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ふり返り366日【1月7日】 目標管理

 偽(07)→変(08)ときた「今年の漢字」ですが、2009年はどのような年になるのでしょう。

 未来予測というのは、楽観的・前向きなものを発表するより、悲観的・後向きなものを発表する方が、はずれたときの非難が少なくてすむので、精神的にも「楽観的・前向き」に行うことができます。

 同じように、「目標」というものも、それを「管理」されるものとして設定しなくてはいけなくなると、達成困難なものはあまり設定せずに、容易に達成できそうなものばかりにする人が増えてきます。
 これは、「目標」として設定して達成したいことよりも、自分への評価の方が大切な人の考え方であり、よって「設定段階」ですでに一定の評価ができてしまうことになっています。

 学校がとるべき「説明責任」は、結果やその分析についてだけでなく、目標やそれを達成するための実践の計画実践の経過実践上で必要になってくる協力や連携などで、それが「開かれた学校経営」の一般的な姿と言えます。

 公立学校にとって少しネックになるのは、「新学期が始まってみないと教師たちが実際にどれくらいの実践をしてくれるかわからない」ところにあります。
 初任者がいるところはもちろん、異動してくる教師も前任校の実績だけでは判断がつきかねます。
 教師の入れ替わりが頻繁な学校は、そのことだけでも大きな課題になりそうですが、最低限、学校として何を目標にして実践しようとしているか、何を研究の柱にしているか、などについての共通理解をもっていてほしいものです。

 教師は個別にはたとえば6年間で達成したい目標があったとしても、子どもは中学校なら3年間しかいられないわけですし、各学年、普通は一度しか経験できません。
 教科によっては一度つまずくと後で何とかしようと思っても難しいものもありますし、教師との関係が原因で続けられなくなったことをその学校で取り戻すチャンスは限りなく小さいものになります。

 そういう意味で、教師の側でも目標は一年一年しっかり見据えるべきことであり、たとえば今は20年度の仕事の総括を行う時期でしょうが、その中から必ず21年度の目標の輪郭が見えてくるものだと考えられます。

 東京都が現在実施している人事考課制度は、キャリア・プランも含め、自己申告を用いた能力開発型の評価システムになっています。
 ただ、厳密に言うと、教師が専門性を発揮する、職務の中核としての教科指導に関する目標や評価を記入するスペースがあまりに小さく、別途の資料が必要になると考えられます。
 それはたとえば「週案」等で十分に評価が可能であるかもしれませんが、研究・研修との関連や、各学年の生徒の学習の実態等を踏まえた成果と課題を明確にすることが重要ですから、「組織運営」と「教科指導・研究や研修」と二本柱にすることも考えられます。

 それが実現すると、また「雑務」を増やすのか?という批判が起こりそうですが、管理職が学校独自の評価システムを確立し、希望によって管理職がその評価表を管理する仕組みにすることもできます。

 「」「改革」は、それを受け入れられない人、「改善」と捉えることができない人によって結果的に「改悪」となるという問題を抱えています。
 「改悪」だという前提があれば、自分の「失敗」を「改革」のせいにできるからです。
 どんなことでも「改善」に結びつけようとする、自らの努力や責任の範囲で成果をめざし、課題を発見してさらに新しい「改善」をめざす・・・そんな姿勢自体が教育的に子どもに影響するはずなのですが、残念ながらその逆の方が一般的なのかもしれません。 
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2008/01/07
漢字1文字で教育界を表すと?
 NIKKEIプラス1で「今年と来年、漢字1文字で表すと?」の特集で、2007年の上位は「忙」「疲」「変」「忍」「苦」「耐」で、2008年の上位は「楽」がダントツ1位、続いて「笑」「健」「幸」「明」「実」でした。
 漢字は1文字にもいろいろな意味があるので、「楽しい1年にしたい」のか「仕事の荷をおろして楽になりたい」のかわかりませんが、上昇志向、プラス思考をもちたいという願望はよくわかります。
 もし「学校の1年はどうだったか」「今年はどういう年にしたいか」と教師にアンケートをとったら、どういう結果になるでしょうか。
 今年は新しい学習指導要領の告示がありますので「変」の年か。相変わらず「忙」「疲」は変わらないのか。
 学力調査の不正や進学実績で「偽」が発覚しましたが、このほかに、学校には「偽」はないのか。
 この2007年の「偽」を受けて、私が2008年に選びたい1文字は「真」です。
 蛇足ながら、この「真」の本来の意味は、不慮の事故で行き倒れになり死んだ人を示す文字だそうです。死んだ人はもうそれ以上変化しないから、永遠の存在、まことの存在となる。旧字体の「眞」は、死者(転倒した人)と「首」の転倒形である「県」から成り立っていることは、小山鉄郎著「白川静さんに学ぶ漢字は楽しい」(共同通信社)を読んで知りました。「白川静さんに学ぶ漢字は怖い」もおもしろい本です。

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教育」カテゴリの記事

コメント

行政経験や企業での就業経験がある教師は、「変化」に対して適切な反応がとれるという「長所」があると見られています。
教師は不思議と、何かを「変えてみる」こと、「試してみる」ことに拒否反応を示す人が多い。結局、今まで通りにやって失敗しているのであれば、「前の人と同じようにやっているのだから、失敗の責任は前の人にもある。私だけが悪いわけではない」という言い訳ができるのですが、新しいことをやってみて失敗すると、「お前の責任だ」と言われてしまう。それが耐えられない。成功に向けてとことん突き進めば、突き進んでいるということ自体がよい回転を生んで、成功しやすくなるのに、なかなか踏み切れない。教師には、「進路」が欠けている、そんな印象をもったことがありました。

(。・w・。 )
暗象は「一般的なこと」に否定的なのか?

>残念ながらその逆の方が一般的なのかもしれません。 

ある時は肯定的に使い、ある時は否定的に使う。
便利に使われることばだけど、
論理的なものを目指すなら統一したら?
肯定的に使うなら自説の補強に使えばいいけど、今回のように否定的に使うのであれば、「一般的なのかもしれない」ということの論拠がないと、ただの唯我独尊を感じさせるためのことばになってしまう。
そういうのを見ると、暗象って何様なんだ…? と思うんだよなぁ。 (^_^)

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正に、国民の望むとおり 小沢氏「話し合い解散応じる」 補正は参院で修正(共同通信) - goo ニュースだと思いますが、選挙は二月にも可能になりますか。 でも、応じられないでしょうね。馬鹿殿は、日本のことより、自分や自民党のことしか考えないから。 山形知事選挙で、自民党が ...(続きを読む) ふり返り366日【1月7日】 目標管理 旧字体の「眞」は、死者(転倒した人)と「首」の転倒形である「県」から成り立っていることは、小山鉄郎著「白川静さんに学ぶ漢字は楽しい」(共同通信社)を読んで知りま... [続きを読む]

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より