ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2009年2月

事故対応で問われる学校の組織力 ふり返り366日【08/2/11-3】

 普段は反発してばかりいて、聞く耳を持たないのに、非常時だけその動きに頼ろうとする

 これは、親に反抗的な子どもの話ではなく、管理職に反抗的な教師の話です。

 フラット型組織の最大の問題は、責任の所在が不明確で、かつ、だれも責任をとろうとしない場合があることです。(主幹制度後は、主幹に責任をおしつけるというケースが増えているそうですが・・・)

 危機的な状況、非常事態になったときに、教師一人一人がどのような対応がとれるのか、ということは、経営者としての管理職が責任を負うべき性質のものですが、たとえば警察からお迎えの依頼があったときどうするかなど、ごくごく基本的な対応の仕方も練られていないような組織には、組織というかたちすら見えてきません

 非常時に、すべて校長や副校長が対応にあたる、それが「責任」の取り方ではありません。
 保護者対応やマスコミ対応のため、窓口を一本化するなど、テクニカルな部分は当然として、だれが何をどのようにコントロールしていくのか、ということは、特に想定外の問題が起こった場合は、日頃の組織力が問われてくるのです。

 日常的に情報が管理職に集中しているのなら問題はありませんが、たとえばいじめが原因と疑われる不登校・自殺(未遂)が起こった場合に、担任がその背景やきっかけとして考えられる状況を封印していると、見当違いな対応になりがちです。
 
 子どもの人間関係についての「本質を素早く見抜く」下士官の役割は、現場最前線の担任の役割であり、管理職は、豊富な経験に照らして、担任の資質や能力、性格も考慮に入れつつ、担任から報告させる情報を組み合わせて、状況を判断することになります。

 この判断をせまられている「思考時」の、管理職の「」が、教師集団との信頼関係を高める結果にも崩壊させる結果にもなり得ます。

 緊急対応、非常事態対応、事故対応は、経験しないですむならすませたい(事前の対応で防止可能なものなら防止したい)ものですが、起こることを100%防ぐことはだれにもできません。

 こういうときこそ、教師集団の結束が固まり深い絆ができるチャンスなので、自信や経験がない人もできるだけ首をつっこんで、先輩や管理職の動きを見て学んでいくことです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

08/2/11 現場力の要・学校の下士官はだれか?  日下公人著「現場指揮官の教訓~強い現場リーダーとは何か」(PHP研究所)という本があります。著者は、「教育崩壊、司法荒廃、厚生行政の破綻、官僚の怠慢、国会議員のお粗末、マスコミの堕落、家庭の分解など実例はつきないが、それらの建て直しについて良い参考になるのではないかと思って、本書では、日本がもっている現場力と現場指揮官の優秀さについて、日本軍の下士官を例にとって書いてみた」とまえがきで述べています。  リーダー論組織論を学んでいる人でも、戦時中の「日本軍からなど学ぶことはないんじゃないか」「学ぶべきことがあっても軍隊の組織から今に生かせるような教訓などないのではないか」と思ってしまう人が多いのではないでしょうか。 そもそも、日本軍、軍隊、上官や下士官などという言葉を聞いただけで読む気がなくなる人もいるかもしれません。  多面的・多角的にものごとを考える必要はわかっていても、どこか自分の中で避ける部分があるという人は、本書を手にとることによってその「抵抗感」が払拭され、ある意味で日本人であることに自信がもてるようになるかもしれません。  私の場合は、戦史・戦記物を読んできましたが、それらが出版された時期や作者の立場による問題の捉え方、結論の大きな違いについて具体的に知ることができたのは本書のおかげです。  著者の本は優れたエピソード自体に魅力があるだけでなく、そこから現代に生かせる有効的なメッセージを読み取れることが読み手に損をさせない長所です。  本書では、「職場の中間管理職」にあたる日本軍の「下士官」が以下のような題材で評価されています。 「敵の本質」を素早く見抜いた歴戦の下士官 戦闘が厳しければ厳しいほど、部下は下士官の顔をみる 職務範囲が「タテ一戦」のアメリカ企業、縦横無尽な日本企業 上位代行、下位代行・・・日本の下士官の得意技 賢い手抜き力・・・上司の立身出世主義にいかに対抗するか ある軍曹の機転・・・ときには組織のために「悪者」になる 制度・法律よりスキンシップで問題解決  教育現場は、「下士官」からどのようなことが学べるのでしょうか。  学校における中間管理職を、「校長」と考えるのか、「副校長」と考えるのか、また、新しい職である「主幹」を想定するのか。学校における優れた「下士官」はだれか。  いろいろな角度から考えていけそうです。

金儲けのための検定試験

 漢検は例の件で取りやめにする学校が増えそうですが、英検についても調査が入ると、いろいろなことがわかるでしょうね。

 郁文館の一件によって、受験でプラスに評価される材料が、不正の賜?である可能性が出てきたわけです。

 郁文館は、しばらく「企業的経営の矛盾点」としてやり玉にあげられるでしょうが、教師の質の問題は、食べ物以上に「生もの」扱いの問題です。

 「成果主義の欠陥」は、アメリカの事例でもよく知られているところです。

 こういう問題がおこると、人間の資質にはあまり焦点が当たらず、成果主義の導入、経済原理の導入が原因と、制度のせいにしようとするのが、「教師の指導力不足」から目をそらしておきたい教師たちの常套手段です。
 
 また、すずめ先生のところに質問したことでもありますが、学校で英検を実施したとき、「運営費」が支給されるのですが、これが公立学校の教師のポケットマネーになっていないかどうか、至急、調査すべきです。

 子どもはそんな実態を知らないまま、高いお金を払って受けているわけです。

リーダー不在の研究活動

 しょうさんがブログのコメント欄でおっしゃっていたように、

組合の教育研究活動や民間教育研究団体の自主的な活動は今よりもはるかに活気あるものでした。

というのは、その通りだったと思います。

 私は今は学会の方が中心ですが、公立学校の教師の研究グループには、最低でも3~4グループ同時進行で参加していました。
 それにプラスα、教育委員会の研修です。

 現在の研究会活動は、とても低調であるとうかがっています。
 
 一番の原因は高齢化です。

 なお、しょうさんのコメントでは、「20年前は今日のような人事考課の動きはありませんでしたが、」という部分とのつながりには疑問を感じています。

 人事考課の動きがでてきたから研究活動の活気がなくなったというのは、評価されるのが嫌だから勉強しなくなった、という意味になってしまいます。

 20年前の研究活動が活発だったのは、そのときのリーダー役のベテラン教師、校長、指導主事が優秀だったことと、何よりも「一緒に学ぶ
同年齢の若い教師
」が非常に多かったことがその背景でしょう。

 教員の年代別人数を見れば一目瞭然です。

 今、自主的な研究活動が低調になっている。

 それは、決して、官制の研修が多くなったからではありません。

 今は、当時にはない、土曜日が休日であるという好条件もあるのにです。

 大きな理由は、リーダーがいないからです。

 同年代の集団でやってきた教師たちが、フラット型組織に慣れきって、そのまま歳をとっただけなので、本来は指導的な役割を担わなければならないのに、後輩を育てることもできなくなっているのです。

 これは、社会の変化のスピードが早くなったことも背景にはあるでしょう。

 そういう時代を生き抜く子どもを育てようとしていますから、指導者自身が変化に対応できないでいたら、後輩教師はおろか、子どもに教える余裕すらありません

 それが現在の学校の問題を象徴している一側面でしょう。

 なぜあれだけ熱心に研究していた人たちが、その成果を今の現場で生かせないのでしょう?

 よい実践が継承されないのはなぜでしょう?

 それは、一つの見方ですが、ゼロサムで目立ちにくかった地盤沈下に気付くことができず、その負の遺産が、プラスサムが可能になった時点でマイナスサム状態から抜け出せない現状の原因になってしまっているからです。

「授業がつまらない」教師の言い訳

[教師] ブログ村キーワード

 「学力不足は本人自身の責任だ」と言えてしまう教師がいたとしたら、その教師の学力観は非常にせまいものであり、授業ではそのせまい学力すらつけさせることができない指導をしていることの証拠になります。

 もはや「指導」という概念もその教育の場にはありません。

 本人の努力次第で向上可能な学力というのは、たとえば家での反復練習などで身に付く程度のものであり、そんな学力を身に付けさせるのが学校の仕事なら、教員免許もとっていない大学生のアルバイトで十分まかなえるでしょう。

 見張っていればいいのですから。
 励ますだけでいいのです。

 観点別学習状況の評価で、「関心・意欲・態度」という観点があるのですが、この観点の力が伸ばせない教師の論理も全く同じです。

 「本人に興味がないのだから、仕方がない

 これが公立学校の教師に共通するスタンスだと思われてしまうと、不信が増すだけになってしまうでしょう。

 「授業がつまらない

 子どもは、非常に単純な言い回しで教師の力量を表現します。

 この表現が、自分自身の学習の怠慢をごまかすために使われることももちろんありますが、プライドのある教師なら、そんな「言い訳」ができない授業で子どもに向き合うでしょう。 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

授業に対する教師の「ゆとり」 ふり返り366日【08/2/11-2】

 教師という仕事に、もっとゆとりをもたせたいと願う、そういう気持ちはとてもよくわかります。

 「ゆとり」があれば、もっと優れた教育実践ができるだろうな、という先生はたくさんいます。

 毎日、どこにどのくらい力を入れるかで、だいたいその教師のタイプはわかるものですが、どんなに忙しく、毎日がつらく、体調が優れないときでも、絶対に手を抜いてはいけないのは、授業です。

 もしかりに、どこかからその教科の専門家がやってきて、自分より楽しく、おもしろく、よくわかり、ためになる授業をされたら・・・・子どもが素直に、あなたよりあの先生の授業の方がいいと願っていたら・・・・

 自分が考え、実行し得る最高の授業を示すのが、子どもたちに対する「礼儀」です。

 自分に対する「ゆとり」は、最高の授業ができる自信に裏打ちされたものでないと、意味がありません。

08/2/11 教師も「派遣」の時代へ・・・?  たとえば、正規の教員を1人増やすかわりに、補習・夜間学習専門の講師(塾からの派遣も含めて)を雇うことにしたら、何人くらい集めることができるのでしょうか。年間200日程度で、数百万円分使えるわけですから・・・。  小規模校で授業時間数の少ない中学校教師は、「本籍」は特定の学校にあっても、近隣の他校の授業を受け持つべきだという考え方があります。また、そういう教科は講師を雇えばかまわないという声も。  教育予算というものは、大部分が人件費ですから、このような議論になります。  「教師を増やせ!」という声がある一方で、子どもや学校数は減っているわけですから、実際には子ども一人当たりの学校数や教師の数は増えているわけです。だから教師が増えれば問題は解決するわけではないことは、現在進行形で証明されています。  大量採用時代の教師が今後十数年かけて退職していき、その数が多いだけに再び教師の大量採用世代が生まれてくるわけですが、さらにプラスαの人材は、どのように確保されていくのでしょうか。  卒業式で起立しなかった退職教師がそれを理由に再雇用されなかったことは不当であるという判決がでたようですが、東京都の場合は人材が確保できているということがわかって少し安心しました。

ゼロサム時代の負の遺産が重くのしかかる学校教育

 「学力不足は子どものせいだ」と言い切れる教師は、だれにも文句が言われない「優秀な教師」なのでしょうか。

 「学力が足りないのは、子どもの責任だ」ということを教師が公言できる条件とは何でしょう。

 「他の生徒との比較は必要ない。できなかったことができるようになる、理解度が向上する、それでよい」と教師が言い切ることはできるでしょうか。

 現在でも、個人内評価はもちろん大切です。

 かつて、ゼロサムベースで評価されていた時代=相対評価の時代には、特に重要でした。

 自分の成績を一つ上げるためには、他の人の成績を下げなければなりませんから。

 自分の成績がかなり上がっても、他の人の成績がそれを上回って上がってしまったら、評価は下がってしまうわけですから。

 今考えれば、とんでもない評価をしていたものです。
 (ただ、成績の割合が全学校で同じという、「客観性」はありました。もちろん、学校ごとの学力水準が異なっていたために、他校といっしょには扱えない、偽物の客観性だったのですが・・・)

 しかし、今は、目標に準拠した評価=絶対評価の時代ですから、この評価は一人一人の子どもが目標に照らしてどこまで達成できたのかが示されているわけです。
 
 ですから、どの子も「十分満足」まで引き上げられる教師も出てくれば、たくさんの子どもが「おおむね満足」に達しないまま放置され、「子どもの授業態度が悪い」と「自己責任」にされてしまう子どもも出てきます

 ゼロサムベースでは表面化しなかった教師の指導力格差が、はっきり現れる時代になったのです。

 新しいことを学んで知識が増えていることでいちいち喜んでいるのもいいのですが、その「知識の増え方」「技能の定着の在り方」に格差が生じている場合、指導法に何か問題はないか、工夫できる点はないのか、「おおむね満足」まで達成できない子どもにはどのように指導しようか、発展的な課題は何を用意しておこうか、そういうことを考えるのが教師の役割でしょう。

授業改善のための評価はだれのため?

 授業評価の項目は、教師に都合のいいように作ってはいけません

 授業改善のための評価は、子どものためを思わない教師のための評価ではなく、子どものためを思う教師と、子どものための評価です。

 自由記述の評価は、その字の通り、自由に記述できるところにその評価の良さがあります。

 コメントをいただいているmadographosさんは、
 

評価者の性格で意見の質が変わること

 異なる学級で全く授業をしても評価は異なったものになる


 以上のことが、授業改善に使う評価としては不都合なものだと主張されていますが、まず、前者については、子どもの性格をよく知っている教師なら、子どものコメントをもとに足し算したり、引き算したりして、「何を望んでいるのか」「授業に何が足りないのか」を判断する材料にしようとするはずです。

 後者は当たり前のことなのですが、表現の中で、構成員が違う学級での授業が、「全く同じ授業」になるという発想がうかがえるのがちょっと疑問です。

 同じ指導案で授業はやるのでしょうが、導入のときに出てくる発言・反応が異なれば、展開も変わってくるでしょうし、展開で発展的な意見が出て、内容が深まる授業になることもあります
 
 全く同じ指導にはなりませんから、評価が変わるのも当然です。

 誘導役が足りないクラスでの授業方法とか、発言がやたら活発なクラスでの授業展開とか、指導のあり方を変えるのが普通の教師でしょう。

 その授業方法について、子どもからの率直な意見で、実はもっと当ててほしいとか、もっとじっくり考える時間がほしいとか、そういう授業改善に役立つようなものがでてくる可能性もあるでしょう。

 子どものナマの声にしっかり耳を傾けようとする態度は、教師にとって最も基本的なものではないでしょうか。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

公立学校がプラスサムの世界に入れない原因とは?

 ゼロサム・ゲームを想定した「競争嫌悪」思想に毒されている教師たちが環境の変化に対応できないでいる学校では、子どもたちがマイナスサム・ゲームのプレーヤーになってしまっているおそれがあります。

 「力がつかない現状」をゲームのやりすぎだとか、家庭教育のせいだとか、家庭の経済力のせいだとか、子どもの授業態度が悪いからだとか、そういう「ずらし」で堂々とした無責任さを隠さない教師の態度こそが、マイナスサム・ゲームに陥っていく最大の原因です。

 学校という組織の運営が、企業の利潤追求型組織運営と根本的に異なっているのは、その競争がプラスサムになり得るということです。

 日頃の教育実践ではWin-Winの結果が生まれることを想定した指導と評価を実施しているはずですから、それを自分自身と学校にも同じように適用すればよいのに、「負け組が出るのは当たり前」という固定観念しかない教師が幅をきかせてしまう学校では、結局はだれも「勝ち組」には入れず、マイナスサムの教育活動になってしまうでしょう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

記憶に粘りつく話ができる教師 ふり返り366日【08/2/11-1】

 100年前と比べると、「文明」化が進んだ人々の脳が処理しなければならない情報量は、すさまじいほど増えていることでしょう。
 
 今までの「受身的な情報処理」型の脳のはたらきが、「能動的な情報発信」型の脳に切りかわるには、まだもう少し時間がかかりそうですが。

 教師が子どもに伝える情報の特色を、あまり自分の意見を職員会議や分掌部会でも言わないタイプの教師と、それと対極的な教師とで比べると、どんな違いが出てくるでしょうか。

 教師に対する授業評価の中に、次のような項目を加えてみるのはいかがでしょうか。

1 単純明快な語り口ですか?

2 題材の意外性でひきつけることがありますか?

3 具体的な例などをもとに、理解させてくれますか?

4 語りに信頼性がありますか?
 (自信なさそうに話していませんか?)

5 感情に訴えてくるような語りはできますか?

6 物語性のある授業構成になっていますか?

 これらは、チップとダンの「アイデアのちから」(日経BP社)の中で紹介されている、「記憶に焼きつくアイデア」の6つの原則に関連させて書きました。

 記憶に焼きつく話聞いているだけで理解でき、再現が可能になるような話をしてくれる教師にめぐりあった子どもは幸せでしょう。

 記憶に粘りつく話=そのノウハウを、自分でも活用できるような力として身に付けさせてくれる教師にめぐりあった子どもは幸せです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

2008/02/11 ゲームの効用を教育で利用できるか ハイ・コンセプト「まじめ」だけでなく「遊び心」  右脳活性化の必要性を訴えている著書であるためか、テレビゲームの効用がいくつかの視点から説かれています。  ゲームについては「ゲーム脳」や「1日何時間以上ゲームをやる子の学力は保障しない」など、学校からは否定的な注文が家庭に投げかけられています。  授業では考えられないほどの高度な集中力・リラグぜーションをもたらしてくれるゲームは、携帯によるコミュニケーションや情報収集とともに、娯楽として多くの子どもにとって「なくてはならないもの」でしょう。  一部の学校では、単純なドリル的な学習についてゲーム機の活用を実践しているようですが、「右脳開発」という観点で教育に活用されるところまではいっていないようです。  授業の中での「遊び心」は、特に内容の理解で苦しんでいる子どもの学習への動機付けにはかかせませんが、自分からのはたらきかけが苦手な教師は多いと思います。  「ユーモア度をはかるテスト」を開発している研究者がアメリカにいるそうですが、日本ではどうでしょうか。  教材では、マンガの「吹き出し」のせりふを考えさせるなど、右脳を刺激しながら左脳的な論理を鍛える工夫が考えられます。  ただ、吹き出し入りのマンガが濫用されている小学校の教科書には閉口させられます・・・。

一年間にかかる生徒一人当たりの「紙代」は? ふり返り366日【08/2/10-4】

[教育現場] ブログ村キーワード

 労働をめぐる環境が、今日のようになってしまうと、組合の活動も本当にやりにくいでしょうね。

 年度末になると、「お金を使い切らないと損!」という強迫観念に駆られた膨大な税金の「無駄遣い」の実態が身近なものになります。

 予算の執行については、オンラインでその状況を把握した上で、当初の予定通り進んでいないということであれば、どんどんカットしていくのがよいはずです。

 しかし、次年度の予算が削られるのが嫌な学校・組織等は、本来は必要のないものまで購入し、「予算の維持」に努めようとします。

 学校は、耐震工事など、安全にかかわるものは別として、足りないなら足りないなりに、何とかやっていけてしまうところです。むしろその方が教育的でもあるでしょう。

 予算がもし余れば報奨にまわす、ということにすれば、もちろん議会は認めないでしょうが、より大きな予算削減効果に結びつくような気がします。

 教師たちは、学校経営の大部分、特に「カネ」の動きについては、ほとんど無知といっても過言ではないでしょう。
 一年間に、紙代がいくらかかっているか生徒一人当たり、いくらか、など、即座に答えられる人、知っている人はどのくらいいるでしょうか。
 電気代、水道代については

 仕事量の節約ばかりを考えずに、このような数字を知って、教師に何ができるかを考える必要があるでしょう。

 

