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孫子カルトクイズ:「宮・商・角・微・羽」に関わる孫子の言葉とは?

にほんブログ村 教育論・教育問題

 はむれっとさんから、「責任追及型」と「責任追究型」という生活指導のあり方について、ご意見をいただきました。ありがとうございます。
 

子ども相手に責任云々は一寸大げさというか大仰というか、叱る怒るでよいのでは?。

 子どもによっては、「叱る怒る」だけで十分に「責任追究」が可能になる場合もあります。
 ただ、それだけでいける!と誤解してしまった教師のために、校長・教育委員会が、匿名の電話をもらってしまったりします。

 生活指導には、本当に様々な手法・言葉かけ・共同作業があります。

 孫子で言えば「勢篇」に参考になる部分がありますね。

 「孫子」をよく読んでいる、中国古典に詳しい、という人には、「宮(きゅう)・商・角・微(ち)・羽(う)」にかかわる孫子の言葉って何?などと聞くといじわるですかね。

 色は5つにすぎない青・黄・赤・白・黒)が、その5色のまじりあった変化は無数であり、とても見つくすことはできない。

 味も5つにすぎない酸・辛・醎【かん・・・しおから】・甘・苦)が、5味のまじりあった変化は無数でとても味わいつくすことはできない。

 それと同様に、戦闘の勢いは奇法正法の二つの運用にすぎないが、そのまじりあった変化は無数でとても窮めつくせるものではない。

 この話の前に、「宮・商・角・微・羽」の5音階のまじりあった・・・(以下同様)というものがくるのです。(原文は「五聲之變」で、現代語訳でないと出て来ません)
 似た例を並べ立ててたたみ込んでいく手法は、中国古典によく見られますね。

 生活指導にも、色・味・音階のようなさまざまなバリエーションがあり、その組み合わせ方が絶妙になったとき、「責任追究」の域に達することができます。
 ここでの「責任」は、「責任感」程度の語の意味として捉えていただいてもかまわないと思います。
 
 だれとだれを組み合わせる(異なったタイプの教師のチームプレイでいく)、という手法もあります。発熱系といやし系、とか。 
 
 奇中に正あり、正中に奇あり、奇から正が生まれ正から奇が生まれる・・丸い輪に終点がないようなもので、だれにも窮められないものかもしれませんが、子どもの小さな感情の波を感じながら、基本は自尊感情を傷つけることなく、また傷ついた自尊感情を修復しながら、自分の出せる限りの力をつくす、これが私の生活指導の信念です。

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教育」カテゴリの記事

コメント

ドッジの意味でいうと、それはおもしろい形のコミュニケーションですね。

( ´艸`)プププ
だから「打者にとっては」と限定したんだよ。
逃げる暗象には、どこに投げてもダメだろうと。
野球の例えはダメだね。
私の気分は、ドッジボールだよ。

ストライクゾーンは変わりませんよ。

( ̄ー ̄)ニヤリ
打者が逃げれば、
打者にとっては、ほとんどの球がボールに見えるね。

ボール球を無理して打つことはない、ということですね。

( ̄▽ ̄)
>「反論」なんていうほど大げさなことを書いてはいませんよね。

そうだね。
肯定したくないので、話題をそらすのが主だね。

ただの説明のつもりなのですが・・・。「反論」なんていうほど大げさなことを書いてはいませんよね。

(*^ー゚)bグッジョブ!!
>私の力量ではハードル越えは難しいようですね。

そうだろうね。
反論することに一生懸命になりすぎ?
最近、支離滅裂だよ。

私の力量ではハードル越えは難しいようですね。

ヽ(´▽`)/
>ある意味、期待?通りに継続しているようですし。

そうなのか?
私は、期待値の1/3程度で、いまいち。
想定内で終わっているところが、
寂しい限りです。
正直、何の専門性も感じられない。
それらしいのが用語だけというのがなぁ…

私には教師という立場もありますが、ここでは保護者の立場も、大人の立場も、言いたいことが言えない行政の立場も、子どもの立場もごちゃまぜになっています。
そういうことはネット上の匿名の世界でないとできませんからね。
一方で、対象は基本的に教師や教育に対する評論等にしぼっています。
それにしも、いちろうさんは辛抱強いですね。
このブログがあることを知った教師の中には、反発を覚えてすぐに読むのをやめる人もたくさんいらっしゃったでしょうに。
ここまで熱心にお読みいただくと、それだけサービス精神もわいてしまいます。
ある意味、期待?通りに継続しているようですし。

(*^ー゚)bグッジョブ!!
>ストレスを発散させてください。

ハイ (^O^)

できれば、もう少し先生らしくしたり、
ウソをやめていただくとうれしいのですが?
ψ(`∇´)ψ

どうぞ、いつでも楽な気分でストレスを発散させてください。

( ̄▽ ̄)
さて、一段落ついたところで、
暗象の主張「ウソをついたものの勝ち」を
認めては?

