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2009年1月

教師による「責任回避論」の危険性

 最近の教育ブログには、教師による「責任回避型」の主張が散見されるようになりました。

 「なあなあ社会」「あいまい大好き」日本では、「責任の所在」をあえて明らかにせずに、はぐらかしたりごまかしたりする傾向があることは、さまざまな不祥事を通してよく知られています。

 しかし、あまりにも問題が多く、大きくなってしまってからは、さすがに「責任逃れ」ではすまされなくなるので、今度は問題がおこったときのために、事前にその追及を回避するための「責任限定論」を用意するようになりました。

 荒れた学校における教師の生態を観察すればよくわかるように、「責任限定主義者」は「自分の範囲はここまで」と設定し、それをこえることについてはあえてタッチしないか、そこに近づかないようにうまく行動します。
 しかし、このような態度が心の荒れた子どもをさらに刺激し、ますます「大人嫌い」を助長してしまいます。

 このように書くと、「責任無限論」を主張しているのか、と誤解されるかもしれませんが、そういう批判をする教師はふだんは、「教師の同僚性の重視」を説いているのに、「学校の責任」「教師集団の責任」を唱えることはしないのです。

 では、「責任回避」につながる「責任限定論」に逃げこまない学校をつくるためには、どのようにしたらよいのでしょうか。

 そのためには、まず子どもと、問題に、正面から向き合うことが必要でしょう。

ふり返り366日【08/1/23-1】 教育現場のワークシェアリング

 仕事内容が同じか、楽をしているのに、自分より給料が高い人がいる。

 そういうことに、学校現場では疑問をもたないのが普通です。
 教員の組合は、「派遣切り」のご時世でも「給与引き上げ!」を要求しているのかどうか知りませんが、「仕事をしていない人の給与引き下げ」を要求したことはかつて一度もないでしょう。
 
 年輩の教師が楽をしている学校というのは、ある意味では若い教師に活気があり、問題もなく、優れた教育ができている証拠と言えるかもしれません。
 あの年輩の先生までかり出すことになったら大事だ、などと、逆に仕事をさせないことに価値を見いだす教師集団もあることでしょう。
 
 しかし、このような風景が、民間の人、生活が苦しくて困っている人から見て、「おかしい」と思えて、その是正が要求されるようになる日は、そう遠くないのではないでしょうか。

 組織がフラットなのに年齢で給与の差が開いていくシステムは、団塊の世代の教師が現場を去った時点で、見直しのチャンスが到来するかもしれません。
 若い年代が多数を占めるようになったとき、教員の数を増やし、昇給に限界を設け、ワークシェアリングを導入することが教育現場でも現実味を帯びてくるかもしれないことに、ちょっと危機感を覚えています。

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08/1/23 一度も植民地になったことがない日本  デュラン・れい子著「一度も植民地になったことがない日本」(講談社+α新書)は、ヨーロッパから見た日本の姿を生活の実体験を通して記した本で、類書も多くありますがMANGAKAMIKAZEの話など、興味深い内容が豊富でした。  著書の中で、労働に対する日欧の価値観の違いが紹介されている箇所がありました。  日本にもそういう会社があるかもしれませんが、上司はいつも残業し、若い社員はすぐに帰宅する。  ヨーロッパの感覚としては、「若いうちは給料が安いんだから、それだけ責任もない。つまり権限がないから責任もない。だから残業する必要もない」ということです。しかし、「日本はうらやましい」という。若いうちはたくさん働かされても、年をとっていくとラクができる。  著者は、これも日本のよさとして紹介しています。  日本では、上司が残っているのに先に帰るのが気まずいとか、本当に仕事が好きで残っている(学校はこのパターンか。)とか、理由はともなく、若くて部活動ももたずに5時過ぎに生徒と一緒に帰宅する教師はまず少数派でしょう。初任者研修で学校を出ることすら嫌な目で見られるところもあります。  ヨーロッパ式のロジカルな思考では説明がつかない日本の習慣ですが、それでもうまくいっている職場のよさというのは何でしょうか。仕事に対する愛情でしょうか。こだわりでしょうか。使命感でしょうか。年配の教師の「ゆとり」の大切さでしょうか。

ふり返り366日【08/1/22-2】 学級崩壊は偶然か必然か

 授業がとても上手で、学級経営が下手な教師というのはいるのでしょうか。
 逆に、学級経営はとても上手だけど、授業はうまくない、という教師はいるのでしょうか。
 中学校の場合は、「授業力に疑念が生まれること」で「担任としての力量も疑われる」という経路があり、一定の相関が認められそうです。

 小学校はさておき、中学校は学級だけでなく学年や学校のカラーというものがありますし、子どもは小学生よりは大人だし、小学校のようにいつもべったりというわけではないので、「一クラス崩壊」というのはあまりないのではないでしょう。
 別の言い方をすれば、たくさんのクラスがある中で、「一クラス崩壊」を起こす教師の力量というのは、どう考えればよいのか。

 中学校は小学校と異なり、指導力に不安があれば、「担任をもたせない」という選択肢がとれます。
 ときどき、「指導力不足の教師に担任をもたせた管理職の責任」が問われることがありますが、一見、理不尽な要求にも、それが出されるだけの意味はありそうです。
 
 団塊世代の教師が抜けて若手がどっと現場に入ると、かなりの人件費が削減できます。
 そのチャンスをねらって、定数を増やすことを考えている人はいるのか、どうか。
 ただ、大量採用時にますます採用数を増やせば、当然「だれでもなれる」ような状況が生まれてしまいます。

 「教員免許をもっているんだからいいだろう」という考え方も当然あるでしょうが、教育実習生の現状を見る限り、この「教員免許」取得のハードルはおそろしいほど低いものであり、不安はつのります。 
 今後しばらく、教師の指導力の向上というのは不変のテーマになりそうです。

2008/01/22 「野蛮人!」は死語?  私が小中学生のころは、いらずらをする男子に女子から「野蛮人!やめて!」という言葉が投げつけられることがあったと記憶していますが、今、「野蛮人」は死語になってしまっているのでしょうか。  「未開」とか「南蛮人」のような語句を説明するために、「野蛮」という言葉のニュアンスを理解してもらうことが必要かと思うのですが、今はそのような差別用語は意味すら想像できないのかもしれません。  ヨーロッパ人が有色人種を「野蛮」「未開」の人間と決めつけ、自分の利権を拡大しつつ価値観を押しつけてきた歴史がありますが、部屋で靴を脱がないとか、風呂に入らなくてくさいとか、価値観としては逆転する話題がたくさんあり、異文化理解の意味を考えるヒントになります。しかし、本当に異文化理解を徹底するとその価値の逆転というのもあり得なくなるのでしょうか。「異文化無知」がいい効果を発揮しているだけでしょうか。  学校と行政・企業では価値観が逆転する話題がたくさんあります。  学校は、20代も50代もフラットでやっています。しかしなぜか給与だけはものすごい格差がある。  行政では、昇進・昇格試験を受けないと、より高い給与はのぞめません。  企業では、実績を上げないとだめです。  給与が高い人というのは、それだけたくさんの責任を負っているというのが、世の中の常識でしょう。  学校では、20代の教員が50代の教員にパソコンの使い方を教えていたりする。  30代で学年主任になって担任もつとめ、50代の副担任の教員にお手伝いをお願いしたりしている。  私はけっして給与面でも能力主義を導入すべきと主張したいわけではありませんが、他の世界からは「あり得ない」としか考えられないだろうなと思います。若い教師の中には、年配の教師に「お願いですから給料分は働いてください。」と訴えたい人が多いかもしれません。  しかし、教育はやはり経験がものを言う世界であるべきだと思います。行政系の人に、「おかしいんじゃないの」と思わせないですむように。

「体罰容認度調査」の必要性

 「体罰禁止」の大号令、教師の処分の増加とともに、「強い指導」ができなくなり、その結果、「荒れ」が深刻になる、規範意識の低下に歯止めがかからなくなる、学力も低下する・・・などという見方が一部にあります。

 その結果、揺り戻しとして、「生徒を落ち着かせること」「問題行動を抑止すること」に対して、「体罰」が容認されるムードが高まろうとしているという危惧を私は抱いています。

 「体罰禁止」が法令で規定されている以上、「禁止は禁止」なのですが、自分が受けた経験がある教師は、体罰の「負の側面」ではなく「効果」を実感している場合があるので、指導の「裁量権」の範囲内で・・・という名目で行うケースが後を絶ちません。

 イギリスが体罰容認の国であること、アメリカも過半数の州が容認していることはよく知られていることでしょうか。
 日本の教師は、このような国からもっと学ぶべきことを学んでおく必要があると考えます。

 それは、体罰を容認することではなく、どのような体罰が行われているのか、その体罰にはどのような効果があるのか、どのような体罰は行われていないのか、体罰が行われたことで起こる重大な問題とは何か、などということです。

 これらは、体罰が原因だと疑われるような自殺などが今後もおこれば、特に、「体罰容認度」が高い学校、地域、自治体などでは早急に学ぶべきことがらです。
 そのためにも、「体罰容認度調査」を実施すべきだと考えています。

 昔からある体罰がなくならないときに、「体罰はいけません」と繰り返していても意味はありません。おそらく、処分を増やしてもなくなりません。
 体罰について学ぶことが教育の質を高めることにつながると考えています。

教師は、誰に対してどのような責任を負っているのか?

 アメリカの法教育カリキュラムの中に、「責任」をテーマにした内容があります。
 子どもはもちろん、教師が考えたり使ったりするのにも価値のあるユニットやレッスン、スキルが紹介されています。
 初任者の教師、10年経験者研修では、「責任」をテーマにした討論などを行ってもおもしろいかもしれません。

 問いの例
○教師にとっての責任とは何か?
○教師は、誰に対して責任を負っているのか?
○教師自身として負っている責任とは何か?
○教師にとって、責任を果たすことはなぜ大切なのか?
○責任は何に由来しているのか?
○教師が責任を果たすことで得る報酬とは何か?
○教師が責任を果たさないことによる罰則とは何か?
○教師が責任を果たすことで起こる結果とは何か?
○教師が責任を果たすことによる利益・コストとは何か?
○教師にとって、競合しあう責任とは何か?
○競合したり、対立する責任の中から選択するのに、教師はどのようなことを考慮すべきか?

 これらに対する解答は、それぞれの教師がもっている教育観を明らかにすることになるとともに、討論することで広い角度から考えられるようになること、その職責の重さを自覚できるようになることなどのメリットが考えられそうです。

ふり返り366日【08/1/22-1】 行政と現場の新しいパイプ役は?

 おそらく、教科の専門性を生かす機会があった昔の指導主事より、今の指導主事の方が、仕事の「やりがい」を感じにくくなっていることは確かでしょう。
 行政に興味がない(普通、行政に入ることを希望して教師になる人はいないでしょうから、はじめはみんな、興味はないのでしょうが)ほとんどの教師にとっては、「どうしてそんなにつらい仕事をしようと思うのか?」と理解困難な仕事かもしれません。
 事故対応などのときは、問題の深刻化・拡大を避けるために、本当に神経をすりへらす毎日になります。

 行政に入って気付いたことなのですが、現場の教員から管理職試験を受けてそのまま副校長になり、校長に昇任していった人にも、指導主事の仕事というのはあまり理解されていないようです。

 現場の教師は、「文書が多い」「調査が多い」と不平をこぼしています。
 指導主事は、その文書や調査の数×学校数分の文書を処理しなければならない立場です。

 単純に集計して都道府県や文科省に出して終わりという人もいるかもしれませんが、自治体の全体の傾向はどうとか、後で入手できる都や国と比較してどうとか、分析して返すと学校は調査をした意義を感じてくれることがあるので、独自の処理をする場合もあります。
 そういう作業でもしないと、「膨大な文字と数字の処理」ばかりに追われるだけの仕事になってしまいます。

 また、議会対応の仕事もあるのですが、教育に関してはいつも決まったパターンの問答ばかりが多く、これもあまり創造性を必要としない仕事になってしまいます。「決まり文句」で対応できてしまう議会の時間は、「無駄」の一言に尽きます。
 
 そんな指導主事でも、指導課長・指導室長、あるいは教育長も加えて一体となって、自治体の教育を変える機能を果たすことはできます。
 そのために必要なパイプ役は、一般的には校長会・副校長会だと思われていますが、管理職は「目詰まり」の原因をつくってしまうものでもあるので、私はあえてそれ専門のポストを用意し、若手を起用していくこと、その若手の中から、将来の指導主事を育てていくことを提案したいと思います。

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08/1/22 文書で動く人と金・教育政策  指導主事というのは、その仕事が現場からなかなか理解されない地味なもので、「めんどうなことをもちこんでくる」疫病神みたいに思われたりするものですが、学校に足を運ぶ回数が増えると、先生方にも免疫(?)ができてくるものです。これは前回の話でした。  行政の仕事というのは、事務的なこと、つまり書類上で完結するものが多い。  お金は、文書をもとにして動きます。人も、文書で動かします。これが、教員だけをやっていると、(年金を「納入していない」ことにされた人も現役にはいないでしょうから)全く異次元の世界の出来事としか考えられません。  給料が毎月、機械的に銀行に振り込まれ続けると、もらって当然のことに思えてしまうのでしょうが、崩壊した学級を抜け出て給料を事務室に取りに行って書類に判子を押していた時代の先生は、何か感じるものがあったのではないでしょうか。   教育管理職になる人が、企業で研修を受けたりしていますが、こういう「異次元体験」は少なくとも管理職には絶対に必要なものです。人やお金は、自動的に動くものではないのです。  文科省も財務省を相手に相当がんばっているようですが、税金をもらうにはその根拠が必要なのです。  もらったら、その結果(成果を強要するつもりはありませんが、給料日の事例のような気持ちは大事)を示さなければなりません。  しかし、文書づくりを「雑用」としか見ていないため、 「研究奨励事業」をいやがる学校の中に、わずかなお金しかもらえないのに、報告書をたくさん書かされるがいや、という理屈のところが生まれてきます。  多くの教師が「雑用」と思ってつくっている書類の中の数字や文字には、税金の負担者、行政マンが直接現場でふれ合うことのできない子どもたちの姿がうつしだされており、生きた子どもの化身として扱いたいものです。  ただの文字・数字として見たら、教育の仕事にはなりません。ただ、一言一句、一ケタでもミスが許されませんから、文字や数字には相当に神経をすり減らして格闘することにはなります。それだけ神経を使っても、現場から理解を得ることが少ないのは悲しいものです。  常に改善・改革が必要とされる背景には、現場から上がってくる数字の「悪化」「問題点」があります。  そういう問題点が多いほど予算がたくさんとれるというのが皮肉なところです。

「違い」にふれる効果

 目が不自由な方への配慮は気付けばできることでも、自由がきく人に対してはできない・・・。

 目に見えているものが、逆にものを見えなくしている・・・。

 自由なときが、実はとても不自由だったりする・・・。

 視覚に障害をもっている方とお話したり、行動をともにしてみると、いろいろなことを考えるきっかけになります。

 「視点を変えて考えてみよう」「視野を広げてみよう」という言葉は、何気なく使っているものですが、視覚に障害をもっている方の前では、思わずはっとしてしまいます。

 もともと「違い」があまりない集団で生活していると、「配慮すべきこと」や「配慮する機会」そのものが少なく、そういう意味では、「違い」に親しんでいる環境の方が、たとえば「思いやりの心」などが育ちやすくなるのではないか・・・などという気がしてきます。

 教科教育で学ぶ内容の中には、「違う」ことよりも「同じ」になることに重点がおかれるものがあり、たとえばテストでは、どれだけ多くの生徒が「同じ」解答に到達できるかが問われているわけです。

 「同じ」であることよりも、「違う」ことに価値があるような題材、「違い」に接することで自分を磨いていけるような機会を増やしていくことの意味について、考えていきたいと思っています。

ふり返り366日【08/1/21】 優先順位の決め方

 人間にとって時間は無限に与えられているものではありませんから、「やるべきこと」「やりたいこと」がたくさんあっても、そのすべてはできません。
 
 ですから「やらなければならないこと」も含めて、「優先順位」を決めて、選択的に実行していくことになります。

 仕事のコツというものがあるとすれば、それはつまり「優先順位」の決め方とその後の実行力にある、と考えられます。(勉強もそうです)

 「優先順位」の決め方には、「重要性」や「緊急性」の他に、「適時性」というものもあります。

 仕事の仕方をよく見ていれば、その人が「大切だ」と考えていることがよくわかります。

 そのときに、「この人は人間よりも仕事の方が大切なのだ」と思われないよう、配慮することももちろん大事です。

2008/01/21 勉強や仕事のコツ・こだわりとは?  料理のコツといったものは、だれもが共有していい情報かもしれませんが、勉強とか、仕事のコツといったとき、それを相手に伝えるのが果たして適切か?と考えてしまうことがあります。  勉強のコツは?と子どもに聞かれたら、「コツがわかるまでがんばること」と答えています。  なぜそのようないじわるな答えをしてしまうかというと、コツを知りたいと聞いてくる人の中に、「自分は苦労や努力はしたくない。最短ルートでゴールにつきたい。早く成功したい。とりあえずいい点だけとりたい。」というような安易な気持ちが見え隠れするのが嫌なのです。  仕事上のコツを聞かれることも何度かありました。  机上整理とか書類の整理は、聞かれなくても教えたことはありましたが、授業のコツ教え方のコツは?という質問が一番困ります。  そういう技術を教えて食べている人もいるようなので失礼のないように申し上げれば、簡単にまねができる「コツ」も確かにあるかもしれませんが、それが「こだわり」になっていくかどうかは、やはり努力量・経験量によって左右されると思います。自分が自信をもって「コツ」だと言えることというのは、スキルとは次元が異なります。  多くの教師は子どもが「楽しく学ぶコツ」を求めます。しかし、子どもが「学ぶ楽しさ」を味わえる授業も大切ですが、「学ぶ喜び」を味わうレベルまで達することができるか。  覚え方のコツを教えてあげると生徒は喜びますが、それはもちろん「学ぶ喜び」ではありません。  そんなものにこだわっていても、おそらく本人がかかえている大きな問題の解決にはならない気がします。    行政で仕事をしていたころは、あまり人には言わない「仕事の流儀」ですが、私が唯一大きなこだわりとしてもっていたのは、「頼まれたもの、依頼するものは物理的に可能な限り、郵送ではなく必ず手渡す」ということでした。  同じような主義に「電話ですませようとしない」ということもありました。  どんなに忙しくても、「そんなに暇なのかしら」と思われても、「face to face」をくずさない。  最もめんどうくさく、楽ではなさそうな流儀ですが、私の場合は現場と信頼関係をつくるための最大のコツでした。そして、直接校長先生や副校長先生、初任者の先生や研究主任の先生に会って話をすることが、楽しみになってくる。これは現場の教師をやっているときには得にくかった感覚です。100人以上の大人といつもつながりを持っていること。一人一人が、何に喜んでくれて、何を不満に思っているのか、何が不安なのか、きっと会わなければわからなかっただろうな・・という経験を積んで、相手の望んでいる情報を出すようにしていく。  後任の方はこのような姿を見ているので同じようにしてくれたかもしれませんが、「仕事はこうするものだ」と指示しようとは思いませんでした。やってみてどうだった?と聞きたい気にはなりますが、仕事のこだわりというのは、どんなに時間がない中でもやることなので、無理をさせるわけにはいきません。  「教材研究の時間がない」という先生がいますが、教材研究がその先生の「仕事のこだわり」でないことは残念なことです。

ふり返り366日【08/1/20-2】 「弾むオーラ」欠乏症を予防する

 子どもの体力の低下には歯止めがかかったようですが、教師の体力の方はどうでしょうか。

 私の尊敬する先生の口癖は、「教師は体が丈夫なのが一番」。

 心の病は体の動きにそのまま影響しますし、指導力が多少劣っていても、子どもに寄り添うという体力さえあれば、信頼されずに子どもから相手にされなくなるということは避けられます。

 私は3年間の行政経験があるのですが、役所に入っていきなり、「大きな声で話す」(一日5~6時間)、「運動部の指導をする」、「階段の上り下りをする」ことの3つがなくなっただけで、体力ががた落ちしました。
 それは、休日にやっていた草野球の戦績に影響しましたからよくわかります。

