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記憶に粘りつく話ができる教師 ふり返り366日【08/2/11-1】

 100年前と比べると、「文明」化が進んだ人々の脳が処理しなければならない情報量は、すさまじいほど増えていることでしょう。
 
 今までの「受身的な情報処理」型の脳のはたらきが、「能動的な情報発信」型の脳に切りかわるには、まだもう少し時間がかかりそうですが。

 教師が子どもに伝える情報の特色を、あまり自分の意見を職員会議や分掌部会でも言わないタイプの教師と、それと対極的な教師とで比べると、どんな違いが出てくるでしょうか。

 教師に対する授業評価の中に、次のような項目を加えてみるのはいかがでしょうか。

1 単純明快な語り口ですか?

2 題材の意外性でひきつけることがありますか?

3 具体的な例などをもとに、理解させてくれますか?

4 語りに信頼性がありますか?
 (自信なさそうに話していませんか?)

5 感情に訴えてくるような語りはできますか?

6 物語性のある授業構成になっていますか?

 これらは、チップとダンの「アイデアのちから」(日経BP社)の中で紹介されている、「記憶に焼きつくアイデア」の6つの原則に関連させて書きました。

 記憶に焼きつく話聞いているだけで理解でき、再現が可能になるような話をしてくれる教師にめぐりあった子どもは幸せでしょう。

 記憶に粘りつく話=そのノウハウを、自分でも活用できるような力として身に付けさせてくれる教師にめぐりあった子どもは幸せです。

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2008/02/11 ゲームの効用を教育で利用できるか ハイ・コンセプト「まじめ」だけでなく「遊び心」  右脳活性化の必要性を訴えている著書であるためか、テレビゲームの効用がいくつかの視点から説かれています。  ゲームについては「ゲーム脳」や「1日何時間以上ゲームをやる子の学力は保障しない」など、学校からは否定的な注文が家庭に投げかけられています。  授業では考えられないほどの高度な集中力・リラグぜーションをもたらしてくれるゲームは、携帯によるコミュニケーションや情報収集とともに、娯楽として多くの子どもにとって「なくてはならないもの」でしょう。  一部の学校では、単純なドリル的な学習についてゲーム機の活用を実践しているようですが、「右脳開発」という観点で教育に活用されるところまではいっていないようです。  授業の中での「遊び心」は、特に内容の理解で苦しんでいる子どもの学習への動機付けにはかかせませんが、自分からのはたらきかけが苦手な教師は多いと思います。  「ユーモア度をはかるテスト」を開発している研究者がアメリカにいるそうですが、日本ではどうでしょうか。  教材では、マンガの「吹き出し」のせりふを考えさせるなど、右脳を刺激しながら左脳的な論理を鍛える工夫が考えられます。  ただ、吹き出し入りのマンガが濫用されている小学校の教科書には閉口させられます・・・。

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教育」カテゴリの記事

コメント

(゚ー゚)

吃驚〜
整合性がないというか頓珍漢というか…。

「受身的な情報処理」型の脳のはたらきを肯定的にとらえているのか?
教師に対する授業評価の中に、次のような項目を加えてみるのはいかがでしょうか。と紹介されていることは、悪い評価ならいいのか?
もし、その項目をよしとするなら、受け身的な情報処理型の脳を育てるだけじゃないのか?

まぁ、どうせ素人ですから…  (^_^)

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より