そうすると、この後も楽なんだけど…

( ̄ー ̄)ニヤリ
>「お役所ってのはしょせん税金泥棒、市民のことなんかろくに考えていない」という不満の種火は残してあげて(これが消えると別の意味で気の毒なことになるので)、また次のストレスの発散の協力者に引き継げばよいわけです。
2008/11/23

ご立派な、苦情処理担当だこと。(^O^)

でも本物の役所ではきっとつまらないでしょうね・・・。

(*^ω^*)ノ彡
これまた後立派な回答だこと。
行政で苦情相談の係をしてきたことの経験が生きていますね。
確かに、行政を批判したくなる。(^O^)

「遊び」にしては、何か話が真面目すぎませんか?

(*^-^)
ここも忘れ去られるのを待っている?

(´,_ゝ`)プッ
こたえるべきは、
「特殊な状況下の普遍的ではない文言なのか?」
では?

「意味」は誤解だということがわかったときから始まるのでしょう。

ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…
>「心の中で何を考えていても、口に出さなきゃいい」というような文言が語られている背景から逸脱して多用されることも、誤解の助長に役立っているようです。

そうなのか?
あの長いやりとりの結果は、特殊な状況下の普遍的ではない文言なのか?
一方でこう書いているが?

>議論は「一致」を目指すものですか?
>「考慮する立場になる」「少しは理解(ふり返り・点検を)しようとする」「妥協する」「より高い次元に双方が立つ」などの効果をもって「収まる」場合も考えられるのではないですか?

私は、「心の中で何を考えていても、口に出さなきゃいい」というのは、暗象の基本的な姿勢として収斂したと思っていたのだが?

結局、やりとりには何の意味もないということか?

気に入る・気に入らないの問題ではありません。論理的思考と情緒を混同されているので同じことの繰り返しですが、誤りを指摘させていただいているだけです。
なお、もともとの「心の中で何を考えていても、口に出さなきゃいい」というような文言が語られている背景から逸脱して多用されることも、誤解の助長に役立っているようです。

( ´艸`)プププ
>正しくは、
>「相手を嘘つきと言った方の勝ち」です。

あら、ごめんね。
「心の中で何を考えていても、口に出さなきゃいい」というのも暗象の主張だから、2つを合わせて「ブログはウソをついたものの勝ち」というのが暗象の主張と解釈したのがお気に召しませんでしたか?
反論されるほどの差はないと思っていました。(^O^)

>ウソをついたものの勝ち

これは嘘ですね。
できれば、相手の言葉を自己流に変換せずに、そのままお使い下さい。

正しくは、
「相手を嘘つきと言った方の勝ち」です。

( ̄ー ̄)ニヤリ
暗象の説では、
ブログはウソをついたものの勝ちなんだから、
わからないんだったよね。

「心の姿勢」とは、何から判断できるのでしょうか?

( ´,_ゝ`)ハイハイ
>いちろうさんは思考にこだわっていらっしゃる。

そうか…。何回も書かなきゃダメなんだね。
今は暇がないから、また後で書くよ。

私が「人」でこだわっているのは、心の姿勢だよ。
暗象なら
「以前に記事にしているのでお読みください」
で終わるんだけどね。

いちろうさんは思考にこだわっていらっしゃる。思考に感情も含まれるとおっしゃっている。
「好き」「あまり好きではない」は感情ですよね。
ここでは思考も感情も無関係ですか?

( ^ω^)おっおっおっ
>「子どもは大好き」だが「自分の指導では子どもが成長できない」といったときに、いろんなスキルを必死に身に付けて、「子どもが成長できるように努力する」姿勢を持たずして、本当に「子どもが好き」で自分が子どもの前に立つ意義があると言えるのか、そういう私の主張・立場を一貫していろうさんは批判されているのでしょうね。

何が言いたいんだか…?