 スポーツをやっていると、「躍動感のある人」「弾むようなオーラのある人」といっしょにいる快適さがやめられないのですが、そういう「アクティブ」な印象が自分からなくなっていくことは、現場に戻る上で一番の気がかりでした。
 
 「時間がない」というのは教師の口癖ですが、「時間はつくるもの」という教訓を胸に、再起のチャンスを探ろうと思います。

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2008/01/20 学習指導要領の理念の誤解を解く その5  学校教育では、学力より豊かな心や健やかな体(知育より徳育や体育)の育成が望まれる声も大きくなっています。勉強どころではない生活を送っている子どもたちも確かに多い。その子どもたちのための高校すら生まれ、高い倍率の入学選抜をくぐらないと入れないほどになっています。 教育課程部会の審議のまとめでは、これを「家庭や地域の教育力が低下していることを踏まえていなかったことが問題」としていますが、本当でしょうか。たとえば今から10年前、20年前の家庭や地域の教育力は、今よりずっと高かったのでしょうか。 学校の教育力に問題はなかったのでしょうか。 この審議のまとめには、理念の底が浅く、根拠が甘い記述が散見されます。 道徳の時間や体育の授業の充実が欠かせないのは言うまでもありませんが、そこに注力すれば「豊かな心」と「健やかな体」ができあがるようなものではありません。道徳と体育の時間をすべて部活動にあてた方が効果が高くなる場合があるかもしれません。 「子どもと向き合うための時間の確保」も、どう向き合うのかではなく、物理的な時間にのみ目が向いている。 「時間に余裕がある教師」が、他のどの教師より「生徒に向き合っている」と言えるかどうか、現場を見れば???の状況はすぐに見つかるはずです。長い時間「生徒に向き合っている」ために、肝心の学習指導の充実が図れていないケースもあります。「忙しい」「時間がない」ことを理由に教材研究をしない教師は、自宅学習をしない子どもと同じです。  質を高める努力をせずに、時間だけ増やすと、まずそれまでより質が低下することが予想されます。 家庭教育や地域社会の問題点を列挙するのはいいのですが、それを学校で解決するために、学校ができなかったこと、学校にはできないこと、これからの学校ができることを具体的に例示する必要があります。 学校の失敗は限りないほど蓄積されているはずなので、それを二度と繰り返すことのないよう、失敗例や、どん底から信頼を回復した事例などを共有し、本当の「改革」のための財産にしなければなりません。

ふり返り366日【08/1/20-1】 学力向上の王道方策に「ノート指導」「ノート評価」が浮上か

 知識・技能、思考・判断などの諸能力を分析的に評価するための「観点」は、普通の地球儀ではなく、ビーチボールにもなる透明の地球儀で国を調べるような見方で扱うべきだ、という趣旨のことをかつて述べました。

 思考力・判断力に目を向けているとはいっても、その内側裏側にある、知識の量や質も同時に評価することになるのが普通です。

 現在の「観点別評価」は、「」と「なか」が見えない地球儀で国の表面を見ているかのような、薄っぺらいイメージが募っています。

 観点ごとの相互関連を無視して、個別に出して足し算している・・・そんな方法は早く見直さなければなりません。

 日常のノートに、何がどのように書かれているか、まとめられているかを評価することで、どんな力がついているかわかるし、その指導を充実させることが、学力向上の基本線として注目されるようになるかもしれません。

 レポートなどというおおげさなことをすべての教科で課すよりも、ふだんのノート調べたことまとめたこと習得のために練習したこと考えたことをしっかり書かせる時間をとり、それらをもとに総合的に評価する仕組みをつくっている学校もあるでしょう。

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2008/01/20 学習指導要領の理念の誤解を解く その4  前回のその3の問題を解決するため、「必修教科の時数増加」「総合的な学習の時間」の削減が対策として取られるようです。  教育課程部会の審議のまとめでは、この件にちょっと気がかりな記述があります。思考力・判断力・表現力をはぐくむため、観察・実験レポートの作成、論述といった知識・技能を活用する学習活動が必要と書かれているのですが、問題解決的な能力はこのような学習活動をすれば必ず身に付くものではありません。また、これをしないと身に付かないものでもありません。  レポートや論述は、評価に最適なので、長期休業中の宿題や定期考査で課せばよいものです。  「問題解決的な学習」の実践には教材開発の時間はかかるものですが、その指導自体に時間がかかる(たとえば課題を設定させたり、調べたり、発表させたりする活動)からできないという論理が、指導力不足の教員の理屈になってしまっているのに、それを認めてしまうような文言になっている。これが問題です。  誤解その4 問題解決的な学習の指導には、時間がかかる  もちろん、時間がかかる学習もありますが、レポートや論述、調べ学習や発表活動が問題解決的な学習のすべてではありません。  ここが「観点別学習状況の評価」の導入が生んでしまったおかしな学習観学力観の弊害の一つです。  たとえ授業で生徒がだれ一人発言しない学習でも、ノートに思考の道筋が書かれ、うまく図などで表現され、基礎的な知識を獲得する活動というのはいくらでもできるのです。そうでないと、放送大学の授業を聞いているだけでは、だれも思考力が身に付かないことになります。  評価のためにもレポートや論述は必要だし力がつきますから当然課すとしても、毎日の授業の中で、思考力・判断力・表現力をはぐくんでいかなければなりません。  たとえば、ある用語・概念・内容を30秒バージョンと1分間バーション、3分間バージョンで解説し分ける学習。どんな力が身に付くと思われますか。

自治活動で「挑戦者を育てる生徒」を育てる

 私の勤務している中学校には、3つのタイプの生徒の首脳会議があります。
 全校をまとまる役割を担う首脳(これは最上級生全員が輪番で実施、これを統括するグループもあります)、生徒会の各種団体の首脳(責任者)、クラブの首脳(主将・責任者)です。
 これらの首脳をとりまとめるのが、いわゆる生徒会長・副会長です。

 組織の形としては、変則的ではありますがピラミッド型であり、首脳のリーダーシップがかなり発揮できる、やりがいのある生徒会活動です。

 しかし、ピラミッド型とはいっても、政策等に関する意思決定はトップダウンではなく、学級の代表者からなる会議で承認されなければ実現できない仕組みになっており、その会議も議論の方向性によっては否決され修正を余儀なくされるか廃案になるという厳しい現実があります。

 それでも、アメリカ大統領選があったり、日本でも選挙が近い状況、また、教育界経済界でも今は「改革ばやり」ですから、それに影響を受けてか、「新しいことにチャレンジしていこう」する高い意識が生徒からは感じられます。

 生徒のやる気、意欲、責任感、使命感は、特に会議中での「」にとてもよくあらわれています。

 中学生らしく、それらの意識が高まれば高まるほど視野がせまくなる傾向が見えてきますが、責任感をもって行動に臨んでいる自分を外側から見える自分が生まれてくれば、その問題も解消するでしょう。

 「自治活動とはこういうものだ」と口では説明することができますが、本当の意味で「理解できたかどうか」は、それを後輩に伝えることができるかどうかでわかります。

 「どうすればうまくいくのか」「こうすればうまくいく」、こういう趣旨の伝達は、自治意識の育っていない後輩に伝えても、単なる「操作主義」で終わり、小手先の解決ばかりに頼る「省エネ人間」をつくるばかりになってしまいます。
 (内田樹が語っている「受験が育てる悪しき人間像」論は、そんな主張ではなかったでしょうか。)

 どのような失敗をしたのか、それはなぜ「失敗」なのか
 何に苦しんだのかなぜ「楽」にできなかったのか

 失敗を語ることができる成功者は、「自家発電人間」を理想とする挑戦者を育てていくことができます。

 そういう生徒の育成を、私は望んでいます。

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ふり返り366日【08/1/19-3】 教師にも子どもにも敬遠されやすい問題解決的な学習

[学習指導要領] ブログ村キーワード

 小中学生の学力に対するイメージは、一昔前と比べれば、とてもふくらんできたのではないか、というのが現場にいる実感です。
 
 まだ相変わらず「知識」「常識」の不足面ばかりにとらわれつつ、「暗記」用ワークの作成に熱心な人もいます。 
 
 勤勉タイプの日本人には、まだこのようなワークの需要の高さが続くように思いますが、今求められている力が、そんなものにとどまるわけではないことは、社会に出ている人なら間違いなく実感できているはずです。

 激しい変化が続く時代のなかで、古い知識だけで仕事になるのは教師や受験産業に携わる人間ばかりで、社会に踏み出すと、学校ではあまりその大切さを実感したことのない「力」の必要性を思い知ることになるのだろう、と実は子どもたち自身は薄々感じているのかもしれません。

 昨日の帰りの電車で、「問題とか答えを自分で探さなければならない仕事はいやだ」と嘆く人とそれをなだめる年輩の方の会話が耳に入ってきました。

 「答えは一つではない。自分で探さなければならない」・・・そういうタイプの「勉強」を、大学生ならきちんとこなして卒業しているはずですが、受験というものが念頭にある小学生、中学生、高校生の中には、「答えがない」問題に拒絶反応を示したり、早く「答え」を知りたがったりする傾向がある人が多い。
 
 「問題解決的な学習」は、「解決的な学習」であって決して「解決する学習」ではありません。

 問題が何かを発見しなければいけないこと、その解決策を条件に応じて考えていかなければならないこと、場合によっては多くの人の意見や考えにふれながら、解決を模索していかなければならないこと、・・・などの「公式や解法のコツを覚えていれば自動的に答えが出てしまうタイプ」でない課題の特徴は、興味や関心のない生徒からみると「めんどうくさい」としか思えないものになってしまうことです。

 この消極性に拍車をかけているのは、時間がくれば教師によってどんどん「解決」されていってしまう問いが多いことなのでしょう。
 黙って席に座っていれば、いつか教師が「答え」を言って、あとはそれを覚えればいいだけ、・・・教師が「思考力」をつけるために用意した課題も、その答えを教師が言ってしまった時点で、そこから先は単なる「知識」の題材になってしまう。「知識」の題材になってしまっているのに、テストでは「思考力を問う問題」として、恥ずかしげもなく出している・・・。

 問題解決的な学習や思考力・判断力・表現力などを育てる学習がもたらす負の側面です。 
 

2008/01/19
学習指導要領の理念の誤解を解く その3
 その3 問題解決的な学習は総合的な学習の時間でのみ行うものではない
 教科基礎的・基本的な知識・技能の習得の場で、総合体験的な学習問題解決的な学習を行う時間、そのような誤解をしてしまった学校はないでしょうか。教科ごとの学習指導要領解説を読めばわかることなのですが。
 総合の導入によって、教育界には珍しく学校ごとに教師たちの創意工夫によるカリキュラムづくりが可能になりました。そして総合的な学習の時間の全体計画・指導と評価計画などを作成し、他教科との関連もしっかり図って学力向上につとめてきたはずでした。
 学力調査によって明らかになるのは、教科の指導でも体験的な学習や問題解決的な学習の指導をしている教師に教わった生徒の方が、それを指導されていない生徒よりも基礎基本も含めて学力が高い。基礎・基本の指導だけしか行わないと、基礎・基本も問題解決能力もともに身に付かないことがデータで示されています。
 基礎的・基本的な知識とは、「知っているだけで楽しい」ようなクイズ向けの、特殊な内容の知識とは異なり、それを身に付けるプロセスが大切なものであるはずです。定理や法則を暗記させて効率的に問題を解かせるような指導ではなく、どのようにその定理や法則が導かれたり発見されたりしたのかを考えさせる。そのような指導を通して、思考力だけでなく、知識や技能も育てる。それが指導要領の趣旨でした。
 しかし、問題解決的な学習教師の教材準備が不可欠で、かつ学習過程における個別指導も重要なので、「やりたがらない」教師が多く、「忙しい」「時間がない」ことを大義名分に掲げて「いっさいやらない」教師もいます。
 次の段階として、問題解決的な能力を測定するテストの開発力を伸ばすことです。東京都が実施している学力向上のための調査の、このタイプの問題は、非常にやさしいのですが、問題作成のヒントになるかもしれません。

ふり返り366日【08/1/19-2】 公立学校入学前に保護者が知っておくべきこと

 学力にしろ体力にしろ、教師には「伸ばしてあげたい」という思いが切実になるというよりは、「つけてあげたい」と願う方が公立学校では多いと思います。

 目標に準拠した評価では、「おおむね満足」という非常にあいまいな「」の規準というのが設定されています。
 私の勝手な認識ですが、「おおむね満足」というレベルは、(力を)「つけさせてあげたい」という段階を一応クリアして、「伸ばしてあげよう」というステップに達した状態を想定していますが、「絶対評価」という通称がありながら、評価は授業者によって非常にまちまちになるであろうことは明らかです。

 評価のことを念頭におくと、CからBへと引き上げるのが公立学校の使命であって、「」までもっていく必要はない、という考え方があり得ます。
 優先順位をどちらにおくか、学校によって、スタッフの数によって、まちまちになると思われます。

 ですから、学校説明会などでは、学校のスタンス・スタッフの状況を把握するために、保護者としてはこの点について明言してもらう必要があります。

 新学習指導要領が完全実施となると、選択教科がなくなることで、「補習的」「発展的」なコースは消滅するおそれがあります。
 習熟の程度に応じた指導などを学校が具体的にどのように行うのかを把握しておくことで、塾に通わせるのか、学校にまかせておけるのかなどの判断材料とすることができます。

 中学校だけでなく、小学校にも似たようなことが言えるでしょう。
 小学校3、4年生で学ぶようになる算数の図形の単元は、担任の指導力によって学力差がついてしまうおそれが多分に予想されます。

 学習者の側の「つまずきやすさ」を教師の側は体験的に認識していますが、これを逆に考えれば、教える側の指導力の差によって「つまずきやすさ」は増幅したり縮小したりすることに気付いておかなければなりません。

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2008/1/19 結果の平等ではなく「成長」の平等を  プライドが高い教員の中には、生徒の成長のすべてに責任をもちたがる人がいます。  しかし、特に学力向上については、学校の仕事であることは確かですが、「学校だけ」の仕事ではありません。  和田中の夜スペに反対する人には、公立学校の教員としての使命感が強すぎる人がいます。  「自分が最後の砦」という覚悟をもつことは必要かもしれませんが、子どもたちが「本当の信頼を寄せる対象」というのは、決して教師とは限らないのです。  そういう意味で、私は教育という仕事の中に、「コーディネーター」としての教師の役割を重視したいと考えています。総合的な学習の時間に、「理想的なまちづくり」をテーマに地域の方々が子どもたちとともに議論をする場を設定したとき、その役割の重要性を自覚しました。それ以後、よい「出会い」の演出をしてきましたが、これは藤原校長が和田中でやってきたことと同じです。大人に対して、あこがれや尊敬、(苦労したことへの)共感、同情、そういう感情を子どもがもてる機会を増やす。どうしても同年齢集団の活動が中心の学校で、「大人」との接触が少ない子どもたちは、いい教師に恵まれないと、家庭も含めて「大人」不信、「社会」不信に陥っていきます。  先生ではない「大人」との触れあいを通して、子どもはよく成長していきます。大人っぽい子は、そういう出会いの機会を作ってくれた教師に感謝してくれます(別にその感謝を求めているわけではないのですが)。  「特色ある学校づくり」については批判のコメントを載せたことがありましたが、こういう教育活動を特色と位置づけると、けっこう教育的価値が高い特色になります。  A校でやっていてB校ではやっていないのはおかしい、という論理の教員がいますが、共産主義は完全なるトップダウンなのでそれは可能でも、自由主義・民主主義の学校では校長のアイデアはもちろん、教員のアイデア、生徒や保護者の要望を踏まえて、どんどんその学校らしい取り組みをして、「学校間の差」が生まれるのは当然のことです。それは「差」を生むためにやるということ(これが私の批判の焦点)ではなく、自然と「差」になってくるという話です。  機会の均等だけでなく、結果の平等も求めたがる教師たちの問題は、結果の不平等に責任をもたないことでした。管理職批判や行政批判をすること自体はまったく自由ですが、自分は何をできるのか、何がしたいのか、何に責任をもつのか、それを明らかにしなければなりません。結果の平等を絶対視したら共産主義国家になってしまいますが、当たり前のこととして、結果は平等にはなりません。  しかし、「成長」を平等に近づける発想がほしいのです。  和田中では、成績上位者が成長する機会を保障するために、夜スペを実践しようとしました。  学校の教師は、こういう学力向上の機会づくりに、コーディネーターとしてかかわる。  徳育や体育の面と同様に、知育の面でのコーディネーター機能を学校は開発していく必要があります。

スクールバスモデルから望ましい「授業」「学習」モデルへ

 志水宏吉著「公立学校の底力」(ちくま新書)の終章に紹介されている「スクールバス togetherg号」という「力のある学校」のモデルは、一人の教師にとっての「学び」から子どもたち一人一人への「学び」のモデルとしても転用することができそうです。

 モデルは、バスの8つのパーツ・・・エンジン、ハンドル(アクセル・ブレーキ)、前輪(左右)、後輪(左右)、内装(インテリア)、ボディ(外観)に、それぞれ以下の要素と下位項目を対応させています。

1 気持ちのそろった教職員集団
  (eachers)
 ①チーム力を引き出すリーダーシップ
 ②信頼感にもとづくチームワーク
 ③学び合い育ち合う同僚性

2 戦略的で柔軟な学校運営
  (rganization)
 ①ビジョンと目標の共有
 ②柔軟で機動性に富んだ組織力

3 豊かなつながりを生み出す生徒指導
  (uidance)
 ①一致した方針のもとでのきめ細かな指導
 ②子どもをエンパワ-する集団づくり

4 すべての子どもの学びを支える学習指導
  (ffective teaching)
 ①多様な学びを促進する授業づくり
 ②基礎学力定着のためのシステム

5 ともに育つ地域・校種間連携
  (ies)
 ①多様な資源を生かした地域連携
 ②明確な目的をもった校種間連携

6 双方向的な家庭とのかかわり
  (Home-School link)
 ①家庭とのパートナーシップの推進
 ②学習習慣の形成を促す働きかけ

7 安心して学べる学校環境
  (nvironment)
 ①安全で規律のある雰囲気
 ②学ぶ意欲を引き出す学習環境

8 前向きで活動的な学校文化
  (ich school culture)
 ①誇りと責任感にねざす学校風土
 ②可能性をのばす幅広い教育活動

 このモデルを応用して望ましい「授業」「学習」の在り方を適用させてみると・・・

1 エンジン
 →信頼される授業者

2 燃料
 →関心・意欲を高める教材

3 カーナビ
 →目標と指導が一体化している指導計画

4 ハンドル(アクセル・ブレーキ)
 →戦略的で柔軟な学習指導

5 前輪
 →習得活用のバランスが図れる学習指導

6 後輪
 →全体の指導とに応じた指導のバランスが図れる学習指導

7 内装とボディ
 →効果的な学習が展開できる教具の活用

8 運転免許・更新、車検
 →2~7を準備・実現するのに必要になる知識・技能等、指導の評価

 授業のイメージとしては、教師がドライバーで生徒が助手席に座り、運転技術を学ぶ場面と、教習所のように生徒がドライバーで教師が助手席に座り、さまざまなアドバイスをするというようなものが考えられます。
 ただ、個人教授のように一対一の教育ではありませんから、教師は多くの生徒が乗車しているバスの運転手のようになりがちです。
 そこで、「学び合い」という学校独自の学習スタイルがしっかりと意図されなければならないことになります。
 モデルとしては不完全ですが、教師が共有できる授業像の軸をつくりあげたいものです。

軸のある指導

 普通、「軸がぶれない」という言葉は、安定しているとか、基礎がしっかりしているとか、確固たる信念のもとで行動できるとか、良い意味で使われています。

 学校での「軸がぶれない指導」とは、確かな原則・目標のもとで指導者が一致団結しており、矛盾したり理念に反したりする指導にならないことを意味します。

 荒れた学校で見られるのはこの「軸」がしっかりしておらず、人間で言えば「背骨」がない状態です。
 生徒によって「骨抜き」にされてしまっている教師集団ほどみじめなものはありません。

