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« 学力調査が担うべき役割 | トップページ | 学校は万能ではないが、「下方修正」はいかがなものか? »

築地市場の見学禁止

 ココログニュース(12.17 17:02)で紹介されている記事については、観光立国に関する調査・研究を行っている生徒から、最初に耳にすることになりました(テレビ・新聞からしばらく遠ざかっていたもので・・・)。

 ニュースで紹介されているブロガーの意見のように、(外国人観光客などの)マナー悪化の対策が「締め出し」「見学禁止」では、観光立国を目指す日本なら「待った」がかかって当然のように思われます。

 ただ、競りに関しては、非常にナーバスデリケートな世界であるため、一人の人間による取材でもピリピリしている、という感触があるそうで、直接「観光」のために働いているわけではない人にとって、自分の仕事の足を引っぱられる状況については、何かの対策が練られるべきでしょう。

 こういう問題のとき、どうしても「どこが責任をもつのか」という「押しつけ主義」が特にマスコミなどでは多く見られます。たいていは、行政が「責任の主体」にあげられます。

 マナーに関する、各国語での案内標識やパンフレットを作ってガイダンスを徹底する。
 その責任は東京都にある。

 たしかにそうとも言えでしょうが、すでに確立している「観光スポット」ですから、その特性を生かした市場の新しい姿を追究する、そういう姿勢もほしいものだと思われます。

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教育」カテゴリの記事

コメント

以前、そのことで感謝申し上げたことがありましたね。

( ̄ー ̄)ニヤリ
私のおかげで内容は深まるし、
アクセスは増えるし、
暗象にとっては、万万歳でしょう。(^O^)

>これだけ意味のないブログを「旗振り」と評価してもらったと喜ぶべき

とてもわかりやすい「いちろう」さんのスタンスですね。

(´,_ゝ`)プッ
こんどは、そっち?
まぁ、これだけ意味のないブログを
「旗振り」と評価してもらったと喜ぶべきでは?

>旗を振って人を引っぱっていく

そんなおおげさなことをしようとしていると思われましたか・・・?

(ノ∀`) アチャー
また始った…。
「 」付の専門用語が…
説明されなくても知っているよ。

ハトより大きくって黒い鳥は…
というと、普通の人はカラスと思うけど、
暗象は、その程度じゃ満足できないんだね。(^O^)
自分は説明しないくせに、
相手には自分のことをもっとわかれと要求する。
どこまで子どもなんだか…。
まぁ、そういうのを世間では自己中って言うんだよね。

「学校の開放」とは、「開かれた学校」のことですか?
これについて、改めてご説明が必要でしょうか?

m9(^Д^)プギャー
ダメだこりゃ〜

今回の例なら、
職場を他人に開放することを進めるかどうか?
暗象は日々、学校の開放を謳っていながら、
そうなった先のことを全然考えていない。
ただの口だけ。

旗を振って人を引っぱっていくなら、
その先を考え、見えていないと、
自らのスタンスとして成り立たないのでは?

「同じスタンス」とはどんな「スタンス」でしょう?

(´,_ゝ`)プッ
>「自分の感覚だけで評価」という意味は?

文字通り「感覚」だよ。
ニュースを読んで、いいなぁ…と思えば良い評価をし、そりゃダメだと思えば、悪い評価をする。
あたり前といえばあたり前だけど、
暗象は、その時々の「感覚」で書いているから、
事象が変われば、全く反対の評価をする。
同じスタンスで事象を分析しようという意思がない。
そんなグニャグニャな姿勢で、
子どもたちに何を教えているのか?
これも、半年前から指摘し続けていますね。(^O^)

「他人の仕事を自分の感覚だけで評価して、文句を言う」のは記事ではどの部分だったでしょうか。
ちなみに、「見学禁止」という措置への反対意見があるというのは、ニュースから知ったことです。それを「観光立国」という観点から考えたときに、当然のことだと思ったのが私の考え。
「自分の感覚だけで評価」という意味は?

┐(´д`)┌ヤレヤレ
結局、他人の仕事を自分の感覚だけで評価して、
文句を言うだけの記事だったんだね。
そこから自己として何も学ぶ姿勢もなければ、
相手を思いやる気持ちもない…。
本当に先生なのか?

学校教育を観光資源にできるほど日本の教育が「おもしろくなる」といいですね。
観光に開くという発想は、外国で「教育旅行」=「海外への修学旅行」を推進しようとしている方々には興味があるかもしれませんが、今のところあるのはその逆だけですね。

(´,_ゝ`)プッ
結局、日々の記事も嘘っぱちなのか?
開かれた学校を目指さなきゃいけないというのが、
暗象の説だろう。
それなのに、開かれた先のことは夢物語?
全然本気じゃないことを証明した?

学校をそれくらい開かれた世界にできたら、気持ちがいいでしょうね。

(*^ー゚)bグッジョブ!!
>想定が難しいです。

築地の人たちは想定していたのかね?
想定できずに、問題が起きたから…というのがダメなんだよね。甘っちょろすぎるんだ。暗象の考えでは。

学校教育の現場が観光スポットというのは興味深い発想ですね。
北朝鮮のマスゲームなどは、練習でも見応えがあるものでしょうか。
外国からときどき視察の方が見えますが、観光ではなく仕事なので、学校で観光客によるトラブルが発生するというのは想定が難しいです。

( ´艸`)プププ
いや〜っ…
日本の特殊な学校教育が観光スポットになって、
毎日のように外国人が暗象の授業を見に来ても、
こんなことを言えるのか?
私の仕事場には来て欲しくない。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より