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管理職を動かすのは教師たちです。

 すずめ先生はブログで、「小中連携は難しい」ということを訴えていらっしゃいますが、ご自身はすでに英語活動についてすばらしい「連携」の役割を果たしておいでです

 では、私の意見が「見当外れ」「違う方向の話」ということになってしまうのはなぜか。

 

小中連携はやった方がいい,というより,必要な物だと思う→今までそれがほとんど進んでいないのは,英語をやっていなかったからではなくて,やっぱりある種の縄張り意識があるからだ放っておいても小中連携にはつながりません→強行に一度目を開催できるのは校長さんしかいません

 この続きは何でしょうか。
 →(でも校長にはそんなやる気がありません。じゃまをしています。だからできません)・・・で終わり?
 「小・中の管理職が悪い」ということでしょうか?
 「私に向けてする話ではないでしょう」ということでしょうか?

 小中連携がやりたくてもできなかった地域では、新学習指導要領への移行・完全実施期間はチャンスではないか?というのが私の意見です。
 
 中学校の英語教師があてにされていないのなら(地域でも評判のよくない教師ばかりだとしたら)難しい面があるかもしれませんが、小学校の先生方は、みなさん不安を抱えつつ、今も総合の中などで英語活動指導の模索をされています。

 身近な人材で相談に乗れる人と言えば、中学校の英語教師が最適でしょう。

 ここで小中連携の大きな流れを作り出せるのは英語教師ではないですか?
 (総合のはじまりのときに社会や理科の教師が中核になったように・・・)

 他教科の研究主任とか、教務主任や管理職では、英語教師の顔色をうかがう必要が出てくるのかもしれませんが、英語教師が中核になれば障害はほとんどないと言ってもよいのではないでしょうか。

 研究主任が広く「小中の言語活動指導の課題」「小中におけるコミュニケーションに関する指導の課題」などをテーマにすれば、その年の研究課題にもなるかもしれませんね。
 
 そうすれば、小学校教師+中学校の英語教師という「限定的な小中連携」から、全員参加型の「カリキュラム全体にかかわる総括的な小中連携」に発展する可能性があります。

 ・・・忙しいからそんな仕事をやりたくないと英語教師に言われてしまえば、なかなか実現しないのはよくわかっていますが。
 しかし、やはり、根拠をしっかり示して提案できる人は、(他人を動かすことに躊躇する、あるいはその意義を訴えて説得することができない、忙しくさせることに抵抗がある、そういう同僚ばかりであると仮定すれば)英語教師しかいないのでは?
 そのきちんとした提案がなされても、管理職が拒否をするというのなら、そういう場合は直接教育委員会に話を持ち込めばすぐに実現することになると思います。
 
 現場の教師は、自分たちから管理職にはたらきかけをして動かすことなしに、いつも行政の言いなりの管理職に動かされてばかりだ、と批判しても、それは批判のための批判にしかなりません。
 (なお、最後の二行はすずめ先生の記事とは無関係です)

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教育」カテゴリの記事

コメント

もとは少数の希望で始まったこと(そもそも強制された学校でないところに行きたいという人が多数であることは少ない)ですが、地域によってはそれを支持する人は多数でしょうね。

(・∀・)ニヤニヤ
>否定できません。

少数意見で導入されたのか、
多数意見だったのかという問題では?

学校で何年学んでも英語が使えない日本人をどうすべきかというのはおいておくとして、学校選択自由化は、自分で学校を選びたいという親と子どものニーズがあったことは否定できません。
実はこのときに、小中連携がしっかりしている(かつ信頼のある)ところは、「他の地域の学校に出て行ってしまう子ども」をある程度防ぐことができたのです。
それが、下手に小中連携をやると、お互いのボロがでまくってしまうために逆効果になると考える教師は多いんですよね。
だから逆に、小中連携をやろうとしない地域は信頼性が低いと考えることもできるのです。
せっかくのチャンスを生かさないのはもったいない、どうして動かない学校があるのだろう(理由はわかっていますが)、そのような趣旨としてご理解下さい。

( ̄ー ̄)ニヤリ
>「勝手に決めたこと」ではありませんね。

誰の要請だ?
当事者からの強い運動があったのか?

>ここのメインテーマは「小中連携」なのです。

最後の2行で私に振ったんだと思っていた。
自意識過剰でごめんね!!  (^_^)
でも、
小中連携を否定する先生は少ないと思うが、
勝手に道具を持ってきて、
これを使ってやれというのは、
いかにも、主体性を無視した方策だよ。

>学校選択も小学校の英語教育も、行政が勝手に決めたこと

「勝手に決めたこと」ではありませんね。
小学校の英語教育はさておき、学校選択自由化はすべてとは言いませんがWINーWINの関係が増えたわけです。
ところで、ここのメインテーマは「小中連携」なのです。
小中連携を推進するきっかけとして学校の教師が利用できる機会のことをお話しています。

(゚ー゚)
だから、学校選択も小学校の英語教育も、行政が勝手に決めたことだということに異論はないんでしょ?
「行政の言いなりの管理職に動かされてばかりだ」と批判するに値することだと思うが?
先生方の要望で決まった政策なのか?
いや、保護者の希望があっての政策か?
どちらでもなく、
行政主導のものであれば、
末端の公務員は、言いなりになるだけだろう。

ここの例で言えば、英語活動の導入を機会に、すずめ先生も必要だと認識している小中連携を推進するチャンスであるということを主張しています。
相手のニーズを利用してこちらの別のニーズも果たす、WIN-WINの関係になれるチャンスだと捉えられるでしょう、ということです。
「工夫の強制」というのもおかしな話ですが、たとえば学校選択自由化のときに小中連携を本格的にスタートさせ、地域から信頼される学校づくりを進めたところは、それなりの成果を上げています。

( ^ω^)おっおっおっ
>なお、最後の二行はすずめ先生の記事とは無関係です

私が回答すればいいのかな?

>いつも行政の言いなりの管理職に動かされてばかりだ、と批判しても、それは批判のための批判にしかなりません。

最初の一歩が違うんだよ。
ここの例で言えば、先生方が求めて小学校に英語教育を導入したのなら、その主張の責任を果たせばいい。先生集団のモチベーションも高いだろう。
でも、行政が決めたことを効率よくやれという範囲内で工夫を強制される状況下で、先生たちが主体性を発揮しろというのは、こぼれる人(先生)は多いと思うし、そういう人たちが批判するのはあたり前だと思う。
コンセンサスのレベルを下げれば下げるほど、批判が増えたり、モチベーションが下がるのは普通のことだよ。
まぁ、お気楽公務員は、御上の言うがままにしているだけでいいんだろうけど、腐った集団になるよ。あっ、暗象は腐った集団であることをアピールしているんだったね。だったら、なぜ腐ったのかをきちんと分析し、良い集団に向かうために必要なことを提案してはどうか?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
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    「孟嘗君 3」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「太公望 中」より
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    「孟夏の太陽」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より