08/2/10
残業なしの4%調整額は不正受給?
 教員に残業手当がつくようになったら、私は家で仕事をすることにします。だれにも気兼ねなく仕事がしたいから・・・
 4%の調整額がつかなくなるとすると痛いですが、好きな仕事をいっぱいやって、やればやるほど給料が増えるというのは、ちょっと贅沢すぎる気がします。もちろん学校ごとに厳しい上限が決められ、サービス残業だらけになることは目に見えていますが。
 だらだら残って会議ばかりする光景が目に浮かびますし、本務ではない部活動を延々とやってこれにお金がついたとしたら、目も当てられない状況になるでしょう。まずは部活動の指導をどう位置づけるかです。
 また、いつも定時で帰っているのに4%の調整額をもらっている教員がいることが、給与の課題になっているのは確かです。
 「税金泥棒」という風当たりがますます厳しくなりそうです。
 というか管理職は少しでも早く教員を帰宅させるようにがんばることになります。
 そもそも学校は、命令されてやっているわけではない仕事が多いため、残業するときは目的、時間、残業せざるを得なくなった理由などを報告する書類づくりで忙しくなりそうです。
 その議論を始める前に、時間効率があがらない理由をきちんと検証するとか、経営の合理化を研究するとかして、とにかくムダを省く努力を進めることが必要です。
 現実的には、定期考査のときの「評価事務手当」、宿泊行事のときの手当、家庭訪問など緊急の生活指導のときの「惨業」手当など、個別的ですが一律支給が中心のものを導入していくことになるのでしょう。

崩壊したときしばらく手に負えなくなる学級 ふり返り366日【08/2/10-3】

 教師がリーダー役を含めて、何でもやってしまうという指導?の仕方は、力さえあれば実は最も楽勝のパターンです。

 どう考えても子どもの中に一人だけいて、それなりに知恵も持っている大人が、子どもからあてにされないということはあり得ません。(見限られるときは一瞬かもしれませんが、子どものいじめのように「無視」が続くということはないでしょう)
 なぜ「楽勝」のパターンかというと、子どもを成長させる必要がないからです。

 むしろ都合がいいのは、子どもが成長しないことです。

 自立させようとすると、一人前のことを言ってくるので、そんな面倒くさいことにならないよう、何でもかんでも大人である自分が責任をもってやってしまう。

 そういうタイプの権威と権力を子どもは教師に求めてくる場合があります。
 
 しかし、このようなニーズと受け手の姿勢がピッタリ合う、そういうタイプの学級が崩壊したときは、しばらく手に負えない状態になります。
 
 何か問題が起これば、その解決に向けて親身になって相談に乗る、そういう「大人像」よりも、「水戸黄門」的な役割を期待されてしまう教師がいるかもしれません。

 時間になったら必ず解決するパターンは、心理的な負担がゼロですむので、安易さを求める気質にはピッタリと合っている存在ですが、もちろんいつまでたってもそれでは困るわけです。

 子どもにとって「都合がいい先生」になるのか、「本当にいい先生」になれるのかの別れ道の一つです。 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

08/2/10 教師「が」いても、子は育つ  成績上位層の存在意義に関する文書の中で、「義務教育段階なら、子どもの学力はやる気と密接な関係がある。やる気を育てる教師の能力はもちろん大事だが、子ども同士でもやる気は高め合うことができる。その条件を作り出すのは教師の役割であり、公立学校にもぜひとも必要なもの。進学校では、このような条件が整っており、子どもや保護者はそこに大きな意義を感じることができる」と述べました。  学力を伸ばすのは進学校の仕事であり、公立学校の仕事ではないという人がいますが、この「仕事」を教師が行うべきこと、と言ったら、それはその通りかもしれません。ただ、そのような環境をつくってあげるのは教師の役割ではないでしょうか。  進学校では、「教師はなくとも子は育つ」かつ、「教師がいても子は育つ」環境があります。それは、ときに「子ども」が教師の果たすべきことをやってくれるという意味です。  しかし、公立学校では、成績上位層もおらず、いい教師がいなければ子どもは育たないし、指導力不足の教師がいても、やはり子どもは育たない。  公立学校では「学力」なんてどうでもいい。どうせみんな進級はできて卒業するんだから。とまで開き直っている教員がいますが、こういう学校から成績下位層だけがほとんど全入でやってくる公立高校というのは本当に厳しいと思います。  進学校は(すべてかどうかわかりませんが)「リーダー教育」にも力を入れています。リーダーを養成しようとする教員の気風があり、生徒たちの自治意識が高い学校というのは、本当の「学び合い」が可能です。もちろんリーダーは特定の生徒に固定するわけではなく、多くの生徒にチャンスを与えます。  公立学校でこれをやると、「差別」につながるとかいって批判する教員がでてくる。本当はリーダーを育てる能力がないだけなのかもしれませんが、結局はどんな集団づくりを目指しているのでしょう。  自分たちがフラット型で好きなような行動をとっているので、子どもには言えないのか。それともその組織が本当にいいと思っているのか。  能力が高い子どものパフォーマンスをさらに高めようとする欲求が、どうして公立学校の教師にはおこりにくいのか。それに値する子どもはもともといないと判断しているのでしょうか。

町医者と町の教師の違い ふり返り366日【08/2/10-2】

 教師が「地域の学校で働いている」という実感を得るのはどのようなときでしょうか。

 PTA活動だけが「地域の仕事」ではありません。

 たとえば、理科の教師なら、社会科の教師なら・・・地域の何を教材化しているのでしょう。

 学校評価からは、漏れてくる代表的な観点です。

 具体的な評価項目をつくりだすと、100とか1000という単位では収まりきらないでしょうから。

 さて、教師何とか道場という名の研究の場があるようですが、「道場」とよぶにふさわしい「厳しさ」と「やさしさ」はそこにあるのでしょうか。

 子どもが「厳しさ」と「やさしさ」が表裏一体であることに気付くのは、力が付いた後です。

 教師にとっても同じこと。

 実力がついた「実感」が得られるまでは、「厳しい」と感じる程度がちょうどよいのでしょう。

 「やさしさ」病が流行した後、どのように「厳しさ」病が戻ってくるのかに興味があります。 

08/2/10 教師にとっての共感力 ハイ・コンセプト「論理」ではなく「共感」  役者が「医者じゃないが、テレビじゃ医者になっている」のに対し、今では医者が「役者」になるため、演技のレッスンを受けているといいます。  「共感力」が医療でも新しいコンセプトになっているようですが、日本でも「町医者」とよばれる人はそういう能力をもっていたのかもしれません。  「町の先生」はどうでしょう。先生はそもそもそのような呼ばれ方をしてきたのでしょうか。  「地域のための学校づくりが大事」「学校選択制は地域を破壊する」と主張しながら、「地域の先生」とよばれるような行動をとっている人はたくさんいるのでしょうか。自分が住んでいる地域だけでなく、通勤している学校の地域のボランティアをしたことはあるのでしょうか。  教師に共感力が大切なのは言うまでもありません。  50分区切りで次々に進行していく授業の内容がほとんど理解できない生徒への共感。  塾で学習し終えていて、わかりきったことの繰り返しのためだけに50分を過ごす生徒への共感。  学校で6時間学んだ後、帰宅してからさらに3時間も塾で学び、宿題に2時間をかける生徒への共感。  指導力不足で生徒から信頼されていないため、悩んでいる教師への共感。  そうした相手に対して何かをしてあげようとする気持ち。  治してあげたい、悩みを理解してあげたい、力をつけてあげたい、そういう感情を持たずに演技ですまそうとしている教師はいないと思いますが、相手に伝わらないもどかしさを感じている教師は多いでしょう。  ただ「聞き役に徹すればいい」というマニュアルに従うのもいいのでしょうが、教師にはカウンセラーと異なる決定的なバリアがあるものです。  子どもも大人も、ほめられること、甘やかされることばかりに慣れているので難しい。

教師は学校という「伝統文化」そのものの担い手か? ふり返り366日【08/2/10-1】

[教師] ブログ村キーワード

 学力水準が、20年後に日本をはるかに上回っていると考えられる国はどこでしょうか。
 ・・・というような想定をしている人はいるでしょうか。

 現在のところ、日本の「学力上位層」の教育は、一部の学校と塾・教育産業が互いに干渉し合わずに担っているという印象があります。

 このままでよいのだろうか、という漠然とした危惧を抱いたとしても、それが何か目標を定めての信念とか使命感にまで到達するには、もともと「突出」を好まない、そして最近は「格差の拡大」に神経質になってきている「日本的な風土」では至難の業でしょう。

 受験学力の向上は、ある意味では上級学校が要請している「」の側面ですから、それを否定することはできませんが、現在、文科省が考えている「学力」とは、かなりの隔たりがあります。

 文科省の考えている「学力」が、果たして20年後に実を結んでいるのかどうか。

 教育界のこのような議論へ、企業の世界の人が加わることに違和感を覚える人がいるようで、それも理解できなくはないのですが、常に先を読んでいなければ生き残れない「絶えず変化する環境」に生きている人の知恵は、今後ますます重要になってくることでしょう。

 「変わらないこと」に意義を見いだし、それにどっぷりつかっていられる「伝統文化」の世界に「学校」があるのかどうか。
 (ただ、最近の教科書では、「伝統文化」の世界でも「新しい技術の導入」とセットで「進化する伝統」観を紹介するのが主流になっているようですが・・・)

2008/02/10 格差と成長、教師はどこを見るべきか   改めて“しょう”さんからご回答をいただき、ありがとうございました。  共感していただける部分があってほっとしております。  従来より、IQよりもEQという考え方や、「フラット化する世界」ではCQ(好奇心指数)PQ(熱意指数)が大きな意味を持つという言われ方がしています。  昔、「受験戦争」が流行した時代に、競争の部分が批判対象になって「ゆとり」という甘い言葉につられてしまったのですが、今の全国学力調査程度のやさしい問題で当時もそのレベルを測っていれば、「競争」より「個々の学力水準」に関心がいったはずなのですが。  特に小学校レベルの全国学力調査は、他県や他地域との競争うんぬんより、「今そこにある危機」に早く目を向けるべきであり、50年後の中国やインドからは今の日本の教育改革やそれに対する反発は、「日本の敗因」の一つに挙げられている問題になっているかもしれません。  「生きる力」の「確かな学力」以外の部分というのは、同年齢集団の活動より、異なる年齢集団や実社会に近い集団、地域社会の中で学ぶ方が効果が高いのです。学校には、そういう場での学習の必要もせまられているわけですが、これには地域の助けが必要です。  同年齢学習集団を生活の基礎にしている学校という場は、やはり学力をつけるのが主目的です。  「自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性」については、「学び合い」をスローガンに指導を展開していくことくらいしかできません。学校教育の主眼を間違ったレベルにおいてしまうと、おそらく教育問題の矛盾はいつになっても解決しないでしょう。学校だけでできないことは、学校教育の主目的にしてはいけません。  勤務していた学校や地域が特定されてしまうので詳細は語れませんが、あらゆる成績の層のメンバーが協力して追究し、地域に情報を発信したことがありました。大人たちに「この中学校、中学生たちはなかなかやるな」という実感をもたせ、子どもたちには自分自身や学校に対する自信や誇りをもたせるような活動が、総合的な学習の時間の導入によって確保できるようになりました。  格差という結果ばかりに目がいってしまうのか、学力向上など子ども一人一人の変化や成長に目がいくのか。評論活動中心の教師にはなりたくないものです。

違うもの同士が引きつけあうのが秘訣 ふり返り366日【08/2/9-3】

 成績上位層のことを書いたのは、最近のように思えてしまいますが、もう1年以上もたっていました。
 今日は都立入試がありましたが、ご存じのように、成績上位者の多くは「推薦入試」で合格してしまっているため、一般入試の問題を解いているのはその合格者を除いた中学生です。
 後で平均点が公表されますが、問題の難易度とこの得点を見比べれば、だいたいの学力水準は推測できるでしょう。

 さて、「学び合い」というキーワードを学力向上に関する話題で使うとき、それを支えるのが「生徒指導」であり、「学級経営」「学年経営」であることは、教師であればあえて取りあげる必要がないほど明らかに重要な柱です。

 ただ、これが生徒や保護者という立場になると、少し見えにくいものになります。

 「生徒指導」「学級経営」というと、すぐに「担任教師の力量」というものが念頭に浮かんでしまいますが、「学び合い」の主体はあくまでも子どもたちであること、そして、それが「担任教師の力量の欠如」で成立しなくなる場合もありますが、たいていは、大人の力を超えた強力な「磁場」のようなものを形成しているのが「子ども社会」です。

 この「磁場」を無視して大人が介入することで、「磁気嵐」がおこったり、方位を完全に見失ってしまうような混乱が起こります。

 成績上位者が「浮いてしまう」学級、「息をひそめる」学級では、全体の学力水準は決して上がらないでしょう。

 NとS、異なる力は、反発しあうのではなく、引きつけあう関係になるのが、学力向上の秘訣です。

08/2/9 公立学校における成績上位層の存在意義  公立学校の中で、「成績上位層」の生徒たちに私が期待する存在意義・役割とは何でしょうか。  塾とは異なり、「有名校への進学実績づくり」とは関係がありません(それが励みになって目標をもって入学してくる生徒が増えるかもしれませんが)。  その(本来の)役割を果たしてもらうためにも、公立学校は「成績上位層」の学力(ここでは「確かな学力」より「生きる力」に近いイメージ)をさらに伸ばす努力をすべきだと考えています。「成績下位層」への学力向上の手立ても行っていないのに「成績上位層」への配慮を批判する資格はないと思いますが、もしそういう人がいるとしたら、おそらくその授業は学習指導要領無視か何の工夫もないものなのでしょう。  成績上位者に伸ばしてもらう力には、テストの点が取れるようにする力も含みます。よく、「受験学力」のことを非難?する人がいますが、受験学力がなくて「生きる力」だけつくということはあり得ません。  公立学校のこうしたはたらきは、「成績下位層を見捨てる」などということではなく、逆に「成績下位層」をも救う効果も期待できるのです。ただし、それは授業の中で「成績上位層」が重要な役割を果たせることが条件です。  この教育観の重要なキーワードは、「学び合い」です。  授業に「学び合い」の空気がある環境では、子どもに「○○さんのようになりたい」という希望を抱かせます。「○○さんはすごい」という敬意を抱かせます。「○○さんに教えてもらおう」という意欲を抱かせます。  授業参観で、保護者に「こんなにすごい生徒がいるんですね」と気づかせることができるかどうか。  成績上位者に、「先生のおかげでこんな問題まで解けるようになった」と感謝されるかどうか。  成績上位者が育たない、または死んでいる学校の授業、成績上位者を育てない、または殺している教師の授業では、こんな場面は見られないはずです。  どちらかのブログで、教師は、運動の得意な生徒、明るくユーモアのある生徒はどの子も高く評価するが、成績がよい生徒の場合は、何だか白い目で見ているような印象がある、と表現されているのを読みました。  もしそれが事実なら不当な扱いですが、でもそういう教師の内面はだれでも想像できてしまうでしょう。  義務教育段階なら、子どもの学力は「やる」と密接な関係があります。教師の「やる気」を育てる能力はもちろん大事ですが、子ども同士でも「やる気」は高め合うことができます。その条件を作り出すのは教師の役割であり、公立学校にもぜひとも必要なものです。  進学校では、このような条件が整っており、子どもや保護者はそこに大きな意義を感じることができるのです。

過去の学びの真実に気付くとき ふり返り366日【08/2/9-2】

 教師にとって、社会がどんなに騒ぎ立てようとも、何が何でも学力を高めなければならない、変化に対応できる「生きる力」を身に付けさせなければならない、などという切迫感はありません。
 
 そういうプレッシャーがかかると、学力より徳育を重視していると言い放ったり、子どもの努力が足りないなどと言い出したりすれば、相手に反論する気をなくさせることができるのです。

 子どもがいかに厳しい学習環境、労働環境のもとに旅立とうとも、卒業させた後は入れ替わりに入学してきた子どもに全精力をつぎ込むことになるので、余裕ができて母校にふらっと立ち寄るとか、クラス会で集まるとか、年賀状などの近況報告がなされない限りは、巣立った子どもが「その後どうなっているのか」「そのときどんなことを思っていたのか」を知らないままで過ごすことになります。

 ある研究者は、卒業生を中心に行った聞き取り調査で教師のコンピテンシーを分析しています。

 このような研究は今までそれほど注目されていません(問題教師には相変わらず焦点化されず、安泰でいられるようです)が、「評価力のない子どもになど評価されたくない」として「授業評価」を拒否しているような人には、大学ぐらいまで進学した子どもに当時をふり返らせて評価してもらってもおかしくはないでしょう。

 教育実習で学ぶ学生の多くは、実習の中で、しっかり学んできたつもりの自分の土台が崩れていく感覚を体験することになりますが、そこには「学ぶことと教えることとの千里の隔たり」以前に、「本当の学びとは何か」という問いをやっと自分のものにできるという大進歩があるわけです。

08/2/9 せめて学校では受験学力だけでも “しょう”さん、ご丁寧なコメントありがとうございます。  前回の記事、「成績上位者」について、若干の補足をしたいと思います。  基本的には、義務教育の現場を想定しています。  公立中学校の成績上位者は、小学校の上位者に比べると、国立・私立・公立中高一貫校への受験で抜けてしまっているために、それほど学力が高くないのが現状です。  中学校の5段階評定の感覚で言えば、公立では「5」に育ちそうな子どもが抜けてしまっている。  ですからもし本当に「5」をつけたいのであれば、もっと学力を高める必要があるのに、絶対評価(目標に準拠した評価)の評定はインフレ傾向にあって、「5」が実態より多くつけられてしまっているのが現状です。  ちょっと脇にそれますが、これは観点別学習状況の評価を総合化して評定をつけるときの誤解、つまり、観点別学習状況評価で「AAAA(Aとは十分満足のレベル)」の生徒の標準的な評価は「4(十分満足)」なのに、それを「5(十分満足な中でも特に優れている)」にあてようとする感覚が現場に多いのが原因です。  さて、小学校には本来の成績上位者があまり抜けないでいるわけですが、受験レベルの問題と現場の教育内容のレベルが違いすぎて、学校の成績が上位というだけでは受験には対応しにくい問題があり、次元の異なる話題になるので置いておこうと思います。  中学校では、小学校とは比較にならないくらい学力の格差が広がります国立では全入でないところがありますが基本的に多くがエスカレーターで進学するので、中学でも高校でも学力の高低差があります。公立高校はかなり輪切りになっていて、ある程度、習熟度別になっている)。しかし、公立の中で高い方が絶対評価でも高いかというと、そうとは限りません。相対評価時代の評価観が染みついている人は、本当の(絶対評価の)「5」のレベルがそもそも実感できないのかもしれません。  ふつう教師は、学力の低い層が「おおむね満足=3」のレベルになれば大満足でしょうが、学力が高い層も3のレベルでよいかというと、保護者はそれでは納得いかないものです。  「受験学力」とは何か。これも定義が難しい(どこを受験するかにもよるので)。  たとえば大学入試の場合、東大と早慶では、問題の質の高さが違うので単純な比較ができない。  ただ、私のイメージとしては、ただひたすら授業をしっかり受ければ、つまり努力すれば、身に付いてしまうような学力のことを受験学力といいます。問題を作るのにたいした能力を要求されずに、しかも採点に手間がかからないタイプの問題を解く能力のことです。  中学生にとっての受験学力では、とりあえず公立高校の入試で高得点がとれる実力がほしい(そうでないと希望の高校に入れない)。ただ、それは「3」を増やすことに注力している中学校では十分に対応できない。  本当は、4や5の生徒も増える授業をしたいのに、なかなかできないので、外部に委託するしか選択肢がなくなってしまう。  現行の学習指導要領は、従来それでもOKだった受験学力に加えて、「いかに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」も求めている。そこに「自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性」と「たくましく生きるための健康や体力など」を加えたものが「生きる力」です。「生きる力」のうちでも特に、「自ら課題を見つけ・・・問題を解決する」力は、そう簡単に身に付けられるものではありません。  受験学力がなくて「生きる力」だけつくということはあり得ません・・・とは、そういう意味です。  今はひきこもりをしても家で餓死する心配がないほど豊かな国になっている日本ですが、さすがに社会に出たら、「変化への対応」を目の前の切実な課題として立ち向かうでしょう。「生きる力」指導が難しい最大の原因は、それだけの切実性が身近にない生徒教師はさらに切実性を感じていない)に取り組ませようとすることにあります。

学校教育の最後の砦 ふり返り366日【08/2/9-1】

 進学塾・予備校の宣伝文句に、○段階方式など、ステップをクリアしていけば目標となる志望校に合格できることを強調するものがあります。

 学力のうち特定の面だけの向上をねらうのであれば、学習は個別に行い、スモールステップで確実に習得していく、公文式のような方法が適しているのでしょう。

 中には、一斉指導なのにこのような学習指導をしている教師もおり、きっと自分がやってきたことを子どもにもやらせれば、それで力がつくと確信しているのでしょうが、やはり一斉指導には一斉指導の限界があって、前と後ろに別々の理由で「取り残される」子どもが出てきてしまいます。

