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定期考査の概念の転換 ふり返り366日【08/2/17-1】

 一人一人の学習の理解度や到達度、進度などをふまえる指導の工夫をしたとしても、「定期考査」というのは、一律、全員が同じ時期に、同じ問題を、同じ時間で解くテストであり、その結果によって子どもの能力の一部を測定するための「平等」な機会ということになります。

 ただ、入試でも、障がいの内容や程度によって、試験時間の延長や、文字を大きく印刷し直したものを使うなどの簡単な配慮がとられることは可能である、このような「違い」は「能力に応じた平等性」ということになるのでしょう。試験の内容や解答がもれるおそれがあるため、日程をずらすような配慮は取りにくいので、当日の工夫次第ということです。

 「障がい」の内容が多様化し、その程度も様々なものであるため、将来的には、全員一律の試験時間というのが見直しされる可能性はあるでしょう。

 明らかに理解度、到達度が異なる結果にばらつきがあることが想定されているような「定期考査」自体にどのような意味があるのか、そのような見直しも始まってくるかもしれません。

 私の場合は、定期考査は授業の一環であり(だから授業時間をさいて実施する)、授業との違いは、生徒が私=授業者の代理としての「考査問題」に個別に向き合ってもらう、という点にあります。

 もし可能であれば、テストだけでなくアンケート調査も含めて時間をとってもらい、少し長めの「学習のまとめ」やさらに追究したい課題を整理するための時間にしてもらいたいものです。

 定期考査の内容については、活用・探究的なものを中心として、習得に関するものはより短いスパンで日常的に実施する方が学力はつくでしょう。

 イメージとしては、大手中学進学塾の「週例テスト」のようなものです。

 将来的には、「土曜日はいつもテスト」というタイプの学校があらわれてもおかしくありません。

08/2/17
定期考査の廃止が教育を変え、入試を変える?

 小学生が中学校に進学した後、まず最初の試練にあたるのは「定期考査」でしょうか。
 2~3日間を使って、テストだけの日になります。
 テスト1週間前は部活動等が禁止になり、「テスト勉強期間」となる。
 980時間の確保のために、テストを2日にするとか、3日目の午後は授業をするとか、2期制にするとか、3学期制の学校は1学期中間考査をなくすとか、学校ごとに工夫はされていると思います。
 ただし、「定期考査」を廃止している学校はほとんどないでしょう。
 新しい指導要領で「詰め込み」教育が復活すると危惧している方がいらっしゃったとします。
 その方は、「定期考査」ほど「詰め込み」教育の象徴的なものはないと理解していらっしゃるでしょうか。
 「ゆとり教育」を推奨していた方。「定期考査」の廃止を校内で訴えたことはあるでしょうか。
 「定期考査」をなくしたら、「子どもが勉強しなくなり、学力低下に拍車がかかる」と思われる方。
 評価の場面、子どもが勉強する場面がなくなるわけではありません。いつ生徒たちは勉強し、教師はいつ評価したらいいのでしょうか。
 「定期考査」前の一週間だけ、勉強すればいいのですか。それで学力は向上しましたか。
 「定期考査」を廃止する意義。それは何でしょうか。
 学習指導要領改訂の時期は、大きな改革を実施する最高のタイミングです。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より