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学校のセーブ機能 ふり返り366日【08/2/2-1】

 「他の人が自分よりおいしい思いをするのはおかしい」・・・もしこのような妬みを、「平等主義の原則」という言い方で正しいことと判断して、その「平等」が実現する世の中をつくってしまうと、「みんながおいしいと思えるもの」には絶対にならずに、「だれにとってもおいしくないもの」になってしまいます。

 学校選択自由化が「意味のないもの」になる典型的なパターンです。
 
 市場経済の原理でない公的機関の仕組み、たとえば、勤務年数だけで自動的に上がる教員の給料体系。
 「同じ仕事をしている(あるいは仕事の量が少ない)のに、勤務年数が多いだけで給料が高いのはおかしい」ことが「平等主義」の考えによって認められてしまうと、結局仕事の「質」にかかわる面は何の考慮もされないことになってしまう。

 努力をして、実力をつけ、成果を出す人が、正当な評価を受けられる社会

 もし努力ができる条件に恵まれないため、実力がつかず、成果を出せない人を救うという目的のためにこのような社会を否定すると、後の望みは、評価はいっさい気にもとめずに、努力をして、実力をつけ、成果を出そうとする人に社会の活力を委ねなければならないことになります。

 しかし、学校の教育現場とは、このような職場であるといえます。

 今、社会では、このような環境を見直すことで、学校がどのように変わるのかを試そうとしているわけです。

 「あなたの組だけ一生懸命授業をされると、私が批判されるからほどほどにしてよね」というプレッシャーは、小学校のような職場環境ではまだまだ消え去っていないことでしょう。

 1組の先生は、夜遅くまで教材研究に励んでいるが、2組の先生は、放課後すぐに保育園に子どもを迎えに行き、家族の食事を用意しなければならない。
 このような関係で、「自分の使える時間のすべてを教育に注ぎ込む」ような情熱を、1組の先生が維持できるかどうか。2組の先生が、何も言わないか、「自分のやりたいだけ、思う存分やりなさい」と励ますような人でも・・・。(そういう意味で、「担任」の役割は重要ですが、それが学習指導・生活指導・進路指導全般を引き受けるべき立場かというと、小学校でも見直しが必要でしょう)

 他より「よいこと」が突出しないようにするセーブ機能に、子どもたちが長い間、不満を抱いて生活してきたのが、日本の公立学校という場の特徴ではないか、と考えることもできそうです。

 「あそこではあんな工夫がなされているのに、ここでできないのはおかしい」・・・「なぜここに○○部がないのですか」・・・「なぜ理科の実験の回数が少ないのですか」・・・「なぜパソコン教室の利用が少ないのですか」・・・

 学校ごとの比較ができるようになると、次々に生まれる「不公平感」に対処するための最大の武器が「セーブ機能」であるわけですが。

 学校には今まで、「最大多数の最大幸福」という目標の実現を達成させようとする「」がはたらいてきませんでした。

 学校選択自由化の失敗は、「セーブ機能解除に失敗し、「違いが生まれないこと」でした。

 「どこも同じように魅力がない」ではなく、「いろんな魅力がある中から選べる」公立学校は、やはり行政主導でないと無理なのかもしれません。

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2008/02/02 教育省を新設すると・・・

 公立学校にかかわりが深いアメリカの下院議員の話。 

教育は場所ではない、プロセスだ。・・・教育はいつでもどこでもできるし、できなければならない・・・学校、職場、家庭、オンライン、教室、iPod・・・そこには教師もいれば、独習の手順もあり、オンライン・ゲームもある。なんでも役に立つ。手をゆるめてはならない。手をゆるめない競争相手がどこかにいるのだから・・・

 和田中の「夜スペ」の教師バージョンだってあっていいわけです。大学院の出張授業。「勉強時間」は、教師より子どもの方が圧倒的に多いわけですが、教師にも勉強する機会が与えられていてもおかしくない。
 また、部活動の試合で子どもが行き来しているように、和田中の子だけでなく、近隣の他校生も受講できるようなしくみもあっておかしくないのでは。広域学校評議員会のようなものが、時間外学習コアスクールをつくったり、スポーツ・文化活動クラブを運営し、民間の力を活用する。
 公立学校という場が、税金で生活している一部の人間たちのものではなく、市場主義の中で実績と成果で生きている人たちにとっても活躍・活動の場になり、子どもがあらゆる機会を通じて教育を受けられるようにすること
 その場は、いまのところありあまるほどあるわけです。空き教室だらけの学校もある
 子どもたちにその施設の利用の仕方を考えさせてみたらいかがでしょう。学校という公共施設は、本当に子どものために有効に使われていると思えるか
 公立学校とその教師の醜い閉鎖性を破るために、たとえば図書館と併設型の学校美術館・博物館が校舎内にある学校保育所や高齢者福祉施設があり職場体験をしながら学べる学校スポーツクラブがある学校、・・・そして塾が併設されている学校など、実験的な取り組みをはじめるのはいかがでしょう。どこに行ってもまったく個性のない「ハコ」をどうにか転換できないものでしょうか。ショッピングモールのようなイメージの公共施設の集合体が、学校を開くきっかけにはならないでしょうか。そのためには、「教育」を文部科学省が担当するのをやめ、「教育省」を設置することが行政組織上、必要になります。

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コメント

公立の学校が「どこも同じ」であるとすると、ある1校ができないという理由で、すべての学校ができないことになります。
「能力に応じた等しい教育」は「同じ教育」とは限りません。

(´,_ゝ`)プッ
>「いろんな魅力がある中から選べる」公立学校は、やはり行政主導でないと無理なのかもしれません。

なんて他力本願なんだろう!! 
ちょっと驚いてしまう。
他人がこう書いたら噛みつくだろうに…。
ここも自己の努力で解決できる範疇じゃないのか?

まぁ、そもそも私は学校選択制に反対だ。
子どもが自力で通学できる学校は、
田舎じゃ選ぶ余地がない。
公立の学校は「いろんな魅力」より、
「どこでも同じ」であるべきじゃないの?
法令遵守が口癖の暗象だけど、
暗象の主張の先にある学校の姿は、
憲法26条の精神に反するんじゃないの?
あっ、小さな範囲じゃないよ。(^_^)

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より