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2008年12月

「やる気がなくならないようなスイッチ」とは?

 「やる気のスイッチ」よりも、「やる気をなくすスイッチ」や、「やる気がなくならないようにするスイッチ」の方がわかりやすいかもしれません。

 静かにして下さい!
 という指示は、「静かにしたくなくなるスイッチ」になる場合があります。

 早く、勉強しなさい!
 という指示も、「勉強したくないという気持ちをより高めるスイッチ」になる場合が多い。

 「やる気がなくならないようにするスイッチ」とは、
 「静かにして下さい!」という声も聞こえなくなるほど大きな声で話すこと。

 「早く、勉強しなさい!」という声をかけられないように、部屋にこもるか、外に出ること。

 そんなスイッチを、教師の側も使ってはいないか、確かめることはできるでしょうか。

 「学習指導要領を読まない」のは、もしかしたら「やる気がなくならないようにするスイッチ」かもしれません。
 研究授業をしないこと。
 生徒指導が必要そうな場所に行かないこと。
 問題行動を見ても、見ないふりをすること。
 教育関係のニュースを見ないこと。
 そんなこともあてはまってはいないでしょうか。 

 「やる気がなくならないようにするスイッチ」が常にオンになっているということは、その方が子どもにとって「都合がよい」場面もあれば、それが学力低下の致命的な原因になってしまっている、そんなことがあるかもしれません。

 もしこのような教師に「やる気のスイッチ」に気付いてもらいたいとしたら、まず今使っているスイッチをオフにしてもらうことから始めなければなりません。

 今まで避けてきたことに取り組んだり、とても日常的にあったものを意識を変えて見たりするだけで、そこにいくらでも「やる気のスイッチ」は眠っていることがわかるはずです。

 研究授業をすることになりました。
 成功させたい。
 どのくらいの準備が必要だろう。
 どんな資料を集めよう。
 だれに協力をたのもうか。
 疑問が出てきたらだれに聞けばよいか。
 子どもにどんな力がつくのだろうか。
 どんな力をつけたくて、この授業をするのだろうか。
 ・・・
 
 問題行動を発見しました。
 まず注意を促そう。
 相手の話を聞こう。 
 自分の思いを伝えよう。
 ・・・
 
 授業と最初と最後には、挨拶をします。
 どんな挨拶を自分は子どもに対してしているのだろう。
 授業が終わったとき、子どもはどんな表情で「起立」をしているだろう。
 ・・・
 
 おおげさな題名のついた研修を受けに行くよりも、もっと身近に自らの資質・能力を高めたくなるやる気のスイッチ」はあふれているのではないでしょうか。
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「やる気をなくすスイッチ」をすぐ使う教師

 学校・教師の問題への批判が、教師のやる気をそいでいる。
 そんな批判があります。
 
 もし、「自分への批判」がその教師にとって、「やる気をなくすスイッチ」としていつもスタンバイ状態にあるとしたら、その通りの指摘になってしまいます。

 ですから、そういうスイッチをお持ちの方には、このブログは毒にしかならない可能性があるので、ぜひとも読むのをやめて下さい。
 
 「やる気をなくすスイッチ」には、「校長の言葉」「教育委員会の指示」「学習指導要領」など、様々なものが用意されています。

 このスイッチは「やる気がなくなるのは自分のせいではない」という自己暗示をかけるにも最適なもので、責任を他にかぶせることで安定して「やる気のない状態」を維持できるわけです。

 周囲の状況によって気分が左右されると思っている人が多数派でしょうが、実は自分自身で意図的に気分を左右している人も多いことを、私は様々な場で経験的に理解することができました。

 「やる気をなくすスイッチ」をすぐに使いたがる教師たちを見ることができたおかげで、実はそれが「やる気のスイッチ」にもなりうることがわかりました。

 生徒たちへの指導では、当然のように、「やる気のスイッチ」をいろんな場面に配置することを心がけることになります。
 と同時に、「やる気をなくすスイッチ」の除去にも配慮しなければなりません。

 授業での「やる気のスイッチ」とは何か、「やる気をなくすスイッチ」とは何か、そんな観点から指導の実態を見直すきっかけにはならないでしょうか。

 山崎拓巳著「やる気のスイッチ!」(サンクチュアリ出版)をヒントに、考えてみたいと思います。 
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「~は難しい」への違和感

