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親や子にとって「都合のよい教師」 ふり返り366日【08/2/16-1】

[教師] ブログ村キーワード

 今、最も必要とされている教師のタイプは? 

 私の答えは、授業力・生徒指導力という軸はゆるぎなく、変化に適切に対応できる教師・・・というものです。

 行政の側、あるいは、管理職から見ると、都合のよい教師かもしれません。

 しかし、同じ「都合のよい教師」でも、子どもにとって「都合のよい教師」と、親にとって「都合のよい教師」と、教師にとって「都合のよい教師」では、どれが最も「よい教師」なのでしょうか。

 親や子にとって「都合のよい教師」は、圧倒的に私立に多いのかもしれません。

 私立の公立に対する差別化は、たとえば授業時間数、特に入試で使う教科の時間数の違いにあり、「受験に役立つ」指導がなされていることが特色となっています(それがすべてではありませんが)。

 そして、授業内容も、テスト形式も、おそらく効率重視型、たとえば穴埋めプリントで網羅的にやること、小テストを多く実施すること、一問一答式に強くなることなどに指導の重点がおかれることになります(すべての学校がそうとは限りませんが)。

 一方の公立は、学習指導要領に準拠した教育が行われますから、そういう「簡易正解取り出し装置」のようなタイプのような人間ではなく、「自ら学び、自ら考え、主体的に・・・」という「生きる力」をもった人間の育成に力を入れるため、一見すると無駄に思えるような活動をして、「ゆとりのある」時間を過ごすことになります。

 ところが、公立の中でも差別化が求められるようになると、必然的に、私立のような学校が登場し始めます。

 そのような学校の行く末を、今後、データを集めながら、長い目で観察していこうと思います。

08/2/16 数学の教師への感謝  文科省の指導要領案「理数系、最大3割授業増」のニュースに関連して。  数学理科は、テスト問題などでは「まぎれのない正解」が必ずあるために、学力の一部を測定しやすい教科で、かつ内容が万国共通のものでは学力の国際比較ができることに特徴があります。  今、多くの子どもたちは「ものごとには常にひとつの正解があると信じる(信じたがる)」「少しでも効率よく正解にたどりつく方法を知りたい」「正解と信じたものを発見すると、それで終わり。判断や思考が停止する」傾向が強くなっているように思います。  ややもすると数学や理科の教師は「解き方」を解説することに終始し、本来の「おもしろさを十分に伝えていないことが、全国の質問紙調査でも明らかにされています。  私が恩師である数学の教師に感謝しているのは、「さまざまな解法」を追求する楽しさを味わわせてくれたことで、裏返せば「正解を求めて終わりの数学観・学習観を持たせなかったことです。  理科でも、惑星の定義などかつての常識が書き換えられている内容が多くあるようです。  「追求する姿勢」を鍛えるのに、数学や理科のような自然科学の分野の学習は「証明」や「実験」ができるので適していると考えられます。  社会科学には本来「正解至上主義」はなかったはずですが、たとえば社会科で、目先の得点力、特に安易な形で出題できてしまうような問題ばかり重視していると、「正解信仰」に陥らせるばかりの授業になってしまいます。  神奈川県の公立高校では日本史が必修とされるようですが、そこで鍛えるべき「連続する思考」のかたちをしっかり周知すべきだと考えます。

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教育」カテゴリの記事

コメント

時間割を見れば一目瞭然ですよ。
なお、公立学校の「学習指導要領準拠」は、厳密に言えば時間数についての話で、その趣旨が授業で反映されているかどうかは私の記事をご覧いただければ分かるように、はなはだ疑問です。その点は、教育課程実施状況調査などでも明らかになっています。

「それがすべてではありませんが」などと注記されていますが,ここで書かれていることはごく一部の私立の話でしょう。私立と公立の違いの本質的な部分ではないように思います。
「一方の公立は、学習指導要領に準拠した教育が行われますから」,kurazohさんともあろう方が,私立学校も公教育であることを見過ごされておられるようですね。私立学校は,教育委員会の管理下にはなく,都道府県の直轄ですが,学習指導要領に基づいた教育を行わなくてはなりません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より