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コメントへのご回答

 いちろうさんへ。
 いつもたくさんのコメントありがとうございます。
 こちらでまとめてお答えいたします。

***子どもに考えさせている「責任」(12/10)***

>「そこで話されていること」が他の人に聞かれてしまうことがない安心感をもてるところ

 生活指導を相談室等で行う場合、「他の人に聞かれること」はなくても、決して「密室」で行うことはありません。
 具体的な話になりますが、問題行動の程度によって、教師が複数つくことがありますし、相談室の場合はカウンセラーにも同席してもらうこともあります。
 カウンセラーが配置されてからは、重い指導後には必ずカウンセラーとも話ができるような態勢をとっています。

 なお、入り口のドアは開けた状態にすることが多く、外には「相談中」の札をつけておきます。
 どうしても1対1で指導を行う場合も、十分な配慮が必要になります。
 特に、女子生徒に対して男性教師が指導を行う場合には、学校側も配慮を要します。
 さらに、いちろうさんが想定されるような、子どもが教師を信頼していない場合、深い恨みをもっている場合は、「逆効果になる可能性が高い」指導は避ける方が無難でしょう。  

***5歳児健診の効果(12/1)***

>Aくんがだんだん反社会的な行動を繰り返すようになり、手に負えなくなった親が病院で見てもらったら、ADHDで2次障害が出てきているといわれました。これを知ったK先生は、手のひらを返したように違う指導をするんだね

 「異なる原因に基づく結果については、結果はもちろんですが原因に応じた指導を行うこと」の原則に従って言えば、「新たな原因」が判明した時点で「その原因に応じた指導」を行うことになるでしょうね。
 反社会的行動に対しては、毅然とした態度で指導をすることには変わりはないでしょう。
 教師も専門医ほどの知識がないでしょうから、発達障害なのか単なるわがまま・しつけ不足なのかの区別は難しいでしょう。ですが、学校や家庭での継続的な指導でも改善が見られない場合、最近では医師の診断を勧めるケースが増えているかもしれません。
 もし、「障害」の2文字を医師から提示されて、保護者の方が精神的に不安定になってしまっている場合はなおさら、配慮が必要になるでしょう。家でも「言葉かけ」「しつけ」にかかわる態度は変わるでしょうね。
 学校では、入学時に行うさまざまなテストによって、各児童・生徒の傾向をつかもうと努力していますが、特異なデータが出たり、医師の診断がなかったりする場合は、基本的には一律の指導を行うことになるでしょう。
 あまり「数%」という数字は念頭におかずに、指導していると思われます。

***孫子カルトクイズ:「宮・商・角・微・羽」に関わる孫子の言葉とは?(12/9)***

>「ウソをついたものの勝ち」を認めては?

 「相手を嘘つきと言った方の勝ち」ということは、相手を「嘘つき」と言ってしまった時点でそこから何も話が進まなくなる、という意味ですね。
 子どもの喧嘩の勝ち方のことです。
 もちろん、「相手を嘘つきと言った方の負け」という考え方もあるでしょうね。

 まだ自分は正しく、相手は「間違っている」と言うのであれば、他者から「どちらが正しいか」と考えるきっかけにもなりますが、「嘘つき」と言ってしまったら、何をどのように判断すべきかわからなくなってしまいますね。
 
 「ウソをついたものの勝ち」というのは、現実社会ではままあることかもしれませんが、短期的に「勝ち」をおさめたとしても、いずれ「大負け」という結果になるのが目に見えているという場合もあり、一概には言えないでしょう。

***「入学してほしくない生徒像」をもつ公立学校(11/29)***

>「入学してほしい生徒像」をつくり強調することで、「入学してほしくない生徒像」がつくられ、不正操作してまでも排除しようというところまで進んだ

 というわけではないでしょう。
 「入学してほしい生徒像」=「本校が望む生徒像」は、「ただ何となくみんなが行くから」などという理由で、学習意欲もなく、目標も持たずに高校に進学する生徒に、自覚を持たせるため、あるいはその高校の特色を理解してもらう目的で、設定しているものです。
 都立高校以外の高校はよく存じませんが、高校から何らかのメッセージは伝えられているのでしょう。
 不正を犯しても「入ってほしくない」と望む生徒像とは、事情を聞けばなるほどと思う人もいるでしょうが、「事務室での態度・服装チェックなどの隠れたしくみが過去に他の高校でも行われていたのではないか」という疑念が生まれたことに問題があるわけです。
 入試得点の不正操作によって「入学してほしくない生徒」が排除できることが知られたことは、「公」のあり方の信頼を様々な意味で失うことにつながるわけで、日本が「不正慣れ」しているとはいえ、許せないことです。

***「点数」へのこだわり(12/8)***
 
>結局、○×の発想で他人を批判する

 「○×の発想」という発想法の意味を確認させていただけますか?

 この記事では、異論・反論を求めていますが、「○×の発想による批判はいけない」という批判をいただいたわけですね。
 この場合、○とは何で、×とは何だったのでしょう?

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教育」カテゴリの記事

コメント

ヘ(゚∀゚ヘ)アヒャ
>子どもが教師を信頼していない場合、深い恨みをもっている場合は、「逆効果になる可能性が高い」指導は避ける方が無難でしょう。

微妙な表現だけど、都市伝説じゃなかったんだね。
子どもと不良の話をすると、
大物は好き放題をしているのに、
小者はちょっとしたことで、厳しくされる…って。
強盗を見逃して万引きをつかまえるような…、
そんなバカなことはないだろうと言っていたが、
子どもの話が本当かもしれないと感じた一文。
確かに、暗象ならそうなんだろうなぁ…。

( ´艸`)プププ
>教師も専門医ほどの知識がないでしょうから、発達障害なのか単なるわがまま・しつけ不足なのかの区別は難しいでしょう。

先生擁護というべきか…。
自分が基準だから、暗象の言い訳なんだね。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より