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ふり返り366日【08/1/18-2】 受験と学力の伸びの相関

[学力テスト] ブログ村キーワード

 高校進学時の学力試験の有無は、進学後の学力の程度や伸びに関連があるのか?

 推薦入試で公立高校に進学する生徒の割合は、東京都は約25%、神奈川県は約45%だということです。

 昨年11月17日の日本経済新聞に載った記事によると、9月に開かれた定例教育委員会で、教育委員の一人が「試験も受けないで入学する生徒が四万人のうち一万人もいるのはどういうことか」と言って事務局に詰め寄ったということです。
 記事を担当した人も、調査書や面接、作文だけによる選考で、早い時期に合格が決まってしまい、そのあとあまり勉強をしなくなることを嘆く趣旨のことを述べています。

 試験がないことによる学力水準低迷の危険性は、中高一貫校でも問題になっています。

 公立の中高一貫校は、中等教育学校の場合、高校進学時の試験はありません。
 受験はないかわりに、大量の「宿題」攻勢で学力水準の向上を図っているもようです。

 場合によっては、進学時に学校独自の「学力検査」を実施し、一定の基準に満たなければ補習を実施するなど、対策が考えられているかもしれません。

 一般の公立高校でも、推薦で合格が決まった生徒も「入学後にどれだけ学力が伸びるか」を調べるための資料・参考として、一般の生徒と同じように問題を解かせる(合否には影響なし)という方策が考えられます。

 採点の余分の手間を増やすのは・・・というのであれば、推薦で合格している生徒の点数は試験が終わってすぐにわかる必要はないので、教育委員会のレベルでの業者委託を行えばいいわけです。

 また、すべての受験者の入試得点がわかれば、中学校の「評定」との相関を調査することができます。

 成績一覧表づくりは、調査書提出時のインチキ防止には役立ちますが、現状では教科ごとの目標準拠評価のインチキは防止できません。そもそも観点別評価を可能にする、「目標」を達成するための具体的な指導が行われているかどうかを検証するシステムがないのです。

 全国学力調査の結果を入試得点の一部に反映させるなどの方策が立てられるだけで、一気に水準は上がってしまいそうな気もします。しかし今度は教師の「インチキ」が懸念される・・・。

 思いついたことをただ書いているだけですが・・・。

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2008/01/18 中高一貫校の理念の原型は「旧型」  中高一貫教育の意義と導入については、10年以上前の中教審第二次答申(1997年6月)で示されていたことをご存じでしょうか。  以後、各自治体が実状に応じて計画し、長期の準備期間を経て、開校され始めました。  第一次答申の「ゆとり」の重要性を強力に引き継いだため、意義(メリット)の第一には高校入試がないことによるゆとりがあげられています。  デメリットとして、受験準備の低年齢化受験のための教育に偏るおそれが指摘されていますが、これを受けて、中高一貫校では「学力検査」が実施できないことになりました。実質は学力検査ですが、教科の色を混合させ、「適性検査」という名で実施されています。  中高一貫校からは、「優秀な生徒は集めたのはいいが、教師がその能力を伸ばしきることができるか」が課題であるという話を聞いたことがあります。  もちろん大学進学だけで実績をはかるのは問題はありますが、中高一貫校への信頼度が左右される数字であることは間違いありません。  東京都の場合、千代田区の中高一貫校と、都立の中高一貫校がありますが、中教審の答申の理念であるだけでなく、生徒や保護者のニーズに合った公立学校として、人気があります。  公立中の先生が、成績上位の生徒をとられて「嘆き専門業者」になってしまうことを危惧する方もいらっしゃるようです。でも、中高一貫校の先生のつらさは想像できますでしょうか。生徒や保護者の期待に応える学校にならなければ、「何のためにつくったんだ」という批判を浴びることになります。  中高一貫校の最大の理念は「ゆとり」だったのですが、10年たって、「指導を躊躇する状況」の打破が保証されたので、思う存分「指導」していただきたいと思います。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より