[教師] ブログ村キーワード
 教育という仕事は、本当に難しいものです。
 その難しさが、「やりがい」という信念に結びつくのか、「やりたくない」という逃避に結びつくのか、「やれない」というあきらめに結びつくのか。

 教育ブログを読んでいると、「やりたくないこと(やるべきではないこと)をやらされている不満」が散見されます。
 
 「評価活動」などはそのような「不満」の筆頭でしょうか。
 ただ教師の場合、それは生徒への評価活動より自分が受ける評価のことですね。

 当初評価活動の推進派だった内田樹が、今では不満のかたまりになっていることは、「街場の教育論」の第4講を読むとよくわかります。

 私も観点別評価については批判をしているのですが、評価には「めんどうなだけで効果もない」ものと、「めんどうだが効果は高い」ものがあり、「簡単で効果が高い」ものを求めたい気持ちはわかるのですが、評価をPDCAサイクルの中にきちんと位置づけて、常に実践とつきあわせながらやっていくことが必要だと考えています。

 さて、小中連携について、すずめ先生や他の方とのコメントの中で受けとめられる印象として、最も気になるのは、「必要か」「必要でないか」という意識より、「簡単か」「困難か」という意識が優先されているのではないか、ということです。
 このことには教師としてはもちろん、保護者の立場としても強い違和感を覚えます。

 教師の話の場合、「難しい」問題について、資質・能力の問題はぼやかされ、「時間がない」という言い訳に帰着し、最後は「人員を増やしてくれ」という要望で終わるものが多いということです。

 人員が少ないところでもやる気があるところはどんどんやっている=「人員が増えなくても成果が出せるところは出せている」状態があるなかで、ただ人員が増えれば成果が上がるかどうかはわかりません。
 極端な話、ある学校が学級減で教師が減少しても、小中連携のメリットとノウハウを知り尽くした教師が一人でも入れば、状況は全く変わってくる可能性があるわけです。

 内田樹は「オーバーアチーブの原則」を常識にしてくれようとしている書き手ですが、とにかく学校の教師の力で、動き出せるかどうかが勝負です。
 
 学校が要求する「人員を増やして」が、自分たちでは不可能なので「できる人材をよこして」という意味にとられてしまうなら、単なる「入れ替え」ですむわけです。
 
 行政の側も、子どもが減っている中、単純に教員数を増やすことは難しいので、どうしても「資質・能力の向上」によって問題解決を図ろうという方針が中心になります。
 
 教師の「資質・能力の向上」がなぜ「難しい」のか、今度はそれを明らかにする必要があるかもしれません。
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世論調査サイト

 世論調査サイト「リアルタイム 世論調査.NET」から、教育関係の集計結果をみてみたいと思います。

 公立小中学校の学校選択制

 賛成 44.24%(73人)
 反対 31.52%(52人)
 わからない 12.73%(21人)
 興味がない 5.45%(9人)
 その他

 *地域別に見ると、投票数が少ないので実際の傾向を反映しているかどうかわかりませんが、反対が多い地区は中部と近畿、中国です。

 学力テスト(全国学力調査)

 賛成 60.14%(83人)
 反対  2.17%(3人)
 その他

 学力テストの結果公表

 賛成 59.79%(403人)
 どちらかといえば賛成  14.99%(101人)
 どちらかといえば反対   6.82%(46人)
 反対  10.83%(73人)
 その他

 他に、「日教組は日本国国民の繁栄に貢献しているか?」なんていう調査項目もあるんですね(これが回答者数では全体の4位になっています)。

 回答参加者が数千というケタになってくれば、世論としての信頼性も増してくると思われますが、回答参加者数のランキングを見ると、どのような話題が関心を集めているかがわかります。

「ボランタリー経済」の復活

 今年もあと2日になりました。
 なぜか年末は「寝ている時間」がもったいなく、今も日をまたいで手紙と新聞の整理に没頭していました。
 睡眠は1歳の子といっしょの昼寝で十分です。

 手紙新聞も、メールやネット上で配信されるニュースと同じ「文字情報」ではあるのですが、手紙は異なる筆跡や便箋・封筒から受け取った時の記憶がよみがえってきますし、新聞は一度にかなりの面積の情報を目でチェックすることができ、ストックしておきたくなるものが探し出せるので、やはり便利なものです。