 思い起こせば、小学校での学習風景に、教師が課題を出して、終わった子どもから順に教師に見せにいく、というものがありましたが、全員が終わるまで教師が待っていたとすると、一番最初に課題を出した子どもは、何をしていたのだろうか?と疑問に思います。

 私の小学校は確か子どもが子どもに教えるのは禁止されていたようなので、自由帳に絵を描いているとか、マンガを読んで時間をつぶすのが一般的だったように思います。

 このような学習と、公文式を比べれば、どちらがどれだけ効果が上がるかよくわかるでしょう。

 「できる子どもはどんどん先に進む」というカリキュラムになっていない普通の学校では、「できる子ども」「できない子ども」はどうやって時間をやりくりしていくのでしょう。

 中学校では、「できて時間が余る」子どもが減っていく一方、「できないまま、わからないまま時間が過ぎていく」子どもが増え続けていくのが一般的です。
 
 説明がつかないために最後の砦となるキーワードが「学び合い」なのですが、これが実践できている学校、教師はどのくらい存在しているのでしょう。

2008/02/09 学力別クラス編成は問題外  橋下新知事の「学力別クラス編成」は、従来の習熟度別クラスをさらに日常の生活空間にも適用しようとするものでしょうか?これには「入れ替え戦」もあるのでしょうか。1部昇格、2部降格という用語も登場?  これは問題外として、私が習熟度別学級集団で授業を実施することに反対している理由については、これまで、「教師の質の問題」と「学び合い」における成績上位者の存在意義をとおしてふれています。  橋下知事には、公立中学校でクラス替えのときに使っているさまざまな記号や短冊についてだれか説明してあげるといいですね。クラス替えを通してどのくらい生徒(や場合によっては保護者)への細かな配慮を行っていることか。  習熟度別クラスの学習は、たとえば英検や漢検の実施やその準備のときとか、選択教科とか、放課後の補習(または進学塾による指導)などで対応するならわかります。  少人数指導では効果がない授業も、習熟度別だと教材が変わるため、効果が期待できるかもしれませんが、「学力を何段階に分けるのか」「段階を分ける基準は何か」「それぞれの段階に最適な教材とは何か」などの研究をしっかり行うことが必要だと思います。ですから、研究授業でやってみることには賛成します。

学校評価に求められる「物語性」 ふり返り366日【08/2/8-4】

 論理優先の物語よりも、「物語性」優先の物語の方が、「おもしろい」だけでなく、「真実味」が高いように思われます。

 しかし、「公正さ」を求めようとすると、どうしても論理性が優先される。
 論理の方に客観性を、物語の方には主観性を感じてしまいやすいからでしょう。
 
 結局は、評価者への信頼感が低いのが原因でしょうか。

 仮に論理を優先した評価の場合でも、そこに評価すべき事項の重大な欠落があれば、そしてそれがもし故意によるものであったり、あるいは気付きもしない、忘れられている情報だったりすれば、評価そのもの自体が信頼性のないものになります。

 すべての学校で平成20年度の「学校評価」の結果が出たところでしょう。
 
 そこには、どのような「物語」が読み取れたでしょうか。

 無味乾燥な「数字」の羅列では意味もないでしょうし、「成功の論理」や「失敗の論理」を「物語」として示せる管理職がいないと、同じ成功を次年度におさめられなくなりますし、同じ失敗を繰り返すことにもなってしまいます。
  
 「学校評価」のまとめの段階では、たとえばいつも卒業式に出席していただける地域の方々、PTA関係者、外部評価委員等にも参加してもらって、質疑応答の時間がとれるとよいと思います。

 できれば、その会はすでに提出済みであろう次年度の教育課程の主な変更点や、指導の重点を公表してもいいかもしれません。

08/2/8 論理では人は動かない  ハイ・コンセプト「議論」よりは「物語」   優秀な管理職というのは、この「物語力」があるのだと思います。  「物語には、形式的な意思決定の方法では忘れられがちな要素を的確に拾い上げる巧みな力がある。論理は、ものごとを一般論としてとらえ、意思決定の際に特定の文脈や主観的な感情を排除する。一方、物語は文脈をとらえ、感情をくみ取る。情報、知識、文脈、そして感情を小さなまとまりに要約してくれるという点で、物語は重要な認知事象なのである。」  教員の能力や成果というのは、コンピテンシーモデルとの対応など分析的な視点で見ることが可能ですが、これを管理職と教員が共有するためには、「物語」が欠かせません。どれだけ教師の「物語」に耳を傾けることができるか。管理職として、どれだけ魅力のある「物語」ができるか。  新しい成果のイメージ、将来的展望は、物語によって共感を得ることができます。  著書では、治療に大きな成果を上げている「物語医学」というものの存在を知ることもできました。  生徒が50分の授業で「英雄の旅物語」の主人公として活躍できるようなデザインを考えたいものです。  私たち教師は、自らが自分自身の物語の作者であることを自覚できているでしょうか。

プライドのある教師の姿勢 ふり返り366日【08/2/8-3】

 多くの教師は、突然の授業参観というのを好まない傾向にあるかもしれませんが、「いつでもどのクラスでもどんな人でも」参観を拒まないというのが本来の教師のプライドというものです。

 「授業を見に来てほしくない」「授業を見られたくない」と思っている教師のうち、そういう程度の授業を日常的に子どもにしてしまっていることを猛省している人なら、「ではこれはという自信のある単元のときによんでください」という声もかけられそうです(どのくらいの頻度でかけてくれるかも問題です)が、「人に見てほしくない授業」を「子どもにはいつも無反省に見せている」ことに気付かない人がいたとしたら、大きな問題です。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

08/2/8 同僚の力量不足を指摘できるか?  外山滋比古著「ユーモアのレッスン」(中公新書)に、次のような小話が紹介されています。

バーナード・ショウの劇評を読んだある人が、
 「あの評はあまりにもひどいものです。血も涙もない冷たい方ですね、あなたという方は」と責めた。
 ショウはおもむろに口をひらいた。
 「わかっていないんですね。わたしがはじめ、いったんは原稿に書いて、そのあと清書するときに消したところをご覧になれば、わたしが、いかに、心あたたかき人間か、おわかりになるはずです

 なかなか教育現場、教師の本当の実態は描きにくいものです。
 学校で、互いの教育力を磨き合う環境が整っているところというのは、本当に数えるほどしかないかもしれません
 教科の指導のあり方について、真剣な議論ができる場を現場の教師は持てているのでしょうか。
 本音を言い合える関係を校内で築いているでしょうか
 この有無が公立学校と進学塾との決定的な違いかもしれません。

教師が自ら遠ざけているもの ふり返り366日【08/2/8-2】

 教師が無能感に襲われることがあるのは、自分が何でもやらなければならないと思ってしまうからです。
 鬱病になって現場を離れる人のいくらかは、非常に強い責任感をもっていたようです。
 ときに特定の人物の責任感は、他人の行動の範囲をせばめ、責任を果たすことへの障害になってしまうこともしばしばです。

 自分の肩の荷は、だれに背負ってもらうのか。
 だれが背負うべきなのか。

 私が見る限り、ほとんどの学校がその判断や手法を誤ってしまっています。

 「伝統」があり、「不変」なものがある、そういう学校を見れば、目先の学力とかいうもの以前に、学校が何に最も力を入れるべきかがわかるはずなのですが、参観者の目には表面的な動きしか映りませんから、「なぜこれができるのか」という問いの答えがとても浅いものになってしまいます。

 だれに何を問えばよいのか。
 その答えは、教師が自ら遠ざけているものに他なりません。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
 

08/2/8
本当に重要な問題か、単に不快なだけか?
ハイ・コンセプト「個別」よりも「全体の調和」 
 教師にとって、「全体像を見る力」はとりわけ重要なものだと考えられます。
 近視眼的な思考で指導を誤ったり特定部分の評価で全体像を歪めて把握してしまう例がたくさんあります。
 子どもたちの全体像とは何か。教師の全体像学校の全体像教育の全体像とは何か。
 「統合医療」では、科学にありがちな、患部だけを治そうとする左脳的アプローチだけに頼らず、身体・環境・心・感情・精神・社会にまで目を向けて、患者を全体的に治療することを目的としています。
 視野がない教師は問題外として、多くの教師の欠点は、視野を広く持っているところまではいいのですが、批判に終始して「治療」に踏み出さないこと。
 時間に追われ、情報に惑わされ、選択肢があまりに多いために感覚が麻痺している現代病に対する最良の処方箋は、文脈や全体像の中で生活をとらえ、本当に重要な問題と、単に不快なこととを見極めることかもしれないとダイエル・ピンクは述べています。
 今、教師たちが批判していることは、本当に重要な問題なのか。単に不快なだけなのではないか。
 夜スペは、一見すると、「患部だけを治そうとしている」取り組みのように感じられるかもしれませんが、「先生に相手にされない生徒」を救うことは、非常に重要なことだと思われます。教師の多くは責任回避論に偏るでしょうが。
 自分はどうか。
 自分自身の問題を棚上げして「自分に何が求められているのか」ということに正対しない人が、単に不快なだけかもしれません。

自動車免許と教員免許 ふり返り366日【08/2/8-1】

[教師] ブログ村キーワード

 授業を車の運転にたとえるのは難しいのですが、何となく伝わる感じもするので記事にしようと思います。

1 歩行者優先の原則
 
 授業で優先されるのは、運転手=教師の都合でしょうか、歩行者=生徒の立場でしょうか。
 歩行者優先の道でも、自分勝手な運転をしている教師が気になります。

2 スピード違反・脇見運転

 自分勝手な運転のうち、最も気がかりなのはスピード違反と脇見運転です。
 大事なのは生徒を置いてけぼりにしないことと、生徒をよく見ることです。

3 無免許運転

 財政状況のよくないところでは当たり前に行われているようです。

4 勘による運転

 土地勘がしってかりしていればよいのですが、よくわからない道を、何のねらいもなく、あっちいったりこっちいったりして迷子になっているような運転が授業で見られることがあります。
 ナビに頼りっぱなしというのも何ですが、しっかり計画を立てて(ルートを頭に描いて)運転はすべきでしょう。

 その他、頻繁な車線変更・強引な割り込み一時停止違反違法駐車対人・対物の事故・・・

 教職につく前にさかのぼって、運転免許を取得するときのように、しっかりと知識・技能を習得して、教員免許がとれる仕組みになっているでしょうか。

 教師の「仮免許」は、「条件付き採用」の初任者としての1年間です。この1年間で、十分でしょうか。

 免許の更新・・・やっと教員免許も更新が必要になりました。

2008/02/08 指導力格差に目を向けようとしない教師たち  この話は、夜スペの和田中の先生に関して述べるものではないことを最初におことわりしておきます。  子どもたちにとって、教師の指導力不足指導力格差指導意欲格差によってもたらされる損失は、一生ものになる可能性もあるだけに重要な問題です。  大学を卒業し、免許をもち、経験を重ね、日々実践に取り組んでいるのに、学力向上は宿題だのみ、家庭や塾への学習のおしつけで、あげくの果てには「本人の努力」の不足にせいにする教師がいる。  ここに、「学校は学力を伸ばす場所ではない」と公言して教育をしている学校があったとします。  教師たちは、「成績が1でも5でも、進級して卒業するんだから同じことだ」「成績が向上しなかったことに対して教師には何の責任もない」と言っている。  一方で、「学校は、学力を伸ばすため、こんな工夫をしています。こんなことを選択できます。こんな機会も提供します。こんな協力や応援を求めています。卒業生は、こんな声を残して卒業しています。1年次と2年次の学力調査の比較で、これだけ考える力がついたことが証明されています。・・・」などとPRしてくれる学校があるとします。  もし学校が選択できるとしたら、自分の子どもを通わせたいのはどちらでしょう。  公立学校の場合、教師自身が、指導力不足や指導力格差、指導意欲格差というものに正対しない限り、「安かろう悪かろう」の目は変えることができません。学力調査の結果がよくなっても、「どうせインチキしたんだろう」としか思われなくなったらおしまいです。  和田中(の地域)の「成績上位者」への配慮が特に公立学校で必要な理由を、次回述べたいと思います。

典型的な行政の逆コンピテンシーパターン

 以下のようなコメントをいただきまして、ありがとうございました。

もし,そのケースが,学区域が存在する地区での学校選択制の場合であるとすると,学区外の小学校を選択した場合の,その学区域に存在する登校班あるいは学校までの送迎義務は保護者にあるのではないですか? ですから,その小学校の先生のおっしゃることも当然と考えます。もともと学校選択制と集団登校制度は矛盾しているので,このような問題が生じるのでしょう。自由選択の学校であれば,登下校時の管理は保護者の義務ということにならざるを得ないでしょうね。

 学校選択が自由化されたということは、基本的には「学区域とはその自治体全域」という意味になります。

 「区域内」「区域外」という言葉が残っているのは、希望が定員をオーバーしたときに、旧「区域内」の児童を優先的に進学させ、旧「区域外」からの希望者を抽選で決めるためです。

 このケースでは、保護者が学校まで送迎することではなく、自宅からかなり遠いところにある登校班に組み込むよう学校が指示していることに問題があります。

 いつもは否定したがる自己責任論を、自分の都合が悪いときは人に要求する、典型的な行政の逆コンピテンシーパターンです。

手遅れになる一呼吸

 「品性」を捨てられる人間がうらやましいと見えるか、気の毒に見えるか、今のところ微妙な線にあります。

 人間としての「品性」「気品」は、人格上、かなり重要でかつ高等な要素でしょうから、私のように品性に欠ける面を多くもっている人間から見ると、それを備えている人は雲の上の人のようです。

 10年以上、厳しい環境でいたせいか、同じような問題行動に際して同じような対処法をとろうとしてしまう傾向があり、そのたびに、「あの気品のある人ならどうするだろうか」と、一呼吸おくようにしています。

 生活指導とは難しいもので、その一呼吸が手遅れになることもしばしばあるのですが・・・。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

教師の都合と子どもの立場 ふり返り366日【08/2/7-3】

 私の知り合いの子どもが、家のすぐ近くなのに学区域ではない小学校に通うことになったのですが、学区域ではないために、「登校班」が存在せず、そのため、かなり遠いところにある集合場所を指定されて、通わせられることになりそうだったので、学校に相談して新しい登校班をつくってもらおうとしたところ、その学校の教師の第一声が、「とんでもない!そんなことできません」というものだったので、相談にのることになりました。

 小学校1年生が、ほとんど知らない道を遠回りして登校することが、どういう意味をもつのか。

 想像力をはたらかせていただきたいところです。

08/2/7 格差を隠したがる教員の主張  以倉孝憲著「『教育改革』はなぜ失敗するのか」(PHP研究所)では、公立学校の現場からの問題提起と真の改革プランと称して、「競争と共生」や「バウチャー制度」で教師を変えることなどが提言されています。  組合敵視が露骨ですので、組合活動を愛している人にはお薦めできない本ですが・・・。  内容にはあまりふれませんが、同じような体験をした教員として、共感できる部分が多かったように思います。  たとえば、学校選択制ですが、組合は「地域の格差拡大」「地域の破壊」などを理由に反対しています。  組合というのは思考が同じというより同じ利益を追求する集団と考えれば、反対する理由というのがよくわかったりしますが、ここではそういう問題は置いておいて、「地域」の捉え方の問題と、「破壊される心配はない」という実感についてふれます。  まず、通学区域という「地域」ですが、たとえば学校選択制を実施している東京都の場合、この「地域」はもともと非常に狭いのが特徴です。同心円状や碁盤目状の形でないので、近い学校に行けないとか、生活圏と全然違うところに行かされるとか、物理的におかしい状況というのがありました。こんな狭い地域のことをさして「地域の格差」うんぬんと言う意味があるのか。江戸時代のムラの五人組じゃあるまいし、もっと広く「地域」を考え、別にその「地域」が他の学校の「地域」とダブっていたってかまわないのではないか。一つの行政区の中で、どっちの地域がどうとか言っている場合なのか。素直にそう思います。私の家からは自転車で15分以内で行ける中学校が8校もあります全体として一つの地域といってもおかしくありません。その中で、学校がそれぞれの特色をもち、それにひかれた子どもが通う。何も考えないで通知の届いた学校に通っても全くかまわないのですが、たとえば大規模校より小規模校、少人数になっている学校が向いているとか、子どもに合った学校が選べる可能性が増えます。地域の人々も、学校を見る視野が広がり、教育への関心も高まっていきます。  次に、地域が破壊される・・・という主張がありますが、地域にとっては、いろいろな意味で学校選択制はいい刺激になります。一番は教師の側への刺激なのですが、多くの生徒が他へ流出し、「地域が破壊される」という危機感を教師がもてるだけで、地域とのつながりは深くなります。「学校が統廃合されるかもしれない」という危機感が現実のものになっても、教師も地域も何ら手を打つ気がないのであれば、統廃合して何も問題もないはずです(母校がなくなる子どもは気の毒ですが)。逆に「多くの人から選ばれた学校」になれば、それだけ地域からの期待というプレッシャーが強くなり、その期待に応えようと努力することになります。  青少年委員や保護司を長くつとめた人は、冷静な目で学校の変化を見ています。  学校選択制が始まって、「先生がようやく地域に目を向けだしてくれた」と語っている人もいました。

卒業式で別れるのがつらい相手とは?

