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内田樹・齋藤孝・苅谷剛彦の共通点

[教育現場] ブログ村キーワード

 「街場の教育論」の著者、内田樹は著書出版を契機に教育現場の講演会に参加しているようですが、最近のブログの記事「費用対効果教育」を読んでも、結局、齋藤孝や苅谷剛彦と同じような「大学」という閉じられた空間で生活している人ならではの狭い思考に陥っているようです。

 なかなかチャンスはないのでしょうが、文科省キャリアが実験しているように、公立中学校の現場で一年間実際に教えてみる、という体験をされるともっと違った角度から発信ができるような気がします。

 3人とも、他の十数人から三四十人という「同僚」と同じ子どもを教育している姿というのを、どうも想像することができません。

 大学や大学院における「学力不足」に悩まされていることはひしひしと伝わってきますし、学校現場と同じように「事務」=「雑用」を嫌い、「経営」の側の行動は理解できない、そういうスタンスは相似形であると思います。

 苅谷剛彦を除く二人の本は、現場の教師が読んでもおもしろいのでしょうが、齋藤孝の方はそのテンションの高さに年輩の教師はついていけないでしょうし、内田樹の方は、大学教育のあり方への不満がベースになっているので、これを読んでも公立学校の教師が「勇気づけられる」かどうかは疑問です。
 
 「教育は放っておくのが一番よい」という内田樹に対しては、「教育は、どのような立場の人間からも放っておけない現状が多すぎる」現場の声が今後、届いていくことを期待しています。

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コメント

コメントありがとうございます。
現場出身でも、「評論家」から「大学教授」に出世?した方もいらっしゃいますが、子どもを成長させることで満足させる立場でなく、あくまでも「顧客満足度」を追求するようになってしまうと、本を読んでも「商業主義」だなあという印象が強くなってしまいます。

教育学を専門とするからには、現場の学校で教員の経験を積んでから、教育学に取り組むのでなければ教育を論じられないと思う。とくに、
苅谷剛彦は教育学が専門なのかと疑ってしまう。初めから社会学方面に行けば良いのに、勘違いしたのだろう。

齋藤孝と苅谷剛彦については過去の記事でふれた通りです。
内田樹の文章については、機会があればふれていきたいと思います。

(・∀・)ニヤニヤ
>「大学」という閉じられた空間で生活している人ならではの狭い思考に陥っているようです。

例えば、このように論評する時の根拠が何もない。
他人のブログには求めるのにね。
まぁ、そんなことを言いだせば、
暗象のブログは成り立たなくなるよなぁ…

齋藤孝と苅谷剛彦については過去の記事でふれた通りです。
内田樹の文章については、機会があればふれていきたいと思います。
おもしろさでは、これからも人気が続く人だと思いますが、教育論については、現場を勇気づけるほどのことは書いていませんね。

(。・w・。 )
あぁ、そうね。
誰もが暗象と同じ情報を共有していないので、
結論はみんなが理解しやすいように書いた方がいいよ。

じゃ、この記事は面白くないな。
単純に、内田樹・齋藤孝・苅谷剛彦の3人を、
自己の感情で切捨てただけなんだね。
いつものやつだ。

一つ一つことわっておりませんが、「 」で書いてある部分は、引用とか、特殊な意味で使われている言葉とか、普通は使われていない言葉とか、そういうものです。
ここでは、「街場の教育論」の帯にある「どうにも大変な思いをしていらっしゃる教育関係者のみなさまが読まれたら、きっと勇気づけられるのではないでしょうか」とあった部分からとっています。

`;:゙;`;・(゚ε゚ )ブッ!!
>これを読んでも公立学校の教師が「勇気づけられる」かどうかは疑問です。

他人には求めるんだ  (^O^)

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より