 メールやニュースのネット配信のように、インターネットによって新しい形態による利用が可能になっても、従来のものがすたれないというのは、それらが「本物」であるしるしでしょう。

 世の中いろいろ変化して、様々な進歩がおこっているとは言っても、従来からほとんど変わらずに残っているのが当たり前というものもたくさんあります。

 現在、私たちは「改革」「変革」といって、何か新しいものを常に追い求めてきたような気がしますが、実は「古い」ものの中に、もっとその価値を見直し、得られるものの最大化を図れるような取り組みが行われる必要があるのかもしれません。

 もうかなり前のことですが「ボランタリー経済」の復活が注目されたことがありました。
 
 

「貨幣」による「マネタリー経済」以前には、
 いかなる経済原理があったのか。
  
 「物々交換」を基本とする「バーター経済」です。
 では、それ以前には、いかなる経済原理があったのか。
 
 それが、「ボランタリー経済」です。

 「好意」や「善意」によって、自発的に
 価値ある物を相手に贈る「贈与の経済」。
 それが、人類のコミュニティや社会において、
 支配的であった時代があります。

  (中略)

 例えば、家事、育児、家庭教育、老人介護、地域奉仕などの活動。
 これらは、金銭の授受は伴わない活動ですが、
 極めて重要な経済活動でした。
 
 田坂広志著「未来を予見する『5つの法則』」(光文社)より

 田坂広志は、この「ボランタリー経済」は、ネット革命によって、「狭い」「見えない」ものだったのが、「広い」「見える」ものとして復活してくる、と書いています。

 学校社会も、この「ボランタリー経済」のモデルをさまざまな面で継承し子どもたちに伝えてきたと考えられます。
 「教育改革」に抵抗したり翻弄されたりして「本物」を見失うことのないよう、現場のあるべき姿を模索していきたいと思います。

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「シュガーレス化」に耐えられない「シュガー教員」

[教師] ブログ村キーワード

内田樹は入社したばかりの新入社員が転職サイトに登録したり、実際、すぐに辞めてしまう理由について、「評価が遅いことを受け入れられないこと、個人の努力が報酬と相関しないのが不満であること」、そしてその背景として「受験勉強の構造」があることから説明しています。
 ただ、受験勉強とその結果が、必ずしもすべての人の成功体験本来の希望に結びついているわけではないので、その説明では不十分でしょう。
 
 『甘えの構造』までさかのぼることができるし、最近では「シュガー社員」の名付け親である田北百樹子の言葉にも考えさせられることが多いのです。

 さすがに「シュガー教員」という言葉まで発生してくるとは思えませんが、もし内田樹が言うように「若者全般」「社会全般」にあてはまるような「何か」があるとしたら、公務員になった人間にも出現しないとは言えない問題でしょう。
 一方で、学校現場の問題が「教師の甘さ」「職業人としての意識の甘さ」によるものだという反省があることをふまえると、教師の場合は若手に限らず「シュガー教員」が多いと言えてしまうのかもしれません。
 
 シュガー社員の5つのタイプにあてはまる教員は果たして想定できるかどうか。

 まずタイプⅠは、「ヘリ親依存型」シュガー社員。
 ヘリ親とは、ヘリコプターペアレンツのことで、上空から子どもを見守っていて、何か問題が起きると急降下して介入する親のことです。
 私が知るところ、「担任をはずされた」「希望にそわない異動を命じられた」場面で「親」が登場したことがありますが、さすがにこれはまれな話でしょう。
 うちにもそんな若いのがいた、なんてことがあれば危ない。
 後、体調を崩して学校を休むときに、本人の代わりに親が学校に連絡するというような教師はいないでしょうか。
 「甘さ」は「甘やかし」が原因。最も納得しやすい説明です。
 このようなタイプの人は、同僚によって甘やかしてもらえることがわかると、かえって安定して「居座る」ことになるかもしれません。

