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自動車免許と教員免許 ふり返り366日【08/2/8-1】

[教師] ブログ村キーワード

 授業を車の運転にたとえるのは難しいのですが、何となく伝わる感じもするので記事にしようと思います。

1 歩行者優先の原則
 
 授業で優先されるのは、運転手=教師の都合でしょうか、歩行者=生徒の立場でしょうか。
 歩行者優先の道でも、自分勝手な運転をしている教師が気になります。

2 スピード違反・脇見運転

 自分勝手な運転のうち、最も気がかりなのはスピード違反と脇見運転です。
 大事なのは生徒を置いてけぼりにしないことと、生徒をよく見ることです。

3 無免許運転

 財政状況のよくないところでは当たり前に行われているようです。

4 勘による運転

 土地勘がしってかりしていればよいのですが、よくわからない道を、何のねらいもなく、あっちいったりこっちいったりして迷子になっているような運転が授業で見られることがあります。
 ナビに頼りっぱなしというのも何ですが、しっかり計画を立てて(ルートを頭に描いて)運転はすべきでしょう。

 その他、頻繁な車線変更・強引な割り込み一時停止違反違法駐車対人・対物の事故・・・

 教職につく前にさかのぼって、運転免許を取得するときのように、しっかりと知識・技能を習得して、教員免許がとれる仕組みになっているでしょうか。

 教師の「仮免許」は、「条件付き採用」の初任者としての1年間です。この1年間で、十分でしょうか。

 免許の更新・・・やっと教員免許も更新が必要になりました。

2008/02/08 指導力格差に目を向けようとしない教師たち  この話は、夜スペの和田中の先生に関して述べるものではないことを最初におことわりしておきます。  子どもたちにとって、教師の指導力不足指導力格差指導意欲格差によってもたらされる損失は、一生ものになる可能性もあるだけに重要な問題です。  大学を卒業し、免許をもち、経験を重ね、日々実践に取り組んでいるのに、学力向上は宿題だのみ、家庭や塾への学習のおしつけで、あげくの果てには「本人の努力」の不足にせいにする教師がいる。  ここに、「学校は学力を伸ばす場所ではない」と公言して教育をしている学校があったとします。  教師たちは、「成績が1でも5でも、進級して卒業するんだから同じことだ」「成績が向上しなかったことに対して教師には何の責任もない」と言っている。  一方で、「学校は、学力を伸ばすため、こんな工夫をしています。こんなことを選択できます。こんな機会も提供します。こんな協力や応援を求めています。卒業生は、こんな声を残して卒業しています。1年次と2年次の学力調査の比較で、これだけ考える力がついたことが証明されています。・・・」などとPRしてくれる学校があるとします。  もし学校が選択できるとしたら、自分の子どもを通わせたいのはどちらでしょう。  公立学校の場合、教師自身が、指導力不足や指導力格差、指導意欲格差というものに正対しない限り、「安かろう悪かろう」の目は変えることができません。学力調査の結果がよくなっても、「どうせインチキしたんだろう」としか思われなくなったらおしまいです。  和田中(の地域)の「成績上位者」への配慮が特に公立学校で必要な理由を、次回述べたいと思います。

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教育」カテゴリの記事

コメント

ブログにも免許は必要でしょうか?

( ^ω^)おっおっおっ

結局何の回答にもなっていないが?

あっ、ごめん。
麻生と同じだった。
きっと真面目に回答したんだろうけどね。(^_^)

先生が特殊なものだというなら、
コミュニケーションの能力て更新をきめたら?
きっと暗象は更新できずにクビになるよ。

やはり教師には公務員の資質からも、教科に関する専門性の面でも、一般の方には理解できない位置にあるようですね。
また、日本人全般に経営者的な資質というかその仕事に意味そのものを感じる人も少ないようです。

(´,_ゝ`)プッ
教育って、免許でするものなのか?
民間校長って、免許持っている中から選ぶのか?
社会人枠のようなものもあると聞くが、
免許が必須なのか?

学校がどれだけ特別なものだと思っているのかが、よくわかる記事だけど、逆説的に読むと、学校以外でいろいろな活動をしている指導者を否定しているよ。

日々崇拝している、学習塾の人たちは、免許がいるのか?

これだけの矛盾を平気で他人に押しつけられる人間も珍しいね。

そうそう、
私のコメントを分析している人や子どもたちは、
暗象のことをどう思っているんだ?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
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    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
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  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より