 組織としての「軸」ができない原因をたどれば、結局のところ、個人の「軸」の弱さ・もろさに行き着きます。

 「自分軸」といったときは、一定の行動理念をさすことが多いようです。

 たとえば・・・
 
 大きな目標を達成しようとするときに、目の前の小さなことから丁寧に始めること。
 
 「今」、目の前でおこっていることにしっかりと「心」を向け、集中すること。これが「念」になる。

 教師に「信念」が感じられず、「惰性」でやっているように思える授業。
 それを「惰性」で受ける生徒。
 
 授業の「軸」とは何か。
 「スクールバス」モデルをもとに考えてみたいと思います。

ふり返り366日【08/1/19】 すぐできる教育改革

 教職に就こうとする人には、それが「公務員」という安定した職であることに主眼をおいて志望する人や、「人を育てる」というやりがいのある職であることに主眼をおいて志望する人などがいるでしょう。
 
 いずれの場合においても、実際に教師になってしまうと、多くの公務員と同様に、「コスト意識」をもちにくい、育てにくい環境にどっぷりとつかってしまいます。

 学校にどれだけの予算があるのかと反論されるのかもしれませんが、人件費以外にも、紙代や電気代など、一回の定期考査でどのくらいかかるか、夏の水道代がどのくらいか、すぐに答えられる一般の教師はごく少数でしょう。
 そういう数字が目の前にあるわけでもなく、自腹をきっているわけでもないのに、自主的に「節約」につとめようとする人は少ないでしょう。
 しかし、環境・エネルギー問題は授業で取りあげているし、総合的な学習の時間に生徒が調べて発表している。

 「わかった」はずなのに「わかっていない」。
 「すべきことがある」はずなのに「していない」。

 教師も、生徒も、です。

 このような矛盾した状況を見直していくことが、ごく身近でできる「教育改革」です。

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2008/1/19
なぜ公務員の自覚が足りない教員が多いのか
 和田中の夜スペに関して、地域的な諸条件が異なる地方の方からは、心情的な面を中心として多くの反対意見が寄せられているようです。
 また、公立学校の関係者の意見を読むと、公立校自体に信頼が寄せられない理由がよくわかります。
 「開かれた学校づくり」を進めることが学流指導要領によって規定されていますが、学校が閉ざされていた一番大きな理由は、教員の考えが公開されればされるほど、学校の実態がわかればわかるほど、公立離れが進んでしまうという問題があります。
 私が勤務していた学校の中で、自治体内でもワースト3に入る荒れた学校という評判があり、入ってみたらその通りだったところがありました。勤めはじめて愕然としたことは、そのことを保護者たちが長い間ほとんど知らなかった(知らされていなかった)らしい。
 教員からは、「みんないい生徒たちばかりです」「うまくいっています」などといい話ばかりしか聞かされず、学校で何かおこっているかを保護者は何も聞かされなかった。家庭内の子どもとの会話のなかで、もちろん「たいへんな子どももいるんだな」ということに気付いてはいても、「学校崩壊」しているとは夢にも思わない。
 もうどうにもならなくなった段階で、学校が保護者会を開き、事実を示し、協力(?)を求めたら、保護者は激怒(当たり前です)。学校への信頼が崩壊したどころか、教員に対する不信感がピークに達してしまいました。
 その直後に赴任してきた私にPTAの役員から懇願されたのは、「とにかく学校は悪いことを隠すのをやめてくれ」ということでした。
 別に強烈な愛国心を持っていなくても国旗や国家に敬意を払おうとする保護者や地域の方々が多い中で、うちの学校には自分が公務員でかつ公の場の儀式的行事なのに「歌・旗絶対反対」の主張をくずさない教師がかたまっているなど、とても公開することはできませんが、「学校の恥になることは外にもらすな」という教員の圧力に負けていた管理職は、公立学校の信頼を完全に失わせた責任を追及され、・・・ここが公立のよさでもあり弱点でもあるのですが・・・他の学校に移っていく
 教師が高いプライドをもつことは私も絶対に必要なことだと思います。そして、国旗・国家に敬意を払いたくない人がいることも、個人の見解としては全く問題がありません。しかし、自由を完全にすべての個人に認めてしまうと、「公務員」が「全体の奉仕者」になれなくなる。だから、憲法は、公務員に対する憲法擁護義務を課しているわけです。
 私立学校ではなく、公立学校に勤めている教員に、「公務員」であることの自覚が足りない原因は、高いプライドが必要な職務の性格上、「人に命令されたくない」「規則に拘束されたくない」タイプが多いことです。そしてそれを生徒に要求するのが好きなタイプと、要求するのが嫌いなタイプがいることです。

ふり返り366日【08/1/18-2】 受験と学力の伸びの相関

[学力テスト] ブログ村キーワード

 高校進学時の学力試験の有無は、進学後の学力の程度や伸びに関連があるのか?

 推薦入試で公立高校に進学する生徒の割合は、東京都は約25%、神奈川県は約45%だということです。

 昨年11月17日の日本経済新聞に載った記事によると、9月に開かれた定例教育委員会で、教育委員の一人が「試験も受けないで入学する生徒が四万人のうち一万人もいるのはどういうことか」と言って事務局に詰め寄ったということです。
 記事を担当した人も、調査書や面接、作文だけによる選考で、早い時期に合格が決まってしまい、そのあとあまり勉強をしなくなることを嘆く趣旨のことを述べています。

 試験がないことによる学力水準低迷の危険性は、中高一貫校でも問題になっています。

 公立の中高一貫校は、中等教育学校の場合、高校進学時の試験はありません。
 受験はないかわりに、大量の「宿題」攻勢で学力水準の向上を図っているもようです。

 場合によっては、進学時に学校独自の「学力検査」を実施し、一定の基準に満たなければ補習を実施するなど、対策が考えられているかもしれません。

 一般の公立高校でも、推薦で合格が決まった生徒も「入学後にどれだけ学力が伸びるか」を調べるための資料・参考として、一般の生徒と同じように問題を解かせる(合否には影響なし)という方策が考えられます。

 採点の余分の手間を増やすのは・・・というのであれば、推薦で合格している生徒の点数は試験が終わってすぐにわかる必要はないので、教育委員会のレベルでの業者委託を行えばいいわけです。

 また、すべての受験者の入試得点がわかれば、中学校の「評定」との相関を調査することができます。

 成績一覧表づくりは、調査書提出時のインチキ防止には役立ちますが、現状では教科ごとの目標準拠評価のインチキは防止できません。そもそも観点別評価を可能にする、「目標」を達成するための具体的な指導が行われているかどうかを検証するシステムがないのです。

 全国学力調査の結果を入試得点の一部に反映させるなどの方策が立てられるだけで、一気に水準は上がってしまいそうな気もします。しかし今度は教師の「インチキ」が懸念される・・・。

 思いついたことをただ書いているだけですが・・・。

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2008/01/18 中高一貫校の理念の原型は「旧型」  中高一貫教育の意義と導入については、10年以上前の中教審第二次答申(1997年6月)で示されていたことをご存じでしょうか。  以後、各自治体が実状に応じて計画し、長期の準備期間を経て、開校され始めました。  第一次答申の「ゆとり」の重要性を強力に引き継いだため、意義(メリット)の第一には高校入試がないことによるゆとりがあげられています。  デメリットとして、受験準備の低年齢化受験のための教育に偏るおそれが指摘されていますが、これを受けて、中高一貫校では「学力検査」が実施できないことになりました。実質は学力検査ですが、教科の色を混合させ、「適性検査」という名で実施されています。  中高一貫校からは、「優秀な生徒は集めたのはいいが、教師がその能力を伸ばしきることができるか」が課題であるという話を聞いたことがあります。  もちろん大学進学だけで実績をはかるのは問題はありますが、中高一貫校への信頼度が左右される数字であることは間違いありません。  東京都の場合、千代田区の中高一貫校と、都立の中高一貫校がありますが、中教審の答申の理念であるだけでなく、生徒や保護者のニーズに合った公立学校として、人気があります。  公立中の先生が、成績上位の生徒をとられて「嘆き専門業者」になってしまうことを危惧する方もいらっしゃるようです。でも、中高一貫校の先生のつらさは想像できますでしょうか。生徒や保護者の期待に応える学校にならなければ、「何のためにつくったんだ」という批判を浴びることになります。  中高一貫校の最大の理念は「ゆとり」だったのですが、10年たって、「指導を躊躇する状況」の打破が保証されたので、思う存分「指導」していただきたいと思います。

少人数学級の方が学力は高いか?

 フィンランドの学校における教育力の高さは、教師の優れた資質・能力によるものであり、それは教師になるまでの厳しい研修を乗り越えてきた力と、決して高くない給与のもとでもフィンランドの子どもと未来のために働きたいという意欲、子どものために自らカリキュラムを考え、教材を作成していく創造力によって支えられていると考えられます。

 おそらく、苦手な分野があったとしても、フィンランドで教師になった人たちは、勉強が好きだったのでしょう。

 勉強が好きな人が、自ら工夫した教材で子どもに教育すれば、子どもも勉強が好きになる、そんな「教師と子ども」のつながりが想像できます。

 最近の教育に対する論調の中に、「教師の指導力不足を問題にするな」「日本の教師は十分に優秀である」というものが散見されますが、そういう考えをフィンランドの人が聞いたらどのように思うでしょう。

 フィンランドの教師でも、もし40人学級を担当せよ、と言われたら、「何を考えているの?」と答えるかもしれません。
 それは、人数が増えれば増えるほど教師の負担が増えるタイプの学習を行っているからでしょう。
 
 日本ではどうでしょうか。
 「30人学級の実現」を目標にしている人たちがいますが、学校は小規模化していますから30人程度の学級は増えています
 
 全国学力調査の結果をもとに、一学級の人数規模との相関について調べてみたらいかがでしょう。

 学級の子どもの数が少なければ少ないほど学力が高いという結果になれば、30人学級の実現は現実味を帯びてくるでしょう。

ふり返り366日【08/1/18】 バランスのとれた学力とは?

 今回の改訂で、中学校なら、国語、社会、数学、理科及び外国語授業時間数が増やされた理由は何か。

 このことが、改訂の基本方針の二つ目で示されています。

 ただ、今後も課題になることが予想されるのは、重視すべきだとされる「習得」と「活用」のバランスです。

 「習得」と「活用」でバランスがとれた学力というのは、どのようにイメージできるのか。

 単なる学習時間なら、そのバランスをとるのは機械的にできるかもしれませんが、基礎的・基本的な知識・技能を確実に習得させるのは、反復練習でどうにかなるとしても、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力や判断力、表現力については、はたしてどれだけ「育成」が可能なのか。

 後者の「育成」を可能にするには、十分な時間配分が必要になるのでしょうが、そのために「習得」に要する時間を減らすことはできない・・・となると・・・。 

 「学習意欲を向上させ、主体的に学習に取り組む態度を養うとともに、家庭との連携を図りながら、学習習慣を確立することを重視」ということは、早い話、家庭学習時間を増やすということでしょうか。

 「連携」ということは、「宿題」を増やす、ということでしょうか。

2008/1/18 学習指導要領の理念の誤解を解く その2  一時期、教師がほとんど指導らしい指導をせずに、生徒が発表するだけしておしまい、という研究授業がはやりました。  その2 教師が指導しない授業  「自ら学び自ら考える力を育成する」という理念の誤解です。  これを教師はあまり教えてはならない。子どもの自主性を尊重しなくてはならない。・・・このようなスタンスは、小学校ではまだ残っているのではないでしょうか。  若い頃に「指導してはだめ。教師は支援に徹すること!」などと研修でたたきこまれてしまった中堅の教師が、基礎的・基本的な知識・技能の習得が図れずに苦しんでいました。この呪縛から解放される趣旨が、次の指導要領では盛り込まれるようです。  「生きる力」の重要なキーワードである、基礎的・基本的な知識・技能の習得と、これらを活用する思考力・判断力・表現力等を相互に関連させながら伸ばしていくことが、前述の理念を具現化するためにも重要な要素であることは明らかです。  新しい指導案では、発問=問いも重要ですが、「考えることを促す指導言」の質とその効果・成果が問えるような記述をする必要が出てきそうです。

「聞き流せること」は大事な能力?

 今日の午後、やや小高いところに位置している私の勤務校にカラスの群れがやってきました。
 ここしばらくそのような動きがあったようなのですが、今日集まったカラスの数は身の危険を感じさせるほどのものでした。
 過去、このようなときに大地震が発生した記憶があるので、しばらくは注意をしておきたいところです。
 
 さて、一昨日でしたが、交差点でたまたま、子どもにお説教をしている母親の隣で信号待ちをすることになり、しばらく「お小言」を聞かされることになりました。

 思い返せば、このような「お小言」は昔、学校の先生がよくしていたように思います。

 最近、あまりそのような「お小言」先生を見かけません。
 もしその子どもが学校でも同じような「お小言」を聞かされている立場なら、よほど慣れていて、「聞き流し」の習慣がしっかり身に付いているようでした。
 
 嫌なことはただ通り過ぎるのを待つ。
 
 ある意味では優れた知恵だとも言えますし、何の進歩も訪れない、とも言えそうです。 

ふり返り366日【08/1/17】 「生きる力」再確認

[学習指導要領] ブログ村キーワード

 「生きる力」は、平成8年7月の中央教育審議会答申(「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」)で、「変化の激しい社会を担う子どもたちに必要な力」として示されました。
 その内容は、

 基礎・基本を確実に身に付け、いかに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性、たくましく生きるための健康や体力などの「生きる力」である

 というものです。

 平成20年の改訂では、この「生きる力」という理念が、知識基盤社会の時代においてますます重要となっていることから、これを継承し、生きる力を支える確かな学力、豊かな心、健やかな体の調和のとれた育成を重視しています。

 また、教育基本法改正によって、教育の理念として新たに規定されたことを踏まえて内容の充実が図られました。
 その理念とは・・・

 公共の精神を尊ぶこと
 環境の保全に寄与すること
 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与すること

 です。

 このことが、改訂の基本方針の一つ目でした。

2008/01/17 学習指導要領の理念の誤解を解く その1  教育課程部会で審議されていた課題として、「学習指導要領の理念を実現するための具体的な手立てが十分ではなかったこと」が5つ挙げられています。教師の側の問題に照らして一つずつ考えていきます。  その1 「生きる力」の理解不足  生徒に求めようとしている「生きる力」について、教師一人一人が、生徒や保護者に対して説明する能力をもっているでしょうか。  ある学校の研修に参加したときに、長時間かけて、「子どもに身に付けさせたい生きる力とは何か」についておしゃべりしている場面に出会いました。学習指導要領が示している内容を理解した上で議論しているのかと思いきや、子どもや親への不平不満のオンパレードで、決して外部にもらせないような愚痴の言い合いで終わってしまいました。そもそもマスコミが誤用している教育用語を同じレベルでしか教師が理解していない状況があることがわかります。  多くの教師は子どもに「生きる力」が身に付いていないことを十分に理解しているつもりでも、その力を身に付けさせるために「自分は何かできるか」を考えることに正対できないこと、この態度がすなわち「生きる力」を身に付けさせる指導ができない根本原因であることに気付いていません。  指導主事の研修への参加の仕方は、多くは終了間際に講評をするパターンなのですが、「今回の研修では効果が期待できませんね」とは言えないので、失敗例を参考にして、以後、研修に参加するときは、事前に当日の目標や進行について相談させてもらって、テーマの設定の仕方などをアドバイスするスタンスを取りました。  小学校は時間に余裕がありますから毎週のように開かれる研修も、部活動や生徒会活動がさかんな中学校では、「校内研修の日」を設定すること自体がそもそも難しく、その研修も時間の無駄になるようなものが多くなりがちです。ですから研修では「べからず集」を紹介したり、発言のルールを示したりする必要がありました。  たとえば、「ゆとり」か「詰め込み」かという二項対立で教育を考えるようなレベルでは何も先は見えてきません。  しかしなぜか、そこにだけこだわって延々と自分の考えを述べたがる教師が多い。学校で言えない教師はブログで愚痴を書く。たいていは「制度が悪い」と上のせいにして「自分に足りないもの」を考えようとしない。  偏った知識でワンパターンの思考経路しかとれない教師異論を認めないような反対専門家の教師何でも人のせいにしたがる教師に、「生きる力」をつけさせることが研修のねらいの一つとなります。  「今の制度を変えない限りだめだ」と言う教師を研修に参加させても、何の意味もありません。  学習指導要領に示されていることがらは、教師にとっては基礎的・基本的な知識です。なぜそのような内容が示されているのかについては、教育課程部会の審議をふまえて理解する必要があるかもしれません。

学習失敗学から学習創造学へ

 本ブログの内容のうち、「学習者」中心の視点で再構成できるものを、姉妹版として立ち上げたブログ「学習失敗学から学習創造学へ」に移行していきたいと考えています。
 「教える」「指導する」という立場から少し距離をおいて、「学ぶ」「学習する」という視点から、「生きる力」を伸ばしていく方法などを主題とします。

 以下の内容を最初に示してありますが、「やる気スイッチ」などの記事で役に立ちそうなものは、改めて姉妹版の方で追究していきます。

 

学習意欲を持続させることは、子どもの指導をしている教師にとってはもちろん、学習者としての子ども、何かを学び始めようとした大人にとっても、けっこう難しい課題です。
 
 本やTVから影響を受けたり、だれかに励まされたりして、「やる気」のスイッチが入っても、その状態を維持し継続していくことについては、多くの人が失敗や挫折を感じているのではないでしょうか。

 「学習学」を提唱した本間正人は、週刊東洋経済(2009.1.17)に投稿した文章の中で、「人工衛星と同じで、学習意欲も静止軌道に乗るまではときどき燃料を噴かしてやる必要がある」と述べています。

 すべての人や子どもがその「燃料」の役割を「コーチ」「教師」「親」にたのめるわけではありませんので、やはり「やる気」継続のための「自家発電装置」を何としても開発したいものです。

「自分・待った」という「やる気スイッチ」

 野球と相撲の競技中に見られる共通の場面に、「待った」があります。

 野球の場合は、ピッチャーに対してバッターがタイムをかけてバッターボックスをはずす場合、ピッチャーがキャッチャーとサインで折り合いがつかなくなったときにかける場合などがあります。

 この「待った」は、かけた方が有利なのか、不利なのか。
 かけられた方にとってはどうなのか。

 かけた方がいつでも有利(あるいはかけられた方がいつでも不利になる)なら、大事な場面でのこの「待った」の回数は増えてしまうかもしれません。

 私は、「待った」を自分からかけることはありませんでしたが、相手から「待った」をかけられるのは好きな方でした。
 何となく、自分が優位に立っているような気になるのと、一息入れている間に、集中力がより高まるという効果があったからです。
 おそらく自分が「待った」をかけてしまうと、「相手を待たせてしまっている」という遠慮から、集中力が失われてしまったはずです。
 
 思えば、この「待った」の間が、有効な「やる気スイッチ」になっていました。

 これを応用すると、大事な場面での「自分・待った」として使えます。
 この間に弓を引き絞るようにエネルギーを蓄え、的を見すえて、効果的な「爆発」に備えます。

ふり返り366日【08/1/16】 換気のスイッチ

 世の中の仕事のかなりの部分は、だれでも同じようにこなすことができるように「型」がきまっているものが多いのではないでしょうか。
 はじめは堅苦しく、面倒くさく感じるような文書や電話のやりとりも、慣れてしまえば当たり前のように行ってしまっている仕事、それは「型どおりの仕事」と表現してもよいでしょう。

 教育の世界でも、このような「型」を授業技術の点において事細かに決めて、点数を競い合うような団体があるように、できている・できていないがはっきり評価できるのも、「型どおりの仕事」の特徴です。

 しかし、たとえば企業の活動で、市場を開拓するとか、顧客を増やすとか、新しいミッションに対応するためには、「型どおり」では進展せず、ときには「型やぶり」の方法というのが必要になるかもしれません。

 教育現場では、授業にしろ生活指導にしろ、基本的な「型」ができていたとしても、あるいはいくつもの「型」を駆使できるベテランでも、一筋縄ではいかない場面に出くわすことがあります。
 あくまでも「型」にこだわって成功する例もあれば、それが失敗の原因になる例もあり、また、途中で切り替えることで成功する例もあれば、切り替えることで失敗する例もある。
 「型やぶり」で成功する場合もあれば、失敗する場合もある。
 失敗した場合でも、それが致命的になってしまう場合もあれば、成功の足がかりになる場合もある。