 タイプⅡは、「俺リスペクト型」シュガー社員。
 (威厳が高く、自分自身をリスペクトして、異常に自己評価が高く、上司に叱られても責任転嫁するタイプ。
 自分の教科の専門性については、自信を持っていなければ始まらないのでしょう(最近は大学院を出て教職につく人も増えてきている?)が、さすがに「こんな(くだらない)仕事はできません」という若手はいないでしょう。
 このような若手は、教師を全く信用していない、リスペクトしないタイプの子どもの指導に手こずりやすいこと、嫉妬深く学歴コンプレックスが強い教師にいじめられやすいことを除けば、「いつか気が付くときがくる」と長い目で見てあげることで自ら成長してくれる日がくるかもしれません。
 都立高校でたとえば進学指導重点校から、生活指導困難校に異動させられると、さすがに戸惑いも大きいでしょうが、だからと言って辞めてしまう教員はいないでしょう。
 ただ、島しょへの異動を命じられた教師が退職し、また採用試験を受けた、ということはありました。
 社会人としての「辛さ」に耐えられない「甘さ」。
 自分から尊敬できる先輩が職場で見つかれば、成長のチャンスになりそうです。
 
 タイプⅢは、「プリズンブレイク型」シュガー社員。
 刑務所から脱獄するように、閉じ込められれていると思い込む会社を脱する、つまり退職または離職するようなタイプ。
 児童や生徒はそのようなタイプがいるでしょうが、さすがに教員にはいないでしょう。
 ただ、職員室にはいつもいないで、準備室にこもってしまっているような教師は似たような傾向があるのでしょうか。

 タイプⅣは、「ワンルームキャパシティ型」シュガー社員。
 応用力や創造性がなく、極めて限定的な行動・思考しかできないタイプ。キャパシティが少なく、新たな考えを取り込めない。
 これはタイプというよりは、経験が少なく知識や技能も未熟な多くの若手に共通している傾向ではないかと思われます。ただ、あまりにそのキャパが小さすぎると、どうしてこのケースでその行動・指導になるの?という場面が訪れるかもしれません。これも経験次第でしょう。

 タイプⅤは、「私生活延長型」シュガー社員。
 主に消費に終始する個人の私生活の行動や思考を、営利性や生産性を求める会社に持ち込んでいるタイプ。
 企業の場合は「公私混同」ではなくて「個私混同」とでも言うのでしょうか。
 
 学校という教育現場は、非常に厳しいように見えて、長年にわたって甘えようと思えばいくらでも甘えられる環境にあり、さらに公務員という身分上の「おいしさ」ゆえ、一度採用されると「甘え系」で(しかも「みんないっしょ」に甘え系でいられるため)離職する人間は少ないことが最も大きな特色でしょう。
 結論としては、「生徒への指導が甘い」「職業人としての自覚やモラルが足りない」という意味での「シュガー教員」なら昔からたくさん存在しているのであり、職場に求められている「シュガーレス」の文化が浸透していくことへの抵抗が強い背景には、「既得権益の維持」「過ごしやすさの保持」という行政機構と全く同じ図式が見えてくる気がしています。
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「疲れすぎて眠れぬ夜のために」(内田樹)

 全くの余談ですが、私が最も好きな文庫本は、S文庫です。
 これは紙質と、文字の濃さによる本としての「好み」です。
 
 一方、最も嫌いなのが、K文庫です。
 K文庫は、印字がかすれているような印象がある。
 ただ、筆書との関連で言うと、中学生ころ大好きだった横溝正史のものを読む場合は、K文庫がいい。字がかすれているのが何だか、「それっぽい」。
 森村誠一も、K文庫のものでないと、偽物だという感じがする。
 変な傾向ですね。

 さて、内田樹のおもしろい本のうち、文庫本の「疲れすぎて眠れぬ夜のために」(角川文庫)にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへは、まず自分自身が「疲れすぎて眠れない」という経験が全くないので、そんな違和感と、あと二つの違和感の中で読み進めていったわりには、興味深く読めた本でした。

 「個性ということ」の中で、私の一つの違和感の原因が、おぼろげながら見えてきました。
 

・・・それまで自分の個性だと思っていたもののうちのかなりの部分が、1950年東京生まれの同時代人に共通のものだ、ということに気づかされました。
 そういう同世代の共通項を控除して、その後に残るもの、それがとりあえず「私の個性」と呼べるものなわけです。(101頁)

