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ふり返り366日【08/1/19-3】 教師にも子どもにも敬遠されやすい問題解決的な学習

[学習指導要領] ブログ村キーワード

 小中学生の学力に対するイメージは、一昔前と比べれば、とてもふくらんできたのではないか、というのが現場にいる実感です。
 
 まだ相変わらず「知識」「常識」の不足面ばかりにとらわれつつ、「暗記」用ワークの作成に熱心な人もいます。 
 
 勤勉タイプの日本人には、まだこのようなワークの需要の高さが続くように思いますが、今求められている力が、そんなものにとどまるわけではないことは、社会に出ている人なら間違いなく実感できているはずです。

 激しい変化が続く時代のなかで、古い知識だけで仕事になるのは教師や受験産業に携わる人間ばかりで、社会に踏み出すと、学校ではあまりその大切さを実感したことのない「力」の必要性を思い知ることになるのだろう、と実は子どもたち自身は薄々感じているのかもしれません。

 昨日の帰りの電車で、「問題とか答えを自分で探さなければならない仕事はいやだ」と嘆く人とそれをなだめる年輩の方の会話が耳に入ってきました。

 「答えは一つではない。自分で探さなければならない」・・・そういうタイプの「勉強」を、大学生ならきちんとこなして卒業しているはずですが、受験というものが念頭にある小学生、中学生、高校生の中には、「答えがない」問題に拒絶反応を示したり、早く「答え」を知りたがったりする傾向がある人が多い。
 
 「問題解決的な学習」は、「解決的な学習」であって決して「解決する学習」ではありません。

 問題が何かを発見しなければいけないこと、その解決策を条件に応じて考えていかなければならないこと、場合によっては多くの人の意見や考えにふれながら、解決を模索していかなければならないこと、・・・などの「公式や解法のコツを覚えていれば自動的に答えが出てしまうタイプ」でない課題の特徴は、興味や関心のない生徒からみると「めんどうくさい」としか思えないものになってしまうことです。

 この消極性に拍車をかけているのは、時間がくれば教師によってどんどん「解決」されていってしまう問いが多いことなのでしょう。
 黙って席に座っていれば、いつか教師が「答え」を言って、あとはそれを覚えればいいだけ、・・・教師が「思考力」をつけるために用意した課題も、その答えを教師が言ってしまった時点で、そこから先は単なる「知識」の題材になってしまう。「知識」の題材になってしまっているのに、テストでは「思考力を問う問題」として、恥ずかしげもなく出している・・・。

 問題解決的な学習や思考力・判断力・表現力などを育てる学習がもたらす負の側面です。 
 

2008/01/19
学習指導要領の理念の誤解を解く その3
 その3 問題解決的な学習は総合的な学習の時間でのみ行うものではない
 教科基礎的・基本的な知識・技能の習得の場で、総合体験的な学習問題解決的な学習を行う時間、そのような誤解をしてしまった学校はないでしょうか。教科ごとの学習指導要領解説を読めばわかることなのですが。
 総合の導入によって、教育界には珍しく学校ごとに教師たちの創意工夫によるカリキュラムづくりが可能になりました。そして総合的な学習の時間の全体計画・指導と評価計画などを作成し、他教科との関連もしっかり図って学力向上につとめてきたはずでした。
 学力調査によって明らかになるのは、教科の指導でも体験的な学習や問題解決的な学習の指導をしている教師に教わった生徒の方が、それを指導されていない生徒よりも基礎基本も含めて学力が高い。基礎・基本の指導だけしか行わないと、基礎・基本も問題解決能力もともに身に付かないことがデータで示されています。
 基礎的・基本的な知識とは、「知っているだけで楽しい」ようなクイズ向けの、特殊な内容の知識とは異なり、それを身に付けるプロセスが大切なものであるはずです。定理や法則を暗記させて効率的に問題を解かせるような指導ではなく、どのようにその定理や法則が導かれたり発見されたりしたのかを考えさせる。そのような指導を通して、思考力だけでなく、知識や技能も育てる。それが指導要領の趣旨でした。
 しかし、問題解決的な学習教師の教材準備が不可欠で、かつ学習過程における個別指導も重要なので、「やりたがらない」教師が多く、「忙しい」「時間がない」ことを大義名分に掲げて「いっさいやらない」教師もいます。
 次の段階として、問題解決的な能力を測定するテストの開発力を伸ばすことです。東京都が実施している学力向上のための調査の、このタイプの問題は、非常にやさしいのですが、問題作成のヒントになるかもしれません。

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コメント

コメントありがとうございました。
学校現場の教師の中には,塾とほぼ同じパターンの授業をして「楽をする」人がたくさんいます。
単なる「穴埋め」プリントで,学力がつくわけはないのですが,楽なテストが作れて,子どもも楽に点数がとれるので,めでたし,めでたし,お互いに「問題解決」しています。
学校より塾が信頼されるのは無理もありません。

問題解決能力と基礎の学力・知識が、相乗的に育っていくと良いです。同じ考えを持ちます。

子どもたちの教育がそうなっていくよう、微力を動員したいです。よろしくお願いします

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より