[教師] ブログ村キーワード

 保護者同士の「ヨコ」の連携が全くないのも困りますが、情報がすべて共有されているという関係も、教師にとってはやりにくい場合があります。
 それは、その情報の質にかかわる問題です。

 同じような行動に対して、Aさんにはこういう声を担任がかけたが、Bさんには声もかけなかった、とか、良い行動に対して、Cさんは褒められたが、近くにいたDさんは「無視」されたとか、問題行動に対して、EさんとFさんと叱り方が違っていたとか、そういう情報による不満がある一定限度まで積もっていくと、表面張力の限界を超えたときのように、ちょっとしたことで「爆発」状態になる場合があります。

 このような情報の集まり方は、途中から固定観念が入り、常に負のバイアスがかかってきますから、マイナス感情が増幅されていきます。

 一部の保護者は教師が自分の子どもをどう見ているのか、ということに強力な関心を持っていて、情報収集に余念がなく、その中にはそういう教師の傾向が成績をつけるときに影響が出ているのではないかという猜疑心にさいなまれ、子どもの本来の姿に目が向かなくなってしまうこともあります。

 そのような保護者の不安不満を解消するには、現実の子どもの姿を直視してもらうしかありません。

 それは不安や不満ではなく、確信と責任感に結びつく場合があるからです。

 教師がかろうじて教育する立場でいられるための最低条件は、責任感があることでしょうが、それは親にとっても同じです。

 責任感を共有できる関係になると、子どもを卒業させるとき、子どもだけでなく、親と別れることも非常につらい思いをすることになります。

 保護者の方々からいただいた気持ちは決して忘れません。
 「もう、この人から呼び出しを受けなくてすむと思うと解放感でいっぱいになる」と思わせてしまうのもつらいことです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

乱入者対応ができる学校 ふり返り366日【08/2/7-2】

 放課後の時間帯に、他校の生徒が数人、校内に立ち入ってきて、悪さをはじめたときの対応の方法について、学校で取り決めていることはあるでしょうか。

 そんな取り決めは必要ないのかもしれませんが、私には衝撃的な経験がありました。

 迷惑をかけたのは私が赴任したばかりの学校の生徒で、私が連絡を受けて相手の学校に駆けつけたときには、一人について教師が三人ずつくらいで取り囲み、おそらく学校総出で対応をしていました。

 相手の学校は荒れているわけではなかったのですが、このように危機管理ができる学校というのは、そもそも荒れないはずでしょう。

 職員室に教師がいるはずなのに、騒ぎを聞いて駆けつけたら教師は自分しかおらず、生徒に囲まれるという状況は、なかなか厳しいものです。

 私には、どんな問題を起こしている生徒にも常に笑顔で対応していた(が大事なときには姿を見せない)教師が妙に印象に残っています。

08/2/7 「今、職員室にはだれもいません」  「『教育改革』はなぜ失敗するのか」(PHP研究所)の著者は大阪府の方のようですが、大阪ではもう30年も40年も管理職と組合の関係は変わっていないようですね。養護学校に限ったことでしょうか。それとも、他の道府県でも同じような状況にあるのでしょうか。  ゆとりを求める組合の要求がかなっていく経緯や、当時の文部省との見解の一致点なども著書では紹介されています。「ゆとり教育」の推進という形で、組合が果たしてきた大きな役割を確認することができました。  現在の組合の活動については詳しくないのですが、上層部?の人を除いて、管理職・教育委員会の動向や変化が分かっていない人もブログを読む限りでは非常に多いようです。人事関係の会議録は都道府県教育委員会のHPを見れば、教員の処分などプライバシーにかかわるもの以外は公開されているので、パブリックコメントを発信することもできます。  通学区域という「地域」のことについて、昔やっていた家庭訪問のことを思い出しました。  最近は、家庭のプライバシーの侵害にあたるのではないかとして(最も大きいのは授業カットができない状況になることか?)家庭訪問を取りやめ、三者面談にしている学校もあるかもしれません。(ただ、三者面談を組むと、休んだ分の仕事の金をよこせという保護者がいます。有給休暇がとれる仕事についていない人もいるので、三者面談すら今は難しいのでしょうか。)  家庭訪問を取りやめた場合も、「地域を知る」という名目で、巡回を計画したこともありました。  学校選択制に対して「地域の破壊につながる」という理由で反対している人のうち、通学区域という地域のことを本当によくわかっている人はどのくらいいるのでしょうか。  たまり場になる公園。高校生から恐喝を受けた事件の場所。自転車の事故の危険がある場所。万引で生徒がつかまったことがある店。ピンポンダッシュで迷惑をかけたことがある民家。運動会のときに、必ず騒音の苦情を伝えてくる家。両親が共働きで、夜に生徒が集まって遊ぶおそれがある家。・・・  「地域の学校」と銘打つならば、すべての教員が地図を持たずに歩き回る「土地勘」をもっている必要があります。自治会長の家がどこで、PTA会長はどこ。商店会の会長は。・・・校長や副校長なら、異動してくると必ず「挨拶まわり」というのをしますが、私はここに教員も必ず同行すべきだと考えています。  他校との抗争が多い地区では、当然相手校の学区域の地理も頭に入れておく必要があります。  このような仕事を「生活指導部がやること」などと言って避けていると、生活指導部の教員が全員授業中で職員室に残っているとき、「先生、すぐ来てください」という生徒の声に「今、だれもいません」と答えてしまう教員になってしまいます。

図解へのこだわり ふり返り366日【08/2/7-1】

 「学習指導要領はデザインにこだわってほしい」という要望をしていましたが、できあがってみたら、とにかく版の大きさには驚きましたね。
 フニャフニャなのはいただけませんが、コストの問題もあるのでやむを得ないでしょう。

 解説には、図版入りのものも登場しました。

 今、学習指導要領の解説の内容をすべて図解にして表現できないか、考えているところです。

2008/02/07 手ぶら通勤で頭の体操  ハイ・コンセプト 「機能」だけでなく「デザイン」  デザインとは、「単なる装飾」や「ありきたりの場所や物を良く見せるための飾り」ではなく、その本質だけを見れば、「ニーズを満たし、生活に意味を与えるために、先例のない新しいやり方で自分たちをとりまく環境を形作る人間の本性」と定義している例が紹介されています。  このように考えると、デザインは、オートメーション化やアウトソージングが難しいハイ・コンセプトな能力であることがわかります。  「実用的なものが美しいというのは間違っている。美しいものこそ実用的なのだ。」  いろんな教師の板書を比較してみましょう。  教師の机を一つ一つ眺めてみましょう。  ハードのデザインは均一ですが、使い方のデザインはどうでしょう。  書類の整理の仕方並べる位置収納の使い方。  「佐藤可士和の超整理術」(日本経済新聞出版社)に紹介されている「空間の整理」「情報の整理」「思考の整理」は参考になります。「手ぶらで通勤、帰宅するときの開放感(解放感?)」が格別であることは、ときどき体験できます。人間、書類や本をたくさん抱えて歩くときより、手ぶらで手帳も持っていないときの方が、いろんなアイデアが浮かびやすいのではないでしょうか。メモを忘れて思考のお蔵入りということも多いのですが。  アメリカの学校では、教室等のデザインを工夫しただけで、学力が向上したという研究成果があるようです。 日本では教室の壁がないオープンスペースがはやった時期がありましたが、授業に集中できず、生徒は気の毒です。  機能を優先するとどうしても美しくないものができあがりそうです。美しさを優先すると何だかムダなものに見えてしまう。「有意性」をもつデザインというのは訓練しないと身に付きそうもありません。   間もなく次の指導要領が告示されますが、解説がでるときは、もう少しデザインに気をつかってほしいと願っています。100円に満たない出血覚悟の出版物ですが、見た目を変えるだけでも「読まれる」本になります。  いかに教師が学習指導要領を読まないで仕事しているかは、総合や生活科の記事を拝見すると、とてもよくわかります。

少人数の学級編成を可能にする?「Lサイズ机」効果

 公立・私立を問わず、すべての学校の中で、最も天板(?というのでしょうか)の面積が大きな机を生徒が使っている学校はどこでしょうか。

 学校が購入している普通の机は、おそらく多くの人が、「いろいろな本を広げて授業を受けるのには小さかった(せまかった)」という実感をお持ちではないでしょうか。

 普通の机は、掃除のときなどに持ち運んだり、重ねたりすること、あるいは教室の広さを想定して最も適したサイズということで決まっているのでしょう。

 中学校でも教科書のサイズが大きくなり、たとえば社会科では教科書と資料集、地図帳とノートなどを同時に開いて見ることは不可能になっています。

 もしもの話ですが、児童・生徒の机の大きさが、今より一回り大きなものの方が、学習の効率・能率が向上し、学力がより高く身に付くようになったと証明されたら、教室のサイズは変更できませんから、大きな机を人数分おくために、40人より少ない学級編成を実現させる根拠になりますね。

 あるいは、オープンスペースの学校(教室の壁がない)を見学して「いい空間だなあ」と実感したのは、廊下にあたるような空間に、数人の会議や模造紙を広げて書くなどの作業ができる大きな机(周囲に数人が座れる大きさ)が置いてあることでした。

 通常の教室内に、そのような大型の机があるイメージは、だれも持っていないと思いますが、極少人数の学校ではそれが可能でしょう。

 黒板などは使わずに、小回りのきくホワイトボードで十分かもしれません。

 学校という学習空間を、生徒の立場から、見直す機会があるとよいですね。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

無駄な時間の総合計 ふり返り366日【08/2/6-3】

 これまでに、「会議の時間を半減させる工夫」というのが職員会議の案件の中に入ったことがある学校は、どのくらいあったでしょうか。

 「読めばわかる」ことの説明に費やされた時間の合計が、年間にどれだけあるか、データで示したことがある人はいるでしょうか。

 「忙しい」「忙しい」と口癖にしている教師の行動をつぶさに記録して、何のためにどれだけの業務をどのように実施しているのか、分析された研究があったでしょうか。

 「4%」の調整額があるために、コストゼロで残業させることができた教育委員会の指導主事に、もし事務方と同じように手当を支給していたとしたら、いくらくらいかかっているのか、計算したことがある人はいるでしょうか。

 学校というところは、時間の使い方を一つとっても、どこにどれだけ問題があるのか、きちんと調べられたことはほとんどない職場であると言ってよいでしょう。

 時給2000円の人が、30人集まって、2時間会議を行ったら、その会議のコストは12万円ということになります。

 教材研究が好きな教師は、学校にどれだけ残ろうが、休日も準備していようが、それで手当を求めることなど決してしないでしょう。そのような時間は、家族には迷惑かもしれませんが、本人にとっては「生きがい」なのですからとやかく言うことはできません。

 「仕事をしないこと」の言い訳にさせないような、時間管理が、学校には求められています。


08/2/6
学校の業務改善方法は?
 4日にご紹介した三木雄信著「A4一枚仕事術」(東洋経済新報社)の構成は以下のとおりになっています。
第1章 時間&仕事管理術→ビジネスライフの充実
第2章 思考力強化法→考える力をつける
第3章 企画力強化法→アイデアを生み出す
第4章 文章力・話術&勉強術→書く・しゃべる力、勉強法を身につける
第5章 会議術→会議を取り仕切る
第6章 リーダーシップ強化術→人の心を動かす
第7章 ビジネスライフ計画術→人生の波を乗り切る

 ここに紹介されている43枚のシートを見ると、企業というのは非常に組織的に管理・運営されている(特にコスト意識が高い)ことがよくわかります。効率的に業務遂行するための個人の能力を高めることが期待できます。
 一方、学校という教師にとっての職場が、いかに組織的でないかもわかります。 
 職員会議のように、伝達事項中心であれば全く必要がない時間が延々と受け継がれていたり、分掌や学年という会議で無駄なダブりを繰り返していたりと、教師は忙しい忙しいと言いながら、時間についてのコスト意識がないのです。教員が会議で寝ている時間の給料も税金でまかなわれています。 
 業務のスリム化のデザインは管理職が進んで示し、教員が勉強に向ける時間を増やせるようにしなければなりません。
 部活のない日は早く帰宅するが仕事は完璧という教師のロールモデル化など、教師同士では気づきにくいコンピテンシーを「見える化」するのも管理職の仕事です。
 ただ、学校は外に対しても閉鎖的であり、かつ教員間の関係もオープンでないことが、「ロールモデルシート」の作成に取り組むと明らかになってしまうかもしれません。

喜ばせることの喜び ふり返り366日【08/2/6-2】

 小さいときに子どもに学んでほしいことの筆頭に、私は「人を喜ばせることに喜びを感じること」をあげたいと考えています。
 
 人が喜んでいる姿を見て、素直にうれしいと思う感性は、逆に言うと、人が悲しんだり、怒ったりすることを嫌う感性に結びつくと考えられます。

 子どもの学習習慣、生活態度を長年見てきて、人が悲しんだり、怒ったりすることを何の気なしにしてしまう子どもというのは、基本的に、人を喜ばせる経験、人に喜んでもらって自分もうれしくなるという経験をしてこなかったのだと思うようになりました。

 家に帰ると、親からは、ほとんど叱られることしかない子ども、親から「ありがとう」という感謝の言葉を笑顔や愛情といっしょにかけられてこなかった子どもは、人と人との関係のなかで「うれしい」「喜ばしい」ことを感じにくくなっています。

 人が人のためによい行動をとるのは、自分のためではなく、人のためなのですが、人が喜んでくれるのが「うれしい」という快感を得る自分のためでもあります。

 そういう動機によって、「よい行動」「人のための行動」がなかなかとれない子どもは、無関心でいられることは絶対的に嫌なことなので、叱責を受けるような「悪い行動」「自分勝手な行動」をすすんでとるようになってしまいます。
  
 子どもたちにとって、「喜ばせたい相手」「悲しませたり困らせたりしたくない相手」に親のほか、「学校の教師」「担任」などが加わるかどうかは、たとえば「生きる力」向上にとっては、かなり重要な要素になってきます。

 テストで良い点を取れずに、返却のとき、「すみませんでした」と謝る生徒がいますが、これは「先生を満足させることができず、申し訳ない」という意思表示でもあります。

 このような生徒と、授業妨害にあたるほどのおしゃべり、遅刻、忘れ物、提出物を出さない、・・・などを繰り返す生徒では、何が決定的に違っているかというと、「人を困らせたくない」「人をがっかりさせたくない」と思えるかどうかという意識の問題です。

 「ハイ・タッチ」の最も基本的な部分かと思い、記事にしました。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

08/2/6 教師にとっての「ハイ・コンセプト」の時代  ダニエル・ピンク著・大前研一訳「ハイコンセプト『新しいこと』を考え出す人の時代」(三笠書房)では、「フラット化する世界」と同様、代行可能になってしまう仕事では生き残れなくなる時代に求められる力を紹介しています。  これから求められる「六つの感性(センス)」として著者が挙げているものを見て、これらは本来、日本人が持っていたコンピテンシーではないのか?と感じたのは私だけでしょうか。二年前に出版された本ですが、「新しさ」と「なつかしさ」が同居している感覚があります。  「機能」だけでなく「デザイン」  「議論」よりは「物語」  「個別」よりも「全体の調和」  「論理」ではなく「共感」  「まじめ」だけでなく「遊び心」  「モノ」よりも「生きがい」  教師にとっては得意分野に入る能力が多いのではないでしょうか。  「はじめに」で著書は、新しい時代を動かしていく力として「ハイ・コンセプト」「ハイ・タッチ」を挙げ、前者を「パターンやチャンスを見出す能力、芸術的で感情面に訴える美を生み出す能力、人を納得させる話のできる能力、一見ばらばらな概念を組み合わせて何か新しい構想や概念を生み出す能力など」とし、後者を「他人と共感する能力、人間関係の機微を感じ取る能力、自らに喜びを見出し、また、他の人々が喜びを見つける手助けをする能力、そしてごく日常的な出来事についてもその目的や意義を追求する能力など」としています。  これらのうち、教師に求められていないものはないと言ってよいでしょう。また、多くの教師が教育に「やりがい」を感じたとき、実践していたことを指していると考えることができます。  著書の言う「新しい全体思考」とやらを教師の立場として検証してみたいと思います。

「サラ川」教師版

[教師] ブログ村キーワード

 第一生命のおなじみ「サラリーマン川柳コンクール」は、ネットで投票受付中です。

 「サラ川」応募作や過去の優秀作品をヒントに、教師川柳をつくってみました。

************************

 よい先生 見ざる言わざる 早く去る
 
 (「都合のよい教師」像)


 夢を持て そういう教師に 夢はある?

 先を見よ そういう教師は どこ見てる?

 上手く解け だれでもできる 下手な指示

 「よく学べ」 そういう教師は 学んでる?

 (「口先だけの教師」像)


 チェンジしよう! 唱える校長 チェンジされ

 (哀れな「駒」の管理職像)


 気分悪い? 聞いている教師が その原因

 生徒思い? 思うだけです 重たい教師

 (KY教師像)


 いい評価 信じていたら E評定

 暇な人 それでも仕事は 頼めない

 やれ・終われ 二言だけで つとまる教師

 高齢化 四十過ぎても まだ若手

 仕事量 経験年数と 反比例

 (「困った教師」像)

************************

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

輝く子どもの目に恥じないこと

 このブログをお読みになる方がいらっしゃらなくても、記事は書き続けていくつもりですが、そうは言っても、読んでいただく方が毎日100名ほどいらっしゃるのは、記事を書く上で励みになっています。

 お陰様で記事数が1000を超えてきました。

 今は記事の「ふり返り」も間に合わない状況ですが、これまで、「カテゴリー」に分けていなかった記事を、少しずつ整理していくつもりです。
 できればアクセスが10万に達するまでに見直したいところです。

 教育の世界では、ある問題が解決するまで、あるいは、その問題に新たな視点が加わるまで、非常に時間がかかります。

 また、地域によって、というより、学校によって、そこにある「問題」の量や質は本当に異なっています。

 「一般論」というのが、本当に役に立たないのが学校という職場の本質です。
 
 生徒一人が抱えている問題自体を取りあげても、その解決への道筋は簡単なものではありません。

 それらが複合的にかみ合っている学校現場というところは、本音を言えば、悲鳴だらけが聞こえてくるようなところです。

 しかし、事故で死にかけた患者が運ばれてくるたびに悲鳴をあげる看護師や医師はいないように、教師は毅然とした態度で問題に対処していくことが求められます。

 本当に心の底から「子どもの輝く目を見たい」と思える人間がその職についているのかどうか。

 現場に向けられる目は今後も厳しさを増していくことでしょう。

 しかし、その目に正対させる環境をつくることも大切です。

 教師に逃げ道をつくってはいけません。

 そんな思いでパソコンに向かっています。 

惰性の本質の見極め ふり返り366日【08/2/6-1】

 異動に伴う悩みのお話を耳にしてから1年たちます。
 その後の「教師の力量に見合った学校になってきた」という言葉がすべてを物語っています。

 「荒れている学校」「交通が不便な学校」ほど、教師の入れ替わりは頻繁になり、いわゆる「三年間勝負」「三年間の我慢」と言われる事態になります。

 せっかく真面目に学校評価に取り組んでも、その反省を生かしたり、新たな方針を模索したりするエネルギーが、次の年度に継続しているかどうかはわかりません。

 一般の方では、同じ校種の公立学校をいくつも見比べた経験がある方は少ないでしょうから、「同じ公立でもこんなに違うのか」という実感は教職員ならではのものかもしれません。

 異動したてだと、はじめは、「前任校のやり方がより効率的でし、生徒もよく動くはずだ」という違和感を覚えながらの毎日になりますが、その学校ならではの環境に適した方法であることがしばらくたってわかったりすることもあります。

 「この学校の教師はとにかく動きが悪いな」と感じても、逆に、生徒がよく動いており、「自治活動」が活発なことに気付く場合もあります。

 もちろん、この逆に、ただの「惰性」で続いているだけで、教師だけでなく生徒も動きが悪いのが明らかなので、前任校の方法を導入したところ、がらっと学校の空気も変わり、生徒が生き生きしてくる、そんなこともあります。

 たいてい、教師の力量が量的にも質的にも向上するきっかけは、教師や生徒の側に大きな問題を抱えている学校に異動し、「生徒の輝く目が見たい」と強く願うことにあるものです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

2008/02/06 学校選択制の最大のネック  先日、前任校の教師と会って話をしたときに、学校選択制の最大のネックを改めて感じました。  それは、異動してくる教師の問題です。  他の通学区域から多くの生徒を集める学校は、その教育内容に特色があったり、部活動がさかんだったり、生徒たちが落ち着いていたりと、性質はさまざまなですが、すべてに共通しているのは「教師と生徒ががんばっていること」です。  そこに、「何でこんなことを私がしなくてはいけないの?(荒れていた)前任校ではこんなことしたことないのに(・・・だから荒れていたのでは?)」という教師が異動してくる。  公立学校は、「平等」の原則があるので、優秀な教師、やる気に満ちた教師ばかりを特定の学校に集めることができません。  指導力がなかったり、協調性がなかったり、子供が嫌いだったりする教師が異動してくるリスクが必ずあります。  こういう教師が、「人気のある学校」に転任してくると、俄然「足を引っ張る」ことに精を出し始める(場合がある)。  そしていつの間にか、「底辺に合わせる形の平等」が実現する。  底辺からよじ登っていくのも難しい。  公立学校の場合、教育熱心な教師にとっては、非常に居心地が悪い空間になりやすいのです。  「あなたがそんなことをすると、やってない私に苦情がくるからやめてくれ」  「あなたがそんなことをすると、異動した後、同じことをやらされる人間がでるからやめろ」  そういうプレッシャーがかかります。  競争原理は絶対反対!という教師の論理は非常にわかりやすいですね。  生徒を多く集める学校で問われるのは、管理職のリーダーシップですが、「競争原理反対派」の教員が管理職の言うことを素直に聞くはずがありません。ですからこのような教員の教育は「学校のよさを守ろう」という強い意志のある5~6年選手の肩にかかっているわけです。しかしそれでも前任校より仕事が増えることを嫌がる教員の指導は難しい。  「どうせあと3年たったら異動してやるから」という投げやり系のオーラを放つ教員のために、1年でも異動が可能になったと聞いています。やはり早く出て行ってもらうしかないのでしょうか・・・。

ゆとりと受験 ふり返り366日【08/2/4-3】

[中学受験] ブログ村キーワード

 今年は、天候等、自然の影響による入学試験の混乱は少なかったのでしょうか。
 さて、公立の中高校入試ですが、すでに合格者の多くが塾の受験対策講座を受けているようです。
 問題文を正しく読み取る能力と、資料から読み取れることを自分の言葉で表現する力があることが、合格の最低条件になっているのでしょうが、出題のパターンやテーマが読めるようになっているということです。

 私立の中学入試は、あいかわらず、たとえば算数などは塾のカリキュラムで3年生の2月からかおそくとも4年生の2月から学習をスタートしないと、なかなか厳しい世界のようですね。

 塾の方針や指導を背景に、複数校の受験をしている子どもが多いために、合格者の入学辞退が多く、学校が定員を埋めるため、補欠合格、繰り上げ合格を発表からかなり遅い時期になっても出しているケースが相次いでいます。

 中学受験では大人の意思によって「やらされること」が決まっていくのが普通ですから、子どもにとって、結局「ゆとり教育」とは無関係な学習環境はこれからも続いていくのでしょう。

 「ゆとり教育」の「受験学力」への影響は、それほど大きなものではないのでしょうが、たとえば全国学力調査ではわからない学力の傾向は、入試問題の誤答分析などで明らかにすることができるかもしれません。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

08/2/4 「ゆとり教育」完全実施世代の初受験  3日に入学試験があった受験生は雪でたいへんでしたね。  今年の大学入試、中学入試というのは、平成14年度に現行の学習指導要領が完全実施されたときの中学校1年生、小学校1年生が受験するものです。  つまり完全「ゆとり教育」・・・いえ、「生きる力教育」世代のお受験です。  もしいわゆる「学力低下」が本物ならば、受験問題のレベルと得点で証明されるかもしれません。  公立の中高一貫校は、学力検査ができないために「問題解決型」の適性検査を実施していますが、この結果を分析すれば、「生きる力教育」が軌道に乗っているかどうかわかります。  ・・・ただ、もし「格差が拡大」しているだけで、上位層のレベルが維持されているとしたら、受験の結果だけではわかりません。塾が学力をキープさせる機能を果たしているかもしれないからです。  学校・塾の反応はいかがでしょう?

