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横浜市の小中一貫教育~成否の鍵~

[小中学校] ブログ村キーワード

 「小中一貫教育」と言われても、一般の方にはピンとこない部分があるかもしれません。
 そもそも小中は義務教育だし、学習指導要領のしばりもある。つまり、カリキュラム上は基本的に「一貫」である。
 学校選択自由化が進んでいますが、まだ他の区とか他県の学校にわざわざ通う子どもは少ない。

 では、「小中一貫」の具体的なねらいは何なのでしょうか。

 学習指導要領では、解説「総則編」に「教育課程の編成及び実施」の「12 家庭や地域社会との連携及び学校相互の連携や交流」という項目があり、そこで以下のように示されています。
 

学校同士が相互に連携を図り、積極的に交流を深めることによって、学校生活をより豊かにするとともに、児童の人間関係や経験を広げるなど広い視野に立った適切な教育活動を進めていくことが必要である。その際には、近隣の学校のみならず異なった地域の学校同士において、あるいは同一校種だけでなく異校種間においても、このような幅広い連携や交流が考えられる。
 
 以下、「同一市区町村等の学校同士が学習指導や生徒指導のための連絡会を設けたり、合同の研究会や研修会・・・」とあり、これまでも実際に会議は開かれてきたのですが、出席するのは研究主任や生活指導主任のため、なかなか「学校間連携」のイメージはありませんでした。
 
 小学校が、「幼稚園や保育所、中学校との間で相互に幼児児童生徒の実態や指導の在り方などについて理解を深める」ことは、「それぞれの学校段階の役割の基本を再確認することとなるとともに、・・・・幼児児童生徒に対する一貫性のある教育を相互に連携し協力し合って推進するという新たな発想や取組が期待される」と続きます。
 具体例としては、
 「近隣の小学校や幼稚園、保育所、校区の中学校と学校行事、クラブ活動や部活動、自然体験活動、ボランティア活動などを合同で行ったり、自然や社会環境が異なる学校同士が相互に訪問したり、コンピュータや情報通信ネットワークなどを活用」などと示されています。

学校行事では、たとえば小学校の学芸発表会に中学校の吹奏楽部が出向いて演奏を披露する、ダンス部が公演を行う、運動会陸上部の選手が出向いて模範演技を行うなど、小学生に「あこがれ」「目標」を持たせるようにする施策が考えられます。
クラブ活動・部活動では、中学校の生徒による技術指導、中学校の大会への小学生の見学(応援)など。
自然体験活動では、小中を縦割り班での野外レクリエーション活動など。
ボランティア活動では、小中縦割り班での地域清掃活動など。

 新聞報道では、学習指導の連携への効果が期待されているようです。
 特に小学校での外国語(英語)が必修になる関係で、小学校としては総合と同じように「無免許なので指導する自信がない。知識や技能に欠ける不安」から、中学校としては「何としても英語ぎらいをつくらないでほしい一心」から、合同研修会とかを開きやすい環境になるかもしれません。
 
 経験的には、小学校ですでに学力に開きが生まれ、中学校で拡大する「算数」→「数学」の力の育成は大きなテーマでしょう。
 
 市は具体的な行動計画やガイドラインのようなものをつくるのでしょうが、まずテーマになるのは「小学校」「中学校」の組み合わせ。
 次に連携の「柱」をどうするか、あるいは「全面的」な連携をするのか。

 いずれにせよ、大きな負担感を覚えやすいのは中学校ですから、小学校から「信じられないほどの空き時間がある人はどうして『忙しい』と言えるのか?」などと言われて感情のすれ違いを増幅しないように、・・・こういう話題を出すと無責任体質の教師は「管理職のリーダーシップが重要」などと評論家のようなことを言い出しますが、要は同じ地域の子どもの教育に対する「意欲」を温度差なく教師が示せるかどうかに成否はかかっていると言えそうです。

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教育」カテゴリの記事

コメント

( ̄ー ̄)ニヤリ
私は、選択制よりいい制度だと思うよ。

で、暗象は、こんな程度なんだね。

>大きな負担感を覚えやすいのは中学校ですから、小学校から「信じられないほどの空き時間がある人はどうして『忙しい』と言えるのか?」などと言われて感情のすれ違いを増幅しないように、・・・

この考え方って、日々の主張でいうところの“失敗”なんじゃないの? 暗象の忌み嫌う、教師の逃げの心理しか見えないのだが?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より