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« 記憶に粘りつく話ができる教師 ふり返り366日【08/2/11-1】 | トップページ | 授業改善のための評価はだれのため? »

公立学校がプラスサムの世界に入れない原因とは?

 ゼロサム・ゲームを想定した「競争嫌悪」思想に毒されている教師たちが環境の変化に対応できないでいる学校では、子どもたちがマイナスサム・ゲームのプレーヤーになってしまっているおそれがあります。

 「力がつかない現状」をゲームのやりすぎだとか、家庭教育のせいだとか、家庭の経済力のせいだとか、子どもの授業態度が悪いからだとか、そういう「ずらし」で堂々とした無責任さを隠さない教師の態度こそが、マイナスサム・ゲームに陥っていく最大の原因です。

 学校という組織の運営が、企業の利潤追求型組織運営と根本的に異なっているのは、その競争がプラスサムになり得るということです。

 日頃の教育実践ではWin-Winの結果が生まれることを想定した指導と評価を実施しているはずですから、それを自分自身と学校にも同じように適用すればよいのに、「負け組が出るのは当たり前」という固定観念しかない教師が幅をきかせてしまう学校では、結局はだれも「勝ち組」には入れず、マイナスサムの教育活動になってしまうでしょう。

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教育」カテゴリの記事

コメント

( ^ω^)おっおっおっ

>それがあなたの経験の範囲だということです。

暗象は宗教家なんだろうと思う。
昔の麻原、今の麻生を見るようで…。
本人は、他の批判が何なのか理解できない。
自分が絶対だから、
自分を批判する人が間違っていると思ってる。
くだらない言い訳の反論も、
整合性が全くとれていない。
最後には、自分を理解できない奴は、
レベルが低いと決めつけて、
自分を納得させて終わる。

最近、テレビでUFOや宇宙人の話をしているコメンテーターを見たが、あのての人と同じなんだろうなぁ…。

また誤解なさっているようですね。

他の教師との比較ができない保護者の立場では、なおさら気の毒なことですね。

それがあなたの経験の範囲だということです。

訪問させていただいた学校数を言ってみても仕方がないのですが、普通の保護者でも、たとえば学力だけをとってみても、教育課程実施状況調査、全国の学力調査、都道府県別の学力調査、区等で行っている学力調査の結果を見れば、何が問題なのか、よくわかるでしょう。
その結果を見た後、「学力不足は本人の責任」と公言している教育関係者の話を聞いたら、どんな印象をもつでしょうか?

「厳しい現場の現実」,ご自身の経験の範囲だけを現実というのであれば,私から「現場の感覚が伝わってこない」のも当然でしょう。世界はもっと広いのですよ。

厳しい現場の現実をご覧いただければよくわかることです。お話から現場の感覚が伝わってこない理由がよくわかりました。

「公務員以外でそんな言葉にだまされる人はいない」とおっしゃっていますが,なぜそう言えるのでしょうか。あなたの理解の仕方がすべて正しいわけではありませんよ。あなたのおっしゃる「理想」は,「損得勘定」とでも言い換えたほうがふさわしいのではないでしょうか。

( ̄ー+ ̄)

で?
私の指摘を肯定したんだね。(^_^)

「教育の崇高さ」とか、「よい社会」という言葉でだまされる子どもは気の毒です。
ただ、幸運なことに、公務員以外でそんな言葉にだまされる人はいないでしょう。

( ̄ー ̄)ニヤリ

暗象の求める理想の教育は、
個人の立身出世のための教育なんだよ。
子どもたちが大人になって、
よい社会をつくろうと考えるのは、
無駄なことなんだよ。
直接的に自分の利益にならないから。

暗象の教育の理想の姿が塾にあることからもわかるのでは?

「勝ち組」「負け組」という言葉を平気で使って教育を語るということそのものが,まったく理解できないことです。あなたのおっしゃる「理想」には,教育の崇高さが失われてしまっています。

ゼロサムベースでものを考えてしまうので、「勝ち組」の「 」の意味を誤解されてしまうのですね。
学校に「負け組」はいてはいけないのです。
すべての子どもが「勝ち組」でなければ。
プラスサム思考です。
「勝ち組」にするための教育活動という言葉は使っていませんが、正しく使おうとすると、全員が「勝ち組」でなければならない教育活動です。
これが、学校単位で考えると、理想が高く、教育熱心が学校に通っている生徒がどんどん力をつけ、そうではない学校の生徒がろくに学習習慣も身に付けられずに卒業させられてしまうと、結果として「勝ち組」「負け組」という格差が生まれてくるわけです。その不満が伝わっていない地域は、地域ごと「負け組」になっていないか、よく視野を広く持ってみることが必要なのです。
学校は、理想に燃えていなければなりません。

「学校では、結局はだれも「勝ち組」には入れず、マイナスサムの教育活動になってしまうでしょう。」,ここにあなたの教育観がよく現れていますね。お使いになる言葉をよく吟味されたほうがよいかと思いますよ。少なくとも,私は,「勝ち組」をつくるために,あるいは学校や生徒を「勝ち組」にするために教育活動を行ったりしません。教育活動とは,そのような矮小な目的を持った活動ではありません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より