職員室の「富士山」と「ヒマラヤ山脈」~PDCAサイクルを「見える化」する環境づくりへ~

 学校の教師は、たとえば、同じ学年の教師だけを見てみても、同じ方法でファイリングしている人を見つけるのは難しいほど、「自己流」にこだわるのです。
 「自由」は「平等」と同じく、教師内では「絶対重視価値」です。

 しかし、「自己流」という意味の「自由」は、何もしない、責任をとらない、「自分勝手」という意味にもなるので、書類を全く整理できず、机の上や周囲がたいへんなことになっている教師が出てきます。

 「富士山」ならまだよいのですが、何人か並ぶと「ヒマラヤ山脈」を形成してしまい、向こうの方が見えなくなるほどです。

 教師のファイリング技術を向上させる方法の一つとして、その収納場所を工夫することが考えられます。

 できれば、職員室、教官室の壁面(どこかの壁全面)にはA4がタテに収納できるキャビネットを用意したいところです。

 文書等は個人管理ではなく、学校管理扱いとして、各教員の置き場を決めておくのです。

 そうすると、横並びが大好きな教師たちは、いいやり方の教師の方法を真似しだし、結果、最も効率のよい方法に落ち着くことになるでしょう。

 内容別のものと、時系列の2タイプに分けるなど、工夫が必要な点はたくさんありますが。

 ファイリングの配置によって、PDCAサイクルが一目でわかる環境をつくることもできます。

 このようなファイリングシステムが完備できると、学校評価で何を扱うべきかも一目瞭然になる効果が期待できます。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

特例選考の年齢制限を撤廃 ふり返り366日【08/2/4-2】

 東京都の場合、40歳代後半は年齢ごとに2000人前後の教師がいるのに対し、30歳代後半には1000人以下の歳もあるなど、非常にアンバランスな構成になっていることは、以前にもふれました。
 教育委員会では、教員採用の特例選考の対象年齢の上限を59歳にまで引き上げる(=制限撤廃)など、人材確保に四苦八苦することが予想されます。

 しかし、いわゆる本物の「ゆとり教育」の世代の資質や能力が発揮されるのはこれからです。
 おそらく、上限を低くする横並び意識」ではない、天井を高くする良い意味の競争意識」によって、「組織」のあり方が変わるのは確かでしょう。
 今までの「横並び意識」によって子どもたちが救われてきたという現象は特に見いだせません。
 あと10年、「若き先輩」になるべき世代が、どのように成長していくかが、10年後から20年後にかけての日本の学校教育を左右していくことでしょう。
 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

08/2/4 2020年からの教育  10年経験者研修を担当した方が、教師の力量の違いがここまで大きいとは・・・と実感した経験をある雑誌で記事にしていました。  「あなたの学校の長所は何か」「あなたが校長になったら、どのような学校経営がしたいか」という質問に、教師はどう答えられるのか。レポートの中身の話はここでは述べません。普通の教師には、なぜ成果主義が学校に求められているのか、その背景をまともに説明する能力を期待するのは難しいのかもしれませんが、10年たっても初任者当時のレベルでしか学校を語れないのは悲しいことです。  ですから、教師の職責・職能に応じた新しい職層を導入し、複線型のキャリアアップの必要性が将来的に高まる可能性が高いと考えられます。  団塊世代と新人世代が総入れ替えになる2020年頃からの学校制度のあり方を考えています。

時間講師の職務拡大の効果 ふり返り366日【08/2/4-1】

 教育実習期間にはなかなか学べない教師の職務がいくつかあります。

 たとえば、各児童・生徒に対する評価活動
 評価はどのように出したらよいのか。
 通知表の所見は、どのように書けばよいのか。
 指導要録には何をどの程度書くのか。
 中学校の場合、他の教科の先生方から、担任をしている子どもに対する評価情報をどのように入手したらいいのか。

 たとえば、校内の分掌にかかわるもの。
 教務の仕事にはどんなものがあるのか。
 管理すべき文書にはどのようなものがあるのか。
 生活指導連絡会で、他の学校とどのような連携をしているのか。

 たとえば、PTA活動にかかわること。
 役員さんの仕事にはどのようなものがあるのか。
 
 「授業力」「教材研究力」「生徒指導力」を磨いていくのがプログラムの上でも中心になっている教育実習ですが、実はこれらで身に付く、あるいは通用するか見極めることができるのは、教科に関する専門的知識や技能であり、「時間講師」としての資質・能力までであるわけです。
 教育公務員としてその多岐にわたる職務を全うできるかどうかを本人が知ること、現場の教師や大学の担当者が調べることは難しいと言えるでしょう。

 「分掌の仕事なんて、授業と比べたら格段に楽勝だ!」

という教師もいるでしょうが、「何でも任せられる人」というのは予想以上に少ない。

 学年に所属したとき、分掌以外にどのような仕事があるのか。
 想像以上に教師は「学年の所属員」として動く時間、担う役割というのが多いものです。

 授業力がある人の「時間講師」としての学校へのかかわり方を、授業が終われば「ご苦労様」ではなく、分掌や学年の仕事が体験できるような仕組みにすることが、「優れた教師」発掘の手段になるとともに、時間講師の方もどのような教師を「先生」として教師生活を送るのが理想的かに気付く機会になりそうです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

2008/02/04 ロールモデルシートの活用を  三木雄信著「A4一枚仕事術」(東洋経済新報社)には、教師も活用できそうなアイテムがたくさん紹介されています。  まず、成果主義が導入されつつある(学校の場合、ほとんどの「普通(=当たり前のことが当たり前にできること)」の教員には、給与に反映しないシステムです)中、私がブログのタイトルにしているように、教師のコンピテンシーというのを明らかにしなければなりません。  ただ、これを上からおろすと教員の反発を招いて、やる気のない人がますますやる気をなくしますから、教師が発信する形のコンピテンシーディクショナリーを学校ごとにつくっていけばよいわけです。  ここで使えるのが「ロールモデルシート」。  一番上に、見本(手本?)としたい人の名前を書く。(これを同僚にすれば360度評価にも使えます。)  次に、見本にしたい点を書く。(これがコンピテンシー。場合によっては単なるスキルかもしれませんが)  さらに、見本にしたい人がもっている知識や能力を書く。(コンピテンシーの基礎になっているもの)   最後に、見本にしたい人が積んできた経験。(学歴は避けてもいいのでしょうが、研究歴、研修歴、資格等)  どういう教師がその学校の教師が見る「理想の教師」なのか。  外部から見たらその理想像はどう評価できるのか。  生徒から見てどうなのか。  実践してみると、たとえば中学校・高等学校の場合は、教科が違うと互いのことを何も知らない人の集まりだったりして・・・。それで「チームワークが大事」とか言っている学校は多いかもしれません

国を憂う「ストレス解消法」 ふり返り366日【08/2/3】

 「ストレス社会」といわれる今の社会と、たとえば戦国時代、江戸時代、明治時代など、教科書でもその当時の情勢がわかる時期の社会と比べたときに、どちらがどれだけストレスがかかっているような社会なのでしょうか。
 
 ときどきTVで特集される「大家族」・・・何人もの子どもを産んで育てている母親と、一人っ子の母親の抱えるストレスは、どのような意味でどの程度ちがっているのでしょうか。

 ストレスでまいってしまっている人にとっては、自分以外の人間が抱えているストレスなどに注意を向ける余裕などないのかもしれません。
 
 しかし、もしストレス解消への突破口を自分で見つけていかなければならなくなったときは、一度、「他の人のストレス」・・・できれば、「自分なら耐えられそうもないと思えるストレス」と闘っている人を想像してみるとよいかもしれません。

 ストレスと正面から向き合っていなければならない仕事というのもあります。

 困ったことに、人にストレスを与えることで自分のストレスを解消しようとする人も少なくありません。

 「苦情」「クレーム」の背景として考えられるケースがそれです。
 
 なぜそうとわかるかというと、しっかりとその話(苦情)に耳を傾けていると、だんだん相手の感情の高まりが収まってくるのがわかることがあるからです。
 場合によっては、話をしながら自己反省のステージに自分から入っていって、話をしながら問題解決に乗り出す人もいます。

 ただ、「常連さん」はなかなか「自己反省」のステージには入らず、トイレにいくような感覚で受話器を手にするので、「処理」が終わるまでお「世話」をし続けなければなりません。
 そういう「常連さん」相手はストレスがたまる仕事になるのかというと、実はそうでもなく、相手が「生き生き」としている感覚がつかめてくると、そのうち「がっかりさせてはいけない」という「思いやり」をかけなければ、と感じるゆとりが生まれてくるのです。
 「ゆとり」のあるところに、ストレスはたまっていきません。

 自分のことで精一杯の人は、「社会全般」のこと、「」のことにまで注意が向かないのだと思いますが、そういうより「大きなところ」に注意が向けられる「ゆとり」を自分からつくっていく、というストレス解消法は考えられないでしょうか。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

2008/02/03 アメリカと同じ危機感をもてるか  「フラット化する世界」の著書トーマス・フリードマンの「家庭における子育て」に関する著述を読むと、日本とアメリカのどちらの親が先を進むことができるのか、不安になってきます。 

 学校でつらいこと、がっかりすること、ストレスを感じることがないように、子供たちを真綿でくるんでおかなければならないという意識は、ひとことでいえば、アメリカ社会にひろがる癌だ。そういう考えをあらためないかぎり、われわれの子孫は、フラットな世界の社会を揺るがす大きなショックをまともに受けることになる。

 子供が「it」の国ですから危機感を本当にもてたときは立て直しも早いかもしれません。
 日本は逆に、みんながそういうムードを高めれば一気に進みますが、ずいぶん慎重なところがあります。少子化がここでは大きなネックになります。
 中国や韓国では、逆にその少子化が最大の武器になっている。
 「いいものは必ず外国からやってくる信仰」の日本では、やはり教育改革の先陣をきってくれる国がでてくるのを待つしかないのでしょう。
 日本では「個人」と「平等」があまりに強く全面に出てきすぎです。「国」や「自由」がもう少し重視される素地はできないものでしょうか。
 「国」というと「滅私奉公」という単純思考をもつ人を減らすことはできないものでしょうか。

「良問」づくりの実践が授業力を向上させる? ふり返り366日【08/2/2-4】

 学習指導要領の改訂によって、喜んでいる人の中に、「入試問題を作る人」がいます。
 入試問題は、学習指導要領に示された内容によって出題できることが決まってきます。
 「学び方が習得できているかどうか」よりも、「内容を理解しているかどうか」の方が問題が作りやすいですから、内容量がたくさん示された方が、仕事が簡単になるのです。
 相変わらず苦労が続くのは、「入学試験」を実施できない公立の中高一貫校の「適性検査問題」です。
 ただ結局は、算数と社会とか、国語と理科が合わさったような、教科横断型入試問題になってしまっていますが。
 小学校でも中学校でも、今後、免許更新講習の中などで取り組んでみてもおもしろいのは、たとえば「思考力を問う入試問題づくり」の実践研究です。
 入試問題を作成する仕事がない一般の公立の教師にとって、このような「問題づくり」の能力は、実質的に、授業をどう組み立てられるかという実践力によって左右されます。
 授業がうまくできないのに、すばらしい素材を使った「良問」が作れる人というのは、あまりいないでしょう。
 「問題づくり」の苦労の過程で、「優れた授業実践」の資質も伸ばすことができる、というのが私の仮説です。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

08/2/2 次の学習指導要領のねらい  「ゆとり教育」が目指したものは、ただの時間と内容の削減ではなくて、ゆとりの中で「・・・という力をつけること」でした。・・・にあてはまる言葉を無視して現行の指導要領を語る人が多すぎますね。  残念ながら教師にも多かった。  研究推進校の発表を見ても、「これはおかしい」という取り組みが多かったのです。  結局、教師や学校の力量がこれほど露呈する指導時間というのはかつてないものでした。  次の学習指導要領のねらいは、・・・の力の育成を教科に移行させることで、この問題(子どもにとっては被害)を教科内に限定することにあるようです。

教育現場におけるケイタイの未来 ふり返り366日【08/2/2-3】

 アクセス規制の話が出てから一年経って、今では携帯電話の「学校への持ち込み禁止」という話になっています。
 親が携帯を学校に持っていかせたい一番の理由は「もしものときの連絡方法」というものですが、携帯を持っていないアナウンサーの徳光さんは、「もしものとき」には「通行人に借りる」というやり方をとっているそうですね。
 災害時などは、近くに大人がいればそういう手段もとれるでしょう。

 「もしものとき」に備えて持たせる携帯電話は、ほぼ100%がその他の用途に使われているわけです。
 しかし、実質的に電話としての機能より、情報端末として「ケイタイ」は存在しているわけで、その便利さは疑いようもないことであり、将来的には教育関係者にとって「いつでもどこでも使える学習機器」として使われるようになるときがくるでしょう。

 メールをしているのか、辞書で言葉の意味を調べているのか、傍目からでは区別がつかないのが課題ですが。

 その業界に詳しいある方にお聞きしたところ、まだそのようなビジネスに着手しているところはないとのことでしたが、そのへんは「企業秘密」だったかもしれず、開発競争の段階にあるのかもしれません。
 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

08/2/2 未成年保護のためのアクセス規制~携帯官製不況?~  2月4日発行の日経ビジネスに、「携帯官製不況」と題した記事が掲載されています。  これは、総務省が青少年の保護を目的に「有害サイトアクセス制限」を義務づけたため、災害情報やいじめ相談など、多くの有益なサイトにもアクセスできなくなる問題を取り上げたものです。  コンテンツ事業者は、管理コスト増(サイト内書き込みの24時間監視の人員を増やすなど)と広告収入減というダブルデメリットに見舞われ、「ケータイ不況」とも呼べる状況が訪れかねないとしています。  「たかが未成年への制限なのに・・・」と思って記事を読み進めていくと、3000円以上のパケット代を払っているのは年代別で19歳以下が最も多い(割合が約50%。30歳代は30%に満たない。)ということでした。携帯コンテンツ市場は、未成年が牽引しているわけです。  教師や保護者の立場としては、総務省の決断によって、出会い系サイトを介した売春や、ブログサイトでの誹謗中傷、いじめなどから子どもを守ることができると評価したくなるような感覚でいましたが、健全なサイトまで閲覧ができなくなると、「携帯の便利さ」が失われ、子どもにとって「意味がない」道具になってしまうおそれもあるということです。  「そこまでやってくれるなら子どもに買ってあげてもよい」という認識の親は少数派で、ほとんどの親は携帯を使って1日何時間くらい何をしているか、把握していないのではないかと思うことがあります。  赤ん坊へのおもちゃと同じで、携帯を与えればおとなしく邪魔もしなくなるメリットはありますが、学習時間の減少など、勉強嫌いの子どもにはますます勉強から遠ざけてしまうデメリットをもつのが携帯です。  本来は契約者である親が責任をもつべきことを、総務省は規制の義務化という「戒厳令」によって保護する手段に出ました。これでますます親の責任回避性向が高まるかもしれません。

ぬるま湯ではおいしいコーヒーはできない

 姉妹版ブログでは、以下のような内容を紹介しましたが、これを現在の教育現場、学校教育におきかえて考えてみると、さまざまな方面から、学校には「入れてもらいたいコーヒー」のオーダーが集まってきています。

 しかし、豆の品定めにもとりかかられない現場では、なかなか豆をひく作業に入れない、あるいは、せっかいひいた豆にぬるま湯をかけたような状況になりかねません。

 実は、下の記事ではふれていませんが、質の高い学力には、「自ら豆を探す」作業も欠かせません。
 学校で言えば、総合的な学習の時間の活動の一部がそれに当たります。

 しかし、学校がそのような機能・能力を十分にもっていなかったために、指導ができなかった。

 本当は、学校自身が「」を探し、選んで、教師というフィルターを通してベストのコーヒーを用意すべきはずのものなのでした。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 知識・理解の「コーヒー理論」    物事を「理解」しているとは、様々な「知識」を関連付けて、必要なときに自由に引き出せる、そんな状態とイメージすることができます。

 よく言われる「丸暗記」は、一問一答式の問題への対応は可能になるかもしれませんが、論述でその知識を使いこなすには、やはり「理解」していることが前提になるでしょう。

 ここで、知識・理解の「コーヒー理論」をご紹介します。

 丸暗記型の知識というのは、たとえばこの豆はどこ産のものだとか、100gいくらだとか、そういうもので、一応「」ごとにきちんと分類・整理されている状態です。

 しかし、この知識だけでは、どのような香りがするのかとか、味はどうだとか、どれとどれをブレンドするのが好みであるとか、そういうことは「わからない」。

 本当に「理解」されている状態に近づくには、実際に豆をひいて、飲んでみた経験があるかどうかが大切です。ただこのときも、人が引いた、どこのどういう豆か分からないものをただ飲んだだけでは、やはりコーヒーを「理解」したことにはならないでしょう。

 自分にとっての本当の「理解」をする上で重要なのは、「自分のフィルターを通す」という過程です。

 様々な知識が、一度粉々になって、湯で蒸され、成分が抽出されて、カップに落ちていく過程。

 このときに、通過していく「フィルター」の機能が、「理解」という状態を生む上で決定的な役割を果たすと考えられます。

 それは、情報の取捨選択という意味もありますが、単に液体と固体を分けるということだけではなくて、本当に大切な情報が抽出される、そういうイメージです。

 また、より「理解」しやすくする=「飲みやすい」「おいしい」コーヒーを飲むためには、ブレンドをしてみたり、量や温度を調整したりと、「他の要素との関連付け」が効果的になる場合があります。

 学習者にとってはたいてい、豆が山のように目の前に積まれている状況から学習をスタートするという、ハングリー精神を発揮しにくい問題がありますが、「宝物」「幻の豆とブレンド」を見つけ出すつもりで取り組んでみたらいかがでしょう。

教師のハングリー精神 ふり返り366日【08/2/2-2】

 1年前の記事を読んで、
 「格差拡大」を悪として、「格差縮小」のために「成長」を抑制すること
に熱心だった公立学校を批判していたのを思い出しました。

 なかなか授業が理解できない、教師の話がわからない、よい成績がとれない、・・・そういう子どもを「気の毒」に感じる人というのは、どういう人でしょうか。

 自分が教えた子どもの学力の、全国的な平均との乖離など、知りたくもない、ましてや隣のクラス、隣の学校との比較なんてとんでもない・・・と思う教師を、たとえば、「気の毒」に感じる人というのは、どういう人でしょうか。

 教育の世界のこと、公立学校の教育の課題については、教育現場の当事者である教師や子どもたちがその言及対象になっていました。やや広く見ても、知事や教育委員会程度だったでしょう。

 そのような狭い枠で教育問題を見ていられるうちは、まだ日本も「ゆとり」のど真ん中にいるような気がしています。
 大学が「学生の学力低下」で悩んでいるなどという事態は、ある意味で、日本の大学に「ゆとり」がある証拠と言えるでしょう。

