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« 学校は万能ではないが、「下方修正」はいかがなものか? | トップページ | 「大人のいない国」より その1 矛盾の効能 »

保護者が教師に「思い・願い」を伝える方法

[教師] ブログ村キーワード

 学校で教師の仕事が成立するのは、子どもがいるからですね。
 教師がその仕事を認められるのは、子どもが力をつけたから、子どもが評価されることをしたから、子どもが自信をもつようになったから、・・・など、子どもが成長したからです。
 教師が、教師として評価されるのは、みんな子どものおかげです。
 このことを忘れている教師はいないでしょうか。
 
 私が最初に勤務した学校では、子どもの成績が伸びなくても、実績がでなくても、「一生懸命やってくれる」ということだけで保護者から感謝されることがありました。

 保護者には、謝意を示すことで教師に「ふがいなさ」「いたたまれなさ」を自覚させようとしていた、と書いたら反対意見をいただきそうですが、実際、そのような保護者はいらっしゃいました。
 そういう保護者をがっかりかせるのは、その「感謝」の意味を誤解してしまうか、それとも理解しようとしない教師の存在だったのでしょう。

 そういう教師が増えてしまうと、その保護者にとっても、願いを理解してもらうために「はっきりと思っていることを言う」しかなくなってしまいます。

 日本の文化の優れていた点は、「思っていることをストレートに言わずに伝えることができる」コミュニケーション形態にあった、と考えることが可能であるとすると、今はそれが実現しにくい時代のなのでしょうか。

 子どもに学習意欲がないと嘆く教師。
 その教師にとって、子どもの学習意欲を高めることができない自分とは何なのだろう?という想像力ははたらいているのでしょうか?

 教師にとっての「自己理解」を突き詰めてしまうと、本当に暗いものしか見えてこないのでしょうか?
 「自分を見つめる」ための時間として、私も帰りの会の前の黙想は大切にしています。

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教育」カテゴリの記事

コメント

kurazohさん、こんにちは
 そうなんですか、「自己理解」って変な言葉だけど教師って何時もそんな
反省文を書かされてるのですか。毎年、始末書を書いてる様なものだな。

Psycheさん、初めまして
 塾の先生ですか、学校とは違った教育が有りそうですね。
>本人の頑張りもあって見事合格したのですが、そのときに母親からいただいた図書カード1万円は、今でも使わずに大切にしております。
 それは良い事をしました。
 別に責める意図は無いですけど、kurazohさんなら多分しないだろうし出来ないかもね、公的にも私的にも。それはそれで悪い訳ではないですが。

 近頃産婦人科に成る医者が少ないと言われてます。ローリスクハイリターンだからだと一部では言われていて、報われない仕事だからなり手が減ってるからだと言われてる。
個人的意見だけどね、それは患者(正確には違うかも)が仕事の評価に入院費しか考えてないからじゃないかと思う。昔なら病院の看護婦詰め所には御菓子がいっぱいあったものです。
それを虚礼と言うけれど、真礼(という言葉有るのかな?)も混じってたと思います。
でも世は虚礼廃止を謳って、謳うのは良いけれど真礼も虚礼にしてしまった。
残るのは入院費しか患者の気持ちを伝えるものが無くなった。悪い言葉で言えば金が全て。
 お金とは別に気持ちの遣り取りが有って医者が患者の気持ちを知る事が出来るなら
産婦人科はもう少し増えてる様な、そんな気がしてる所です。虚礼でもいいから受け取っとけばと思うのです。
 気持ちを受け取るということは大事じゃないかな~っと。
良い事を「しました」と能動態で書きました、「されました」とは意味が違うのを分かって貰えたでしょうか。お母さんの気持ちをキチンと受け取るという事は良い事だと思うからです。
「おかげ」とはそういう事ではないでしょうか?。
 よく勲章やなんかを貰う事になって辞退する人がいます。でも私は貰っとけば良いのに、と思ってしまう。例えば陶芸に秀でて選ばれて、私はその器じゃないと辞退するけれど、「あなたが評されればあなたを目指し同じ陶芸の道に歩む人の励みになると思って受けたら良いじゃんか」と思ってしまう。「隗より始めよ」の隗だと思えば陶芸が盛んになるだろうに、自分の事しか考えてないの、なら選ぶ必要は無いかもな。
まあ、私がもし選ばれでもすると、傲慢になるだけだだろうから辞退するべきだろうが。
(何を書いてんだか、訳わかになってきたな、、(((^^;)

