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過去の学びの真実に気付くとき ふり返り366日【08/2/9-2】

 教師にとって、社会がどんなに騒ぎ立てようとも、何が何でも学力を高めなければならない、変化に対応できる「生きる力」を身に付けさせなければならない、などという切迫感はありません。
 
 そういうプレッシャーがかかると、学力より徳育を重視していると言い放ったり、子どもの努力が足りないなどと言い出したりすれば、相手に反論する気をなくさせることができるのです。

 子どもがいかに厳しい学習環境、労働環境のもとに旅立とうとも、卒業させた後は入れ替わりに入学してきた子どもに全精力をつぎ込むことになるので、余裕ができて母校にふらっと立ち寄るとか、クラス会で集まるとか、年賀状などの近況報告がなされない限りは、巣立った子どもが「その後どうなっているのか」「そのときどんなことを思っていたのか」を知らないままで過ごすことになります。

 ある研究者は、卒業生を中心に行った聞き取り調査で教師のコンピテンシーを分析しています。

 このような研究は今までそれほど注目されていません(問題教師には相変わらず焦点化されず、安泰でいられるようです)が、「評価力のない子どもになど評価されたくない」として「授業評価」を拒否しているような人には、大学ぐらいまで進学した子どもに当時をふり返らせて評価してもらってもおかしくはないでしょう。

 教育実習で学ぶ学生の多くは、実習の中で、しっかり学んできたつもりの自分の土台が崩れていく感覚を体験することになりますが、そこには「学ぶことと教えることとの千里の隔たり」以前に、「本当の学びとは何か」という問いをやっと自分のものにできるという大進歩があるわけです。

08/2/9 せめて学校では受験学力だけでも “しょう”さん、ご丁寧なコメントありがとうございます。  前回の記事、「成績上位者」について、若干の補足をしたいと思います。  基本的には、義務教育の現場を想定しています。  公立中学校の成績上位者は、小学校の上位者に比べると、国立・私立・公立中高一貫校への受験で抜けてしまっているために、それほど学力が高くないのが現状です。  中学校の5段階評定の感覚で言えば、公立では「5」に育ちそうな子どもが抜けてしまっている。  ですからもし本当に「5」をつけたいのであれば、もっと学力を高める必要があるのに、絶対評価(目標に準拠した評価)の評定はインフレ傾向にあって、「5」が実態より多くつけられてしまっているのが現状です。  ちょっと脇にそれますが、これは観点別学習状況の評価を総合化して評定をつけるときの誤解、つまり、観点別学習状況評価で「AAAA(Aとは十分満足のレベル)」の生徒の標準的な評価は「4(十分満足)」なのに、それを「5(十分満足な中でも特に優れている)」にあてようとする感覚が現場に多いのが原因です。  さて、小学校には本来の成績上位者があまり抜けないでいるわけですが、受験レベルの問題と現場の教育内容のレベルが違いすぎて、学校の成績が上位というだけでは受験には対応しにくい問題があり、次元の異なる話題になるので置いておこうと思います。  中学校では、小学校とは比較にならないくらい学力の格差が広がります国立では全入でないところがありますが基本的に多くがエスカレーターで進学するので、中学でも高校でも学力の高低差があります。公立高校はかなり輪切りになっていて、ある程度、習熟度別になっている)。しかし、公立の中で高い方が絶対評価でも高いかというと、そうとは限りません。相対評価時代の評価観が染みついている人は、本当の(絶対評価の)「5」のレベルがそもそも実感できないのかもしれません。  ふつう教師は、学力の低い層が「おおむね満足=3」のレベルになれば大満足でしょうが、学力が高い層も3のレベルでよいかというと、保護者はそれでは納得いかないものです。  「受験学力」とは何か。これも定義が難しい(どこを受験するかにもよるので)。  たとえば大学入試の場合、東大と早慶では、問題の質の高さが違うので単純な比較ができない。  ただ、私のイメージとしては、ただひたすら授業をしっかり受ければ、つまり努力すれば、身に付いてしまうような学力のことを受験学力といいます。問題を作るのにたいした能力を要求されずに、しかも採点に手間がかからないタイプの問題を解く能力のことです。  中学生にとっての受験学力では、とりあえず公立高校の入試で高得点がとれる実力がほしい(そうでないと希望の高校に入れない)。ただ、それは「3」を増やすことに注力している中学校では十分に対応できない。  本当は、4や5の生徒も増える授業をしたいのに、なかなかできないので、外部に委託するしか選択肢がなくなってしまう。  現行の学習指導要領は、従来それでもOKだった受験学力に加えて、「いかに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」も求めている。そこに「自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性」と「たくましく生きるための健康や体力など」を加えたものが「生きる力」です。「生きる力」のうちでも特に、「自ら課題を見つけ・・・問題を解決する」力は、そう簡単に身に付けられるものではありません。  受験学力がなくて「生きる力」だけつくということはあり得ません・・・とは、そういう意味です。  今はひきこもりをしても家で餓死する心配がないほど豊かな国になっている日本ですが、さすがに社会に出たら、「変化への対応」を目の前の切実な課題として立ち向かうでしょう。「生きる力」指導が難しい最大の原因は、それだけの切実性が身近にない生徒教師はさらに切実性を感じていない)に取り組ませようとすることにあります。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
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  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
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  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より