指導の善し悪しの基準というのは、手法じゃなくて「人」だと思っているということが、

>極端な例を出すと、
>「子どもは大好き」だけど「教えることが下手で力がつけられない」教師と、
>「子どもはあまり好きではない」けれど、「教えることが上手で子どもがぐんぐん伸びていく」教師

生徒指導の話が、
子どもが好きか嫌いか、教えるのが上手か下手か、
なんでそんなところに収斂していくんだ?

人とのしてのあり方に手法も含まれているのでは?

極端な例を出すと、「子どもは大好き」だけど「教えることが下手で力がつけられない」教師と、「子どもはあまり好きではない」けれど、「教えることが上手で子どもがぐんぐん伸びていく」教師では、どちらを選ぶかといったときに、いちろうさんは前者なのでしょうね。

人としてのあり方を優先して「スキル」の部分を軽視した結果が今の教育だとは言いませんが、「子どもは大好き」だが「自分の指導では子どもが成長できない」といったときに、いろんなスキルを必死に身に付けて、「子どもが成長できるように努力する」姿勢を持たずして、本当に「子どもが好き」で自分が子どもの前に立つ意義があると言えるのか、そういう私の主張・立場を一貫していろうさんは批判されているのでしょうね。

(´,_ゝ`)プッ
>たしかに子どもに対してもそんな態度で指導している教師もいましたね。

過去形かよ…。
ベースになることじゃないの?
人としてどうであるか、その上に手法があるのでは?
暗象は順序が逆だから、マニュアル人間だと言っている。

>善し悪しの基準というのは、
>手法じゃなくて「人」だと思っている

たしかに子どもに対してもそんな態度で指導している教師もいましたね。

w(゚o゚)w
>自分が受けた指導による悪影響・逆効果に気付くのには時間がかかります

最初のコメントで、
「結局何でもありじゃないの?」と書きましたが、
私は、何でもありだろうと思っている。
ただ、暗象と違うのは、
善し悪しの基準というのは、
手法じゃなくて「人」だと思っていること。

暗象みたいに、口に出さなきゃ何を考えていてもいいという先生には、どういう手法で叱られても反発するよ。

自分が受けた指導による悪影響・逆効果に気付くのには時間がかかりますから、無理のないことかもしれませんが。

(゚ー゚)
>「監禁」は完全に法令にふれていますね。

いつ法律が変わったのか知らないが、
普通のことだったよ。
体罰もよくあった。

でも、ネチネチわけのわからない説教されるより、
単純でわかりやすかったよ。
タバコ吸ってたのを見つかって、
法律やら健康やらネチネチ言われる方が反発するよ。

kurazohさん、こんばんは

うー、何か六法全書でも読んでる様で難しい文字が並んでるな。
あまり突くとやぶ蛇になりそうだから巻かれておく事にして、又にしとくよ~。

>他の先生の権威をかりたり、共通の認識を形成するには便利な方法では?

いちろうさんのおっしゃる通り、「責任追及型」の指導をするにはうってつけの環境です。

「監禁」は完全に法令にふれていますね。

(゚Д゚)ハァ?
>教師がある特定の生徒を指導するときに、職員室という、他の教師も見ている場所で(他の教師が参加しているならいいのですが)行うのは間違っています

断定なのか?
私はいつも職員室に呼び出されて叱られていた。
別の場所で叱られたのは、校長室と監禁部屋ぐらいだ。私の出た高校には、学校謹慎という処分があって、他の生徒の目に触れることのないよう、朝の7時半〜夕方の6時頃まで監禁されて説教や勉強させられる部屋があった。
なぜダメなのかわからないが、他の先生の権威をかりたり、共通の認識を形成するには便利な方法では?

