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教師のハングリー精神 ふり返り366日【08/2/2-2】

 1年前の記事を読んで、
 「格差拡大」を悪として、「格差縮小」のために「成長」を抑制すること
に熱心だった公立学校を批判していたのを思い出しました。

 なかなか授業が理解できない、教師の話がわからない、よい成績がとれない、・・・そういう子どもを「気の毒」に感じる人というのは、どういう人でしょうか。

 自分が教えた子どもの学力の、全国的な平均との乖離など、知りたくもない、ましてや隣のクラス、隣の学校との比較なんてとんでもない・・・と思う教師を、たとえば、「気の毒」に感じる人というのは、どういう人でしょうか。

 教育の世界のこと、公立学校の教育の課題については、教育現場の当事者である教師や子どもたちがその言及対象になっていました。やや広く見ても、知事や教育委員会程度だったでしょう。

 そのような狭い枠で教育問題を見ていられるうちは、まだ日本も「ゆとり」のど真ん中にいるような気がしています。
 大学が「学生の学力低下」で悩んでいるなどという事態は、ある意味で、日本の大学に「ゆとり」がある証拠と言えるでしょう。

 将来的に、たとえば能力がある人が、それを生かした仕事がなくなるような事態になったとしたら、・・・
 あるいは、どうしても必要な仕事がたくさんあるのに、それに取り組む能力(これは「やる気」も含めて)がある人が絶対的に足りなくなったら・・・

 教育政策について、民間企業を含めて様々な立場の人が、いろいろと「口を出す」ことに対して批判的な人がいますが、たとえば教育現場の立場からこのような批判をするときに、それが「説得的な主張」になるための条件は何でしょうか。
 テレビの教育討論番組に現場の人間が出ると、何だか「場違い」な印象が強く残るのはどうしてでしょうか。

 国の将来については、子どもも、もうすぐ多額の退職金をもらえる人にも、程度や種類の違いはあるせよ、同じような「不安」があることでしょう。
 
 もし教育に将来への「不安」を和らげるか、それを乗り越えようとするパワーを身に付けることが求められているとしたら、今、最も「教育」が求められているのはどういう人たちでしょうか。

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08/2/2 地球で最高の学校?  日本は、いいものはすべて外国からやってくるという信仰?をもっているために、なかなか自力で改革しようとしても、うまくいかない、そういう主張をしている人がいます。  ネット網が世界をおおうようになったため、入国させなくても、外国にいる外国人を雇い、仕事をさせることが可能になったアメリカの話。武器は外国人が「英語」を使えること欧米各国の植民地支配の遺産は絶大な威力をもっています。  これも「フラット化する世界(下)」に紹介された話です。  アメリカでは、ある仕事を海外に移転すると、賃金を75%節約できるだけでなく、生産性が100%向上する。  アメリカ国内では低賃金で社会的地位が低いコールセンターのオペレーターのような仕事も、インドでは高賃金で社会的地位の高い仕事になり、より安い賃金で高い意欲の労働者を雇用できる。しかも、安くて効率的なだけでなく、品質と生産性が格段に向上する、というものです。  アメリカは自国民の教育について、具体的な危機感を現実的にもっています。  では、多民族国家アメリカは他人の話かというと、読者の私立校教師からの手紙が紹介されており、保護者面談で経験したこととして、次のような内容が紹介されています。  自信のない親は、子どもが問題をおこさず、楽しそうにしていれば、万事順調だと考え、いい教育を受けていると思っている。周辺の公立・教会系・私立学校よりも本校の方が優れていると保護者が考えれば、学校の上層部もそれで満足。しかし、学校も隣や町や州とだけ競争しているわけではないと気づきました。  我々教師は、いろいろな面で自分を騙している。学問の面で言えば、ハングリー精神を失っている。・・・フラットな地球に耳を押し当ててみれば、海外から押し寄せる競争の足音が聞こえるはずです。教育者として小生は、地元や地域で最高の学校になるという目標は捨て、地球で最高の学校を目指したいと存じます。  著者の次の言葉も、印象に残りました。  「世界がフラット化しはじめる前、アメリカは本質的に島国だった・・・」  日本での教育の議論は、非常に抽象的だったり、まことに瑣末な施策の是非で賛成だ反対だと言っています。  細部にこだわることも日本の長所かもしれませんが、「地球で最高の学校」をつくる気概がある教師はどれくらいいるのでしょうか。そのためには、「求める人材」「理想の才能」は本来多様なものであって、その根底にある、学問や社会への興味・関心や学び続けるための学び方を身に付けさせること、成功願望をもたせることが重視されなければならないことは、言うまでもありません。  この成功願望をくだらない理由をつけてつぶそうとする教師たちが果たしている役割は何か。それは「格差拡大」を悪として、「格差縮小」のために「成長」を抑制することにあります。  日本の最後の砦になっているのは、アメリカと異なる条件、「日本語」です。日本が英語圏に入っているものと仮定したときの社会像を考えるとぞっとします。

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教育」カテゴリの記事

コメント

「企業が求める人材」ではなく、「社会が求める人材」を想定しておりました。

( ̄ー ̄)ニヤリ
>どうしても必要な仕事がたくさんあるのに、それに取り組む能力(これは「やる気」も含めて)がある人が絶対的に足りなくなったら・・・

暗象のこういう部分の思想に抵抗があるなぁ…。
企業が求める人材を育成するのが教育目標なのか?

そういうベースがあるから、
派遣切りで辛い生活を送っている人にも、
自己責任論で語れるんだろうなぁ…。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より