 将来的に、たとえば能力がある人が、それを生かした仕事がなくなるような事態になったとしたら、・・・
 あるいは、どうしても必要な仕事がたくさんあるのに、それに取り組む能力(これは「やる気」も含めて)がある人が絶対的に足りなくなったら・・・

 教育政策について、民間企業を含めて様々な立場の人が、いろいろと「口を出す」ことに対して批判的な人がいますが、たとえば教育現場の立場からこのような批判をするときに、それが「説得的な主張」になるための条件は何でしょうか。
 テレビの教育討論番組に現場の人間が出ると、何だか「場違い」な印象が強く残るのはどうしてでしょうか。

 国の将来については、子どもも、もうすぐ多額の退職金をもらえる人にも、程度や種類の違いはあるせよ、同じような「不安」があることでしょう。
 
 もし教育に将来への「不安」を和らげるか、それを乗り越えようとするパワーを身に付けることが求められているとしたら、今、最も「教育」が求められているのはどういう人たちでしょうか。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

08/2/2 地球で最高の学校?  日本は、いいものはすべて外国からやってくるという信仰?をもっているために、なかなか自力で改革しようとしても、うまくいかない、そういう主張をしている人がいます。  ネット網が世界をおおうようになったため、入国させなくても、外国にいる外国人を雇い、仕事をさせることが可能になったアメリカの話。武器は外国人が「英語」を使えること欧米各国の植民地支配の遺産は絶大な威力をもっています。  これも「フラット化する世界(下)」に紹介された話です。  アメリカでは、ある仕事を海外に移転すると、賃金を75%節約できるだけでなく、生産性が100%向上する。  アメリカ国内では低賃金で社会的地位が低いコールセンターのオペレーターのような仕事も、インドでは高賃金で社会的地位の高い仕事になり、より安い賃金で高い意欲の労働者を雇用できる。しかも、安くて効率的なだけでなく、品質と生産性が格段に向上する、というものです。  アメリカは自国民の教育について、具体的な危機感を現実的にもっています。  では、多民族国家アメリカは他人の話かというと、読者の私立校教師からの手紙が紹介されており、保護者面談で経験したこととして、次のような内容が紹介されています。  自信のない親は、子どもが問題をおこさず、楽しそうにしていれば、万事順調だと考え、いい教育を受けていると思っている。周辺の公立・教会系・私立学校よりも本校の方が優れていると保護者が考えれば、学校の上層部もそれで満足。しかし、学校も隣や町や州とだけ競争しているわけではないと気づきました。  我々教師は、いろいろな面で自分を騙している。学問の面で言えば、ハングリー精神を失っている。・・・フラットな地球に耳を押し当ててみれば、海外から押し寄せる競争の足音が聞こえるはずです。教育者として小生は、地元や地域で最高の学校になるという目標は捨て、地球で最高の学校を目指したいと存じます。  著者の次の言葉も、印象に残りました。  「世界がフラット化しはじめる前、アメリカは本質的に島国だった・・・」  日本での教育の議論は、非常に抽象的だったり、まことに瑣末な施策の是非で賛成だ反対だと言っています。  細部にこだわることも日本の長所かもしれませんが、「地球で最高の学校」をつくる気概がある教師はどれくらいいるのでしょうか。そのためには、「求める人材」「理想の才能」は本来多様なものであって、その根底にある、学問や社会への興味・関心や学び続けるための学び方を身に付けさせること、成功願望をもたせることが重視されなければならないことは、言うまでもありません。  この成功願望をくだらない理由をつけてつぶそうとする教師たちが果たしている役割は何か。それは「格差拡大」を悪として、「格差縮小」のために「成長」を抑制することにあります。  日本の最後の砦になっているのは、アメリカと異なる条件、「日本語」です。日本が英語圏に入っているものと仮定したときの社会像を考えるとぞっとします。

学校のセーブ機能 ふり返り366日【08/2/2-1】

 「他の人が自分よりおいしい思いをするのはおかしい」・・・もしこのような妬みを、「平等主義の原則」という言い方で正しいことと判断して、その「平等」が実現する世の中をつくってしまうと、「みんながおいしいと思えるもの」には絶対にならずに、「だれにとってもおいしくないもの」になってしまいます。

 学校選択自由化が「意味のないもの」になる典型的なパターンです。
 
 市場経済の原理でない公的機関の仕組み、たとえば、勤務年数だけで自動的に上がる教員の給料体系。
 「同じ仕事をしている(あるいは仕事の量が少ない)のに、勤務年数が多いだけで給料が高いのはおかしい」ことが「平等主義」の考えによって認められてしまうと、結局仕事の「質」にかかわる面は何の考慮もされないことになってしまう。

 努力をして、実力をつけ、成果を出す人が、正当な評価を受けられる社会

 もし努力ができる条件に恵まれないため、実力がつかず、成果を出せない人を救うという目的のためにこのような社会を否定すると、後の望みは、評価はいっさい気にもとめずに、努力をして、実力をつけ、成果を出そうとする人に社会の活力を委ねなければならないことになります。

 しかし、学校の教育現場とは、このような職場であるといえます。

 今、社会では、このような環境を見直すことで、学校がどのように変わるのかを試そうとしているわけです。

 「あなたの組だけ一生懸命授業をされると、私が批判されるからほどほどにしてよね」というプレッシャーは、小学校のような職場環境ではまだまだ消え去っていないことでしょう。

 1組の先生は、夜遅くまで教材研究に励んでいるが、2組の先生は、放課後すぐに保育園に子どもを迎えに行き、家族の食事を用意しなければならない。
 このような関係で、「自分の使える時間のすべてを教育に注ぎ込む」ような情熱を、1組の先生が維持できるかどうか。2組の先生が、何も言わないか、「自分のやりたいだけ、思う存分やりなさい」と励ますような人でも・・・。(そういう意味で、「担任」の役割は重要ですが、それが学習指導・生活指導・進路指導全般を引き受けるべき立場かというと、小学校でも見直しが必要でしょう)

 他より「よいこと」が突出しないようにするセーブ機能に、子どもたちが長い間、不満を抱いて生活してきたのが、日本の公立学校という場の特徴ではないか、と考えることもできそうです。

 「あそこではあんな工夫がなされているのに、ここでできないのはおかしい」・・・「なぜここに○○部がないのですか」・・・「なぜ理科の実験の回数が少ないのですか」・・・「なぜパソコン教室の利用が少ないのですか」・・・

 学校ごとの比較ができるようになると、次々に生まれる「不公平感」に対処するための最大の武器が「セーブ機能」であるわけですが。

 学校には今まで、「最大多数の最大幸福」という目標の実現を達成させようとする「」がはたらいてきませんでした。

 学校選択自由化の失敗は、「セーブ機能解除に失敗し、「違いが生まれないこと」でした。

 「どこも同じように魅力がない」ではなく、「いろんな魅力がある中から選べる」公立学校は、やはり行政主導でないと無理なのかもしれません。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

2008/02/02 教育省を新設すると・・・

 公立学校にかかわりが深いアメリカの下院議員の話。 

教育は場所ではない、プロセスだ。・・・教育はいつでもどこでもできるし、できなければならない・・・学校、職場、家庭、オンライン、教室、iPod・・・そこには教師もいれば、独習の手順もあり、オンライン・ゲームもある。なんでも役に立つ。手をゆるめてはならない。手をゆるめない競争相手がどこかにいるのだから・・・

 和田中の「夜スペ」の教師バージョンだってあっていいわけです。大学院の出張授業。「勉強時間」は、教師より子どもの方が圧倒的に多いわけですが、教師にも勉強する機会が与えられていてもおかしくない。
 また、部活動の試合で子どもが行き来しているように、和田中の子だけでなく、近隣の他校生も受講できるようなしくみもあっておかしくないのでは。広域学校評議員会のようなものが、時間外学習コアスクールをつくったり、スポーツ・文化活動クラブを運営し、民間の力を活用する。
 公立学校という場が、税金で生活している一部の人間たちのものではなく、市場主義の中で実績と成果で生きている人たちにとっても活躍・活動の場になり、子どもがあらゆる機会を通じて教育を受けられるようにすること
 その場は、いまのところありあまるほどあるわけです。空き教室だらけの学校もある
 子どもたちにその施設の利用の仕方を考えさせてみたらいかがでしょう。学校という公共施設は、本当に子どものために有効に使われていると思えるか
 公立学校とその教師の醜い閉鎖性を破るために、たとえば図書館と併設型の学校美術館・博物館が校舎内にある学校保育所や高齢者福祉施設があり職場体験をしながら学べる学校スポーツクラブがある学校、・・・そして塾が併設されている学校など、実験的な取り組みをはじめるのはいかがでしょう。どこに行ってもまったく個性のない「ハコ」をどうにか転換できないものでしょうか。ショッピングモールのようなイメージの公共施設の集合体が、学校を開くきっかけにはならないでしょうか。そのためには、「教育」を文部科学省が担当するのをやめ、「教育省」を設置することが行政組織上、必要になります。

「学習態度」習慣がもたらした学力向上 ふり返り366日【08/2/1】

 学習に向かう姿勢、習慣というのは、本当にバカにできません。
 私が指導上、口を酸っぱくして言っているのは、だれもわかっていることではありますが、「ローマは一日にして成らず」という趣旨のことです。
 粘り強く、辛抱強く、コツコツ学習できることを習慣化できた人には、必ず成功が見えてきます。
 
 中学校の授業では、さりげなく開始時の机上をチェックしていますが、小学校のような(実践されているかどうかわかりませんが)「お道具確認」から始めることだけで、学力向上が図れるのではないか、という学校もいくつか目にしてきました。

 ウォーミングアップを自主的に図れるクラスにできたときは、子どもたちも成果を実感してくれたせいか、「授業を大切にする」「授業で勝負する」学習習慣を定着することができました。

 チャイムが鳴っても教室移動が完了していないなどは、以ての外です。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 

2008/02/01 小学校時代の恩師に授かった財産  授業の開始前に教科書やノートを準備し、短時間で前回の授業の復習をしておく。   小学校で身に付けたこのような習慣を、中学校・高等学校でも続けられたことが、たいした才能もない自分の学力の向上を支えていたことと常々思っています。  小学校時代にこのような財産を授けてくださった先生は、まさに「恩師」です。  私の授業参観をするとき、最初の方のチェック項目がこれです。  学習習慣というのは、極論すると学習内容に勝る財産になりうるのです。  「学び方」「学ぶ姿勢」を学んだことは、社会に出ても、教師になっても、行政の世界に入っても、さまざまな効果・成果を生み出してくれました。  プリントを配布されたら、さっと目を通し、すぐに必要な情報なのか、生徒向けなのか家庭向けなのか、提出物なら期限はいつなのか、確認する。たったこれだけを習慣化させるだけでも、プリントの「忘れ物」「親への渡し忘れ」「鞄の中での冬眠」を避けることにつながります。  このような「恩師」に授けられた財産を教師はどのように伝えていっているのでしょうか。

会議の「問題児」とその活用

 桑畑幸博著「目に見える議論~会議ファシリテーションの教科書~」(PHP研究所)には、「会議の問題児」として、以下のようなタイプが紹介されています。

○評論家タイプ

 とにかく揚げ足取りが得意。
 「客観的に見て~」が口癖。
 「自分が教えてやろう」という発言が多く、他者のモチベーションを下げる。
 自分からはアイデアはあまり出さない。

○暴君タイプ

 とにかくわがまま
 「とにかく~」「だから~」が口癖。 
 自分の考えが正しいと信じ込んでいるため、人の話に耳を傾けない。
 なまじ権限をもっていると、他者がいやいやでも従ってしまい、会議の質が落ちる。

○哲学者タイプ

 少しでも疑問を感じたらだまっていられない。
 「なぜ?」「そもそも~」が口癖。
 自分の都合で議論を止めてしまう。
 会議が長引く原因になる。
 本人の意見も抽象的であり、他者が理解するのにも時間がかかる。

○不思議系タイプ

 深く考えずに思いつきで突飛な発言を言う。
 「今思いついたんだけど・・・」が口癖。
 論点をころころ変えて、議論や他者を振り回す。
 何度も脱線し、会議を非効率なものにする。

 学校の職員会議でおなじみのタイプはいないでしょうか。

 このような「問題児」は、本人があえて会議をかき乱そうという意図でない限りは、今、何をどのように議論すべきかを司会者が示すことで、軌道修正が可能でしょう。

 さらに、ファシリテーターの技能として、このような「問題児」の特性を特定の局面で「活用」する方法も紹介されています。

評論家タイプには・・・会議の進行で困ったとき、論点や議論の切り口を考えてもらう。

暴君タイプには・・・事前に根回しをして、他の問題児への対処など、会議で何らかの役割を担ってもらう。

哲学者タイプには・・・場が安易に方向に流れたり、同調的意見が多いときに、ご意見番として発言してもらう。

不思議系タイプには・・・「発散のフェーズ」で突飛な意見を述べてもらい、何を言っても良い雰囲気を作る。

 年度末の忙しい中、行われる次年度関係の議題は、異動する教師も含めて、真剣に考えてほしいものですが、「忙しさ」の中に流されがちです。
 いつもの「問題児」ぶりを発揮しにくい会議になりがちですが、時間をかけただけのことはある、という効力感を生み出すことが、おそらく実施場面で生きてくると考えられます。

 「会議のあり方」検討会というのを立ち上げたりして、その会議で会議のことをしっかり議論し、「無駄」「浪費」という感覚が消える会議=共通理解・合意形成、やる気醸成の場としての会議になるようにしていきたいものです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

「不登校」とよばない学校は?

[不登校] ブログ村キーワード

 「不登校」という呼び名に、抵抗感をもっている「不登校児童生徒」あるいは教師はいないでしょうか。

 年間30日にわたって、病気や経済的理由以外の理由で欠席した場合、登校を続けたとしても、「不登校児童生徒」であることにかわりがなくなってしまいます。

 児童生徒に面と向かって「不登校くん」とか「不登校さん」などとは絶対に呼ばないのは当然のこととしても、会議の場などでは「不登校児童生徒」としてその現状報告などが行われています。

 「登校したくないから登校しない」(統計上は「意図的な拒否」に分類)子どもも、「登校したくても登校できない」(統計上は「学校生活上の影響」または「不安など情緒的混乱」に分類)子どもも、「不登校」としてくくるのは、統計上はやむを得ないとしても、学校で日常的にその言葉を使うことには、教師の側にも抵抗感をもっている人がいるかもしれません。

 では、「不登校」という言葉を使わないですます方法はないのでしょうか。
 (「保健室登校」「相談室登校」という言葉はすでにありますが・・・)

 もしそういう実践を行っている学校、提言をされている方がいらっしゃれば教えていただきたいのですが。

 それぞれの生徒の実情に合わせて、もし無理にでも用語を作るとしたら、

 「登校要支援生徒
 「登校特別支援生徒
 「自宅学習支援生徒
 「教育相談支援生徒
 「訪問指導優先生徒
 
などが考えられますが・・・。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

学習が「はかどる」環境 ふり返り366日【08/1/31】

 学習が最も「はかどる」環境とは、どのようなものでしょうか。

 目の目にゲーム機があったとしても、あるいはテレビを見ながら、好きな音楽を聴きながらでも、自分で決めたことを集中?してしっかりこなせる子どももいます。

 しかし、多くの子どもはそのような刺激があると、集中できず、学習ははかどらないでしょう。

 そもそも家庭で学習に集中できるような環境がもてている子ども自体が少ないかもしれません。 

 教室の様子をみると、教師の説明で理解できてしまう子どもは学習がはかどりますが、理解できない子どもはおいていかれます。教師がそのような子どもに理解させながら授業を進めようとすると、わかる子どもにとっては、学習がはかどらない時間になります。

 授業妨害をする生徒、おしゃべりをする生徒がいたとして、教師がその対応に追われると、全員の学習がはかどらなくなります。

 子どもにとって、「学習がはかどる」感覚が得られる場というのは、塾や予備校といったところばかりなのでしょうか。
 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

2008/01/31 学校と進学塾の違い  学校と地域と生徒、そして民間企業である進学塾が一体となって実現した「夜スペ」ですが、生徒にとって気の毒なことに、「反対論」という逆風が吹いています。  現時点ではマスコミはおおむね賛成論・応援論によっているようで、もう少しインパクトのある反対論を待っている感じがします。  地方の方にはよく実感がわかないかもしれませんが、都内だと、複数の塾から勧誘がかかったり、パンフレットをもらったりして、実際に通おうとするときも、いくつかの塾の中から選ぶことが一般的です。  同じ進学塾でも、西日暮里は先生と生徒の質が高いとか、御茶ノ水がいいとか、教室を選ぶ保護者すらいます。  「夜スペ」を生徒が希望し、学校が施設を提供(そもそも施設は住民・子どものためのもの)し、保護者がお金を支払って実現させたのは、「サピックス」という塾の看板があったからかもしれないのは確かです。  大学生のアルバイトだとか、先生のボランティアだからではなく、サピックスだから受ける。  学校と進学塾の最大の違いは、能力とニーズに応じた教育を徹底できるかどうかと、その成果に対して責任をもつかもたないですむかです。塾は実績で経営が左右される。だから通いたくもない学校の入試まで受けさせられる、という弊害もよく知られていますが。  サピックスは、宣伝効果をねらったのはわかりますが、結果が伴わなければ経営にとって逆効果になりかねません。私などは学校より塾の校舎の方が勉強に集中できて効果も高いのでは?と思ってしまいますが、生徒にとっては、全国ニュースで流れて注目される的になっているので、嫌なプレッシャーがかかっているのではないかと心配になります。  普通の教師の横並び最重視主義もわかりますが、同級生や学校の生徒はどのような目で「夜スペ」参加者を見ているのか。教師からはどのような扱いを受けているのか。  部活動でいい成績を上げると全校生徒から注目されるように、成績上位者がしている努力も同じように応援されるような雰囲気というのが学校には必要だと思います。ただ、横並び全体主義の教師の影響を強く受けている学級などでは、肩身の狭い思いをしている生徒が少なくないかもしれません。  夜スペ参加の生徒にとって、一番応援してほしいと思っている相手はだれだと思われますか?

不況と成長のチャンス

 市場経済の下では、不況や急激な円高など、たとえば輸出産業にとって大きな打撃・試練を迎えることがありますが、それが新たな成長の足がかりになってきました。

 株式企業の場合には、「従業員にやさしい」企業よりも「株主にやさしい」「地球にやさしい」企業の方が価値が高いとされていますから、「内部の人」たちにとっては非常に厳しい現実があることはよくわかります。

 これが、公務員、公立学校の教職員などということになると、どんなに不況になっても多大なコストに大きなメスが入ることがありません。「身内にやさしい」ことは組織として最大の原則なのです。

 子どもの数が急激に減少してきたのに、学校の数や教師の数がその度合いほど減らされていないことはよく知られていることです。

 ですから企業のような成長のきっかけは現場にはないという現実は、よくおわかりいただけると思います。
 ですから、制度としてそのような機会を設けることになります。

 学校選択自由化にしろ、人事考課制度にしろ、免許更新講習にしろ、初任者研修10年経験者研修のような悉皆研修にしろ、これらをバネにすべての教師が大きく成長できるという保障はありませんが、企業では当たり前に要求される能力実績が、教育現場では発揮されにくかったり、数字や形として現れにくかったりするために、「学んでいるという実績」「努力をしているという姿」自体で納得してもらうしかないわけです。

 不況下のヒット商品は、過剰な機能やサービスのそぎ落としが功を奏しているようで、新しいこと=「足し算」の追加という考え方を見直したことから始まったようです(ただ、広告戦略は相変わらず「新しいこと」を追究しているようです)。

 中には、「宿題」を過剰な機能として拒否する子どもや保護者もいますが、学校の中の「無駄」とは何か、そういうことの議論は現場ではあまりなされません。

 教育内容の「引き算」は、今のところ、「大失敗であった」という共通の空気におおわれていますが、少ない内容でも十分に定着させられないのに、これが増えたらどういうことになるのか、真面目に心配している人はどのくらいいるのか。時間数が増えただけならよいのでしょうが・・・。
 
 現在のような不況の時期でも、ただそれだけが原因で、学校における子どもの教育の質が低下するということはありません。
 しかし、家庭がその直撃を受けて苦しんでいる子どもは少なからずいます。

 公立学校の場合は、そこが教育という機能だけのサービスの場でよいかどうか、考えてもよい時期にきていると思われます。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

6割経済でもうけるコツ ふり返り366日【08/1/30-3】

 二兎を追う者は一兎をも得ず。
 
 大勢が話し合いで改革のための原案をもんでいくと、割れた意見の妥協案のようなもので最終決定されます。

 結局、導入後は実施者に「重点」を決めて取り組ませることで、責任の所在は実施者にわたることになる。

 日経ビジネス2月9日号の特集は、「引き算」のヒット術~6割経済でも利益を伸ばす~というタイトルのものでした。

 本当は、現行の学習指導要領が、この発想で「学力向上」を図ろうとしたわけです。
 いえ、「現行」の学習指導要領ですから、現場の教師たちはこの発想で「学力向上」を果たさなければならないのです。
 しかし、現状は・・・・。

 結局、7割の教育内容にしてその定着度を向上させようとしたら、結局うまくいかなかった。
 
 この問題には、一つの考え方として、「削り方がよくなかった」という仮説が成り立ちます。

 「引き算」のどこが間違えていたのか?

