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勤勉性に依拠するタイプの教育の質は? ふり返り366日【08/2/16-4】

 「習得させるのに精一杯なのに、活用などは・・・、ましてや探究など・・・」
 「標準時数が増えたといっても、内容も増えているのでは活用に力を入れるのは難しい・・・」

 教育活動、学習指導、内容のレベル、授業の展開などで、欲を出せばきりがありません。

 ただ、「習得させるのに精一杯」という教師が、「習得」=「暗記」のイメージを固定的にもっているとすれば、たとえば仮に教師の立場になって考えてみても、「なぜこんなに単純なことが覚えられないだろう」と立ち止まれば、その原因に様々な心当たりが生じてくるはずです。

 学習者の立場になってみれば、「習得」ばかりにあくせくしているような学習が楽しいはずはありません。

 「活用」や「探究」の楽しさが想像できるからこそ、あるいは分かるからこそ、「習得」する意欲もわいてくるというものです。

 ですから、「習得」の過程で、「活用的な」展開、「探究的な」導入などのおもしろさや役に立つことの実感がわく学習が組み込まれていなければ、授業をただ受身で受けている生徒に責任を押しつけるのは気の毒なことになるでしょう。

 子どもによっては、もちろん、何の迷いもなく「習得」にあけくれる姿を見せてくれることもあるでしょうし、その日本人らしい「勤勉さ」に依拠して成立している教育産業もあるわけです。

 このような「勤勉さ」「目の前の課題・仕事への集中力」に頼って目的を果たそうとする、動かす立場からの都合のよさとは別に、学習をする主体の側の本当の「目的意識」を大切にする教育が、今は求められているといえます。

 計算練習にのめり込んでいる子どもが、ふと鉛筆を置いて、「今、なぜ、自分はこのことに時間を費やしているのだろう?」と考え込むような姿は、あまり見られそうもありませんが、授業から「抜け出す」という行為に向けられる子どものエネルギーの使い方に、「怠惰」という見方だけで責めるような姿勢は考え直さなければならないのかもしれません。

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2008/02/16 もうひとつ、改訂が必要なもの。

 今回の指導要領改訂では、知識・技能を活用して課題を解決するための思考力、判断力、表現力等の育成が大きなポイントとなります。
 ここで忘れてはいけないのが「観点別学習状況の評価」です。
 知識・理解資料活用の技能をベースに、思考・判断をして表現することで課題解決力を証明する。
 4つの分析的観点は並列ではなく、層をなしている学習成果を評価することになります。
 家庭学習のレベルでも学力をつけることが可能な知識・理解と資料活用の技能を「習得レベル」。これがCなら思考・判断して表現するレベルには達しないので先の評価は不能。
 習得の次のレベルは思考・判断して表現できる「活用レベル」。習得レベルの評価を活用レベルが上回ることはない。ただし、活用の場面を増やすことで、習得レベルはアップさせることが可能になります。
 最後は「探究のレベル」。これは自分で課題を見つけ、調べて価値のある発表ができるレベル。従来の「関心・意欲・態度」で評価する意味があるのはこのレベルです。
 授業の記録、内容の説明、課題の論述、討論活動である程度客観的(これはどの教師がどの学校で実践しても同じような評価基準がつくれるということ)な評価が可能になります。
 学習過程のバラバラな観点別評価は、指導の改善、個別指導に役立てて終わり。総括には使わない。
 評定という総括は、やはり「総括」にあたる場面の学習成果をもとに評価します。
 このようにすれば、中学校の教育は具体的に何が変わるでしょうか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より