ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« ふり返り366日【1月12日】③ 道具としての指導主事 | トップページ | 「確かさ」よりも「豊かさ」が大切な「想像力」 »

ふり返り366日【1月13日】 価値観

 人権尊重や環境保護が「ビジネス」になってしまうような世の中をどうとらえるか?
 小中学校の「社会科」では少し難しいテーマかもしれません。
 ある映画では、「慈善事業家」という仕事や肩書きが「悪者」の最高の隠れ蓑として利用される。
 ある人は、「慈善事業」をしている人がそれを可能にしているビジネスは慈善事業ではないだろう、と言う。
 「多くの人の利益を考えて行うこと」が、「個人の利益のためだろう」と批判される。
 どの立場から見ても一つの価値観にしか写らないものというのは、何なのでしょう。
 

2008/01/13
「公」「私」「公共」プラス「私共」
 稲垣久和著「国家・個人・宗教」(講談社現代新書)は、「公共哲学」の入門書のような内容ですが、「」のマイナス面ばかりを強調しようとする偏った論調が気にかかります。
 「国家を超える市民的公共性」を具体化したいという願望を述べるのはよいのですが、「市民」の姿が理想主義的なので、「結局は理想の実現は難しそうだな」という印象を与えるだけの本になってしまっています。
 「公共の福祉」の実現には、「滅私奉公」(戦前・戦時の知識が全くないならこの語でもかまわない気がしますが)あるいは「滅私奉『公共』」の精神が必要です。別に命を差し出せと要求しているわけではなく、「みんなのためにがまんしたり、みんなのために自分の力を発揮せよ。そうすれば自分のためにもなる。環境問題の解決には、絶対に必要な精神だ・・・」程度の意味でとりあえずは認識していればいいわけです。
 「」に国、官、政府、お上、天皇といったイメージを肥大化させて保持している人々と、素直に「国民の税でまかなわれているもの」というイメージでとらえている人とでは、なかなか議論がかみ合いません。
 現実の「市民」「国民」「民衆」「庶民」「人々」の中には、「公共の利益」よりも「私の利益」を優先したい人が非常に多い(その根拠を「日本国憲法」に求めることもあります)。
 ですから現実の社会を考えていくには、公・私・公共三元論ではなく、「私共(わたくしども・・・『私共空間』という私の造語の一部ですが)」という立場も加える必要があります。「公」にも「私」にも「公共」を実現する能力はあるし、逆に「私共(わたくしども)」のために行動していまう危険もある。
 「」=政府と考え、批判ばかりしたがる人は、「公」がもっている「私共」精神の部分(とたえば、汚職など)だけを見ているわけで、自由主義の「私」については、その結果の不平等、格差の出現ばかりを批判して、「利潤を目的としているといっても、市場の原理に基づいて基本的には消費者を満足させるお金とサービスの交換を成立させる、人間の幸福追求には欠かせない存在(たとえば、テレビ局がNHKだけだったら・・)」として見ていない傾向があります。
 もちろん「」は「私共」精神を生みやすいものだし、消費者の「私共」精神を利用して不正をはたらけるもの(たとえば高額の配当をうたった投資の詐欺など)なので、これを規制・監督しなければなりません(「私」の能力に限界があれば、「公」の役割。たとえば公教育での金融教育など)。
 そこで、今、公教育に求められているものは何かと目を向けると、多額の税金を使っているのに「学力をつける」機能が十分にはたらいていない。その一つの問題として、より高い学力をつけたい子どもは、みんな高額な費用をはたいて塾にいかななければならない。経済上の理由から塾に行けない子どもが、高い学力をつける保障が日本の教育にはない。これでよいのか。・・・もちろん、「最低の学力の保障」だけが公教育の役割ならば、全員を一定レベルに上げればそれ以上の仕事はしないでよろしい。こういう主張はあってよいわけです。だから、「補習」なら塾との提携も認められる。しかし、これではすべての「市民」のニーズに合わない。とはいえ、学校にはそのニーズにこたえる能力がない。ではどうするか。「塾に行けない子どもは、家で勉強しろ。高い学力がつかないのは、家庭学習ができていないからだ。責任は子どもにある。」と開き直れるかどうか。共産党や教職員の組合などは、開き直っていいと答え、「市民」と対立している。朝日新聞は、開き直ることはできない立場を「天声人語」で表明しました。
 公立学校と進学塾の提携が、「公共」の精神に基づくものなのか、「私共」精神によるものなのか。「開かれた学校」とは何か。

« ふり返り366日【1月12日】③ 道具としての指導主事 | トップページ | 「確かさ」よりも「豊かさ」が大切な「想像力」 »

教育」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/43711448

この記事へのトラックバック一覧です: ふり返り366日【1月13日】 価値観:

« ふり返り366日【1月12日】③ 道具としての指導主事 | トップページ | 「確かさ」よりも「豊かさ」が大切な「想像力」 »

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より