 そのような研究はなされているのでしょうか。

 それがなされずに、ただ単純に時数が増えた教科を受け持っても、結局は同じ失敗が繰り返されるだけではないか・・・?

 一般の人からは、そんな危惧が寄せられるかもしれません。

 ただ、「増えただけで安心」という方も多いかもしれません。

 不況期のヒット商品から、教育政策に応用できること、ヒントになることはないでしょうか。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

08/1/30 部活でなく学習の夜スペはなぜできない?  夜スペについては朝日新聞や石原都知事など擁護論・賛成論・応援論が目立っており、反対派にとっては公立学校の教育課程の枠外での活動のため、「教育の機会均等」という論理が通用せず、あせっている人が多いかもしれません。法的な問題では議論にならないため、あとは公立学校が学力上位層への手立てをあくまでも拒否する態度に出るかどうかという選択の問題になります。  一部の教師が抱いているような、公立学校は「最低学力を保障する場」であって、「学力を伸ばす場ではない」という定義をしてしまうと、公立学校は学力上位層が学ぶ場ではなくなってしまいます。しかし、和田中でさえ、学校の教育課程の中では「上位層の学力を伸ばすことは不可能」と判断しているのですから、公立学校には最低限の学力を保障することに注力しなければならないのは言うまでもありません。  人事考課など自分向けの行政の管理は批判する一方で、一部とはいえ生徒のための援助には行政に管理を求めることは、逆コンピテンシーのうちでも最も評価しやすい行動基準となっています。  学校によっては、すでにPTAや学校評議員から「うちの学校ではできないのか」とプレッシャーをかけられているかもしれませんが、教員にコントロールされているふつうの学校の校長に期待するのは酷というものです。  地域主導で塾等と提携し、学校の施設利用を願い出るスタイルが現実的かと思われます。  ・・・しかし、教育課程外の部活の夜スペは毎日でもできるのに、勉強はできないのはなぜでしょうか?

学力上位層を「消した」教師 ふり返り366日【08/1/30-2】

 公立の先生方とお話をすると、東京での話ですが、最近は都立の中高一貫校が増えたり、私立中を受験する子どもが増えたりしていて、公立中に進学する子どものうち、学力上位層がいなくなってきている、・・・昔の感覚で言うと、成績が「5」の子どもがいなくなり、せいぜい「4」どまりだと・・・。

 (それなのに、「絶対評価」では「」をとる子どもが多くなってしまっていますが・・・)

 このような話をしながら気がつくのは、多くの教師は、「」がとれる子どもというのはあらかじめ決まっていて、中学校に入ってから伸びてできるようになっていく、という感覚をほとんどもっていないということです。

 このような感覚は、非常に根深いものがあって、観点別評価の煩雑さとその無意味さを強調する教師たちにとっては、「できる子はできる」し「できない子はできない」、という実感にしばられながら指導をしていることがよくわかります。

 「学力低下」「学力格差」という流行語のおかげで、そういう教師のうちのほとんどは、自分の考えに「確かさ」「社会的な同意」を感じて揺らぎのない「学力観」をいだきつつあるように思います。

 ただ、子どもを学校にあずけている親の立場からすると、無意識にでもそのような教師の「学力観」「指導観」「教育観」があるということは、少なくとも学力が低いことに悩んでいる家庭にとっては有害なことであるように思えます。

 長い経験をもつ教師ほど、「子どもの限界」というよりも、「自分の指導の限界」というものがわかっています。

 その限界を突破させようと、社会は考え得るあらゆる試練を教師に課していこうとする風潮は今後も変わることがないでしょう。
 教師たちは、そういう風潮への反発の方法を誤っているので、さらにそれを強めさせるという逆効果を生んでいます

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

08/1/30 学力については格差拡大を否定できない  学校の教師なら塾の講師以上に実感できることとして、「学力格差の拡大」という問題があります。  公立中は小学校での上位層が進学校に抜けてしまっているので、相対的な意味での上位層ですが、全体として、学力はきれいな正規分布になりにくくなっています。二極化まではいかなくても、上と下がはっきりしている。  学力上位層というのは、やればやるほど実力が身につくので、塾での学習などは能力向上の対時間効率がよく、それだけ学力下位層との格差が広がっていくわけです。  この「格差拡大」を嫌がる教師の心理は、塾などに通って学力を向上させるような方法に忌避感をもつことにつながっていきます。  夜スペに反対する人の中には、教育の機会均等とかそういう問題以前に、学力差が広がることが嫌な人がいるはずです。  しかし、教師はこのような上位層の学力向上に歯止めをかけることができないので、「格差拡大」を食い止めるには、学力下位層の指導に力を入れるしかありません。ただ教師の最大の悩みは、「勉強の強は強制の強」と言って机に向かうのが嫌いな子どもに、学習習慣をつけることが困難なことと、学力向上の対時間効率もあまりよくないことがあげられます。  よく下位層への指導の手立てとして少人数指導が実施されることがありますが、その場では理解できても、次の日には忘れているとか、そもそも家庭学習などの習慣の改善までいかないとか、決して高い効果は得にくいのが現状です。(ですから5人にしても難しいので、30人学級にしたから学力が上がるという保障はありません。もともと少人数である学校について調べてみても、成績が特に優れているというデータはないのです。)  私が考える公立学校の手立てとしては、勉強が得意な生徒も、苦手な生徒も、「ともに生き生きと学び合う場」をつくるという姿勢を教師が絶対にくずさないということです。学力上位層の生徒をないがしろにすると、「学び合い」の空気が崩れます。授業の場でさまざまな生徒の「生かし方」を工夫することが教師にとっての責務になります。

ふり返り366日【08/1/30-1】 観点別学習状況の評価の見直し

 下の記事に書かれている趣旨を重視すると、教師に最も問われるべき能力は、子どもに対して行っている観点別学習状況の評価でみると「関心・意欲・態度」をどれだけ高められたか、ということになるでしょう。

 ただこの評価の観点の難しい点、誤解を生んでいる点は、「授業にまじめに取り組んだり、発言をしたり、宿題を期限内に出したり」などという学校生活上の表面的な態度を評価するわけではないのに、そのような表面的な態度からしかなかなか評価できないということにあります。

 授業での教師の話はほとんど聞かず、発言もせず、ノートもとらず、提出物も出さない生徒が、学習指導要領に示されている目標を達成できていないかというと、決してそんなことはないという生徒もまれにいるわけです。
 
 もっと高度な本を読んで「自ら学び自ら考え」ているかもしれない。

 学校は、そのように「自ら学び自ら考え」ていることを「表現する機会」(=評価する機会)をかつては与えていませんでした。
 
 しかし、「総合的な学習の時間」でそれが可能になった。

 ところが、ごく一部の生徒しか、本当に「自ら学び自ら考え」られそうにないことがわかった。

 ・・・では、「自ら学び自ら考え」ていることを「表現する機会」を子どもに与える必要はないのか?・・・

 でも、より個に応じた信頼性のある「関心・意欲・態度」の評価をするためには、それが欠かせない・・・。

 観点別学習状況の評価の見直しは、まず「指導の実態」を丹念に調査することからはじめないといけないでしょう。

 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

2008/01/30 理想の才能を育てる教師とは  「フラット化する世界」(日本経済新聞社)の著者トーマス・フリードマンからの投げかけに、ビル・ゲイツが答えた言葉は、日本人としてどう受け止めたらよいのでしょう。  ビル・ゲイツは、中国や日本の丸暗記中心(?)の学習からは、アメリカと競争できるような革新者がおおぜい生まれることはないという考えを、嘆かわしい間違いと言っています。

掛け算ができなくてソフトウェアが作れるなどという人間に会ったことはない・・・・世界一創造的なテレビゲームはどこのものか?日本だ!丸暗記人間なんてどこにいるのかね・・・わが社の優秀なソフトウェア制作者の何人かは日本人だ。秩序立てて物事を理解していないと、それより進んだ物事を作ることはできない。

 では、詰め込み教育がやっぱり必要なのか?
 トーマス・フリードマンは、「理想の才能を求めて」の章で、最も重要なのは「学ぶ方法を学ぶ」能力だと言っています。日本の文科省用語では「生きる力」です。
 「それはどう学べばいいのか」という問いに対しては、好きな先生、理想的な先生から学ぶことだと答えています。
 変化が激しく、常にデジタル化オートメーション化アウトソージングされる可能性がある時代では、古い物事をやる新しい方法や、新しい物事をやる新しい方法をたえず吸収し、独習する必要がある。いっぱい勉強するためには、独学するためのやる気が欠かせない。学ぶことが好きにならなければならない。
 教師の最大の仕事は、自分が教える教科の学習を好きにさせることだと言えます。

教育キーワード 「つなぐ」

 教育では、「つなぐ」「つなげる」ことが教師にとって重要な役割と言えます。
 
 何と何を「つなぐ」のか。
 何から何へと「つなげる」のか。

 小中高一貫教育・連携教育
 担任から担任へ
 総合的な学習の時間
 知識・技能と思考・表現
 心と心
 親と子

 その「つながり」が緊密で堅固なものになると、「」になります。

 そうして初めて、教師の子どもの「」が生まれるのだと思います。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

ふり返り366日【08/1/29】 教員の評価

 子どもによる教師の「査定」は厳しいものがあります。
 (元)教え子からすぐれた教師を選んでもらい、その教師を調査して「すぐれた教師」の共通点を探ったものが、校倉書房「歴史評論」2月号に掲載されています(小田中直樹「歴史教育はコミュニケーションである」)。
 結局、当たり前の結果がわかったようですが、きっと、「すぐれているとは思えない教師」の調査をしても、同じように予想通りの結果になったかもしれません。
 ただ、そういう教師に直接インタビューしにくいことが、結局は、教師が育つことができない要因にもつながっています。

2008/01/29 見るべきものはいつ見えるか  王選手は現役の頃、インタビューで、「ホームランは打とうとして打てるのか、それとも自然に打てるのか」と聞かれて、「打とうと思うと、ボールが見えなくなる」と答えたそうです。  教師が子どもをわかろうとするときも、理解しようとすればするほど、見えなくなることが多いものです。  見たくないと思える姿の中に、本当は見るべきものが多い。  夜スペで学習する子どもの顔を教師たちは見てみたらいかがでしょうか。  その表情から、何かを学ぶことができるかもしれません。  中学校では、他教科の授業を参観する機会はめったにないですが、担任なら、ときどき参観をお願いすることをお薦めします。自分の教科では出会うことがない子どもの姿に出くわすことが多いと思います。また、教師の授業力について考えさせられる材料に出会うかもしれません。

「責任」が問われる人・問われない人

[教師] ブログ村キーワード

 「責任」は難しいもので、どの人にも同じようにかかってくるものとは限りません。
 
 4番バッターや、打率4割の選手が凡打に終わると、その選手は「責任」を重く受けとめることになるでしょう。

 ところが、1点差で負けている試合の9回裏ツーアウト満塁で、打率1割に満たない選手が凡退しても、その選手への「責任」ではなく、選手交代をしなかった監督の「責任」が問われます。

 学校の教師が果たすべき「責任」とは何でしょうか。

 学校の管理職が果たすべき「責任」とは何でしょうか。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

充足と欠乏のメリデメ

 教師は知らず知らずのうちに、「教えてやっている」「世話してあげている」「こんなきつい仕事を引きうけてやってあげている」と主張したいように思われてしまうような言動をとってしまいがちです。

 普段、ほとんど人から褒められるわけでもなく、問題行動の対処に追われ、(よい授業や指導ができないために)子どもから感謝されているという実感をもつことが少ない(私を含めて)教師たちにとっては、ちょっとした教師批判に対して敏感になってしまうのです。

 「子どもからいつも新しいことを学ばせてもらっている」などという達観をすることは難しいのですが、教師の側が「学ぶ姿勢」を失ったら、きっと「自ら学ぶ」子どもは育てられないでしょう。

 子どもというのは、大人が手を抜いていることは自分たちも同じように真似をしますし、大人がおもしろそうだと考えていることには少なくとも最初は興味を示そうとします。

 子どもの大人も、強い刺激によって興味や関心をひきつけられるのに慣れてしまっているため、昔と比べると「満足度」の感度レベルが低下してしまっています。
 かなりの水準までいかないと、「満足」できなくなってしまっている。

 昔の人が詠んだ詩や短歌は、当時の人には、今より遙かに味わい深く、鑑賞できたのではないかと思えてしまいます。(もちろん、現在でもそのすばらしさを堪能できる方もいらっしゃるでしょうが)

 一度、感度をぐっとあげてみて、少しの反応でも「小さな満足」がたくさん得られるような環境をつくりだすと、世界はがらっと変わって見えるかもしれません。

 真っ暗な道をずっと進んで歩いた後、わずかな光を見るだけでも「ありがたい!」と喜べるように。

 今そこに、子どもがいるというだけでも「ありがたい」と思えるレベルから出発することは不可能でしょうか。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

ふり返り366日【08/1/28】 教職の魅力

 あなたにとって、教職の魅力とは何ですか?

 採用試験の面接で使える質問の一つです。

 この問いへの答えは、教職歴3年、5年、10年、20年・・・と多くなるにつれ、どのように変容していくのでしょうか。
 
 もし教師が、教職への魅力を感じなくなり、ただ「生活のため」だけに仕事を続けているとしたら、どうでしょうか。

 それでも、子どもに「力をつけさせる」ことはできるかもしれません。

 しかし、「生きがい」「仕事のやりがい」を感じていない人といる時間が長い子どもたちというのは、どのように育ってしまうのでしょう。

 それでも子どもは子どもなりに育つといいきれるのでしょうか。

2008/01/28 自分の子どもを教師として働かせたいか?  武田晴人著「仕事と日本人」(ちくま新書)に、自動車総連が行ったアンケート調査の結果が紹介されています。  自動車産業についている人々の多くが「働きがいのある職場だ」と答えているにもかかわらず、「自分の子どもを自動車産業に働かせることについて」は、「働かせたい」が3.7%、「どちらともいえない」が51.3%、「働かせたいと思わない」が43.3%という結果でした。  働かせたくない理由(複数回答)として、回答者の3分の1以上が選んだものは、「仕事の割に収入が低い」「休日出勤・残業が多い」「作業量、密度、ノルマの面がきつい」「人の扱い方に温かさが感じられない」の4つでした。  もし教員がこのようなアンケートに回答していたら、どのような結果になったでしょう。  斜に構えてみれば、「若い頃は、仕事の割に収入が低いが、公務員の強みはある。年をとって、手抜きをしても給料は自動的に上がっていく」「熱心な人は休日出勤・サービス残業が多いが、意志が強ければ断固として拒否できる」「何%以上の生徒の成績を何以上にするなどというノルマはない」「空き時間がやたらと多い教科がある」「用がなければ管理職と会話しなくても日常の業務はできる」など、自動車産業にあるデメリットはほとんど相殺できそうですが・・・。  若い教師たちには、基本的に、1校目は生活指導が行き届き、部活動がさかんな学校に赴任し、2校目は生活指導困難校に赴任して立て直しに貢献し、3校目で研究がさかんな学校にいって、興味があれば管理職試験を受ける。そんなサイクルがお薦めかなと思います。  校種の中でも特に中学校は、悲惨な目を見ることもあるし、とてつもない感動を味わえることもある本音と本能でぶつかってくる人間に出会える。生活指導困難校で味わう「悲惨な経験」を教育の原点とか財産とか言える人間に「自分の子どももなってほしい」と言えるかどうか・・・。  教育に「働きがい」をもっている教師かどうかを子どもは瞬時に見破ります。少なくとも、自分の子どもにはそう思ってもらえるように努力して、それがきっかけで教師を志望してくれたら・・・うれしいかもしれませんが・・・。

ふり返り366日【08/1/27】 脳で脳を理解できるか?

 行政で仕事をしていると、いつしか「脳の一部しか使わないで仕事をしているな」「脳のある箇所は全く活動をしていないな」と実感するようになっていきました。
 
 「脳トレ」がブームになったのはそれより後の話ですが、当時、そういうソフトがあったらすぐに手にしたかもしれません。

 ただ、大脳生理学などで、「脳」についてかなりのことがわかってきているとはいっても、「脳」はその本当の秘密がばれないように「隠す」機能ももっているのではないかと思うことがあります。

 いろんなことを「わかりたい」と思うのは、人間の基本的な欲求として「わかり」ますが、「わかったつもりになる」ことが実は最も恐ろしいことで、特に文章だけを読んで書き手のことを「わかろう」とする行為は、危険なことだと思います。

 そんなことを考えると、「国語」の入試問題や授業のスタイルには、果たしてこれだけでよいのだろうか、という疑問が浮かばざるを得ません。
 国語の問題を解くときは、「自分の考え」や「雑念」を捨てて、ひたすら文章から読み取れることだけで反応していかなければなりませんが、「こんな考えは妥当なのか?」とか、「書かれていないがこんな考え方もできるのではないか?」ということを想起できる力を育む方がためになりそうな気がします。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

2008/01/27 脳の不活性領域  新しい製品のデザインを、専門家に考えてもらった場合と、そのような経験のない人に考えてもらった場合について、それぞれの脳の活動を比較すると、専門家は脳の一部しか使われていないのに対し、デザインづくりが新しい体験になる人は脳全体が活動していることがわかっているそうです。  このことは、脳全体を活性化するには「新しいことへのチャレンジ」が最適であることがわかります。  脳の一部しか使わないのであれば、効率的なのかもしれませんが、その人の才能が全部生かされているとは限らない。  「発想法」の工夫などにはこのような科学的な裏付けがあるのですね。  さて、「楽しい」学習をどのように展開してあげられるか。  学校と塾と、どちらの方が勉強が楽しいか。  「楽しさ」の意味は、「できるようになる」「笑えておもしろい」「緊張しないですむ」「知的な興味が高まる」など、さまざまあります。  学校は「知的な興味を高める」点では塾よりめぐまれた環境にあるはずで、そのメリットを生かす必要があります。学校は塾と異なり、多くの「ムダ」ができる。時間と手間をかけて、みんなで何かをつくっていくという、非常に効率は悪いけれど、大事なことに気付く体験をさせてあげることができる。  そのアイデアづくりが大切です。塾の教師のように、入試問題にあるパターンの問題を大量に練習させ、予想があたったどうしたと気にする必要がない。では、どんな「ムダ」をさせてあげられるか。  脳を活性化し新しい発想を促すため、公立学校の教員も、新しい経験(たとえば他の学校に行って出前授業をしてみる。企業研修で生徒の興味の傾向を話してみる。行政で保護者や教師の苦情の対応をしてみる。・・・)ができる機会がもっとあっていいかもしれませんね。  教師の脳の不活性領域には、何が眠っているのでしょうか

ふり返り366日【08/1/26】 総合的な学習の時間の展望

 総合的な学習の時間が創設され、研究校などの実践が多く紹介されましたが、「これがどの学校でも最も効果的」と言えるようなものはなかなかありませんでした。

 この時間は、子どもの「生きる力」の育成というねらい以上に、教師集団の協同的な教材開発・チームでの指導体制地域との交流や関係強化等の「付随的な効果」あるいは「よりよい学校としての条件づくり」に適した環境をつくりだしました。

 ただ、結果としては、熱心な学校ほど、「多忙感に拍車がかかる」とか、「教師による力量の差が出すぎる」という問題点の方が注目されるようになってしまいました。

 道徳や特別活動は担任が指導の中心になるとして、中学校の場合、本来、「総合的な学習の時間」はやや時間にゆとりのある教師が中心的な役割を果たせれば、「仕事の偏り」が是正されてよかったはずなのですが、総合を学校全体ではなく学年ごとの動きにしてしまったりすると、結局、担任がますます忙しくなるだけ、という結果になってしまいます。

