ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 「責任追及」ではなく「責任追究」ができる学校を | トップページ | 橋下知事の発言力 »

若手教師と学びつながる???

[教育現場] ブログ村キーワード

 雑誌で「若手教師と学びつながる」という特集が組まれているということは、この雑誌がいかに「年輩目線」で編集されているかのあらわれだと思ったのですが、誤解であることを期待しながら読んでみると、そこには残念ながらまさに「若手との断絶」をあらわに表現した「年輩」教師の独り言で満載でした。

 コピペが繰り返し使われているような次の文言、

 

文部科学省は、教育を市場化し、私たち教師の自主性を奪い、管理・統制を強め、競争、評価を持ち込む「教育改革」を行い、私たちの大事な研修時間さえ奪っている。私たちが忙しいと感じるのは、今までの教育制度の反省なしに、金をかけないで教育問題をなんとか乗り越えようとする行政の愚かさからくる忙しさなのである。さらに学習指導要領改訂によって、ゆとり教育から授業時間を増やし、解決しようとしている。学校現場はその授業時間確保に混乱を招くであろう。今より余裕が生まれることはまず難しい。(国土社の雑誌「教育」12月号・106頁より)

 どんなにたいへんな毎日を過ごされたのかと思いきや、「昔は遊びがあった。放課後は今のように学校内外の会議もなく、バドミントンやバレーをして交流していた(勤務時間に?)」「学校内での飲み会も多く、行事や校内授業研ごとに会を設けていた(校内で飲酒?)」・・・
 「50代が、若い人からみて少し余裕があるのは先がみえているから(確かに忙しそうではない・・・)」
 
 「仲間との対話がたくさんあった」というのは、教師としてはとてもめぐまれた環境であったことはたしかだと思います。ただ、それは大量採用の時代だったために、同年輩がたくさんいたということです。

 今、数少ない「若手」と会話ができないのは、本当に「忙しいから」でしょうか?
 「若手教師と学びつながる」という特集なのに、若い頃の回想録になってしまっている

 他には、若い教師の生活指導のまずさを記事にして、「こうしなければいけないのに」という原稿。
 この原稿は、その若い教師に向けて書いて読ませるためのものだったのかどうか?でも書き方は対話形式ではありません。

 極めつけは、25年前の自分との対話形式の原稿。

 これで本当に「若手教師と学びつながる」ことをめざしているのか?
 そんな印象ばかりの内容でした。

 やはり一番の心配は、教師は「自由」をどういう意味で使っているのか?ということです。

 社会人が、自分の職場に求める「自由」って何でしょう?

 中学生を「荒れさせたくない」、だから校則やきまりでしばる、子どもたちに自分が求めたくないことを要求することはつらい、それにとらわれない自由な教育ができたら、毎日の学校生活は楽しいものになるにちがいない。・・・・本当に???

 「管理体制から自分が自由になれないことが、一番の問題」・・・???

 こういう教師たちとの感覚のずれに、若い教師はとまどっているというのが現状なのでは?
 
 昔は、先輩教師からみんなこのような話を聞かされ、校内で飲み会をしながら、教師たちは育っていったのでしょうか?

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

« 「責任追及」ではなく「責任追究」ができる学校を | トップページ | 橋下知事の発言力 »

教育」カテゴリの記事

「ゆとり教育」」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 若手教師と学びつながる???:

« 「責任追及」ではなく「責任追究」ができる学校を | トップページ | 橋下知事の発言力 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より