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失敗はどのように繰り返されるか ふり返り366日【08/2/19-1】

 さすがに総合の時間に百ます計算をしているような小学校はないと思いますが,各学校によって,総合の時間の取り組みは千差万別でしょう。

 「効果がすぐ見えない教育よりも,すぐ力がつくことが実感できる教育を」という要請は,子どもや保護者の側からだけのものなのか。
 教師自身もそんな浅い教育を求めていたのではないか。

 新教育課程への移行の前に,しっかりふり返っておかなければならないことであり,そうでなければまた同じような「失敗」が繰り返されることになるでしょう。
 教師の指導力がおいつかない,だから子どもは乗ってこない,余計に教師の徒労感ばかりがつのる・・・そんな悪循環は絶っておくべきであり,教師は常に自分の指導力の向上に努めていなければなりません。

08/2/19 日経新聞 「総合の敗因」?

 総合的な学習の時間が削減されることを、多くの教師はのぞんでいる。これは理解できます。
 特に中学校では、教科の専門性で食べてきた人々が、「課題解決力の育成」という新たな課題をせまられ、自分自身が特に高い関心をもっているわけではない人権、環境、国際理解、福祉などに指導者やコーディネーターとしてかかわらなければならないのは、負担感だけが重くのしかかってくるだからその負担を少しでも減らしてほしいというのが、多くの教師の本音でしょう。
 ですが残念なのは、専門教科のない小学校教師の多くもそれを望んでいるということです。
 「創造的な仕事」ができる機会を奪われても、負担が減るのだから反対しない、という感覚。
 たとえ仕事に負担感があっても、それを打ち消してくれるのが「創造」「自発」「創意工夫」の取り組みではないかと思うのですが、能力も体力もないのが、現場の実状だということです。
 これを総合が「敗れた」、文科省と現場との間で学力観の共有が不十分だったと表現する記者の言わんとするところが、結局は現行の指導要領が悪かったとしか読み取れないことが問題なわけです。
 文科省と現場もそうですが、文科省と新聞社の学力観の共有がほしいところです。
 そうしないと、いつまでたっても新聞から正しい情報が入手できません。
 昨日の記事で紹介されている総合の先進校、研究推進校の取り組みを見て、「うちの学校の子どもにはできない」と感想をもつ教師はいないのです。ただ、うちの学校の教師には指導できない、ということです。
 公立学校で、学校間格差をなくそうとしたら、先進校の取り組みをやめさせなければならない
 総合で成果を上げた学校と、上げていない学校の学力の格差はどれだけ開いたのか、それとも開いていないのか。総合の時間に、計算や漢字の練習をしていた学校がどのくらいあるのか。
 そういうことの検証が必要なのでは。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より