 将来的には、「総合的な学習の時間」ではなく、「伝統・文化」や私が整理している「リスクマネジメント」等のテーマ性のはっきりした「準教科」的な時間に移行する可能性も否定できません。
 
 総合の理念が教科等でどのくらい実現できていくかも今後の課題でしょう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

2008/01/26 総合的な学習の時間の将来展望  東京都教育庁のまとめによる平成19年度の教育課程の編成・実施状況の調査結果によると、中学校の総合的な学習の時間の内容は、1位・職場体験(92.9%)、2位・歴史・文化・伝統(71.8%)、3位・福祉・ボランティア(71.1%)、4位・情報(64.5%)、5位・環境(63.9%)、6位・国際理解(59.5%)、7位・健康(48.7%)、8位・心の教育(44.5%)、9位・生命(42.7%)、10位・自然(37.7%)、11位・安全・治安・防災(36.8%)、12位・人権(35.2%)、13位・食文化(27.4%)などとなっています。  各学校の創意工夫によって「特色ある教育活動」の一環として指導しやすい総合の時間ですが、内容としては結局、例示された内容に偏っていることがわかります。  喜んでいる教師が多いかもしれない、次の学習指導要領での総合の削減。  スリム化したときに、内容や活動が「ダイジェスト化」されるのか、選択され限定されるのか。  私の構想は、これらすべてに共通するテーマを包括する新しい教科づくりです。  「総合的な学習の時間」は、学校外の活動とし、「総合的な学習」を学校別(自治体別)に創設する教科化し、目標を具体化する。  広範な意味を持ちすぎている文部科学省用語の「生きる力」を、「●●に生きる力」と明確化する。  次世代を生きる子どもたちにも大切だし、一緒に学ぶ教師にとっても大切な学習。  キーワードは、「リスクコントロール」「リスクマネジメント」です。

「あいうえお」発想法

 iTopics Blog ~デキるビジネスマンの『1日3分ですぐに使える仕事術』~の2月4日の記事に、新人育成の『さ、し、す、せ、そ』という内容が紹介されていました。

「さ」:細部にわたる説明。
「し」:締め切りをきちんと守らせる。
「す」:スキルアップをさせる。
「せ」:精神的なケア。
「そ」:相談できる人間関係づくり。

 このような「あいうえお」発想法は、語彙活用のトレーニングにもなりますし、研修で使えば個々の価値観を引き出すこともできそうですね。
 私は教育現場の人間ですが、たとえば初任者に対しては・・・
 「日々の仕事術」として、

」・・・最低基準を設定する。(今日は何人に声をかける、ここまで仕事を進める、ここまでは全員に理解させる、など)

」・・・仕事の報酬は「実力アップ」であると認識する。(進んで仕事を探す、引きうける、チャレンジする、など)

」・・・「すみません」という謙虚な態度で人から学ぶ。(わからないことはすぐに聞く、わかったふりをしない、感謝の気持ちを忘れない、など)

」・・・生徒以上に成長する気概をもつ。(自分は「教育」者である以上に、「学習」者であることを自覚する、など)

」・・・外からの目を忘れない。(自分を「他人」の目で見るくせをつけて、独善的になることを防ぐ、など)

・・・と、思いつきですが、どの「行」でも作れそうな気がします。

ふり返り366日【08/1/25】 小規模校のデメリット

 学校規模の縮小は、たとえば中学校で考えた場合、ある教科の教師が一人とか二人になってしまう状況が考えられます。

 そうすると、その学校における教科指導の質、指導の専門性等は、一人か二人の教師が担うことになります。

 同じ学校内に教科の内容について研究し合ったり、指導法について議論したり、試験問題の内容を批評し合ったりできる人がいないということは、私のように最初に大規模校でスタートした教師の目から見ると、非常に気の毒のように思えます。

 もちろん、個々の研修や自治体で行われる研修への参加、指導主事等の講師・助言者を招いての研究授業の実施など、様々な方策は考えられますが、やはり日常的に相談したりできる教師がいないのはデメリットです。

 教科指導の専門性を高めるためにも、一定の学校規模を維持する必要があると私は考えています。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

2008/01/25 東京都教育ビジョン(第2次)の中間まとめ  東京都教育委員会HPに、東京都教育ビジョン(第2次)の中間まとめが公表されています。  教員の資質・能力の向上については、3つの重点施策として、「教員養成段階における実践的な指導力の育成」、「現職教員の指導力向上」、「職責・能力・業績を重視した新たな人事・給与制度の構築」があげられています。  今後10年間の最大の課題は、「新人教員」の質の確保にあります。さらにその後は管理職不足が待っています。  今後10年間に、都内の公立学校の教員全体の3分の1に当たる約2万人が退職します。  現在の、50代から40代後半までは多いのですが、40代前半から30代後半までにかけてが非常に少なく、とんでもないアンバランスな年齢構成になっています。  校長・副校長・主幹は、40代後半以降は4人に1人の割合を占めていますが、15年後に同じ人数を確保しようとすると、2人に1人の割合になります。  狭き門をくぐって教員になった世代とはいえ、2人に1人の主幹と管理職を確保できるか。  そして、新人教員は「ゆとり教育」世代となりますが、広き門に今後大量に流れ込んでくる人材をどう育成していくか。  今はベテラン主体の組織が、そっくり若手主体の組織になっていきます。  部活動の活性化など、明るい展望も見えてくるかもしれません。「指導力不足」が常態化するというマイナスの予想がはずれることを祈りたいですが、行政が打てる手がほかにないか、現場でできることは何か、考えてみたいと思います。

ふり返り366日【08/1/24-2】 教育復古の一テーマ

 学力低下大合唱の成果はさまざまあるでしょうが、その反面、陽が当たらなくなってしまったのが、「個性の伸長」というテーマです。
 
 「個別の要求には応じきれない」という事情は当然あります。
 ただ、能力や関心、適性の差を全く無視して、みんな一律にテストの点だけ上がればよい、というわけにはいきません。
  
 これまでも公立学校では、特別活動や部活動などを通して、「その生徒なりの活躍の場」を設けることで、「個性を育む」という要請に応えてきましたし、その配慮のおかげで「学校に行くのが楽しい」と思えている子どもも多いはずです。

 ところが、学校規模の縮小や教師の高齢化、授業時数増のための行事等の精選(削減)とそれに伴う準備等の活動時間の絶対量の減少が、「学校に行くのが楽しい」と思える子どもを少なくしているのではないか、という危惧が生まれています。

 ある自治体で、学校規模の異なる小学校が二つあり、一方は極端に児童数が少なく、実質個別指導のような授業が行われてきましたが、保護者はやはり学力の伸長も大事だが、社会性を育むためにも、たくさんの友達の個性にふれる機会を増やすのが子どものためだと思って、やや遠いですが規模の大きな学校に通わせる、という判断をする方が増えてきていました。

 多様な個性にふれ合い、自分のやりがいを見つけ、自己効力感をもてることができるのは、公立学校の最大のメリットであり、おそらく日本の社会の基本的な安定をもたらしている強力な要因になっていると思われます。

 シティズンシップ教育や法教育のようなタイプの「新しい教育」は、特別活動にその活動・指導領域を広げることになると思いますので、結論として、以前にも述べたように「土曜授業の復活」が次の大きな「教育改革」(「教育復古」)のテーマにすべきと考えています。
 そのために必要なのは、学校の統廃合を加速して1校当たりの教員数を増やし、平日の代休が取れるようにすることです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

2008/01/24 うちの学校では「夜スペ」はできないんですか?  和田中「夜スペ」について、ブログ等では、マスコミの報道に対する批判も発表されているようです。  進学塾との提携による夜スペは、「学校が」行うものではなく、「学校で」行われるもの。  「が」と「で」は大きな違いであり、実施主体に注目した報道をしていない。  あまりにも多くの課題を抱えている公立学校は、本来の教育の成果を出すために、さまざまな機能を外部に委託する必要があることは明白なことです。  これを「人員が足りないからだ」とか、「教育委員会の管理が厳しいからだ」とか、「家庭の教育力が低下しているからだ」など、「できない理由」を並べ立てているだけで、自分たちが子どものために今すぐ何ができるかを一切語れない愚痴専門業者がいます。  教員の人材育成や能力開発で解決できる課題ももちろん多いとは思いますが、教員がすべてを抱えると、教員はもちろん、最大の犠牲者は子どもたちになります。保護者に負担を強いている学校も出始めていますが、これもきつい。  公立だから「みんな同じように沈んでいい」という論理は教員だからできることで、子どもや保護者は納得できるはずがありません。   お金、人、場所などが許されれば、不登校が増えれば臨床心理士をスクールカウンセラーに、犯罪が増えれば警察との連携を、というように、安易な導入はもちろんいけませんが、必要なところに必要な手だてをする。  「格差はいけない」などといって、必要もないところに同じように資源を配分するという発想を捨てなければ、財政赤字はいつまでたっても解消しません。  いずれにせよ、「夜スペ」をつぶそうとする論理もわからないではありません。  「なぜうちの学校ではできないんですか?」という質問に、管理職は答えられない。まさか、「教員が反対するから」とは言えない。  こういうとき、「すでに選択教科などでこのような教育はカリキュラムのもとで実現しております」と胸を張っていえるのが、本来の姿かもしれませんが。

ふり返り366日【08/1/24-1】 宿題漬けの「ゆとり」の学校?

 学校が単純なテストで測れるタイプの力を向上させようとしたら、宿題を山のように出すのが最適です。
 一部の私立や最近できた公立の中高一貫校の中には、こういうところがあるようですね。
 「高校受験がない」のがメリットと言いながら、宿題漬けにさせて大学進学実績を出そうとするあたりは、設立の本来の趣旨がわかっている人から見れば、批判されて当然のことでしょう。

 宿題は、ある一定の水準の学力と、「宿題抵抗感度」の低さがあれば、試験学力の向上には効果があることは確かです。
 
 「塾に通う余裕がある」程度の宿題量ならば、それほど問題ではないかもしれません。

 しかし、「学ぶ喜び」を感じる宿題、上級学校に進学した後も学び続けようとする意欲を高める課題というのは、そうあるものではありません。
 それは、「自分が見つける」ものだからです。

 ただ、このような趣旨の現行学習指導要領による教育は間もなく「過去」のものになろうとしています。

 実質的に、移行も目前ですし、新学習指導要領が出されてしまうと、教科書は変わっていませんが教育はすでに「過去」のものになっているかもしれません。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

08/1/24 和田中「夜スペ」2日後スタート  26日の土曜日から始まることになった杉並区立和田中の「夜スペ」。  賛否両論があり、教育関係では特筆すべき報道ネタですね。  テレビカメラも入るのでしょうか。  多くの方が進学塾SAPIXのねらいとしての宣伝効果を批判されていますが、私としてはこの塾の運営主体である地域の組織、夜スペ実行委員会の存在をぜひとも取り上げてほしいと思います。  保護者や地域の方々が教育への参画を図ろうとするとき、やはり活動の場としては学校を使うことになりますが、人材として「勤務時間外」の教師を使うことが困難なため、ボランティアの保護者自身とか、塾講師という学習指導の専門家を配置することになる。「保護者や地域の願い」が反映される学校づくりのモデルとして扱ってほしいと思います。提案者が進学塾だろうと、その情報を入手した校長だろうと、関係はありません。実施者を紹介してほしい。  映像的には、塾講師だけでなくボランティア?の学校の教員が授業の中で「先生らしさ」を演じることができれば、「公教育の破壊」などという批判はクリアできるでしょう。  「公教育の格差の拡大」を問題にしている人がいますが、カリキュラム外のことで、かつ、別に下位の生徒をよりできなくさせるわけではなく、上位の生徒をより高いレベルに上げるのを悪とするなら、それこそ「公教育の信頼崩壊」につながります。格差を生まないことが公教育の最大の使命なら、勉強が苦手な子どもを無理矢理机に向かわせる必要と、上位の生徒になるべく勉強をわからなくさせないように努力する必要があります。  教育関係者として私が最も高い関心を持っている対象は、「教材」です。  藤原校長や教員も教材作成にかかわっているということは、塾で使用している通常のテキストとは異なるものなのでしょう。  多くの進学塾でやっているような、いわゆる「先取り」型のカリキュラムではなくて、授業の進度に合わせた発展的学習ができる教材なのでしょうか。  公教育に私企業の参入は気にくわない!といっている教師がいますが、その先生の学校では教材会社がつくっている「副教材」をいっさい生徒に買わせていないのでしょうか?  そういう教材の費用を家庭に負担させて、子どもには宿題で「家でここまでやっとけ」という負担を課したりしてないでしょうか?  そういう教材に、教師や子どもは満足しているでしょうか。  家庭学習用の教材を教材会社から買うのと、塾と連携して学校や生徒のレベルに合ったものをつくって買わせるのとでは、何が違うのでしょうか。  土曜日以降の報道を楽しみにしています。

教師は親の代わりをどこまですべきか?

[教育現場] ブログ村キーワード

 久々にすずめ先生のブログに多くのコメントが寄せられる記事が掲載されました。
 公立学校の教師の大変さは、近所でも耳にされることができるかもしれません。

 そういう現状に対して教師の生の声というのはなかなか聞こえてきません(教育をテーマにした討論番組に出演する教師もいますが、非常に頼りなく見えてしまい、逆効果になっています)から、特に今、学校に直接関わりのない方々には、「学力格差」とか、一部の教育社会学者が唱えているような「親の学歴や経済力をもとにした家庭の教育力格差」、教師の指導力不足などについて、あまり確かな実感をお持ちできないのではないかと思われます。
 マスコミ報道から、どのくらい引き算して考えるべきかは、実際に小中学生の子どもをお持ちの方に聞いても、その捉え方は千差万別でしょう。

 私は一貫して、教師の側が寝言や泣き言を言わず、伝えるべきことはきちんとした形で情報発信していくべきであることを主張しています。

 ですから「親の代わりを教師はどこまでしなければならないのか」に関したすずめ先生の記事に対しては、以下のようなコメントをつけることになりました。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 「教育の現場」という観点から一度はなれて、「学習の現場」「学ぶ現場」という観点で教師も生活をしてみると、私の体験や実感からしても得ることが多いように思います。  「私の子どもならこんな思いをさせないのに」と思っている教師が実の子に「そんな思い」をさせていることも気付くし、教師がいかに「教える側の立場」に立ちすぎているかということもわかります。  「教師と家庭の連携」には限界があります。  ですから指導要領等にも「学校と家庭の連携」と書かれているわけで、家庭の問題に起因する諸課題は、担任などの特定の教師がその解決や対処を背負うのではなく、「学校の組織的対応力・解決力」で臨んでいかなければなりません。  そういう意味でも、この時期すでにまとめの段階に入っていると思いますが「学校評価」がどれだけ充実できるか、どれくらい「次年度の課題」として教師集団が共通の課題意識を高められるかが勝負どころです。
 同僚性が大切と主張されながら、学校という組織でどのように問題に対処しようとしているのかが、すずめ先生の記事からは読み取りにくいことから、上記のようなコメントになった次第です。

ふり返り366日【08/1/23-2】 動物の芸と受験生

 今朝の通勤電車の中では、中学受験に向かっていると思われる母子が、大きな声で直前の勉強に熱中していました。
 車内では迷惑なことですが、これもこの時期、一つの風物詩になっていくのでしょうか。
 気になるのは、母親が機関銃のように問題を投げかけ、ほとんど一問一答形式で、それに対して子どもが答えていくというその光景が、何だか「動物の芸」に見えてしまったことです・・・。
 このように毎日「仕込まれていた」のかと思うと・・・。

 大手の進学塾が応援メッセージを駅などの広告で出す一方、近所のスーパーではセンター試験の時期から「受験に勝つ」ことをテーマにしたお菓子やレトルト食品をシマをつくって売っている光景がありました。
 韓国ほどではないにしろ、「お受験」熱はさかんです。
 中学受験の中心は「私立」ですから、当然、そのときそのときの景気の影響を強く受けます。
 昨年はそれほど暗くなかったので、受験者は多かったのですが、今年はどうなるでしょうか。 

 親や塾の教師に「仕込まれる」ような形であれ何であれ、合格後も、合格前の熱心さで勉強をしてくれれば・・・と思っている教師は少なくないでしょうね・・・・。

2008/01/23 赤ん坊=itのヨーロッパ  ときどき、ペットや子どものしつけに悩んでいる家族のところに専門家が訪問して矯正する海外の番組が紹介されています。ペットの矯正はわかりますが、日本には子どものしつけの専門家というのはいるのでしょうか。  子どもはペットと同じという発想はあまりしたくないのですが、自分が群れの主人にならざるを得ずに威張っている犬が、しつけでようやくペットらしくなるのを見ると、わがまま放題の小学生中学生にもこうならなくて済んだ機会があったはずなのに・・・と思ってしまいます。  デュラン・れい子著「一度も植民地になったことがない日本」(講談社+α新書)では、「日本人は子どものしつけを知らない」という話題が紹介されていました。ヨーロッパでのペットのしつけの厳しい話やその背景は読んだことがありますが、子どもが「動物なみに」しつけられているという話、英語で赤ん坊のことはshe、heではなくitと呼ばれることは知りませんでした。子どもが犬猫、ものと同類とは・・・。  日本では、大人たちは子どものことをit扱いすることはなくても、子ども同士ではあり得るのでしょうか。  いじめとit。援助交際とit。自称行為とit。

学校における非正規雇用に関する問題

 いちろうさんから、

友人で臨時教員をしているのがいるが、
手取の月額は20万円までいかないと言っていた。
他の先生と同じ仕事をしているのに…。

というお話を紹介していただきました。
 以前に私も書いたことがありますが、講師の先生の中には、正規の教員よりも指導が上手な人(たとえば保健体育の実技などを考えればすぐわかるでしょう)がいますし、生徒に信頼されたり、部活動の指導まで積極的に行っている人が大勢います。
 「らしい」仕事をしない正規の教員たちを目にして、不公平感理不尽な印象をもちながら働いている講師の先生たちも多いことでしょう。

 民間企業では、学校でいえば講師の先生のような非正規雇用者の割合がどんどん増えています。
 これは企業の価値経営者の責任をはかる尺度の問題があることはよく知られていますが、より多くの人に就労の機会が与えられているという点では、マイナス面だけとは限りません。

 ここで、考え方は二通りあると考えます。

 子どもが減り、税収も減ってきている状況で、正規雇用の教員を増やすことができないとしたら、どうすればよいか。

 一つの方法は、正規雇用の教員の給与を減らし、非正規雇用の講師の給与を上げるという方法。あるいは、非正規雇用の講師を増やすという方法。
 講師で働く学校が見つかれば、その仕事だけで20万くらい稼ぐことが可能でしょうが、雇ってくれるところがない人は、収入がゼロなのです。

 もう一つの方法は、正規雇用の教員の数を減らし、非正規雇用の人を増やすという方法。これは、授業を担当する講師だけでなく、給食指導や放課後の生活指導、部活動などを担当する関係者を含みます。

 中学校・高等学校では、担任をもたない正規の教員がいますから、数を減らすことは可能なのです。

 問題は、講師として雇用する人の指導の専門性など、資質・能力にかかわることです。

 以上のことを政策として実施する責任は、現場の教師にはありません。能力も権限もないからです。

 現場の組合も、企業の労働組合と全く同じで、自分たちの損になるそんなことを要求することはないでしょう。

教師による「教育の仕事への不満」

 職業的な倫理や資質・能力に疑念が向けられ、信用や信頼を失いつつある教師にとっての最後の砦は、「人間としての価値観」です。

 「職業人としての在り方」を問うてしまうとますます墓穴を掘ることになります。
 
 教師を採用・雇用している側や社会全体からの要請を常に想定してそこへの不満を教師が書き連ねても、教師からの同情や共感は得られても、逆に失うものが多くなります。
 教師たちによる仲間内の愚痴の言い合いが続いているうちは、学校は変わらないし、学校を支える社会も変わっていかないでしょう。

 自ら救われようのない窮地に身を向けていくのではなく、自らの「責任」を問い、その姿勢をもとに他者にも他者自身に問わせていく、そういう「個の確立」を目指して仕事をするのが教師という存在だと考えています。

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より