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« 教師は、誰に対してどのような責任を負っているのか? | トップページ | ふり返り366日【08/1/22-2】 学級崩壊は偶然か必然か »

「体罰容認度調査」の必要性

 「体罰禁止」の大号令、教師の処分の増加とともに、「強い指導」ができなくなり、その結果、「荒れ」が深刻になる、規範意識の低下に歯止めがかからなくなる、学力も低下する・・・などという見方が一部にあります。

 その結果、揺り戻しとして、「生徒を落ち着かせること」「問題行動を抑止すること」に対して、「体罰」が容認されるムードが高まろうとしているという危惧を私は抱いています。

 「体罰禁止」が法令で規定されている以上、「禁止は禁止」なのですが、自分が受けた経験がある教師は、体罰の「負の側面」ではなく「効果」を実感している場合があるので、指導の「裁量権」の範囲内で・・・という名目で行うケースが後を絶ちません。

 イギリスが体罰容認の国であること、アメリカも過半数の州が容認していることはよく知られていることでしょうか。
 日本の教師は、このような国からもっと学ぶべきことを学んでおく必要があると考えます。

 それは、体罰を容認することではなく、どのような体罰が行われているのか、その体罰にはどのような効果があるのか、どのような体罰は行われていないのか、体罰が行われたことで起こる重大な問題とは何か、などということです。

 これらは、体罰が原因だと疑われるような自殺などが今後もおこれば、特に、「体罰容認度」が高い学校、地域、自治体などでは早急に学ぶべきことがらです。
 そのためにも、「体罰容認度調査」を実施すべきだと考えています。

 昔からある体罰がなくならないときに、「体罰はいけません」と繰り返していても意味はありません。おそらく、処分を増やしてもなくなりません。
 体罰について学ぶことが教育の質を高めることにつながると考えています。

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教育」カテゴリの記事

コメント

( ´艸`)プププ
>体罰について学ぶことが教育の質を高めることにつながると考えています。

なぜ、なんのために、どうして…という部分で、
先生の心の弱さから出る体罰はダメだろう。
熱い心からでる体罰は、ある程度容認できる。

その点、暗象は、口に出さなきゃわからないという考えなのでどうしようもないだろうね。

私は、先生が人格者であって欲しいと願っている。

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  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より