 失敗というリスクを避けるために、ぜひ追究しておきたいことは、「型どおり」やってもうまくいかないときの原因です。
 この原因のうち、最も扱いが難しいのがその場の「空気」がもたらす様々な影響です。

 会議、自治会、授業、友達グループ、・・・さまざまな場で「空気」がもたらす悪影響というのは、失敗の決定的要因になります。
 マスコミ、芸能界で個性的なキャラクターが好まれるのは、新鮮な「空気」を生んだり、よどんだ「空気」をふきとばしたりと、変化の好影響を期待してのことでしょう。
 
 何かよい「換気のスイッチ」が発明されると、問題解決の決め手になるかもしれません。
 
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2008/01/16
石川遼くんのお父さんの教育論2
 文藝春秋の特集で石川遼くんのお父さんは、ゴルフというスポーツの特性を述べています。
 「ゴルフは型が重要なスポーツです。理にかなった安定したフォームで、どんな状況になってもきちんとボールが打てることが重要で、瞬間的な反射神経などはほとんど必要ではない。・・・中略・・・型が身についたら、むしろ、それ以外の型はできないほうがよいのです。・・・中略・・・わき身をせずに、自分の型をしっかり作っていく能力さえあれば、運動神経などむしろないほうがよいのです。」(遼くんはサッカーなども得意のようですが)
 小中学校の学習や生活で、このような「」にあてはまるものが何なのか、考えてみようと思いました。
 教育で型に「はめる」という言い方だと、個性を殺すような、ネガティブなニュアンスがあります。
 校則や規則でがんじがらめにする抑圧的な教育だと。
 ただ、これまでの教育が「型にはめる」ことを極端に避けていて、必要な「型」を教えなかったために、「本当に力がない」と実感させられる現実に直面することになったのではないでしょうか。
 教室掃除で中央から最初に掃いている子ども、四角い部屋を丸く掃く子どもを中学校ではよく見かけます。「小学校で何を習ってきたんだ」と昔はよく怒ったものですが、なぜそれでいけないのか説明を詳しくすると、「なるほど」という顔をするので、本当に知らなかったことがわかります。
 「人の話を聞く姿勢をもつ」という習慣など、教育で「型」として身に付けさせなければならないことを厳選していくると、何がエッセンスになるでしょうか。

横浜市の小中一貫教育~成否の鍵~

[小中学校] ブログ村キーワード

 「小中一貫教育」と言われても、一般の方にはピンとこない部分があるかもしれません。
 そもそも小中は義務教育だし、学習指導要領のしばりもある。つまり、カリキュラム上は基本的に「一貫」である。
 学校選択自由化が進んでいますが、まだ他の区とか他県の学校にわざわざ通う子どもは少ない。

 では、「小中一貫」の具体的なねらいは何なのでしょうか。

 学習指導要領では、解説「総則編」に「教育課程の編成及び実施」の「12 家庭や地域社会との連携及び学校相互の連携や交流」という項目があり、そこで以下のように示されています。
 

学校同士が相互に連携を図り、積極的に交流を深めることによって、学校生活をより豊かにするとともに、児童の人間関係や経験を広げるなど広い視野に立った適切な教育活動を進めていくことが必要である。その際には、近隣の学校のみならず異なった地域の学校同士において、あるいは同一校種だけでなく異校種間においても、このような幅広い連携や交流が考えられる。
 
 以下、「同一市区町村等の学校同士が学習指導や生徒指導のための連絡会を設けたり、合同の研究会や研修会・・・」とあり、これまでも実際に会議は開かれてきたのですが、出席するのは研究主任や生活指導主任のため、なかなか「学校間連携」のイメージはありませんでした。
 
 小学校が、「幼稚園や保育所、中学校との間で相互に幼児児童生徒の実態や指導の在り方などについて理解を深める」ことは、「それぞれの学校段階の役割の基本を再確認することとなるとともに、・・・・幼児児童生徒に対する一貫性のある教育を相互に連携し協力し合って推進するという新たな発想や取組が期待される」と続きます。
 具体例としては、
 「近隣の小学校や幼稚園、保育所、校区の中学校と学校行事、クラブ活動や部活動、自然体験活動、ボランティア活動などを合同で行ったり、自然や社会環境が異なる学校同士が相互に訪問したり、コンピュータや情報通信ネットワークなどを活用」などと示されています。

学校行事では、たとえば小学校の学芸発表会に中学校の吹奏楽部が出向いて演奏を披露する、ダンス部が公演を行う、運動会陸上部の選手が出向いて模範演技を行うなど、小学生に「あこがれ」「目標」を持たせるようにする施策が考えられます。
クラブ活動・部活動では、中学校の生徒による技術指導、中学校の大会への小学生の見学(応援)など。
自然体験活動では、小中を縦割り班での野外レクリエーション活動など。
ボランティア活動では、小中縦割り班での地域清掃活動など。

 新聞報道では、学習指導の連携への効果が期待されているようです。
 特に小学校での外国語(英語)が必修になる関係で、小学校としては総合と同じように「無免許なので指導する自信がない。知識や技能に欠ける不安」から、中学校としては「何としても英語ぎらいをつくらないでほしい一心」から、合同研修会とかを開きやすい環境になるかもしれません。
 
 経験的には、小学校ですでに学力に開きが生まれ、中学校で拡大する「算数」→「数学」の力の育成は大きなテーマでしょう。
 
 市は具体的な行動計画やガイドラインのようなものをつくるのでしょうが、まずテーマになるのは「小学校」「中学校」の組み合わせ。
 次に連携の「柱」をどうするか、あるいは「全面的」な連携をするのか。

 いずれにせよ、大きな負担感を覚えやすいのは中学校ですから、小学校から「信じられないほどの空き時間がある人はどうして『忙しい』と言えるのか?」などと言われて感情のすれ違いを増幅しないように、・・・こういう話題を出すと無責任体質の教師は「管理職のリーダーシップが重要」などと評論家のようなことを言い出しますが、要は同じ地域の子どもの教育に対する「意欲」を温度差なく教師が示せるかどうかに成否はかかっていると言えそうです。

ふり返り366日【08/1/15】 才能を伸ばす

 私はゴルフ自体にはほとんど興味がないので、石川遼がプロになったこととか優勝したこととかCMに出始めていることしか知りませんが、父子一体型のスポーツ選手が今後も増えるのか(ゴルフがやはり主か)ということには関心があります。
 
 学校教育では習わないスポーツ(そもそも学校体育の「球技」の比重って、想像よりもずっと低い印象があります)ならなおさらでしょう。

 才能を引き出す、発揮させる、高めるためには、音楽の世界でもそうでしょうが、ある程度低い年齢から始めないといけません。
 このようなことは、「全員に最低ラインをクリアさせる」ことに主眼がおかれている学校教育では不得意な分野です。「個性重視」が大きなテーマだったころも、今とたいして変わっていなかったでしょう。

 「そんな教育は必要ない」という声があるのはもっともですが、「全員に最低ラインをクリアさせる」教育では、目標が低かったり、そのため動機付けが弱かったりして、能力のある子どもには簡単にクリアできてしまうこともあり、あまり「やりがい」がありません。

 結局、才能を発見したり、個性を伸ばそうとすると、親がやろうとしたら自分がやっているもの、できることに決まってしまい(それで才能が発揮できれば全くかまわないのでしょうが・・・また、それでも費用はかかるのでしょうが)習い事としてやらせようとすると経済的な負担になる。

 ここで、経済的に余裕がある家庭の子どもにしか与えられないチャンスが生まれるのは、不平等だ、という主張が出てくる。
  
 現在、指導要領でやっている程度の内容の取り決めは、別に国レベルでなくてもできるでしょうが(実際、それを知らないままで教育が実践されている現実がある)、低年齢時から多様な学習・運動体験をさせて、興味や「あこがれ」といった感覚をもたせたり、才能を見いだしたりする政策を実施するかどうかは、国の判断ということになります。
 ハンディをもった子ども、成長の過程でハンディをもつようになった子どもに「夢」や「あこがれ」を育てる教育の施策も、「予算」などの制約条件は一度完全に無視してみて、アイデアを出し合ってみたらどうでしょう。

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2008/01/15 石川遼くんのお父さんの教育論  文藝春秋の二月号で、石川遼くんのお父さんの記事を読みました。(父が語るハニカミ王子教育論)  とても自然体で、専門家やプロに指導を任せなかった理由もよくわかりました。「未成年のうちは父親として責任をもっていたい」という姿勢にも感動しました。礼儀正しさ、しつこいマスコミなど周囲への配慮の裏側には、テレビには(今のところ)あまり露出していない父親の教育があったのですね。  お父さんはゴルフのプロではなくても、じっと遼くんのゴルフを見ていていつもと微妙に違う部分をアドバイスできるようになったといいます。  私は大学まであるスポーツをやっていて、その部活の顧問をしているのですが、練習に参加していても、じっと1人を見続けているわけではないので、「この癖にもっと早く気づき、直してあげればよかった」と後悔することがよくあります。じっくりと観察しているより、常に自分も動いていたり、ちょっとしたことをすぐ指導したがるので、気づきが遅れるのかもしれません。  学習指導でも、こんな反省は生かせるかもしれないなと思いました。

ふり返り366日【08/1/14】 覚えるために、書く前にすること

 一年前の記事では、「手に覚えさせる」暗記方法を述べていましたが、「何度書いても覚えられない」という生徒には、その言葉をまずじっと見て、『』のように焼き付けるという方法をアドバイスしました。

 今、はやりではないのかもしれませんが、英単語の練習方法に「フラッシュカード」方式というのがありました。

 それは、つづりを一つ一つ確認するというよりも、ぱっと見た全体の印象でその単語と認識することが定着するような方法でした。

 よく知っている人の顔で、たとえば目が他人のものになっていたらすぐに分かるように、つづりの間違いがあった場合には、「何となくおかしい」という違和感を感じられるかどうかが、覚えるのが苦手な子どもにとっては重要なポイントであるような気がします。

 教科書や、単語カードの言葉を、まず、「全体のかたまり」として見る。そして、書いて練習する。書いたら、見る。
 その繰り返しが有効な手段であるかもしれません。
 慣用句を覚えるときなども、そんな方法を使っていたように思います。

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2008/01/14
「書く」ことの効用
 自己啓発関係の本で、文章を読むだけでなく、自分の目標などを本やノートに書き込むことを著者が求めているものがいくつかあります。ビジネスマンを対象にしたものですが、弘中勝著『会社の絞め殺し学~ダメな組織を救う本~』(祥伝社黄金文庫)もその一つです。動機は一般の企業や教育産業だけでなく、公教育にも求められるべき「組織改革」のエッセンスがつまっていたことにありました。(・・・しかし、「会社の絞め殺し学」のGoegle検索でこのブログがひっかかってくるとは思いませんでした。・・・)
 1ヶ月に10冊とか30冊とか冊数をノルマにして読書している人がいるかもしれませんが、何か問題を解決したいと思って読書する場合は、「読書ノート」への記録を1月1冊のように決めて、何が目標で何をすべきで実際に何をして、何が改善すべき点なのか、しっかり「書く」ことが大事だというのは経験をもって理解することができています。ただ、なかなか実践し続けられない。佐藤優は監獄が最高の読書とその記録のできる空間だったことを著書で述べていますが、そんな場は普通の人は持てません。
 塾でいうと、考えることより、ほとんど書く量を重視しているのが公文式でしょうか。進学塾でもテキストを事前に解いておき、塾では問題演習をする形式が最も実力がつくやり方です。「どれくらいの時間、考えて書いているか。」これが結果を大きく左右する評価基準になってきそうです。しかし、親という障害を除けば娯楽の誘惑がたくさんつまっている家庭では、なかなか学習時間が確保できず、「家では勉強しないから」という理由だけで塾通いさせられる子どももたくさんいると思われます。通信添削だけで実力が伸ばせる子どもは、うらやましい。
 同じことが大人にも言えるかもしれません。優れた本に出会って自己改善の習慣がつけばそれでよいのに、続かないからまた新しい本にたよっていく。よい本に出会って、自分なりの学習空間をつくっていきたいものです。
 なぜ「書く」ことの大切さを思いついたかというと、漢字を覚えるコツというのを雑誌で読んだからで、当たり前のことですが、「何度も書いて覚えるのが基本」「覚えた漢字を使って文章を書く」などがポイントだということです。
 自分の年間の職務目標を毎週の予定表に書いたりしたことがありましたが、それだけでもそれなりに効果があったものです。
 学年主任をしていたときは、毎週の学年会の資料に、いつも「学年目標」をその最初に示しておきました。教員が意識していれば、それが生徒に伝わり、だれもが共有している目標になるものです。
 「書く」ことの効用を子どもに実感をもたせ、習慣になるまで指導を続けていきたいと思います。

将来性を感じる「ジュケンブログ」

 久しぶりに?すごい将来性を感じるブログに出会うことができました。
 企業名をブログの冠にしていないところもとても好感がもてます。

 そのブログ名は、「ジュケンブログ」。

 紹介文には、「難関大学に合格した学生たちが、英語、数学、国語・小論文、理科、社会、推薦・面接、生活・テクニックについて、受験に役立つ勉強法を紹介するブログメディアです」とあります。

 執筆者は現役の大学生で、自身が培ったり人から学んだりしたノウハウが紹介されており、まだ始まったばかりのようですが、内容は充実しています。

 受験生にとっては、優秀な家庭教師を何人もタダで利用できるような雰囲気を味わうことができるでしょう。

 どこまで執筆者が対応できるかわかりませんが、「ジュケンブログのアピールポイント」には、「双方向性」が示されており、「ブログの各記事にコメント欄が設置されているので、疑問・質問があればライターに直接聞く事が出来」るしくみになっています。

 最初に「将来性」という表現をしたのは、アピールポイントの一つにもなっている「今ある参考書や塾では何か足りないところ」が埋められていることで、たとえば「カリスマお茶大生が教える やばい!日本史」(亀本さやか著、ゴマブックス株式会社)のような本ができるかもしれない(そしてこの本にはない「質疑応答」のようなコンテンツも含まれるものになるかもしれない)という気がしたからです。 

 今後のご発展を期待しています。

「確かさ」よりも「豊かさ」が大切な「想像力」

 ネットの世界は「不満・不快」などの感情を遠慮なく「はきだす」ことができるところであり、それだけで「はきだす」側には「自己カウンセリング」効果が発揮されている場だと考えることができます。

 一方、「不満・不快」の対象となった人、あるいは、自分の価値観に照らして考えると「許せない」ことが書かれたと感じる人には、その心理的キャパの度合いにもよりますが、全く逆の効果が生まれている。

 「相手を思いやる」ことがコミュニケーションの基本であることはわかっていても、その「相手」以上に「思いやる」必要がある人がいる(自分自身だったりもする)場合、言葉は相手を傷付ける武器にもなります。

 もちろん、相手を傷付けることが目的ではなく、「その相手以上に思いやる必要がある人」を救うのが目的だとしても、結果として相手は傷付くかもしれない。

 「だれの感情も害することなく、ねらいを達成する」ことは、なかなか難しいことでしょう。
 
 「相手の感情を害することを主目的とした書き込み」などに対しては、どう対処したらいいのか。

 自分の命をたつところにいってしまうほどの人へのアドバイスにはならないかもしれませんが、やはり「相手を思いやる」という姿勢はコミュニケーションの基本として、そのような態度をとるときに、たとえ自分の感情を害するために寄せられた書き込みに対しても、「どうしてこんなことが書けてしまうのだろう」「こんなことを書かなければいけないほどリアルな世界ではつらい思いをしているのか」というように、「読み手」の側が「書き手」に対して「思いやり」の想像力を働かすことが、一つの方法だと私は考えています。

 このことは、教師が子どもの問題行動などに対してとる態度と似ており、この「想像力」の「正確さ」よりも、「豊かさ」が、生徒指導上のツボになっています。
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ふり返り366日【1月13日】 価値観

 人権尊重や環境保護が「ビジネス」になってしまうような世の中をどうとらえるか?
 小中学校の「社会科」では少し難しいテーマかもしれません。
 ある映画では、「慈善事業家」という仕事や肩書きが「悪者」の最高の隠れ蓑として利用される。
 ある人は、「慈善事業」をしている人がそれを可能にしているビジネスは慈善事業ではないだろう、と言う。
 「多くの人の利益を考えて行うこと」が、「個人の利益のためだろう」と批判される。
 どの立場から見ても一つの価値観にしか写らないものというのは、何なのでしょう。
 

2008/01/13
「公」「私」「公共」プラス「私共」
 稲垣久和著「国家・個人・宗教」(講談社現代新書)は、「公共哲学」の入門書のような内容ですが、「」のマイナス面ばかりを強調しようとする偏った論調が気にかかります。
 「国家を超える市民的公共性」を具体化したいという願望を述べるのはよいのですが、「市民」の姿が理想主義的なので、「結局は理想の実現は難しそうだな」という印象を与えるだけの本になってしまっています。
 「公共の福祉」の実現には、「滅私奉公」(戦前・戦時の知識が全くないならこの語でもかまわない気がしますが)あるいは「滅私奉『公共』」の精神が必要です。別に命を差し出せと要求しているわけではなく、「みんなのためにがまんしたり、みんなのために自分の力を発揮せよ。そうすれば自分のためにもなる。環境問題の解決には、絶対に必要な精神だ・・・」程度の意味でとりあえずは認識していればいいわけです。
 「」に国、官、政府、お上、天皇といったイメージを肥大化させて保持している人々と、素直に「国民の税でまかなわれているもの」というイメージでとらえている人とでは、なかなか議論がかみ合いません。
 現実の「市民」「国民」「民衆」「庶民」「人々」の中には、「公共の利益」よりも「私の利益」を優先したい人が非常に多い(その根拠を「日本国憲法」に求めることもあります)。
 ですから現実の社会を考えていくには、公・私・公共三元論ではなく、「私共(わたくしども・・・『私共空間』という私の造語の一部ですが)」という立場も加える必要があります。「公」にも「私」にも「公共」を実現する能力はあるし、逆に「私共(わたくしども)」のために行動していまう危険もある。
 「」=政府と考え、批判ばかりしたがる人は、「公」がもっている「私共」精神の部分(とたえば、汚職など)だけを見ているわけで、自由主義の「私」については、その結果の不平等、格差の出現ばかりを批判して、「利潤を目的としているといっても、市場の原理に基づいて基本的には消費者を満足させるお金とサービスの交換を成立させる、人間の幸福追求には欠かせない存在(たとえば、テレビ局がNHKだけだったら・・)」として見ていない傾向があります。
 もちろん「」は「私共」精神を生みやすいものだし、消費者の「私共」精神を利用して不正をはたらけるもの(たとえば高額の配当をうたった投資の詐欺など)なので、これを規制・監督しなければなりません(「私」の能力に限界があれば、「公」の役割。たとえば公教育での金融教育など)。
 そこで、今、公教育に求められているものは何かと目を向けると、多額の税金を使っているのに「学力をつける」機能が十分にはたらいていない。その一つの問題として、より高い学力をつけたい子どもは、みんな高額な費用をはたいて塾にいかななければならない。経済上の理由から塾に行けない子どもが、高い学力をつける保障が日本の教育にはない。これでよいのか。・・・もちろん、「最低の学力の保障」だけが公教育の役割ならば、全員を一定レベルに上げればそれ以上の仕事はしないでよろしい。こういう主張はあってよいわけです。だから、「補習」なら塾との提携も認められる。しかし、これではすべての「市民」のニーズに合わない。とはいえ、学校にはそのニーズにこたえる能力がない。ではどうするか。「塾に行けない子どもは、家で勉強しろ。高い学力がつかないのは、家庭学習ができていないからだ。責任は子どもにある。」と開き直れるかどうか。共産党や教職員の組合などは、開き直っていいと答え、「市民」と対立している。朝日新聞は、開き直ることはできない立場を「天声人語」で表明しました。
 公立学校と進学塾の提携が、「公共」の精神に基づくものなのか、「私共」精神によるものなのか。「開かれた学校」とは何か。

ふり返り366日【1月12日】③ 道具としての指導主事

 指導主事がただの「行政の道具」にすぎない存在にならないよう、当事者が自覚して「頑張る」しかありません。
 指導主事に限らず、現場から行政の場に出て、「いかに自分の言葉で語れないことが苦しいことか」と実感してきた人は多いでしょう。
 管理職のほとんどもそうかもしれません。
 ブログでまでも教員向けの「いい顔」をしなくてはならない管理職とは哀しいものです。

