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大画面液晶テレビの教室配置へ ふり返り366日【08/2/14】

 液晶大画面のテレビが安くなっており、音も含めて直接パソコンから映すこともできるようになったため、教室内ではプロジェクターと同じような効果が発揮できるようになりました。

 やはりテレビは明るく鮮明なため、62型程度の大きさになると、教室の一番後ろからでも、昔の小さいテレビだとかなり前で見ているような感覚になります。

 軽量化が進むと、天井から下げる形で、全小中高のすべての教室に設置されるのも遠い未来のことではないでしょう。

 どんなに優れた教育機器でも、手軽に、準備も短時間で、いつでも使用できる環境が大切です。

2008/02/14 20年後の教室と教師  携帯電話、パソコンを使うようになって、その分、減ることになった時間は何か?という新聞の世論調査で最も多かったのは「読書」の時間だそうです。ある大学の先生は、携帯の普及率の上昇とともに大学生の学力低下が顕著になったと語っていますが、そこに因果関係はあるのでしょうか。  小中学生、高校生、そして大学生は、それぞれの環境の中で本当に多忙な時間を過ごしているようですが、携帯電話やゲームをいじる時間が、テレビを見る時間より長くなったとき、世の中はどのように変わるでしょうか。  子どもにとって昔はテレビ、今は携帯とゲーム(今はテレビとゲームと携帯という複合型ももちろん)が学力向上を蝕む最大の敵と認識されていますが、携帯電話や通信機能をもっているゲームは、そのコンパクトなサイズと長時間の使用が可能なことから、教育への利用が進むのは時間の問題だと考えられます。  そういう時代でも「黒板とチョーク」の授業の意義、「読書」の効果を教師は子どもに伝え続けることができるでしょうか。単純に知識や技能だけの能力をつけさせるのに、教師の力はコンピュータの力を上回り続けることができるでしょうか。  家庭でゲーム機に何時間も向かった経験がない世代の教師は実感をもてないかもしれませんが、そういう経験のある20代、30代の教師は、漠然と「自分が教えるよりソフトで学習させた方が効果が高いのでは?」という危機感をもっているかもしれません。  まだ50分の授業で使える実用的なソフトや便利なインターフェイスが開発されていませんが、それが可能になったとき、教師の役割とは何か。その専門性とは何かが問われてくると思います。  昔、授業で使うソフトの開発に何年かかけて取り組んだことがありますが、10分の学習用のソフトをつくるのに10時間以上かかるのは毎度のことでした。今は、その開発中に取り組んだ授業分析、「わかる」までの思考の流れの整理など、学習者の立場にたって授業を考えていたことは役に立ったかと思います。  20年後、「ふつうの教室」「ふつうの教師」はどんな姿になっているでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より