 私は1960年代生まれなので、やはり世代間ギャップというのが大きいのかもしれません。
 
 その具体的なギャップの中身を示さないと、記事にならないのではないか、と叱られそうですが、ではそれが何かというと、ちょっと説明が難しい。だから「違和感」なのでしょう。

 引っ越しが好きだとか、読み返す予定のない本は捨てるとか、家出のススメとか、はっきりこれは違うな、というのはいくらでも出てくるのですが。もっと根本的な部分にかかわる何か。
 人間関係で、我慢はしない、我慢すると、人間としての生命力を消耗してしまう、だから弁護士や精神科医はふけこむのが早いだろう・・・。不愉快な人間関係には我慢しない道を学生にすすめる・・・・。
 かなり違うのですね。
 すっきりしないまま、今年も終わってしまいそうです。

ルレクチエとモーツァルト

 「ルレクチエ」と聞いて、何のことかピンとこない人は多いのではないでしょうか。
 私は研修でお見えになっていた先生からいただいて初めてこの名前を聞き、また、口にしました。
 
 ルレクチエ西洋ナシの一種で、生産の6割を占めているラ・フランスに比べると、全体の5%前後にすぎない「最高級品」だということです(情報ソースは12月6日の日経新聞)。

 紹介されている新聞記事には~「幻の果実」とろける食感~とありましたが、いただいてみるとまさに「とろけるおいしさ」で、まことに変なたとえですがお刺身で言うと「大トロ」に匹敵する味です。

 ルレクチエは青い色のまま10月に収穫され、約40日間の追熟を経てようやく食べごろになるのだそうです。
 (一日三回、モーツァルトの曲を聴かせると、空気のよい振動のおかげか、追熟の遅れがなくなるとのこと)
 いただいたものにも、「黄色になったら食べごろ」ということで、とても果肉が軟らかくなって不安もありましたが、「とろけるおいしさ」をお陰様で堪能することができました。

 日本でのリクレチエの生産は、意外な感じですが新潟県で8割以上を占めているそうです。

 記事で紹介されている生産農家の話もなるほどなと思うものでした。
 親子で栽培方法をめぐって衝突し、「オレの木に触るな」という言葉が出るような期間が十年。
 最も大きな苦労は肥料と農薬。父と息子が技術を競い合っての数々の試行錯誤。
 低農薬化学肥料なしという栽培にこだわり、最高級の味が保たれているそうです。
 
 日本では果実は料理に入れるより、「単品の果実」としての価値が求められますから、虫食いは御法度。
 見た目と味の両方が求められる。

 すぐに教育と結びつけて恐縮ですが、上の話と、「人を育てる」想いやあり方の、似ている点と異なる点は何でしょうか。

 化学肥料にたよるような、そんな教育ではいけませんね。
 身は大きく育つようですが、一口食べてみると「違う」ことがはっきりする。
 
 「オレのクラスの子どもに・・・」といって、「学級を王国化」するのもよくありませんね。
 ただ、そこまで「こだわり」をもって教育できる自信だけは、身につけておきたいものです。

管理職を動かすのは教師たちです。

 すずめ先生はブログで、「小中連携は難しい」ということを訴えていらっしゃいますが、ご自身はすでに英語活動についてすばらしい「連携」の役割を果たしておいでです

 では、私の意見が「見当外れ」「違う方向の話」ということになってしまうのはなぜか。

 

小中連携はやった方がいい,というより,必要な物だと思う→今までそれがほとんど進んでいないのは,英語をやっていなかったからではなくて,やっぱりある種の縄張り意識があるからだ放っておいても小中連携にはつながりません→強行に一度目を開催できるのは校長さんしかいません

 この続きは何でしょうか。
 →(でも校長にはそんなやる気がありません。じゃまをしています。だからできません)・・・で終わり?
 「小・中の管理職が悪い」ということでしょうか?
 「私に向けてする話ではないでしょう」ということでしょうか?