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2008/01/12
指導主事任用制度の大失敗
 指導主事の資質低下の問題は、自分自身に照らしてもよく理解していましたが、東京都の場合、それが危機的状況にあることを人事部が公表しています。
 任用制度の大失敗は人事部も早い時期に自覚していたはずですが、「失敗学」で失敗のメカニズムが解明されているように、壊滅状況が現実味を帯びるまで、路線を変更しないことはよくあることです。
 指導主事任用試験の合格倍率は、A・B選考が始まった平成12年度で7.8倍あったのが、平成19年度は1.4倍に低下しています。「指導主事の質が落ちた」ことは以前から批判されていましたが、それを如実に示すデータが公表される中、批判にさらされつつ仕事もよくわからないまま任務を遂行している方たちには、気の毒な思いもあります。しかし、指導主事が「結果」を出さない限り、今後の受験者の減少に拍車をかける要因にもなるため、がんばってもらうしかありません。
 32歳の若者から、子どもとぶつかり合う権利?を奪って行政職に任用するわけですから、人事部には、そういう人材を殺さないように活かす使命を果たしてほしかったのですが、公表された選考・任用制度の変更では結局問題の改善を期待することはできません。
 教育委員会についてほとんどの教員は知識を持っていないので誤解のないように解説しておくと、人事の施策を考えるのは、教員出身の指導主事ではなくて、教育については素人であるプロの行政マンです。
 教育委員会の中で、指導主事や校長から任用された指導室長の意見がしっかり取り入れられる素地があれば、今回のような任用制度の失敗は防げたはずです。
 昔は、教科の専門性が高い優秀な指導主事がたくさんいましたが、研修・研究機能の規模を縮小したり、人事部が任用制度を変更したため、指導主事を尊敬の対象とするような教員が生まれる学校の文化は失われてしまいました。学校に出向いても「コケ」にされるのがオチです。これをバネにして指導力を高めた指導主事も昔はいたようですが、5年たったら副校長、校長というレールを進むようになるわけで、指導主事としてのノウハウを伝達する場もなくなりつつあります。
 指導主事の職務には、教育施策の立案・調整、学校経営の支援、学習指導・生活指導に関する指導助言などがあるため、非常に高度な能力が求められます。この能力を育成するシステムが、現行の任用制度では根本的に欠けているわけです。しかし、「現行制度の理念の継承」をうたっている以上、この世界に希望のもてる未来はありません。
 この問題は、和田中の夜スぺが実施されようとしていた教育の状況とよく似ています。

メダリストのオーラ

 オリンピック2大会連続オール1本勝ちという快挙を成し遂げた柔道の谷本選手は、緊張する試合前の集中方法として、「できる」という字を3回手に書いて飲むという「儀式」をしているそうです。

 その谷本選手が、コーチから「今大会、金をとる選手は同じオーラが出ている」と言われて、「どうしたらオーラって出せるんだろう?」と思ってしまったそうです。
 「ベストスマイル賞」をとるほどの選手ですから、そのポジティブでとにかく明るいキャラというのは、他の人が真似ができない独特のオーラとなってまわりを勇気づけてくれます。

 ある特定の人に対してすべての人が「オーラが見える」というものではなくて、やはり「あこがれ」を感じるとか、「たのもしさがある」とか、「自信に満ちあふれているのがわかる」とか、そういう受け手の感じ方が大きいのだと思います。

 今週、お話をうかがうことができたメダリストは、皆さんとても「明るい」人です。
 「明るさ」は周囲を照らすことにもなり、みんなが「共にいる喜び」の感覚を味わうことができます。

 ハンディキャップを背負った方も、「ハンディは不便ではあるが不幸ではない」ということを、実感がよくつかめる題材でお話していただきました。

 「こつこつ型」の努力苦しい練習は、本人になってみないとなかなかわかりません。
 自ら多くの欠点に気付き、指摘され、研究し、克服していくプロセスというのは、なかなか想像することも難しいものです。

 「苦しさ」が「明るさ」に変わるそのときを体験できることは、人間にとってたいへん幸せなことだと思います。
 
 教育現場で、本当に「苦しい」職場を、「明るさ」だけで乗り切ろうとした人もいますが、やはり「苦しさ」から「明るさ」に切り替わっていくプロセスが重要です。
 そのためには、自らの課題に正対する姿勢が大事です。
 
 「壁をどう乗り越えるか」という話題もありましたが、「」は「次に進もう」という気概がある人が、自ら呼び寄せるものである、という言葉はまさにポジティブ・シンキングの典型的な例です。
 
 「壁を乗り越える」「壁自体をぶちこわして進む」・・・その過程を学べるのが本当の成長の鍵なのかもしれません。
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ふり返り366日【1月12日】② 優先順位が高い「敵」 

 マスコミにとって(特に朝日新聞にとって)、たとえば「都教委」は優先順位が高い批判対象です。
 ただ、優先順位だけを重視すると、批判記事の内容にも歪みが生じてしまいます。
 自分が批判するよりも安全なのは、批判したい相手を批判している人間を記事にすることですが、この人のピントがずれてしまっていると、「批判のための批判だ」という印象が強くなってしまうリスクがあります。
 教育に関しては、これまでその手の失敗が繰り返されてきましたが、今後も同じような失敗が生まれることでしょう。
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2008/01/12
失敗作?の天声人語
 和田中での「夜スぺ」について、「都教委批判」だけを目的としたために、問題の所在をよく理解しないまま執筆したことがわかってしまった天声人語(1月9日)がいくつかのブログで批判の対象になっています。確かに、珍しい(?)失敗作コラムです。
 石原都知事と同じ意見になってしまったことを苦々しく思う人も多いようですね。
 すでに述べたように、「夜スペ」実施は公立中の問題ですから、これは杉並区の教育長が責任をとればよいことであって、都教委の指導というのは、「共産党議員の抗議に適切な対応ができるよう、藤原校長と杉並区教育委員会は用意をしておけ」と助言したという図式で考えればよいわけです。
 夜スペ実施に反対の人の意見を読んでみると、いろいろな考えのベースがあることがわかって参考になります。
 意見は大いに出されるべきであって、議論しあうことで学校教育のあり方が改善される方向に進めばOKです。
 塾生ならよくわかっているSAPIXの経営方針・教室経営の本質が明らかになってくると、教育の問題がより浮き彫りになって議論が深まるかもしれませんね。

一番好きな「授業」のイメージは?(投票にご協力ください)

 FC2無料投票レンタルを利用して、アンケート調査欄を設けさせていただきました。
 もしよろしければ、アンケートにご協力ください。
 最初に設定した質問は、

一番好きな「授業」のイメージは?

 です。
 一応、選択肢は以下の8つを設けてあります。

やる気がおこる授業
参加型の授業
おもしろい授業
あたたかい授業
優越感がもてる授業
わかりやすい授業
やりがいのある授業
飽きない授業

 「受けたい授業」「好きだった授業」「受けてみたかった授業」「自分がやりたい授業」など、適当に読みかえていただいてもかまいません。

 これらのいくつかを組み合わせたい、というお考えもあろうかと思いますが、もしこの中で一つだけ選ぶとしたら、という前提でお答え下さい。

 コメント欄は設けてありませんが、よろしくお願いいたします。

ふり返り366日【1月12日】① 子どもの不幸を教師の不幸にすりかえる内田樹

 賞味期限があるような教育内容は、「本物」とはいえない、そういう批判があるかもしれません。
 ただ、現場では、適切な時期に、適切なタイミングで、適切な量を指導するという臨機応変な対応が必要になる場合があります。
 継承されてきているよい学習内容が、その提示のタイミングや方法を誤ったために、「熟成されたもの」ではなくただの「古くさい」「使い古し」の教材になってしまうという場合があります。
 ですから子どもとの呼吸の取り方というのは本当に難しいものです。
 まず、何を求めているか、何を必要としているのかを受けとめる姿勢が必要です。

 内田樹の「昭和のエートス」(バジリコ株式会社)の「惰性の手柄」の中に、このような一節があります。
 

今日の教育改革や教育再生論はむしろ「教卓のこちら側」に立っている教師が何を知らないか、何をできないのかを網羅的にリストアップし、それをうるさく言挙げすることに熱中している。だが、その査定的な視線はただちにこどもたちにもまた共有されることになることを忘れてはいまいか。子どもたちが評価表を手に「教卓のあちら側」をみつめ、自分たちの学習が十分な習熟に達しないのは「教師にどのような能力適性が欠如しているせいか?」という問いをつねに優先的に立てるようになったときに学校教育はどのように崩壊するか、それについて彼らは少しでも想像したことがあるのだろうか?

 「網羅的」「うろさく」「熱中」「査定的」「つねに優先的に」・・・こういう言葉を織り込んでいくことによって、子どもにとっての不幸を教師の不幸にすりかえる印象を与えています。
 これが内田樹の教育論の弱さであり、「論争をしない」という無責任体質そのものを如実に表しています。
 
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2008/01/12
消費期限切れを隠そうとする「公」の論理
 学習指導要領の総則に、「指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項」というものが中学校では12項目あります。そのうちの1つが、「各教科等の指導に当たっては、生徒が学習内容を確実に身に付けることができるよう、学校や生徒の実態に応じ、個別指導グループ別指導、学習内容の習熟の程度に応じた指導、教師の協力的な指導など指導方法や指導体制を工夫改善し、個に応じた指導の充実を図ること。」になっています。
 個人差が非常に大きい公立学校で、「個に応じた指導の充実」が図りきれないために、和田中がとろうとしている手段が「進学塾との連携」です。
 配慮事項には、「開かれた学校づくりを進めるため、地域や学校の実態等に応じ、家庭や地域の人々の協力を得るなど家庭や地域社会との連携を深めること。」もあります。多くの子どもが塾に通っている都市部では、地域社会に「塾」が含まれると考えることもできます。
 和田中の進学塾との連携に反対する意見の中に、「塾の先生の方がわかりやすい、ということが子どもに伝われば、学校の教師の立場がなくなる」というものがあります。
 しかし、このことはすでに塾に通っている子どもの実感であるかもしれず、教師以外のすべての人々は「子どもにわかりやすく、楽しく、実力をつけられる授業」を望んでいるわけで、明らかに「消費期限切れ」の知識を注入しているような教師には、塾の講師からでもよいから新しい知識、よりよい教材、確かな学力がつく学ばせ方を学んでほしいと願っています。実際に授業をしていますから「偽装」するわけにもいかない教師が、「公」を守るという名目で「消費期限切れ」を隠そうとする論理はみじめに見えるだけです。
 いずれにせよ、公立学校も「生徒全員に一斉指導をして理解度を図れば終わり」というわけにはいかないので、学校がどこまで「個に応じた指導の充実」を図ることができるかが問われなければなりません。

「~くさい」教育

 「古くさい教育」と言ったら、どんなものが想像できるでしょう。
 「くさい」のイメージから、時代遅れでよくないような印象もありますが、「新しくてよい教育」のイメージが薄弱なせいか、どことなく憧れるような、ちょっと受けてみたい気のする印象も感じることができます。

 日本人は「におい」に敏感なのでしょうか。

 「~くさい」という言葉がたくさんあります。
 
 直接的な「臭い」に関わる言葉としては、

 汗くさい
 カビくさい
 焦げくさい
 酒くさい
 磯くさい

 「臭う」わけではありませんがマイナスイメージのある言葉としては、

 ケチくさい
 貧乏くさい
 うさんくさい
 青くさい
 小便くさい
 素人くさい
 邪魔くさい
 鈍くさい
 面倒くさい
 陰気くさい
 しゃらくさい

 まんざらマイナスでもない言葉としては、

 照れくさい
 男くさい(?)

 偶然かもしれませんが、熟語で「くさい」がついて、マイナスイメージのあるものは

 悪妻
 厄災
 国債(?)
 独裁
 爆砕
 玉砕 

 マイナスイメージのない熟語は

 国際
 無病息災
 白菜
 祝祭
 
 熟語は別として、「臭いから探る日本文化」なんていう研究はあるのでしょうか。
 
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ふり返り366日【1月11日】 「適性検査」対応の塾

 今は、進学塾を選ぼうとするとき、ネットで検索するとどの教室でどのような講師の求人が出されているか、時給はいくらかなんていう情報まで入手できてしまいます。
 
 口コミで広がっていく情報なのかどうかわかりませんが、同じ進学塾でも、よい生徒や教師が集まっている教室というのが決まっているそうで、家の近くにその塾の教室があるのに、わざわざ遠くの教室まで出かけて授業を受けている子どももいるようです。

 意識も実力も高い受講生が集まってくると、好循環になってますます実績が上がっていく、そんな図式になっていることが考えられます。

 競争原理を公教育で否定する考え方は、「選ばれる対象にならない」学校や、「意欲のない」生徒というイメージを誇大につくりあげて、成果が出ない原因を他に転嫁する仕組みがあるとこれまでも書いてきましたが、競争原理に反対しつつも成果だけはどんどん出していく、そんな学校が増えれば変なアレルギー反応は消えていくでしょう。

 都市部では、入学試験ができず、「適性検査」を実施して生徒を募集する公立の中高一貫校対策を実施する塾が増えてきました。
 この塾での学習を行っておくと、当日の適性検査のできがとてもよくなる、という口コミがあり、人気も出ているようです。
 公立中高一貫校はまだ大学進学実績が出ていませんから、今後の人気は未知数という予想もありますが、これまで「中学受験」への関心が低かった地域へも急速に「受験熱」が広がっており、ニーズは増えていくと思われます。
 
 「適性検査」は「学力検査」とは異なるとは言っても、やはり教科の学習がきちんとできていないと(特に表現力が鍛えられていないと)、得点がとれません。 

 「詰め込み型」とは異なる、表現力重視の学習が、どのように現場で定着し、裾野を広げられるか。
 塾の教材がどのように充実し、「おもしろい学習」になるか。
 今後の動向を見守っていきたいと思います。

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2008/01/11
学校と塾の望ましい連携とは?
 難関校に進学する生徒の多くは進学塾に通っています。しかし、それらの生徒の中には進学後、実力?が発揮できず、「本当にこの子の学力は高いと言えるの?」と思われてしまうことがあります。
 大学でも同じ実感をもっている教師が多いようです。
 知識量の差で合否が決まるような入試問題を出している学校への対策として、進学塾は網羅的に知識を注入させつつ、効率よく点がとれるように指導しています。
 PISA型に対応した学力が日本の高校生に育っていない背景に、こうした入試問題やそれに対応した塾の教育?があることは明白です。
 そういう塾の教育の問題点をふまえると、塾が学校と連携し、「暗記重視の入試対策ではない、学ぶ楽しさが味わえる本物の学力を育成できる教材づくり」に取り組んでくれるとしたら、評価すべきことかもしれません。
 学校ではできない成績上位者の「能力向上策」と、進学実績・営利至上主義の塾ではできない「本物の教材開発」が合体して、よい成果が出せるのであれば、評価できる取り組みになるのですが。

キャンパス内での殺人事件

 附属池田小事件のことにふれたばかりですが、今日は東京都文京区、東京ドームの近くにある中央大学理工学部のキャンパスで、45歳の教授が殺害されてしまいました。
 
 犯人が逃走中であるため、文京区は様々な学校が集中している地域でもあり、下校時の児童・生徒にも注意がよびかけられました。

 大学の教師が殺害された事件といえば、平成3年の7月に、イギリスの作家サルマン・ラシュディ氏の執筆した「悪魔の詩」を翻訳した筑波大学の助教授(当時44歳)が何者かによって刺殺されました。この事件の場合は、「悪魔の詩」がイスラム教に対する侮辱であるとして、当時のイランの最高指導者ホメイニ師から、執筆者や出版関係者に対して「死刑宣告」の声明が出されていたという経緯があり、記憶に残っています。

 今日の事件の原因や背景はわかっていないようですが、中央大学では、明日から通常の授業を行うそうです。
 
 学校内、キャンパス内でおこる事件というのは、それ以外の場所でおこる事件よりも、関係者にとって強い衝撃を受けることになります。

 実際に、附属池田小事件で深く心を痛め、何かのきっかけでそのときの苦しみがよみがえってくる子どももいるようです。

 そのようなことを考え、校内の安全を重視するような方策をとろうとすると、「外で起こるのならかまわないのか」という批判が上がることも想定できますが、そういうわけではもちろんなく、どのように安全・安心を維持していくか、命を守るか、ということについて、それぞれが考え合うことが必要だと思われます。

ふり返り366日【1月10日】 学校に「入る」人

 附属池田小事件が起こった当時は、「開かれた学校づくり」がキーワードになっており、「いろいろな人が学校に入って教育活動に携わることができる」イメージができかけていたのですが、「入ってきてもらっては絶対に困る人」がいることの方がクローズアップされ、どちらかというとそれまで以上に「閉じた空間」(ただし決して「安全な空間」にはなりきれない)イメージが強くなってしまいました。
 私が知っている都市部の学校では、外部から学校に入るためには、受付を通って名札をつけるのが一般的になっています。
 保護者は一家に一つ、入学当初に名札を配布されているところもあるのではないでしょうか。

 このようなタイプの管理を徹底させようとすると、近未来には、どの国民もICチップ入りの身分証明書を常備していて、電車の改札のように近くでふれなくてもスキャンできる技術ができ、さまざまな施設を利用するたびにチェックされ、いつどこにどのくらいの時間いたかという記録が残るようなシステムができるかもしれません。

 などでは、入室時退出時にカードでタッチすると、親の携帯などにメールでその情報が送られるサービスもあるようです。

 企業と同じように生徒もカードで登校時間などをチェックされ、各教室の出欠管理もコンピュータに記録される・・・出席簿をつけるなど教師の事務的な手間は省かれるかもしれませんが・・・。

 高齢の方が替え玉受験を試みられたようですが、本人確認という作業は、情報の悪用を防ぐために欠くことができないものです。指紋照合機能があるカードも一般化してきました。
 
 まさか将来、生体に埋め込むタイプのICチップなどはできないでしょうが・・・カードを持つのが一般化して、それはなくすと面倒だ、という人が、ピアスをつける感覚で行うかもしれませんね・・・。
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2008/01/10
学校の機能拡大は可能か?
 多くの学校の教育課程に、「個に応じた指導の充実」という項目はないでしょうか。
 具体的に実践できて、確かな成果を出しているのでしょうか。
 和田中の進学塾導入は、「中学校の教育課程では成績上位者の能力をより高める指導は不可能である」ことを証明したもので、たいへん正直な方策だったわけです。
 「和田中の成績下位者への手だては十分なのか」という批判をしている人もいるようですが、土曜日にちょっと補講をした程度で、成績が簡単に上がるわけではありません。成績上位者の個人差は中学校では大差がないのですが、下位者の個人差は計り知れないものがあります。どこでつまづくのかが予測できません。ですから下位者の場合は塾に通えば必ず成績が上昇するというわけでもないでしょう。塾が成功報酬制だったら本当に本気で宿題もやらせるでしょうが・・・。
 入塾にあたって試験をするような進学塾は、教材をたくさん与えて宿題を課しているのが普通なので、結局は本人が自分で机に座って目の前の教材に取り組めるかどうかが大切なわけです。本人と親のモチベーションは、「大金を払っている」という事実によっても大きく高められている。「やらなければ(成績を上げなければ)損」。
 和田中の場合は、「全国でここしかやってない授業、テレビの取材が入る授業、有名人が校長」ということをモチベーションの要因にしているため、授業料が半額になるというマイナス要素?があっても成果が期待できたわけです。
 都教委からストップがかけられましたが対策は簡単なもので、学校外でやればよいだけです。もともと主催者は学校ではないわけですから。余計なお世話ですが、「和田中の生徒だけが得をする」というひがみは避けられませんが、実施者(塾)が半額でもやるというのなら別にだれも文句は言えないわけです。
 学校というのは不便なところで、体育館やグラウンドの開放というのはやっていますが、法令で施設の目的外使用を禁じられているので、PTA活動ではなく、企業が主体になって「エアロビ教室」とか「生け花教室」とか、そういう営利活動をしてはいけないことになっています。放課後に学校で「学童保育」ができないのはどうして?と思われる方がいるかもしれませんが、法令上できないわけです。
 しかし、おそらく将来的には住民が安い料金で近所の学校を舞台に開かれる「何とか教室」を利用できるようになるのではないかと思われます。子どもがいない住民も学校の運営費にあてられる税金を払っているわけですから、PTAでなければ参加できないしくみはおかしいし、やはりプロが運営してくれればPTA役員に負担がかかることもありません。料理教室でも何でも、生涯学習の拠点の「場」としての役割を学校が果たすようになる日は近いはず。
 ここに塾が参入する場合は、やはり最小の予算で最大の効果を発揮させるために、「能力に応じた等しい」指導ができる体制をつくって授業を実施することになるでしょう。
 藤原校長は、このような「場」の提供機関としての学校像もイメージしているのではないでしょうか。
 定時制のある高校や、夜間中学のある学校のように、生徒が入れ替わるイメージで、公務員としての勤務時間内は法令どおりに学校施設を使い、土日や平日の夜、長期休業中などは校長裁量で希望する団体、企業に「場」を提供するようなしくみになれば、学校が地域のコミュニティーセンターになり、教育への予算配分の増額が世論の支持を得るようになるのではないでしょうか。