いちろうさんへ。

>結局何でもありじゃないの?
>で、正しいのは自分のやり方だって?
>だから、暗象は何様のつもりでいるんだ?…と問うている。

生活指導の「正しい方法」を見極めるのは、本当に難しいことです。
ある指導で成功した方法が、他の生徒のときには失敗するかもしれない。そんな落とし穴を戒める意味で私が教訓にしているのが「成功は失敗のもと」です。
「正しかったかもしれない」方法についても、なぜそれで(短期的・中期的には、という意味でしか中学校教師は言えませんが)成功したのか、というふり返りは常に行う必要があります。
逆に、「明らかに間違っている」と思われる方法・・・たとえば、教師がある特定の生徒を指導するときに、職員室という、他の教師も見ている場所で(他の教師が参加しているならいいのですが)行うのは間違っていますが、なぜこういう方法が平然と行われている学校があるのか、ということを問うていく必要もあると思います。
一教師としての考えです。

はむれっとさんへ。
コメントありがとうございます。

孫子の言葉は、兵法という枠を越えて人間の本質的な部分をついてくるものがあるので、いろんな人がひいてきますね。
もし、「孫子のことなら何でも知っている!」という方が近くにいたら・・・という話でした。特に意図は全くありません。

>責任と聞くと他者に対する責任だよね?。社会の中で個の果たす義務みたいなものか?。それを教えるのは大切だと思うけれど、何か教える前から問うているみたいで、責任追及早いんじゃない?、と言ってみた・・・

新学習指導要領から「責任」にふれている道徳の内容をご紹介しますと、小学校高学年では、「主として自分自身に関すること」の中に、「自由を大切にし、自律的で責任のある行動をする」というもの、「主として集団や社会とのかかわりに関すること」の中に、「身近な集団に進んで参加し、自分の役割を自覚し、協力して主体的に責任を果たす」ことが示されています。
中学校では、同様に「主として自分自身に関すること」の中に、「自律の精神を重んじ、自主的に考え、誠実に実行してその結果に責任をもつ」というもの、「主として集団や社会とのかかわりに関すること」の中に、「自己が属する様々な集団の意義についての理解を深め、役割と責任を自覚し集団生活の向上に努める」と示されています。

このような内容に照らして指導対象になる具体的な行動があるとき、個別指導だけに重点をおく場合もあるかもしれませんが、その生徒だけがたまたま目撃され、他の生徒も同じ行動をとっているのに指導されないというのは適切でないので、全体指導を優先して、その後に意義の理解を確認するために個別指導を行うなど、その組み合わせも様々なバリエーションがあります。
いずれにせよ、「責任」とは何か。「自由」や「自律」とは何かを考えさせる指導=「責任追究型」指導にならないと、本当の意味での「生活指導」にはなりません。

(^o^)
>それはちょびっと失礼かと、本人承認済みならいいけど?

以前になぜ「暗象」なのか説明もしたし…
嫌がっている様子はコメントのやりとりで感じるけど、問えば「いちろうさんがつくったキャラとして尊重する」というニュアンスで書いてくる。
実は、そのあたりの本音と建前の違いも嫌い。

ただ、どこかで先生かな…と思うのは、好かれても嫌われても、関心があるからいいという程度でいること。無関心になったら教育できないと思っているんだと思うよ。

kurazohさん、こんちは
コメントしようと考えてると眠ってしまった。(^_^;
歳かね~、

> 「孫子」をよく読んでいる、中国古典に詳しい、という人には、「宮(きゅう)・商・角・微(ち)・羽(う)」にかかわる孫子の言葉って何?などと聞くといじわるですかね。

それ儂に聞いてるの?。そうだいじわるや。
いや待てよ、別に私は中国古典に詳しい訳ではない、ちょこっと知ってた知識で聞いてみただけだから私に訊いた訳ではないな。
ならいじわるじゃない。でも私の言った事が元らしいから、私に訊いてんのか?。うーん、
そうだ儂を悩ませるkurazohどんは、以ていじわるとしよう。メモしとかなくちゃ、〆(・・ )イジワルっと、

ところで責任って何?。
責任と聞くと他者に対する責任だよね?。社会の中で個の果たす義務みたいなものか?。それを教えるのは大切だと思うけれど、何か教える前から問うているみたいで、責任追及早いんじゃない?、と言ってみたの。

いちろうさん、
「暗象」って何だ~、暗唱、現象、何かの象徴?、と辞書引いてもでてない。(・・?)
ハタと気が付けばkurazohさんのこと?。_(.・)/ドテ
それはちょびっと失礼かと、本人承認済みならいいけど?。

( ´_ゝ`)フーン
結局何でもありじゃないの?
で、
正しいのは自分のやり方だって?
だから、
暗象は何様のつもりでいるんだ? …と問うている。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より