 小中連携がやりたくてもできなかった地域では、新学習指導要領への移行・完全実施期間はチャンスではないか?というのが私の意見です。
 
 中学校の英語教師があてにされていないのなら(地域でも評判のよくない教師ばかりだとしたら)難しい面があるかもしれませんが、小学校の先生方は、みなさん不安を抱えつつ、今も総合の中などで英語活動指導の模索をされています。

 身近な人材で相談に乗れる人と言えば、中学校の英語教師が最適でしょう。

 ここで小中連携の大きな流れを作り出せるのは英語教師ではないですか?
 (総合のはじまりのときに社会や理科の教師が中核になったように・・・)

 他教科の研究主任とか、教務主任や管理職では、英語教師の顔色をうかがう必要が出てくるのかもしれませんが、英語教師が中核になれば障害はほとんどないと言ってもよいのではないでしょうか。

 研究主任が広く「小中の言語活動指導の課題」「小中におけるコミュニケーションに関する指導の課題」などをテーマにすれば、その年の研究課題にもなるかもしれませんね。
 
 そうすれば、小学校教師+中学校の英語教師という「限定的な小中連携」から、全員参加型の「カリキュラム全体にかかわる総括的な小中連携」に発展する可能性があります。

 ・・・忙しいからそんな仕事をやりたくないと英語教師に言われてしまえば、なかなか実現しないのはよくわかっていますが。
 しかし、やはり、根拠をしっかり示して提案できる人は、(他人を動かすことに躊躇する、あるいはその意義を訴えて説得することができない、忙しくさせることに抵抗がある、そういう同僚ばかりであると仮定すれば)英語教師しかいないのでは?
 そのきちんとした提案がなされても、管理職が拒否をするというのなら、そういう場合は直接教育委員会に話を持ち込めばすぐに実現することになると思います。
 
 現場の教師は、自分たちから管理職にはたらきかけをして動かすことなしに、いつも行政の言いなりの管理職に動かされてばかりだ、と批判しても、それは批判のための批判にしかなりません。
 (なお、最後の二行はすずめ先生の記事とは無関係です)

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企業城下町の受難

 ニュースによれば、愛知県豊田市の法人税が9割も減る見通しだとか・・・。

 私が訪れた街の中で最も印象的な「企業城下町」は熊本県水俣市(駅が町の中心部ではなく工場の正門前にある)でしたが、このようなニュースを聴くと、「企業城下町」という言葉の重みを改めて実感させられます。

 市では予算編成もできない状況だそうですが、こういうときに「削ることが可能な予算」というのがはっきりしてきそうですね。
 しかし、「削ることが不可能なもの」ばかりだったらどうなるのでしょう?
 自治体のあり方の根本を考えていく契機になっていくのかもしれません。

二つ目をどう使うか?一つに集中すべきか?

 不況の世の中ですが、何でも「二台目」をもつことが普通になっているようです。
 携帯電話も二台目を、という時代なんですね。
 私は仕事柄、携帯電話はほとんど携帯しないので、かけてくる相手の方はわかっていただいているとは思いながら、メールの返信なんかも遅くなるか、本当に失礼なことに気付かないままでいることもあります。
 関係者の方々は本当にご容赦下さい。
  
 さて、二台目を購入して、二つともきちんと利用しているものは、たとえば私の場合は、自宅用のパソコンと職場のパソコン。電子辞書も自宅と職場にあります。
 テレビは今のところ自宅に二台ありますが、パソコンでも見られるので幼児を除いて一人一台ある計算になります。
 デジカメ専用に使っているデータ記録用のSDカードも二枚目。
 同じ場所で使っているものは、「使い分け」をしています。
 ただ、やっかいなのは、その管理のあり方です。
 USBメモリは用途別に5つありますが、いつ紛失してしまうか不安な毎日です。

 同じように、二つあってもなかなかうまく使いこなせないのが手帳です。
 あまり他の同僚の方の手帳を見させていただけるような機会はないのですが、研究会などで次回の予定を書き込まれるときにちらっと見える手帳には目をひかれてしまって、本当に多くのバリエーションがあるんだと感心してしまいます。
 理想的には一冊ですませるべきなのでしょう。 
 ただ私はどうしても仕事とそれ以外のものを同じ予定に書き込むことに抵抗を感じてしまいます。
 二重人格とまではいきませんが、完全に「モード」が別なので、混ざっていると落ち着かないのですね。
 