「やる気」への予算配分(文科省)

 文部科学省観光庁が行う公的な団体・組織に対する予算面での支援は、「効果が期待できる計画」「効果を出してきている実践」「自分たちのやる気と努力をかってほしいという意気込み」があるところに重点的に配分する、そういうスタンスをとるようになっているようです。

 これは、短期的な評価ですが、「費用対効果」について(少なくとも「税金の無駄遣い」と言われないように)チェックがかかるようになっていますから、方針としては当然のものです。

 ところが、このような政策が、公教育に関して、結果として一部の学校に予算が配分されることになり、公平ではないという反論があります。

 このような教育政策を長い目で見て、(本当にわずかで、たいていは印刷代などでなくなってしまう予算ですが)研究が成功し、そのノウハウを体得した教師が異動先でも成果を上げていく、あるいは近隣の学校にも研究成果が波及していく、そういうことになればプラスだと考え、賛成するという立場もあるはずです。
 一方の反対意見は、主に短期的な効果や影響をふまえたものであると考えられます。

 「うちの学校は手を挙げない」という根拠にも様々なものがあるでしょうが、「隣の学校が手を挙げられるのは困る」という感覚として、たとえば近隣のためよく比べられる他校が授業改善に非常に前向きになって教職員が一致団結してしまい、生徒のやる気も高めて成果を上げてしまうと、相対的に「見劣りする」学校になってしまうのが嫌であるという理由が考えられます。

 「競争原理」といっても、市場経済のそれほど「弱肉強食」ではない教育界にあって、その導入はよくないという考え方には、「相対的に劣る」「負け組」という評価を受けることへの懸念というものがあるのでしょうか。

 いずれにせよ、「手を挙げる意欲のある学校」がどのくらいあるのかということが、一つの注目点であるとともに、「どんな実践を提案しようとしているのか」を他の学校は参考にすることができます。

 このような募集は、国→県→市町村と伝達されてくるのですが、通知にタイムラグがあり、学校が受け取ったときにはほとんど締め切り間近だったというケースが多々あります。
 しかし、意識の高い管理職が教育行政の動向に関心があれば、すぐに教育委員会に打診するということが今ではできるようになりました。

 結局、「実のありそうな提案」が少なく、教育委員会を通じて「割り当て」制のような形で決まることがないことを願っています。
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ふり返り366日【1月9日】 国と子どものパイプ

[学力テスト] ブログ村キーワード
 「格差が広がる」といったとき、上はより上へ、下はより下へ、というようなイメージが連想されないでしょうか。
 その他にも、上はそのままで、下がさらに下がっていくケース、下はそのままで、上があがっていくケースがあり、また、全体として上がっているが、上の上がり方の方が、下の上がり方を上回っている、そんなケースもあるわけです。

 今、学力向上といったとき、学校は何に最も力を入れるべきなのでしょうか。
 下位層を引き上げることが重要なのは、言うまでもないことでしょう。
 藤原元校長は、下位層だけに手厚くするのはおかしいと考えて、上位層をさらに上げるために「進学塾」を利用しました。
 すると、公立中ではそこまでする必要はない、という批判が出ましたが、実際に行っているのは「公立中の教師」ではなく、「公立中」は場所を提供しているだけでした。
 このような事例を通して、「目的外使用」ができない「公共施設」のあり方についての議論が高まれば、と思っていましたが、なかなか簡単にはいかないようです。
 
 学力向上の課題や、その「学力の質」について、学校から子どもたちへはきちんと届いていないかもしれないのですが、現在は、「全国的な学力調査」によって(教科は限られていますが)、「どのような学力が求められているのか」というメッセージが国から子どもへ直接伝えられるようになっています。
 これまで、「教科書」では十分に伝わらなかった「メッセージ」が、今では「テスト」によって直接伝えられるようになっています。
 
 このことは、今後様々な教育の場面に波及していくことと考えられます。
  
 たとえば、教科書
 「知識」と「活用」が意識された編集になることは、間違いありません。
 これは、国語と数学(算数)に限ったことではないでしょう。

 教科書が変われば、おそらく授業が変わり、学習が変わります。
 その時点で、学力が確かについていくかどうか。
 新しい学習指導要領が完全実施になるまで、しばらく学力問題には「空白の時間」が生まれてしまいますが、「採択したくなる教科書」とはどのようなものか、そのような話題がちらちらと出てくることでしょう。
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2008/01/09
格差が生まれないことをみんな求めているの?
 和田中での進学塾開講への都教委指導に関して、共産党の区議など憲法擁護・教育基本法改正反対の立場の人たちは「適切だった」と判断しているようです。
 公立中学校で「格差」を生む自由主義的な行動には反対という意見ですね。
 学校選択自由化や学校間競争に反対する論理と一緒のようですが、この議論には「機会均等」だけでなく「結果の平等の保証」までが入り乱れていて「現実として何を求めているのか」分からない主張の人たちがいます。
 和田中では、すでに藤原校長の後任の内定をもらった民間の人の「次期校長としての意気込み」が公開されているのも知りました。
 このような常識では考えられないことを次々に実現してくれた藤原校長には頭が下がる思いです。
 藤原校長でなければできなかった学校運営なのか、だれでもできるのかが来年度以降、わかることになります。
 日本人は「テレビに出ている人」というだけで神様扱いする傾向があるので、地域の人材や保護者たちへのボランティア活動を維持していくためには、そういう露出度は継続していくべきかもしれませんね。藤原校長のねらいはそこにもあったのかもしれません。

ふり返り366日【1月8日】② 今年の改善点

 仕事が増えれば増えるほど、無駄な時間を省いたり、効率的に仕事を消化したりするスキルが身に付くものです。
 整理整頓、運動、予定表による進行管理などは、やはり責任を持たされて気持ちが張っていると実現しやすいことのようです。
 ただ、仕事が「創造性」「新しさ」を求められるもの、テーマが大きなものである場合には、簡単にはいきません。

 人によっては、散歩するとき、トイレに入っているとき、眠る直前など、机に向かっていないときの方が良いアイデアが浮かぶといいます。 
 私の場合は、何か単純な作業、たとえばデータの打ち込みとか、新聞・雑誌の切り抜きとか、資料の整理などをしているときに、いいアイデアが浮かぶ場合があります。
 これは「手や目の運動」と何か関係があるのでしょうか。

 今年の課題は、様々なアイデアを寝かせる時間をしっかり確保することと、その熟成度を上げていくことでしょうか。
  
 「今年こそ改めたいこと」・・・3ヶ月もたったら忘れてしまっているのかもしれませんが、1年前は以下のような記事を書いていました。
  
 今年は、感謝される立場よりも、感謝する立場にたくさんなれるよう、祈っていたいと思います。
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2008/01/08
今年こそ改めたいこと
 これもNIKKEIプラス1(昨年の12月29日号)で紹介されていた「来年こそ改めたいこと」のランキングを教育現場風に示してみると・・・
1位 職員室や印刷室などの整理整頓ができない
 方策→生徒の美化委員(美化係)に評価をさせてみては?
2位 運動などが飽きっぽくて長続きしない
 方策→スポーツクラブなんかに通わずに、部活で子どもと汗を流してみたら?
3位 やるべきことを先送りする
 方策→職員室に進行管理表を掲示してみては?
4位 一日の時間の使い方が下手
 方策→会議の進め方など、無駄を削る努力を全員でしてみたら?
5位 物が捨てられない
 方策→職員室の大掃除を夏休みや春休みに全員で実行してみたら?
6位 自分に甘く、まあいいやと思ってしまう
 方策→それが許されるくらい、PTAと仲良くしてみたら?
6位 過ぎたことをくよくよと気にし続ける
 方策→ブログで公表してストレス発散してみては?
8位 短気ですぐにかっとしてしまう・怒鳴る
 方策→同僚にその場面をビデオ撮影してもらって、みんなで鑑賞してみては?
9位 心配性、小心者
 方策→心構えはそれで結構。ただし必ず行動をおこすこと。
10位 衝動買いや浪費癖
 方策→予算の執行はなるべく早く。年度末直前の購入は禁止。
11位 感情が顔に出てしまう
 方策→鏡を見る。
以下、省略しますが、多くに共通する解決策は、「優先順位を定める」ことでしょうか。
 今年1年も何とか乗り切りたいものです。

ふり返り366日【1月8日】① 和田中と進学塾

 公立中学校での進学塾開講。
 この話題もちょうど1年が過ぎようとしていたわけですね。

 5月には杉並区の住民が監査請求を行うなどの動きがありました。
 私企業が公共施設を利用することに我慢がならなかったようです。

 私企業のように「企業名」がきちんと「看板」の役割を果たし、信頼があるということを、「」の立場の人間が利用するのはなかなか難しいことです。

 和田中で始まったことは、学力向上とは別に、地域と学校との関係>、「公」と「私」との関係「公」の存在意義などを見直す契機になっているはずです。

 マスコミが和田中関係のニュースを積極的に(批判的に)取り上げていないということも、「マスコミ」の本質や存在意義を改めて考えさせてくれるきっかけになっています。
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2008/01/08
和田中での進学塾開講
 和田中での進学塾開講に都教委から指導が入ったという報道がありました。
 塾の件は周知されてからずいぶん時間がたってからのことだったので、おそらく都議か都民からのクレームが原因でしょう。
 よく行政や教育委員会のことをご存じない方が批判の対象にされている記事ですが、基本的には藤原校長の上司である区の教育長の責任で実施できるものなので、「やめさせるという圧力」と感じ取られてしまうようなことを言う必要はなかったのですが、都議や都民の圧力に都教委は勝てませんから。
 おそらく進学塾の通常の教材・講義ではなくて、「学力向上」の一環として、今までやってきたような土曜補講の「補習」ではなく「発展学習」バージョンをやろうとしたのだと思われます。校長が教材作成にかかわるというのはそういう意味でしょう。
 そのように説明すれば全く問題はなさそうですが、「半額でも授業料をとる」ところあたりは批判の対象になりそうです。
 藤原校長もそういう批判への準備はできていると思うので、どんな対応をされるか楽しみにしています。

ふり返り366日【1月7日】 目標管理

 偽(07)→変(08)ときた「今年の漢字」ですが、2009年はどのような年になるのでしょう。

 未来予測というのは、楽観的・前向きなものを発表するより、悲観的・後向きなものを発表する方が、はずれたときの非難が少なくてすむので、精神的にも「楽観的・前向き」に行うことができます。

 同じように、「目標」というものも、それを「管理」されるものとして設定しなくてはいけなくなると、達成困難なものはあまり設定せずに、容易に達成できそうなものばかりにする人が増えてきます。
 これは、「目標」として設定して達成したいことよりも、自分への評価の方が大切な人の考え方であり、よって「設定段階」ですでに一定の評価ができてしまうことになっています。

 学校がとるべき「説明責任」は、結果やその分析についてだけでなく、目標やそれを達成するための実践の計画実践の経過実践上で必要になってくる協力や連携などで、それが「開かれた学校経営」の一般的な姿と言えます。

 公立学校にとって少しネックになるのは、「新学期が始まってみないと教師たちが実際にどれくらいの実践をしてくれるかわからない」ところにあります。
 初任者がいるところはもちろん、異動してくる教師も前任校の実績だけでは判断がつきかねます。
 教師の入れ替わりが頻繁な学校は、そのことだけでも大きな課題になりそうですが、最低限、学校として何を目標にして実践しようとしているか、何を研究の柱にしているか、などについての共通理解をもっていてほしいものです。

 教師は個別にはたとえば6年間で達成したい目標があったとしても、子どもは中学校なら3年間しかいられないわけですし、各学年、普通は一度しか経験できません。
 教科によっては一度つまずくと後で何とかしようと思っても難しいものもありますし、教師との関係が原因で続けられなくなったことをその学校で取り戻すチャンスは限りなく小さいものになります。

 そういう意味で、教師の側でも目標は一年一年しっかり見据えるべきことであり、たとえば今は20年度の仕事の総括を行う時期でしょうが、その中から必ず21年度の目標の輪郭が見えてくるものだと考えられます。

 東京都が現在実施している人事考課制度は、キャリア・プランも含め、自己申告を用いた能力開発型の評価システムになっています。
 ただ、厳密に言うと、教師が専門性を発揮する、職務の中核としての教科指導に関する目標や評価を記入するスペースがあまりに小さく、別途の資料が必要になると考えられます。
 それはたとえば「週案」等で十分に評価が可能であるかもしれませんが、研究・研修との関連や、各学年の生徒の学習の実態等を踏まえた成果と課題を明確にすることが重要ですから、「組織運営」と「教科指導・研究や研修」と二本柱にすることも考えられます。

 それが実現すると、また「雑務」を増やすのか?という批判が起こりそうですが、管理職が学校独自の評価システムを確立し、希望によって管理職がその評価表を管理する仕組みにすることもできます。

 「」「改革」は、それを受け入れられない人、「改善」と捉えることができない人によって結果的に「改悪」となるという問題を抱えています。
 「改悪」だという前提があれば、自分の「失敗」を「改革」のせいにできるからです。
 どんなことでも「改善」に結びつけようとする、自らの努力や責任の範囲で成果をめざし、課題を発見してさらに新しい「改善」をめざす・・・そんな姿勢自体が教育的に子どもに影響するはずなのですが、残念ながらその逆の方が一般的なのかもしれません。 
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2008/01/07
漢字1文字で教育界を表すと?
 NIKKEIプラス1で「今年と来年、漢字1文字で表すと?」の特集で、2007年の上位は「忙」「疲」「変」「忍」「苦」「耐」で、2008年の上位は「楽」がダントツ1位、続いて「笑」「健」「幸」「明」「実」でした。
 漢字は1文字にもいろいろな意味があるので、「楽しい1年にしたい」のか「仕事の荷をおろして楽になりたい」のかわかりませんが、上昇志向、プラス思考をもちたいという願望はよくわかります。
 もし「学校の1年はどうだったか」「今年はどういう年にしたいか」と教師にアンケートをとったら、どういう結果になるでしょうか。
 今年は新しい学習指導要領の告示がありますので「変」の年か。相変わらず「忙」「疲」は変わらないのか。
 学力調査の不正や進学実績で「偽」が発覚しましたが、このほかに、学校には「偽」はないのか。
 この2007年の「偽」を受けて、私が2008年に選びたい1文字は「真」です。
 蛇足ながら、この「真」の本来の意味は、不慮の事故で行き倒れになり死んだ人を示す文字だそうです。死んだ人はもうそれ以上変化しないから、永遠の存在、まことの存在となる。旧字体の「眞」は、死者(転倒した人)と「首」の転倒形である「県」から成り立っていることは、小山鉄郎著「白川静さんに学ぶ漢字は楽しい」(共同通信社)を読んで知りました。「白川静さんに学ぶ漢字は怖い」もおもしろい本です。

内田樹にとっての「違和感」

 「ためらいの倫理学」(角川文庫)
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへの「性差別はどのように廃絶されるのか」の中で内田樹が書いている宮台真司への「違和感」に興味がありました。
 

私は宮台真司という人の書いたものを読んで共感したことが一度もない。どうしてなのかしらないけれど、どこかで必ず違和感のあるフレーズに出くわすのである。今日のコメントを読んで、その理由が少し分かった。
 宮台真司は「分かっている人」なのである。(211頁)
 
 宮台は「知っている」ということで自らの知的威信を基礎づけている。「知っている」ということが知的人間の基本的な語り口であるとたぶん思っている。(212頁)

 「知的威信」がどれほど大切なものかは「分かりません」が、何かを語るとき、「分かっている」「知っている」という実感がなくて語るのはなかなか難しいものであると思われます。
 共感できる部分も多い内田樹木の書いたものに私が感じた「違和感」の正体は、内田樹の書いたものが「自分はよく分かっている」ということを前提にしているような印象があったからですが、自分自身でそのことへの警鐘を鳴らしている。
 以下の部分は、基本的には賛同できる内容ですし、学校における「関心・意欲・態度の評価」に関する記事でも述べたことがありました。ただ、「分からない」ことばかりを表明しても、あまり意味がない。「学校のことは放っておいてほしい」という多くの教師から共感を得られそうなこの主張に、保護者にとっての「分かりやすい」根拠がない。
 
「私には分からない」というのが、知性の基本的な構えであると私は思っているからである。「私には分からない」「だから分かりたい」「だから調べる、考える」「なんだか分かったような気になった」「でも、なんだかますます分からなくなってきたような気もする・・・」と螺旋状態にぐるぐる回っているばかりで、どうにもあまりぱっとしないというのが知性のいちばん誠実な様態ではないかと私は思っているのである。(212頁)

 「知性」でご飯が食べられる人というのがうらやましいような気もします。

ふり返り366日【1月5日】 教育費の性差

 「女高男低」で検索すると、上位は「母の日」の方が「父の日」よりも経済効果が大きい、そんな内容で占められています。
 記事を読んでいないのでどのような分析がなされているのかわかりませんが、母が長生きしていることとか、「母の日」しかない家庭が多いこととはそれほど関係はないのでしょう。

 母の日にしろ、オリンピックにしろ、本来の目的とは別に、「お金」でその影響力・波及度を換算し、「効果」「成果」としているものがあります。
 教育の世界では、たとえば「学力低下」「学力向上」キャンペーンによってどのくらいの「経済効果」があったのでしょうか。
 都市部では、子どもに中学受験を目標とさせる家庭が増えているといいます。
 また、不況の時にあっても、「減らさない」「減らせない」支出項目の中で、「教育費」は上位にあるとどこかで読んだことがあります。
 「家庭の教育費」の男女差という統計はあるのでしょうか。
 最近は(わが子も含め)ピアノを習っている男の子が多いようですが、「習い事」の性差のデータなど、実態に興味があります。
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2008/01/05
女高男低の裾野
 Yahoo!検索によると,「女高男低」というキーワードで目立つ内容は,内閣支持率,プロゴルフの賞金,男性の結婚難,生活の満足度,ドラマのキャストなどでした。
 中には,「社団法人全国有料老人ホーム協会」というところがあって,「夫の定年を境に逆転する夫婦の立場、妻の外向化と夫の内向化、年齢とともにたくましく活発になる女性と悲哀さえ漂わせる男性」という中高年層の問題も紹介されていました。
 先日,スーパーで小学校低学年くらいの児童が父親に「お前,ふざけんじゃねー」と真顔で指図されているようすを目撃しました。
 「女高男低」あるいは「女尊男卑」は「母高父低」「母尊父卑」などという形でも現われているようです。
 企業のマーケティングがこういうところをターゲットにして利益を出し,その成功が現象に拍車をかけているという現実があるかもしれません。コマーシャルをそういう視点で見ると,社会がどう変化しているのか(どう変化させられようとしているのか)がわかります。
 教育現場では「男女平等」が重要課題としてあって,混合名簿などもずいぶん普及してきました。
 高校で男女別定員のない人気校で女子の生徒数が多くなること。これに批判的な意見は少ないかもしれません。
 高校が男女別定員枠の緩和を要求してくること。これは,不合格者の上位の女子が合格者の下位の男子より得点が高い問題が背景にあり,優秀な生徒を合格させたいという願いからですが,これをすべて認めると,志望校に入れない男子が増えてきます。これはどう考えるか。 
 話はそれますが,小学校はさておき,中学校・高等学校で女性の管理職が少ないのはなぜでしょうか。指導主事も同じです(行政の達成目標実現のため,女性の方が合格しやすくなっているのに)。これは単純に受験する人(志望する人)が少ないからだと思いますが,女性教員の立場からすると,この原因は何なのでしょうか。企業と同じ論理なのでしょうか。

