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学力向上問題の真空地帯で考えるべきこと

[学力テスト] ブログ村キーワード
 新教育課程の完全実施まで、しばらく「学力問題」は真空地帯に入るかもしれません。
 全国的な学力調査の結果公表にかかわる問題や、学力調査の継続自体への批判など、小さなトピックは継続してでてくるかもしれませんが、新しい学習指導要領が告示され、現在はそれに沿った教科書の原稿が執筆されている時期で、その教科書で学ぶとどんな成果がでるのかは、まだわからないわけです。
 
 学力調査の結果が芳しくなかった大阪府などが、学校に対して強く学力向上を要請しており、それに対する拒否反応が出ているようですが、私から見ると、その程度のこと(実際に得点を上げるのは容易なことではないのですが)はまず結果を出してしまってから、「はい、結果は出しました。次は何をお望みですか?」と言えるような「現場の強み」を発揮してもらいたいと願っています。
 「学校は学力をつけることだけを目標にはしていません」という言い訳をするところがありますが、「学力をつけることも目標でしょ」と言われたら終わりです。
 
 たとえば学力調査で全国の平均レベルがとれるようにしましょう、という目標がつくられたとして、それを達成することは、当たり前ですがゴールではありません。
 通過点です。
 その目標点を通過したとき、新しい風景の場所に出られるかもしれません。
 そもそも学力を身に付けさせることは、各学校の教育課程で子どもや保護者とかわしている重要な約束です。

 ただ、現場で困ってしまうのは、以前にも書いたかもしれませんが、学力向上策が簡単に成功してしまう(子どもの学力がすぐに向上してしまう)と、「昨年までの教師たちは何をしていたんだ」という批判を受ける可能性があるということです。
 小学校の例が一番わかりやすいでしょう。
 担任が変わったおかげで、一気に勉強が得意になり、苦手だった算数ができるようになった・・・
 子どもの学力が向上することは、すべての教師にとって手放しで喜べることでもないのです。

 学力向上策の結果が出て、成果が上がったのに、「今までいかにさぼっていたのか」という目で教師や子どもが見られてしまうのは、つらいものです。

 成績が下がるのは絶対にダメ上がらないのもダメ上がってしまってもダメ、では、教師は救われません。
 
 そういう意味では、短期的な目標の達成に重点がおかれている人事考課制度というのは、「ダメだった過去を問わない」よい仕組みだと考えることもできます。

 さて、学力向上問題の真空地帯で起こってきそうな議論は、「評価」をめぐるものだと考えられます。

 全国的な学力調査で、都道府県とか市町村の結果がわかるメリットは、「相対的に自分のところがどうだったのか」がわかることです。
 学力の測定は、「絶対的な尺度」はありませんから(たとえば漢字の読み書きだけのテストなら別でしょうが)、やはり「相対的にどうだった」と見るのが一般的です。

 「秋田に比べてうちはどうなっているんだ」という「評価」の問題もありますがそれはおいておき、「今年と昨年で何をどう変えたことが結果の変化にどう結びついたのか」などという検証は、毎年行い、「相対的にどうなったか」で判断できることになります。
 
 入学選抜でも、一定水準をクリアしたらみんな合格、ではなくて、順位が定員以内なら合格というものですから。

 学力の「評価」に関する現在の学校の大きな課題は、「目標に準拠した評価」、いわゆる「絶対評価」が用いられていることにあります。
 もう実施されて何年も経ち、この「評価基準」が適正なものであることが前提に入試得点にも使われているのですが、この評価に「誤差はない」と信じている人はだれもいないはずです。

 学力調査A問題とB問題の平均点と、国語と数学の評定(特定の観点でもかまいません)の相関を調べてみると、どんなことがいえるのか。
 
 実は、これもあまり「調べて変な結果がでるとまずい」調査の代表的な一つであり、行政が率先して指示することはまずないでしょう。
 (質問紙調査の結果と、たとえば「関心・意欲・態度の評価」が一致していない生徒がいる、などということは起こりうることです)

 しかし、同一問題・同一基準で学力を測定できる仕組みをつくったのであれば、このようなデータの分析は「目標に準拠した評価」の実効性を証明する絶好の機会になるとも言えます。

 教育現場では、「評価の研究」はよく「永遠のテーマだ」という呼ばれ方をしてきました(なかなかよい成果が出せない)が、だからといって避けて通るものではなく、たとえば学力調査の問題分析を通して「目標準拠評価」のあり方を見直す、そんなことができるのではないかと考えています。
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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より