「教師として評価されるのは子供のおかげ」。本当にその通りと思います。教師は評価を恐れるのではなく、むしろ積極的に向き合っていただきたい。評価は恐れるものではなく、やりがいにつながるものです。

先生が一生懸命子供をケアしていれば親は自然に感謝するものです。子供のために親は鬼にでもなれるからこそ、子供のために尽力してくれる教師には感謝する。これは時代が変わっても変わらないものだと思います。

志望校の偏差値に10近く足りない生徒を、学校が終わった4時半から夜の授業まで呼び出し指導する…といったことを続けたことがありました。間違えた問題をやり直しさせ、どのように解答したのか説明させ、理にかなっていれば認める。形だけのやり直しであればしかる。その繰り返しです。

本人の頑張りもあって見事合格したのですが、そのときに母親からいただいた図書カード1万円は、今でも使わずに大切にしております。塾に贈り物をもらうことはよくありますが、その上私だけ個人的にいただくというのは初めてだったものですから。気持ちが嬉しいですよね。それがこの仕事を続けられる何よりのエネルギー源であり、先生への評価があるからこそ先生を続けられるのです。

人事考課の自己申告書には、目標とその内容、達成困難度等を年度当初に記入し、自己評価を年度末に行います。
この自己評価が、「自己理解」に関する公的な文書となっていますが、もちろん、非公開です。

kurazohさん、こんばんは

>人事考課の資料を読める立場の人は、教師の「自己理解」にとてもよくふれられるのですが・・・。

それは、教師は何時も自省文かなにか書いて人事課かにでも提出してるって事?。
反省しろと紅衛兵(だっけ?)が言った様にですか?。

はむれっとさんへ。
人事考課の資料を読める立場の人は、教師の「自己理解」にとてもよくふれられるのですが・・・。
実態はどうでしょうかね。
力のある教師は、「大勢のうちの一人」として、自分の実績を過大評価せず、成果をチームのものにすることができますが、そうでない教師は、「大勢のうちの一人」という立場を、責任逃れか、責任の押しつけのように、自分の失敗を過小評価することになってしまいます。

  年末の冬晴れですが、寒いですねぇ・・年賀状は書きましたか?お疲れ様です。・・18歳の時、自分は、大きな事故で脳挫傷!1ヶ月間の意識不明・・奇跡の生還でした。可愛い・面白画像・動画等で毎日更新中で、自伝ブログも【サラリーマン編】突入してます!・・ 夏休みも終わったこの日12/18書き:【明年の元日は1秒だけ長く“うるう秒”が全世界で物理的時間】・・・前妻は「膠原病」(他界)・自分は「脳挫傷」・母は「脳梗塞」(2級障害者)姉(長女)は「小児麻痺」(2級障害者)として誕生し、我が家は障害家族の様・・でも、笑顔・絶やさずに頑張ってます。・・自分は静岡県在住 40歳になりました。 現在は建築現場監督休業してます。ブログは、学生編も終わり、サラリーマン編で書いてます。自分の学生編当ブログにも、当時の写真・面白い・可愛い・画像・動画ありますので、時あれば、楽しんで見てやって下さい。 18歳時、大学合格後・交通事故にて脳挫傷で1ヶ月意識不明・・CT検査(脳の断面レントゲン)では一時は脳が半分に・・ 人からは分かりにくい障害持ち奇跡の復帰!しかし.社会に出て絶えない苦 労ですが、楽観主義で闘ってます!よろしければ、コメント等、いただけたら幸いです。


  



korazohさん、こんちは
仕事中に内緒でアクセス、(コソコソ)

「開き直り」ですか?。「開き直り」というと一般に悪いイメージですが、言葉に操られるかもしれませんね~。
福田首相ではありませんが、自分を客観視できる人が突き詰めて見つめても大丈夫でしょうが、自虐視してしまう人が突き詰めて見つめても害しかないのでは?。
「自己理解=自虐」か「自己理解≠自虐」を見つめ直す事も必要では?。

あ、kurazohさんの事ではありません。(^^;

「開き直り系」の教師というのもさらに見苦しいものです。

kurazohさん、こんちは
すずめさんとこダウンした様で遊び場が無くなっちゃった、こっちで遊ぼか。(xx)\(-- )バギッ

「おかげ」って随分日本的でアバウトな言葉でkurazohさんの論理敵思考に合うの?。

> 教師にとっての「自己理解」を突き詰めてしまうと、本当に暗いものしか見えてこないのでしょうか?

見なきゃ良いじゃん?。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より