保護者も読める学力調査の「実施要領」

[学力テスト] ブログ村キーワード
 また4月に実施される全国学力・学習状況調査に関する実施要領が文科省のHPで公開されています。
 
 「教育委員会,学校等においては, 本調査の実施にあたって,本調査の目的や内容,調査結果の取扱い等を児童生徒,保護者等の関係者に周知すること」が留意事項になっていますから、保護者は教育委員会が作成した資料の写しを学校からもらうか、学校が独自に作成した資料をもらうことになります。
 「他の学校との格差」をいやがる校長が多い自治体では、「一律同じ」にするために教育委員会に資料作成を依頼し、それをそのまま保護者にわたすことになるでしょう。
 そういう自治体でも、校長または学校で指名される調査責任者及び担当者が「抜け駆け」して独自の学力向上策・調査の活用策を添付してくるかもしれません。
 
 調査の目的・内容・方法は一律でも、その活用は学校がいくらでも独自に行うことができます
 それは、調査の目的でも、「全国的な状況との関係において自らの教育及び教育施策の成果と課題を把握し,その改善を図るとともに,そのような取組を通じて,教育に関する継続的な検証改善サイクルを確立する」ことや「各児童生徒の学力や学習状況を把握し,児童生徒への教育指導や学習状況の改善等に役立てる」ことが示されているからです。
 また、活用について学校が努めるべきこととして、「多面的な分析を行い,自らの教育及び教育施策の成果と課題を把握・検証し,保護者や地域住民の理解と協力のもとに適切に連携を図りながら,教育及び教育施策の改善に取り組むこと」、「調査結果を踏まえ,各児童生徒の全般的な学習状況の改善等に努めるとともに,自らの教育指導等の改善に向けて取り組むこと」が示されています。

 現在行われている学力調査は、主として「知識」に関する問題・・・身に付けておかなければ後の学年等の学習内容に影響を及ぼす内容や,実生活において不可欠であり常に活用できるようになっていることが望ましいを知識・技能などを中心に問う問題と、主として「活用」に関する問題・・・知識・技能等を実生活の様々な場面に活用する力や,様々な課題解決のための構想を立て実践し評価・改善する力などにかかわる内容を中心に問う問題があることです。

 ですから結果を分析してでてくる課題としては、学校にしろ学級にしろ個別の児童・生徒にしろ、主に知識に課題がある(これは少数でしょう)か、主に活用に課題があるか、その両方に課題があるかのいずれかになります。

 学力調査問題の2つのタイプを、学校の「指導力」の評価にあてはめて記述してみると、こんなふうになります。
 
 主に「知識」に関すること・・・身に付かせなければ後の学年等の学習内容に影響を及ぼす内容や,実生活において不可欠であり常に活用できるようになっていることが望ましいを知識・技能などを身に付けさせているかを問う。

 主として「活用」に関すること・・・知識・技能等を実生活の様々な場面に活用する力や,様々な課題解決のための構想を立て実践し評価・改善する力をつけさせているかを問う。

 子どもの学力については、「本調査により測定できるのは学力の特定の一部分であること,学校における教育活動の一側面に過ぎないことなどを踏まえる」ことは当然のことですが、学校の教育力・指導力については、「本調査により測定できるのは国語・算数(数学)という学習指導の特定の一部」であるとは言え、「教育活動の一側面に過ぎない」から軽視できるものでは決してなく、だからこそ、それぞれの学校の「活用策」「学力向上にかける熱意と創意、具体的な指導の改善のあり方」が問われてくるわけです。

 結果自体の説明責任については、保護者・住民の「知る権利」を保障するため、各学校での工夫が求められますが、基本的に学校が果たすべき説明責任は、教育課程でも示しているはずの「学力向上」に向けて「具体的に実施すること」、保護者に何を「理解」してもらい、どんな「協力」をしてもらいたいのか、どのような「連携」を望んでいるのか、そういうことを示すことにあると考えられます。
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ふり返り366日【1月4日】 男女格差

 男女格差の問題について、最近私は「ひかえめだから」という理由で男子を擁護したい気持ちになってきました。
 別にいちいち「最近の男子は・・・」とか「今も女子は・・・」とか、性の違いで生徒をくくってどうこう言う意味はないようにも思いますが、仮に「頼りがいのある生徒」といったときに女子ばかりしか思い浮かばなくなってしまうとすると、やはり危機感を禁じ得ません。
 男女別習、共学に移行しない方がよいということの合理性・理論的根拠が本当に生まれてきそうな気がします。
 
 日経Kids+の2009年1月号では、「男の子の国語力」「女の子の算数力どこが苦手?どう伸ばす?という特集が組まれていました。

  特集記事の執筆者は力のある現場の教員や、大手の塾、特色のある塾の講師が担当しており、それぞれ読みがいがあります。

 この雑誌は、中学受験を考えている保護者はもちろんですが、小学校の教師にもできたら読んでもらいたい内容がつまっています。

 よく子どもの学力で7・5・3という呼ばれ方がしますが、これを小・中・高の学習の内容の定着度合いでなく、「十分満足に学習が定着している児童・生徒の割合」とも読むことができ、小学校段階で「」に入れなかった「」の子どもたちは、中学校でも定着できない方の「」に入る確率が高く、高校でも「」に入るようになってしまいます。

 小学校段階の「」の子どもたちをいかにして「十分満足に」(少なくとも「おおむね満足に」)引き上げられるか、という研究・研修はとても重要で、それは実際に引き上げている実績のある人たちから学ぶことが効果的でしょう。
 これを、「補習」という形ではなく、「授業」内でしっかりできる努力を続けるべきです。

 学力向上対策ムードに乗って、過剰な宿題家庭学習を要求する学校が増えてくる可能性がありますが、そのことについては、安易に歓迎するムードをつくらない方がよいと考えています。
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2008/01/04
「女高男低」の時代の教育
 メールマガジン「ビジネス発想源」に,男子より女子が優秀で男子の採用数が少なくなってしまうという企業の話,叱ると立ち直れなくなる男が増えているという映画監督の話が紹介されていました。
 これは教員採用でも全く同じで,もう10年以上前から(使えそうな)男は貴重な戦力という話が,学校だけでなく教育委員会のレベルでかわされていました。こういう時代,女性中心の職場である小学校で指導力のない男性というのは本当にきついかもしれませんね。
 私立の女子高は,同年齢の男子はレベルが低くてカリキュラム運営ができないという理由で共学にしないところもありますから,「女高男低」時代は本格化しようとしているのでしょうか。
 生活指導でも,女子は叱られたことをバネにして伸びていくタイプが多いですが,男子はすぐ「ママ」に泣きついて逆ギレしてもらうという関係の母子が増えてきました。
 ここ十数年の男子の成長の遅れ,これは学力だけでなく体力,精神力,すべてにおいてかもしれませんが,この原因を的確に分析している人はいるでしょうか。
 母子の関係が非常に強く影響していることは,実例からたくさん言えることですが,それだけでしょうか。
 日本の場合,家庭では女性が財務大臣であるような「女尊男卑」の歴史は長いのですが,「女高男低」時代の社会はどうなっていくのでしょうか。
 政治家や管理職に女性が少ないことが日本の特徴になっていましたが,これは女性が優秀だったからにすぎないような気もしてきました。
 教育の現場レベルでは,いじめによる不登校,怠学,非行の男女格差の原因究明から,もしかしたら大きな改革のヒントが得られるかもしれません。

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ふり返り366日【1月3日】 ② ホスピタリティ

 公立学校のころには、外国からの一行が訪れるなんていったら、ちょっとした騒ぎになりそうなものでした。
 東欧の教育大臣などが来校したとき、玄関のところに飾り付けなどをつくった記憶があります。

 現在の私の勤務校には、毎年多数の国や地域から参観者が訪れますが、参観者に慣れている生徒たちは、格別の反応をせず、いつものように授業に取り組むのが普通でした。

 参観者の方も「お客様」として来校しているというより、研究のため、と目的がはっきりしているので、国際親善を通り越していきなり具体的な質問がたくさんまっており、その対応で精一杯というところもありました。

 ただここ2年くらいの間に、留学やホームステイという形で来日している同年代の外国人が訪れるようになり、生徒の方が「もてなす」ということを意識した対応に出るようになりました。

 先日、聞き取り調査におじゃました観光庁の方からビジット・ジャパン・キャンペーンのロゴのバッジ「YOKOSO!JAPAN」をいただいたので、こんなものも活用しながら、学校独自のキャンペーンができないか、検討を促そうとしているところです。
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2008/01/03
ホスピタリティ 
 エドナイゼーションの検索で,柿澤弘治氏が講演等でこの用語を使用していることを知りました。「東京ビッグバン」という著書や,都知事選に出馬したことがある程度の知識でしたが,日本ホスピタリティ推進協会という団体の理事長をつとめていることがわかりました。
 協会のHPのあいさつ文では,~「江戸っ子の精神」を思い起こし,「江戸の心を今に活かす」をキーワードに「エドナイゼーション」を提唱~というくだりで紹介されています。
 協会には,街づくり・観光・ホテル・レストラン・医療・介護・美容・生産・流通・教育・環境等の分野の企業が加入しているようですが,「ホスピタリティ」はどのように定義されているのでしょうか。
 カタカナ語辞典では「厚遇,もてなし,温かくもてなす誠意」などと説明されていますが,協会のHPから引用させていただくと,ホスピタリティとは・・・
 
生あるもの、特に人間の尊厳と社会的公正をもって,互いに存在意義と価値を理解し、認めあい、信頼し、助け合う相互感謝の精神をいいます。伝統や習慣の違いをのり超えて、時代の科学の進歩とともに新しい生きる喜びの共通意識としての価値を創造するものです。人が日常生活におけるホスピタリティマインドには宇宙(時間と空間の無限の広がり)の自然と思いやりある調和(ハーモライズ)の実在を第一歩と考えます。

 学校でのホスピタリティとは・・・?

ふり返り366日【1月3日】① エドナイゼーション

 エドナイゼーションの根底にある日本人の「美意識」が、現代の工業製品にも反映されていることを、ふつう私たちは「意識」しません。

 しかし、「美しい風景」を茶の間で鑑賞するために「高品質画面」を追求するとか、自動車に「静かさ」を求めてベアリングから車体のデザインにまで徹底的にこだわるとか、「」へのこだわりが高い競争力を維持する原動力になっていると考えられます。

 ホンダのアメリカにある工場では、箒とちりとりが置いてあるそうですが、従業員は「日本人は小学校のときから清潔・整頓を教えられ、自分で教室の掃除をするから立派な自動車がつくれるのだ」と教えられ、自分たちも実践している、といいます。

 ものづくりの精神は、単に部屋をきれいにするだけではなく、自分の手を動かして掃除することで、自分の心まできれいにする、そういう美意識は日本にとって本当に貴重な財産です。

 このような精神は、学校教育の中で自然に培われていくものであり、「道徳」もそのような趣旨をもっていますが、「道徳の時間」では、無意識に育っているものを「意識化」し、見えない財産を「見える化」する、そんな機能を果たすことができます。

 当たり前のことが当たり前に実践できていて、あるいは実践できるようにさせてもらって、今、こんな力がついているんだと示してもらえるような学校の生徒は幸せです。
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2008/3/1
エドナイゼーション
 まだ「エドナイゼーション」は認知度の高い用語ではないかもしれませんが,海外からの日本文化への関心をより高める上でのキーワードになっていきそうです。
 日本人は内から(歴史から)よりも外(欧米)からの刺激を求めてやまない性質がありますが,普通の選手が大リーガーになるのが当たり前の世の中になってきて,さすがに足元を見る余裕ができてきたのかもしれません。
 日下公人著「あと3年で,世界は江戸になる!」(ビジネス社)は,エドナイゼーションの入門書といっていい良書です。帯には「日下「日本学」の集大成,ココにあり。平和で豊かな世界の未来は「江戸」にあった!」とあります。
 江戸時代=百姓一揆の時代,代官が農民を苦しめた時代という固定観念しかない人にはピンとこないかもしれません。しかし,江戸時代の研究は海外でも進んでいて,歴史教科書でも文化をはじめリサイクル社会ファストフード,インフラ整備高度な教育の内容などについての記述が見られるようになりました。
 今までニートを「風流人」とよんだ人がいたでしょうか。1500兆円の個人貯蓄がある日本で働かない若者が増えているという情報は,借金や援助でやりくりしている国の人々から見ればどうなのでしょうか。
 教育のヒントになる情報がないかと探しながら読んでいるところです。

糖度を高めるための蜜柑の苦労

 2008年はみかんが「裏年」であったようで、出荷量が少なく価格が高くなっています。
 「お正月価格」だったのかと思いきや、今でもみかんは高くてスーパーでも買おうかどうか迷うほどです。

 家内の実家のみかんは一昨年たくさん実をつけたので、昨年はやはり「裏年」でした。

 市場経済では人間ばかりでなく、みかんも「中身」の査定が厳しくなり、すべての果実が糖度チェックを受け、市場に出されます。

 今日のニュースで聞いた話ですと、糖度を高めるために一定期間みかんは「水分不足」「飢餓状態」を経験させられるようで、それだけみかんの木自体にたいへんな負荷がかかっているということがわかりました。

 一粒一粒味わっていただかないと、木に申し訳ない気持ちになります。

 大学の先生方から評価に関する悲鳴やら苦情やらがたくさんあげられるようになっていますが、「糖度を求める」学生がいたとしても、「表年」「裏年」がつくれない教師は苦労せざるを得ませんね。
 そういう意味では、毎年きちんと研究成果が発表でき、学生を育て、大学のあり方について論じることができるような教師はすばらしいと思います。

 ただ、ある先生から、大学の教師も「経営向き」「教育向き」「研究向き」の3タイプにはっきり分かれるとお聞きしました。その分担がうまく機能していれば問題はないのが大学なのかも知れません。
 公立学校では、「教育向き」の教師が望ましいと一般的には考えられていますが、「経営感覚」不足が問題への初期対応の誤りとか、わがままな要求が繰り返される原因になり、「教材研究」不足が子どもの学力不振の原因になっていることを考えれば、また、どれかの仕事だけ突出して優れているというわけでもないのであれば、やはりバランスがよいことが一番だということになります。
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学力向上問題の真空地帯で考えるべきこと

[学力テスト] ブログ村キーワード
 新教育課程の完全実施まで、しばらく「学力問題」は真空地帯に入るかもしれません。
 全国的な学力調査の結果公表にかかわる問題や、学力調査の継続自体への批判など、小さなトピックは継続してでてくるかもしれませんが、新しい学習指導要領が告示され、現在はそれに沿った教科書の原稿が執筆されている時期で、その教科書で学ぶとどんな成果がでるのかは、まだわからないわけです。
 
 学力調査の結果が芳しくなかった大阪府などが、学校に対して強く学力向上を要請しており、それに対する拒否反応が出ているようですが、私から見ると、その程度のこと(実際に得点を上げるのは容易なことではないのですが)はまず結果を出してしまってから、「はい、結果は出しました。次は何をお望みですか?」と言えるような「現場の強み」を発揮してもらいたいと願っています。
 「学校は学力をつけることだけを目標にはしていません」という言い訳をするところがありますが、「学力をつけることも目標でしょ」と言われたら終わりです。
 
 たとえば学力調査で全国の平均レベルがとれるようにしましょう、という目標がつくられたとして、それを達成することは、当たり前ですがゴールではありません。
 通過点です。
 その目標点を通過したとき、新しい風景の場所に出られるかもしれません。
 そもそも学力を身に付けさせることは、各学校の教育課程で子どもや保護者とかわしている重要な約束です。

 ただ、現場で困ってしまうのは、以前にも書いたかもしれませんが、学力向上策が簡単に成功してしまう(子どもの学力がすぐに向上してしまう)と、「昨年までの教師たちは何をしていたんだ」という批判を受ける可能性があるということです。
 小学校の例が一番わかりやすいでしょう。
 担任が変わったおかげで、一気に勉強が得意になり、苦手だった算数ができるようになった・・・
 子どもの学力が向上することは、すべての教師にとって手放しで喜べることでもないのです。

 学力向上策の結果が出て、成果が上がったのに、「今までいかにさぼっていたのか」という目で教師や子どもが見られてしまうのは、つらいものです。

 成績が下がるのは絶対にダメ上がらないのもダメ上がってしまってもダメ、では、教師は救われません。
 
 そういう意味では、短期的な目標の達成に重点がおかれている人事考課制度というのは、「ダメだった過去を問わない」よい仕組みだと考えることもできます。

 さて、学力向上問題の真空地帯で起こってきそうな議論は、「評価」をめぐるものだと考えられます。

 全国的な学力調査で、都道府県とか市町村の結果がわかるメリットは、「相対的に自分のところがどうだったのか」がわかることです。
 学力の測定は、「絶対的な尺度」はありませんから(たとえば漢字の読み書きだけのテストなら別でしょうが)、やはり「相対的にどうだった」と見るのが一般的です。

 「秋田に比べてうちはどうなっているんだ」という「評価」の問題もありますがそれはおいておき、「今年と昨年で何をどう変えたことが結果の変化にどう結びついたのか」などという検証は、毎年行い、「相対的にどうなったか」で判断できることになります。
 
 入学選抜でも、一定水準をクリアしたらみんな合格、ではなくて、順位が定員以内なら合格というものですから。

 学力の「評価」に関する現在の学校の大きな課題は、「目標に準拠した評価」、いわゆる「絶対評価」が用いられていることにあります。
 もう実施されて何年も経ち、この「評価基準」が適正なものであることが前提に入試得点にも使われているのですが、この評価に「誤差はない」と信じている人はだれもいないはずです。

 学力調査A問題とB問題の平均点と、国語と数学の評定(特定の観点でもかまいません)の相関を調べてみると、どんなことがいえるのか。
 
 実は、これもあまり「調べて変な結果がでるとまずい」調査の代表的な一つであり、行政が率先して指示することはまずないでしょう。
 (質問紙調査の結果と、たとえば「関心・意欲・態度の評価」が一致していない生徒がいる、などということは起こりうることです)

 しかし、同一問題・同一基準で学力を測定できる仕組みをつくったのであれば、このようなデータの分析は「目標に準拠した評価」の実効性を証明する絶好の機会になるとも言えます。

 教育現場では、「評価の研究」はよく「永遠のテーマだ」という呼ばれ方をしてきました(なかなかよい成果が出せない)が、だからといって避けて通るものではなく、たとえば学力調査の問題分析を通して「目標準拠評価」のあり方を見直す、そんなことができるのではないかと考えています。
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日本の「ミレニアル世代」の特徴は?

