ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 「違い」にふれる効果 | トップページ | 教師は、誰に対してどのような責任を負っているのか? »

ふり返り366日【08/1/22-1】 行政と現場の新しいパイプ役は?

 おそらく、教科の専門性を生かす機会があった昔の指導主事より、今の指導主事の方が、仕事の「やりがい」を感じにくくなっていることは確かでしょう。
 行政に興味がない(普通、行政に入ることを希望して教師になる人はいないでしょうから、はじめはみんな、興味はないのでしょうが)ほとんどの教師にとっては、「どうしてそんなにつらい仕事をしようと思うのか?」と理解困難な仕事かもしれません。
 事故対応などのときは、問題の深刻化・拡大を避けるために、本当に神経をすりへらす毎日になります。

 行政に入って気付いたことなのですが、現場の教員から管理職試験を受けてそのまま副校長になり、校長に昇任していった人にも、指導主事の仕事というのはあまり理解されていないようです。

 現場の教師は、「文書が多い」「調査が多い」と不平をこぼしています。
 指導主事は、その文書や調査の数×学校数分の文書を処理しなければならない立場です。

 単純に集計して都道府県や文科省に出して終わりという人もいるかもしれませんが、自治体の全体の傾向はどうとか、後で入手できる都や国と比較してどうとか、分析して返すと学校は調査をした意義を感じてくれることがあるので、独自の処理をする場合もあります。
 そういう作業でもしないと、「膨大な文字と数字の処理」ばかりに追われるだけの仕事になってしまいます。

 また、議会対応の仕事もあるのですが、教育に関してはいつも決まったパターンの問答ばかりが多く、これもあまり創造性を必要としない仕事になってしまいます。「決まり文句」で対応できてしまう議会の時間は、「無駄」の一言に尽きます。
 
 そんな指導主事でも、指導課長・指導室長、あるいは教育長も加えて一体となって、自治体の教育を変える機能を果たすことはできます。
 そのために必要なパイプ役は、一般的には校長会・副校長会だと思われていますが、管理職は「目詰まり」の原因をつくってしまうものでもあるので、私はあえてそれ専門のポストを用意し、若手を起用していくこと、その若手の中から、将来の指導主事を育てていくことを提案したいと思います。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

08/1/22 文書で動く人と金・教育政策  指導主事というのは、その仕事が現場からなかなか理解されない地味なもので、「めんどうなことをもちこんでくる」疫病神みたいに思われたりするものですが、学校に足を運ぶ回数が増えると、先生方にも免疫(?)ができてくるものです。これは前回の話でした。  行政の仕事というのは、事務的なこと、つまり書類上で完結するものが多い。  お金は、文書をもとにして動きます。人も、文書で動かします。これが、教員だけをやっていると、(年金を「納入していない」ことにされた人も現役にはいないでしょうから)全く異次元の世界の出来事としか考えられません。  給料が毎月、機械的に銀行に振り込まれ続けると、もらって当然のことに思えてしまうのでしょうが、崩壊した学級を抜け出て給料を事務室に取りに行って書類に判子を押していた時代の先生は、何か感じるものがあったのではないでしょうか。   教育管理職になる人が、企業で研修を受けたりしていますが、こういう「異次元体験」は少なくとも管理職には絶対に必要なものです。人やお金は、自動的に動くものではないのです。  文科省も財務省を相手に相当がんばっているようですが、税金をもらうにはその根拠が必要なのです。  もらったら、その結果(成果を強要するつもりはありませんが、給料日の事例のような気持ちは大事)を示さなければなりません。  しかし、文書づくりを「雑用」としか見ていないため、 「研究奨励事業」をいやがる学校の中に、わずかなお金しかもらえないのに、報告書をたくさん書かされるがいや、という理屈のところが生まれてきます。  多くの教師が「雑用」と思ってつくっている書類の中の数字や文字には、税金の負担者、行政マンが直接現場でふれ合うことのできない子どもたちの姿がうつしだされており、生きた子どもの化身として扱いたいものです。  ただの文字・数字として見たら、教育の仕事にはなりません。ただ、一言一句、一ケタでもミスが許されませんから、文字や数字には相当に神経をすり減らして格闘することにはなります。それだけ神経を使っても、現場から理解を得ることが少ないのは悲しいものです。  常に改善・改革が必要とされる背景には、現場から上がってくる数字の「悪化」「問題点」があります。  そういう問題点が多いほど予算がたくさんとれるというのが皮肉なところです。

« 「違い」にふれる効果 | トップページ | 教師は、誰に対してどのような責任を負っているのか? »

教育」カテゴリの記事

コメント

ψ(`∇´)ψ
>将来の指導主事を育てていくことを提案したいと思います。

他の国にいるのか?
公務員だから、
現場で使えない人間のクビを切れないので、
事務専にして吸収しているんじゃないの?
とりあえず、
財務省のそれなりのポストの人は、
そのようなニュアンスで語っていたよ。
まぁ、宴席だけどね。(^_^)

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/43876880

この記事へのトラックバック一覧です: ふり返り366日【08/1/22-1】 行政と現場の新しいパイプ役は?:

« 「違い」にふれる効果 | トップページ | 教師は、誰に対してどのような責任を負っているのか? »

2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より