ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 変化・改革の阻害要因 | トップページ | 内田樹・齋藤孝・苅谷剛彦の共通点 »

赤の他人からの批判と同僚からの批判

[教師] ブログ村キーワード

 教師が同僚同士でおだて合っていないと「同僚性」が維持できない学校と、同僚同士で批判し合って異論をかくさないですむ学校があったとして、「勤めたい」と思う学校はどちらでしょう。

 私は幸いにも、両方のタイプの学校に勤務することができました。
 行政の時代にも、両方のタイプの学校を訪問することができました。

 生徒が伸び伸び生き生きしているのは、いずれも後者の学校でした。

 「褒められないと動こうとしない」「他人から当てにされていると実感できないと不満をもらし、行動しない」人というのは、子どもでも大人でもいると思いますが、そのような教師を、子どもと常に対峙している教師が、子ども以上に動かさなければいけない職場というのは、けっこうきついものです。

 もちろん、「褒めて伸ばす」という言葉があり、その方法で子どもも教師も伸ばそうとしている人がたくさんいます。
 「自分で自分を褒めてあげたい」と思う教師もたくさんいるでしょう。

 「長所を軸に自他の人間像を描く」姿勢は、教師の一般的なものですが、問題は自分や相手がその課題(短所)を自覚していない場合です。

 そして、自覚できていなかった課題に気付かされることは、大人でも重い心理的負担になるかもしれません。
 その弱みを発見された人と毎日いっしょに仕事をし続けられない場合はなおさらです。

 赤の他人の書いたこんなブログで、「心当たり」を探してみていただければ、負担は軽いものですむのではないでしょうか。

 いや、赤の他人からの「冷たい批判」より、同僚からの「あたたかい批判」の方が、ためになるし、のぞむところだ!という方は、このブログをお読みになるのをやめ、「同僚同士で批判し合って異論をかくさないですむ学校」づくりを進めていただきたいと思います。

« 変化・改革の阻害要因 | トップページ | 内田樹・齋藤孝・苅谷剛彦の共通点 »

教育」カテゴリの記事

コメント

はむれっとさんへ。
同僚性という言葉は、たしか私が人事考課の話題ですずめ先生のブログにコメントをつけさせていただいたときに、すずめ先生が「同僚性をこわす」というようなニュアンスで書かれたのを見たのが最初だったような気がします。それ以来、ここでもカギ括弧つきの表現で書いていることが多いかもしれません。

kurazohさん、どうも
 チームワークですか、分かったような変な気も、、、「性」の字がいまいちピンと来ないけど。どちらかというと「体」のような?。同僚体、も変か~。同僚態、、
わかんねぇ。(^^ゞ

(*^ー゚)bグッジョブ!!
>「誤りの指摘」を詭弁・強弁と断定してしまい、「誤り」を認めない方には何を言っても無駄なのは承知しているのですが・・・。

激しく同感いたします!!  (^O^)

はむれっとさんへ。

カギ括弧付きの同僚性とは、たとえばおだて合って初めて成立するようなチームワークのことで、一応よい意味を持たせようとしたら、「子どもの成長のために高い目標とその達成に向けて努力しなければならないという自覚を共有し合い、ときには助け合い、ときには批判し合ってよりよい実践をめざす、教師集団に求められるチームワーク」となります。

>個々の人がどちらかを目指すことがあっても、全員がそうなるとは思えないし、旗振り役の人であっても、すべてのことがらに対して一貫性をもっているとも思えない

当然のことですね。
いわゆる「究極の選択」というやつで、特定の条件の下での選択を想定しています。
ですから「そんなあり得ないことは考える必要はない」と言ってしまえば、それで終わりです。

「誤りの指摘」を詭弁・強弁と断定してしまい、「誤り」を認めない方には何を言っても無駄なのは承知しているのですが・・・。

kurazohさん、こんちは
同僚性って何?、
いまいちピンと来ない言葉なんだけど。

(・∀・)ニヤニヤ
>教師が同僚同士でおだて合っていないと「同僚性」が維持できない学校と、同僚同士で批判し合って異論をかくさないですむ学校があったとして、「勤めたい」と思う学校はどちらでしょう。

暗象の勤めた学校には、先生が二人ほどしかいなかったのか? 10人を越えたら、こんな単純な集団ができるとは思えない。個々の人がどちらかを目指すことがあっても、全員がそうなるとは思えないし、旗振り役の人であっても、すべてのことがらに対して一貫性をもっているとも思えない。

実際、暗象のブログ仲間は「批判しあって高めあう」ことを主張しながら、自分たちが批判されたら、ただひたすら自己弁護のために詭弁と強弁を繰り返す。
で、「相手を嘘つきと言った方の勝ち」か、無視する。

直近の無視は「5歳児検診の効果」で、暗象の仲間の「まずろ」さんの件がある。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/43401837

この記事へのトラックバック一覧です: 赤の他人からの批判と同僚からの批判:

« 変化・改革の阻害要因 | トップページ | 内田樹・齋藤孝・苅谷剛彦の共通点 »

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より