼りまくっているのに気付きます(中学校でもこれに凝っている教師はいるでしょう)が、「学ぶ環境」として、そういうものはプラスの効果だけでなく、マイナスの効果ももっていることに気付かされます。

 子どもへの励ましを増やしたり、クラスへの所属意識を高めたりする指導なのでしょうが、一歩間違えると担任の自己満足になってしまいます。

 数学の問題を解いているとき、掃除当番の表がいつも目に入ったら集中できなくはならないか。
 常にクラスの団結を促す標語を視界に入れながら勉強しなければならないのか。
 ちょっとしたことですが、「殺風景な教室」のプラスの面も捨てがたいのです。
 たとえば、私の勤務校では側面黒板というのがあるのですが、これは一面では書ききれない教科で活用するためのものです。ただ、子どもが掲示板代わりに使って、書くスペースがないクラスが出てきてしまいます。
 担任も連絡板として使う場合があり、ときどき注意を受けているようです。
 子ども部屋の机に座って、集中できそうな場所かどうかは親ならすぐ判断できますね。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
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  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より