 今日の日経1面に、アメリカの変革を担う新世代を示す言葉として、「ミレニアル世代」が紹介されていました。
 この言葉は「ミレニアム(千年紀)」の形容詞を使ったもので、世紀の変わり目に青春時代を迎えた1980年代以降生まれを指しているものだそうです。
 この世代のアメリカ人は、9・11やイラク戦争を知り、「アメリカが必ずしも世界で歓迎されていない」ことを肌で知り、「米国は強く豊かであるべきだ」など時に独善的で内向きの価値観を持つ古い世代とは一線を画すとされています。
 さらに、この世代は「親にほめられて育ち自信過剰気味」「辛抱することを知らない」「主張が現実離れしたきれい事に流されがち」という面ももっているそうで、記事では「多様化する世界と忍耐強く対話できるか」という不安があるとしています。
 オバマ次期大統領の支持層であるミレニアル世代は、どんなアメリカを、どんな世界をつくっていくのでしょうか。

 その世代の特徴は特徴として、これからの10年、20年をどう乗り切っていくかは、やはり40歳代・50歳代に課せられた大きな仕事です。
 日本での「団塊の世代」でも、自信過剰気味の人がいないわけでもありませんし、辛抱することを知らない人もいます。
 生まれ持ったものや長年培われた欠点?はそうは変えられない、という意見もありますが、次世代に足りないものがあり、それが必要なもので、教えて身に付かせることが可能なものなら、忍耐強く後輩を育てなければなりません。
 学校の場合、20歳代、30歳代が恵まれていると言えるかもしれないのは、同じ年代よりもはるかに高い年代の教師の数が多いことで、良きにつけ悪しきにつけ、「学ぶ」対象が多いということです。
 「育ててくれようとする」人は少なくても、「育ててくれている(かもしれない)」人は多いのです。
 
 教育の世界については、現場・現実をよく知らないでなされる発言も多く、また、現実を知らせないようにするという圧力も内部からかけられています。
 「知ること」から考えてもらうために、もっともっと生の情報が公開されていってもよいかもしれません。
 学校ではやりきれない、という思いが強ければ強いほど、強がるのが得策か、何のためにどんな協力が必要かを訴えるのが得策か、考えていくべきでしょう。
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ふり返り366日【1月2日】 異動

 公立学校にとって、「来年度」というのは、全く違うものになっている可能性があるところです。
 私の知る学校では、「3年で異動する」教師が少なくありませんでした。生徒の卒業とともに自分もその学校から「さよなら」してしまうのです。
 すると、新学年はかなり「新しい顔ぶれ」でスタートすることになり、準備が十分でないと、教師があたふたしたまま4月が始まってしまいます。

 私の実感では、教師が浮き足立っている、何か準備不足を感じられてしまう足並みがそろっていない、そんなことが生徒に伝わることが、荒れの原因になる場合があります。
 そんなことを繰り返すので、いつまでたっても「落ち着いた学校」に変貌できない。
 それは実は「教師が落ち着いていないから」。簡単な話です。
 
 公立学校で「改革」「変革」(実質的にはそんなに大げさなものではないのですが)「正常化」が難しいのは、今、その場にいない何人かが、4月には中心メンバーになっている可能性がある、ということです。
 
 何でもかんでも「話し合い」「合議」で決める、という「民主主義的」学校の問題は、異動してきた教師が、「私ならこんなやり方に賛成しなかった」といって、「昨年度に合意されたこと」に対して異議を唱え、足並みをそろえないですんでしまうおそれがあるということです。

 ですから会議の決定事項でも、4月以降のことが不安で、「落ち着きのない」まま時間がたつのを待っている、そんな教師がいる学校が想像できます。

 このような「仕事の運営の仕方、まわり方」は、行政や企業ではちょっと考えられないことです。
 教育を「惰性の制度」として解釈している内田樹にも、よくわかっていない現状なのでしょう。

 異動の回転は、管理職の方がよくきいているところが多いのでしょうが、これは教員の不満滞留を解消する目的だけだったとしたらやめて、もし「特色のある経営」を行政が重視したいなら、長い人は10年でもいられるようにするのがよいのでしょう。

 管理職の問題はおいておくとして、公立学校の異動に伴う問題がもし大きいのであるとしたら、どうすればいいのかというと、異動してくる教師と管理職・主幹の会合を3月末にしっかりととって、年度内に確定した教育課程や学校の組織運営のことなどについて、綿密に意見交換をして、共通認識をもっておくことが重要でしょう。
 もし管理職との簡単な顔合わせだけですませているような学校があれば、その扱いは「講師」と同じです。

2008/01/02 教師の「引き継ぐ力」とは?  「『捨てる力』がストレスに勝つ」(集英社文庫)の著者である斎藤茂太さんの家系は,日露戦争時から4代続けて精神科の病院を経営しているそうです。  ノウハウや経営資源などすべて引き継いでいらっしゃるのかと思いきや,火災や戦災,移転などを代替わりごとに経験し,実質的にはそれぞれが創業者だったということです。  「ゼロからの出発」が成功の秘訣になっているという趣旨ですが,学校も,荒れた状態を建て直すという「後がない状況」というのは,教員もわがままを言いにくいしまとまりやすい苦労も多いが,得るものも多いという「やりがい」を感じられます。  しかし,軌道に乗っている学校を「引き継ぐ」ことは容易なことではありません。  再建に成功した学校で,再建当初の中心メンバーが抜けるとき,「落ち着いて楽になった学校なのだから余計な仕事を引き受けたくない」教員が大勢異動してくると,学校は簡単に逆戻りしてしまいます。  コンピテンシーでは簡単に説明がついてしまいますが,「前の学校ではうまくいっていた」経験から抜け出せない教師の場合,力が発揮できないでまた去っていく。  「荷物を捨てて出直す」発想が大事だということですが,現場ではどうでしょうか。  どこどこの中学校では,これが常識だったとつい口に出したりしていないでしょうか。
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ふり返り366日【1月1日】 捨てる

 本年は、昨年1年間をしっかりとふり返る年にするとともに、2010年という区切りの年を、どのように過ごすかという展望を大切にする年にしたいと考えています。

2008/01/01
教師の「捨てる力」
 2010年という区切りの年に向けて、今年は「捨てる」ことをキーワードに行動していきたいと考えています。

 ふり返れば、昨年に「捨てた」ものの中で最も大きかったのは「古いスタイルを捨てようとした気持ち」でしょうか。記事の続きに引用した言葉は、今読んでも全くその通りのように思えます。
 
斎藤茂太著「『捨てる力』がストレスに勝つ」(集英社文庫)をヒントに、捨てることが苦手で困っている自分を救おうとしたのですが、なかなか実現できそうにありません。
 教師には、意外と「自分を捨てられない人」が多いのではないでしょうか。
○「過去の栄光」を自慢する人。人をほめることを知らない人。
○がんこ一徹な人。考え方を変えない人。自分のやり方に固執する人。
○頭を下げて謝ることのできない人。言い訳がましい人。
○人のアラ探しばかりしている人。人の誤りを徹底的に非難する人。
○攻撃的な人。一方的に、しゃべる人。相手に口を開かせない人。
○自分のことを棚に上げて、平気でいられる人。反省しない人。
 思い当たる教師が多いですね。
 これらの逆コンピテンシーはさらに逆に読めば、
○過去に実績を残した人。ほめることが必要ないほど子どもが自分の成長に満足できる環境をつくった人。
○自分のやり方を周囲に認めさせ、集団として高い成果を発揮することに成功した人。
○失敗を犯したことも責任を追及されたこともない人。
○失敗の原因をつきとめ、その改善方法について適切な内容のアドバイスができる人。
○一方的な説諭でも子どもが納得し、自己反省を促す指導ができる人。
○小さな失敗にこだわらず、常に行動をおこし、また失敗を繰り返しながらも生徒とともに歩み続ける人。
 成功があれば、自信になり、その自信が教育を支えていると考えれば、「自分を捨てられない人」には「自分を捨てることもできない」のではないかとも思ってしまいます。
 プライドがなければつとまらない教師でも、プライドにしがみつけば失敗する・・・。
 最大のキーワードは「謙虚さ」ということなのですが、教員にとってみれば、指導してくれた先輩教師が、後輩から何かを学ぼうとする姿勢を見せてくれたかどうか、強い指導力をもっている教師が、ワンパターンのやり方でうまくいかなくなったとき、新しいやり方を追求することができたかどうか、そういう環境がはぐくむ資質なのかもしれません。
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 教師の謙虚さが最もよく表現可能なのは、研究授業を実践したり、研究成果を発表したりする場だと考えられます。
 「守・破・離」のプロセスをどのように教育実践で体現できるか、それにはちょっと長いスパンが必要になるかもしれません。

集中力を高める「やる気スイッチ」

 頭が疲れたら、体の他の部位に肩代わりしてもらう・・・。
 そういうことを無意識でも実践している人はいないでしょうか。

 漢字は「」が覚えるようにする・・・そんな練習法。
 英語は「」が勝手に聴き取る・・・そんな英語学習法。
 信頼は「」で稼ぐ・・・そんな営業方法。訪問方法。
 日記は「」が打つ・・・そんなブログ作成法。

 野球選手は、打席でバットに必ず目をやりますが、そこで生まれる集中力というのも大きなものなのでしょう。
 集中力を高める「やる気スイッチ」なのでしょうか。
 
 勉強に集中できなくなったら、まず「手(指)をじっと見る」・・・そんな勉強法はありでしょうか・・・。
 教育の仕事の場合、集中できなくなったら、子どもの様子をじっと見守る・・・?
  
 仕事の場合は、パソコンのキーボードをじっと見ていてもダメでしょうかね・・・。
 
 頭のスイッチがOFFになっているときに、代わりにONになるものには何があるでしょう。

 根底には、恵まれた環境や自分に対する基本的信頼感というのが必要なのだなと思いますが。
 石川啄木の一握の砂をふと思い出しました。

 最近読んだ本の中にもこんな一節がありました。

内田 だって頭で考えてると頭にだけ負荷が集中していやじゃないですか。それよりは、体全体で分担しようよってね。頭が疲れてきたら手で考えるとか、手が疲れたら腰で考えるとか。
橋本 『窯変源氏物語』のときって、それ書いてる万年筆でほかのもの書けなかったんですよ。
内田 万年筆が考えて書いている。
橋本 その万年筆が光源氏になっちゃうから(笑)。だから書いてるときにね、頭にある脳みそを、ペンを持っている指先に移動させる、そういう儀式みたいなことをして。(「橋本治と内田樹」筑摩書房・95頁)

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教師は「庭師」のプライドを保てるか?

 「竹中式マトリクス勉強法」(幻冬舎)では、竹中平蔵自身が受けた批判が3つのパターンに分類されています。

 一つは、「コントラリアン型」批判。
 いつも反対のことを言うもの。
 改革を行えば拙速だ、と言い、改革しなければ「遅い」と言う。
 批判のための批判でしょう。
 
 こんなエピソードが紹介されています。
 小泉元首相が、総理在任中にある記者から「最高権力者になったと自覚するときはいつですか?」の質問に、「そうですね。あんまりないですが、強いて言えば、何をしても否定されることですかね」と答えたとのこと。

 二つ目は、「永遠の真理型」批判。
 これは「常識的」といわれる大人に多いもので、「長期的視点に立てば・・」「相手の立場になって考えろ」とか、「その通りです」と言わざるを得ないことを言うタイプ。
 「だから何?」と見られていることが、あまり自覚できていないので念仏のように同じことを繰り返すのです。

 三つ目は、「ラベルを貼る」型の批判。
 「決めつけ」の激しいタイプは、だれだれはこういう立場からしか見ていないとか言って、問答無用にしてしまう批判。

 そして、三つの型に共通しているのが、対案がなくて批判だけしているということ。
 
 教育改革を批判している人の中にも、このようなタイプが多い(特に二つ目が多い)のですが、マスコミ等に登場しているのは、庭師の仕事に注文をつけている植物学者の立場のような人ばかりです。

 というより、政策批判というのはだれにでもできることで、「市場主義原理の導入に反対」という批判は経済を知らなくてもできてしまうわけです。
  
 教師はとても厳しい立場におり、市場主義原理の導入に反対という側についてしまうということは、場合によっては自分たちの資質・能力に信頼性がないことを認めることになってしまう。
 大学にしろ公立学校にしろ、一度正教員になってしまえば、一生安泰(免許更新講習で職を失う人はいないでしょう・・・この制度のせいで職を失うことになったと批判する人はいるでしょうが・・・)

 だから教師の肩代わりとして元教師で大学に籍をおく人などが、教師のニーズを満たすために反対する。
 しかし、実は自分自身もその原理のもとでその立場にいるか、その場の立場が危うくなっている人間かもしれない。
 
 いただいたある年賀状に、「教師の能力に比例して学校全体も右肩下がりになっている」と書いている人がいました。

 教育改革への批判を私も全く理解していないわけではないですが、あえて言えば、まだ今まで行われてきたことはいずれも「改革」などというスケールの大きなものでは全くありません。
 財政支出の規模など金銭面のことを言っているわけではありません。
 
 総合的な学習の時間の導入などは、一部の研究校では何十年も前からやってきて、成果が上がっていました。
 
 学校選択自由化にしろ免許更新制にしろ、授業時数の増減にしろ、同じようなゴムが伸びたり縮んだりしているだけの改革であって、「本物の改革」はまだまだ先の話になりそうです。

 「本物の改革」とは何か。
 それは教師の意識改革に他なりません。
 教師の意識の何が問題であるかを、今後も問い続けていきたいと思います。
 教師が自身のプライドを保つ方法は一つしかありません。
 教師が変わり、子どもが変わることです。
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庭や絵にもある「やる気スイッチ」

 先日、本当にたまたまでしたが、私の授業を参観していただいた方が、ご自身のブログにその感想を書かれているのを発見しました。
 普段から大学生に対して、たいへん適切なご指導をされていることがよくわかりました。

 協議会のときは参加されていたのかどうか私の記憶にはないのですが、授業者は、参観者も気付かないほど小さな「仕掛け」を用意している場合があり、それを見破る方がいるかどうか、そんな密かな楽しみも感じながら実践している場合があります。

 そのときの授業は研究授業ではなく、公開授業だったので、提案事項などは特になく、「子どもが悩む」姿をどう切り取るか、という隠れたテーマがありました。
 「何かを謀ったな・・?」と気付かれた方はいたようですが、あえて協議会でもその後の反省会でも話題にはしませんでした。

 私は自分の仕掛けを見破れる人がいるかどうか?という「遊び」を研究授業実践上の一つの「やる気スイッチ」にしています。

 なぜそんなことを思い出したかというと、ある本で庭師の方がたとえば石を配置するとき、絵師の方が絵を描くとき、そこに何か秘めているものがある、そんな見方でみると興味がわくものだなあと実感していることがあったからでした。
 
 龍安寺の石庭などを研究されている方もいらっしゃいますが、なぜこの配置なのか?なぜこの石の大きさはこうなのか、形はどうしてこうなのか?など、気になりだしたらきりがありません。

 回遊式庭園などでは、見る角度が変われば当然形も変化し、背景も変わるわけで、楽しむ幅がぐっと広がります。

 先日、たまたま特別拝観させていただいた寺院の庭園を、子どもたちがとてもゆっくりと、かつ時々立ち止まっては景色をながめながら歩んでいた姿を見て、ますます「やる気」を感じることになりました。

 一言に「庭」を眺めるといっても、本当に無数のものが視界に入ってきます。
 池に映るものを見るだけも楽しいのですが、名前がわかるともっとおもしろみがわくのであろう植物、異なる季節のときに訪れたらどうなるのだろうという想像、そんなことを考えているうちに、あっという間に時間が過ぎていってしまうような、庭園ではそんな体験を久しぶりにすることができました。

 伝統や文化に関する学習は、「つくられたもの・つくった人」とのこのような対話、「つくられた背景」を考える活動、そして「つくられたものが長い年月を経て受け継がれてきたことの意味」を実感する体験が重要だと考えています。
 私がそうしたように、庭を見て感じるところがあった子どもは、きっとその子ども(あるいは教え子)にも庭を見せる機会をもつでしょう。
 私は解説をしてあげようと余計なサービス精神を発揮しようとしていたのですが、そのときは、すでに子どもが庭を通して何かと対話をしていたようなのでやめました。
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授業中の「やる気スイッチ」

 

一つの言葉にこだわるばかりか、話がついぜんぜん関係ない方向に逸脱してゆく。これもどういうわけか抵抗しがたく、逸脱してしまうのである。「こんな関係ない話に入り込んじゃっていいのかな・・・」とちょっとは思うのであるが、この「一見すると関係のない話」に迂回することで、あたりの風景が一変して、読者は当該論件についての深い理解に到達するであろうということについては(なぜか)確信があるので、逸脱が止らないのである。(「橋本治と内田樹」筑摩書房の5頁、内田樹による「まえがき」より)

 以上の引用は学校の授業とは別の話ですが、これを読んで、社会科の教師で、よく話が「脱線」する方がいたことを思い出しました。
 「脱線」の内容が「おもしろい」ので、そこでいきなり目が覚める人もいたのですが、もしこの「脱線」に(生徒の)「やる気スイッチ」という戦略的なねらいがあったとしたらどうでしょう。

 実は、「脱線」の中にその教師が「本当に言いたいこと」「本当に伝えたいこと」があったのかもしれませんし、ただ「関心を引きつけ直す」ための「余談」になっているのかもしれません。
 私は、「なぜ脱線したのか」「どこから脱線が始まったのか」をふり返り、もとの話に戻る道筋が好きでした。

 もとの話に戻ると、何だか周囲の風景が変わって、何か新鮮なものを学習している気分になったものです。
 ありふれた知識ではなく、そこに何かの「新鮮さ」を感じさせることはたとえば歴史を教えている教師にとってはたいへん難しいものですが、「学ぶ意味がわかる」授業づくりにとっては欠かせないことです。
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スランプ脱出には「炊飯器型・やる気スイッチ」を

 スランプからの脱出策をテーマにした啓発本がいくつか見られます。
 山崎拓巳著「やる気のスイッチ!」(サンクチュアリ出版)の「スランプになった後」(148頁)では、「うまくいっている人の話を全部メモする」という方法が紹介されています。

 本当のどん底にあるとき、たとえ成功者の話を聞きにいったり、アドバイスを受けたとしても、それは耳に入ってくる「音声情報」ではあっても、自信につながる「変革情報」とはなかなかなりません。

 そういう趣旨から、「まず、全部のメモをとっておく」ことをすすめています。
 「選んでまとめながら書く」とその時点で「無理だろうな」「あの人と私はちがうからな」などと余計なことを考えてしまいがちですから、とにかく全部メモする。

 そのメモを、家に帰ってから、時間がたってから、自分なりにまとめ直してみる。
 そうすると、「まとめる」という作業の中で自分の主体性が発揮されますから、(能動的)やる気スイッチに変わる可能性が高くなります。

 このように、「成功者の話を聞き、それをメモする」という「やる気スイッチ」は、炊飯器のスイッチのように、できあがるまで時間はかかるかもしれませんが、自分から圧力をかけ、頭の中で蒸らした米が、おいしく炊きあがるかもしれないのです。
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年賀状の「やる気スイッチ」

 教師というのは、季節的に入る「やる気スイッチ」というのが決まっています。
 4月の授業開き、学級開きはその典型ですが、けっこう大きなイベントに「年賀状」というのがあります。

 毎年必ずいただける「(受動的)やる気スイッチ」は、一年間の活動の原動力になります。

 恩師や元同僚、とりわけ特別支援学級(当時の名称は心身障害学級)の担任の先生からいただける励まし。
 卒業生たち、とりわけ、不登校で苦しんでいた母子から近況報告とともにいただける年賀状。
 短い間でしたが苦労を共にした学校・教育委員会の同僚からの「愚痴入り」年賀状。
 OB教官やいつもご指導いただいている学校や大学の先生からの年賀状。
 野球部の後輩や同級生からの年賀状。
  
 そして何より、多くの場合に「決意表明入り」の生徒からの年賀状。

 私も今年は宛名を全部手書きにして、こちらの改まった気持ちを込めて出しました。
 これを「(能動的)やる気スイッチ」として、新年のスタートをきる準備としたいと思います。

「やる気のオーラ」で満たされている空間

 明けましておめでとうございます。

 新年も旧年末の「やる気のスイッチ」に関連することからスタートです。

 やる気のスイッチをどうしても他人から与えてもらいたいと願う人は、「自分より優れた人々」「より高いものを目指している人々」の中に入る必要があります。
 
 「やる気のオーラ」で満たされている空間に入ることは、どこまでもネガティブな人にとっては自己嫌悪にさいなまれることになるかもしれませんが、エネルギーは高いところから低いところに流れるものと考えれば、それをいい意味で受けとめて消化していくことが、その空間に入る意義だと言えます。

 初任者にとって、経験者であふれている学校現場というのは、本来そういう空間でなければならないはずなのですが、いかがでしょうか。

 「初任者研修」では何も学べることがない、と豪語できるほど現場が優れていれば、何も言うことがないのですが、現場に年間を通じて「やる気」のエネルギーがあふれているような状況は、なかなか難しいのではないかと思います。

 同じような初任者をたくさん見て指導してきている指導主事、講師等に、どんなエネルギーを初任者はもらっているのでしょう。

 もし自分流の「やる気のスイッチ」が見つからないようであれば、という話ですが、「やる気のオーラ」にあふれている空間をどのように見出すことができるかが、教師の成長にとっては大きなものだと思われます。

 「やる気をなくすスイッチ」を常備し、つねにきっかけ待ちをしている集団にいては、エネルギーのロスでもあり、人生の損失でもあります。
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より