 そんなことが影響してか、「エッセイの本」というのもなぜか苦手で困ってしまいます。
 雑誌にいろんな記事が「混ざっている」のはいいのですが、一冊の本に「混じりけ」があるのがどうも生理的に受け入れられません。
 これは昔から、興味を感じる話題を見つけてしまうと、そのことを考えたりそのことに関連のある別の本が読みたくなってしまい、「同じその本を読み続ける」ことができなくなってしまうためなのだと思っています。
 そういう「気の散り方」は「学ぶ姿」としては問題ないのかもしれませんが、大学で哲学や倫理学など文学部の講義を聴いていたときには常にこれが起こって単位の取得に支障をきたしたので、それがトラウマ?になっているようです。

 ただ、やっと最近まとめて読んでいる内田樹の本は、いろんな話題が混じっていても、違和感なく読めてしまいます。 それがどうしてかはよくわかりません。
 今まで読んできた「書き手」とはどこかが違っているのです。
 まだその「違和感」の原因がつかめていません。

内田樹の葛藤と限界

 「街場の教育論」出版後、「内田樹の研究室」の教育に関する話題に目がいくようになりましたが、それらは、「教育についての議論は過剰に断定的で、非寛容なものになりがちである」という自分の言葉通りの内容(特に力が入っているのは文科省批判)になっています。
 まえがきでも「教育について熱く論じるのは、よくない」ということを熱く論じている本なのであります・・・と述べているように、よくないとは分かりつつも不満は述べておかないと気がすまない、といった感じです。

 最近の「内田樹の研究室」では、「費用対効果」教育に陥ったことが、学力低下の原因だと強調しています。
 

子どもたちの学力が低下した理由は「この世でたいせつなものは『学力そのもの』ではなく、『学力をもつことでもたらされる利益』である」という考え方が支配的になったからである。
 学力があることによって得られるとされている利益(競争における相対優位、威信、権力、財貨、情報、などなど)が得られるなら「何をしてもよい」というのが私たちの時代の風儀である。(「費用対効果教育」11/16より)

 
重要なのは知識や技能があることで獲得される「利得」であり、知識や技能はそのための迂回的な「ツール」にすぎない。そう教えられていれば、いずれ子どもたちが「ツール抜きで、利得だけ占める方法」を考案することに知的リソースを優先的に配分するようになるのは理の当然である。
現にそうなっている。
 「いかに少ない学力で、いかに高い学歴を獲得するか」という競争にこの国の子どもたちは熱中している。
 問題は「費用対効果」だからである。(福翁の「はげしい」勉強法 12/25より)

 ここで内田樹が用いている「子どもたち」という語が示す子どもたちが、だれを指しているのか、普通の教師なら疑問に思うでしょう。
 内田樹の「子ども」観は、次に示すドラマの一場面のような描写によって、思い込みの度合いとカバー可能な範囲の狭さが明らかになります。
 
子どもたちが級友たちの勉強を組織的に妨害し、そのことを自分の「得点」に数え、それが「賢いふるまい」として賞賛される・・・というグループの中で、日本の子どもたちの学力は構造的に低下している。(「費用対効果教育」11/16より)

 内田樹は結局、
 
どのような政策についても、どうすることがもっとも「費用対効果がよいか」という計算に夢中になっている政治家たちの脳裏に「費用対効果だけで教育を考えてはいけない」という発想が去来する可能性はゼロである。
 そのような政治家や官僚たちが立案するものである限り、その教育施策が日本の子どもたちに「勉強することそのもの」の楽しさに気づかせることになるということは原理的にありえないのである。(「費用対効果教育」11/16より)

 という締めでもわかるように、政治家・官僚によって自分たちがどれだけ迷惑しているか、自分がいかに葛藤させられているかを言いたいのであって、現場の教師の力量、感化力の問題などについてはノータッチです。
 少なくとも、義務教育の現場で教師がどんな問題に直面し、どう解決を図ろうとしているのか、そういう点に関心があるようには残念ながら思えません。

「街場の教育論」より その6 教育改革に対する考え方

 内田樹と私に共通している現場観相違がある「教育改革」観は、第1章「教育論の落とし穴」で発見されていました。にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
 共通点は、
 

私は現行の教育制度がさまざまな欠陥を持つものであること、現に能力の低い教員、意欲のない教員、モラルの低い教員がいることをもちろん認めます(現場の人間ですから)。けれども、私たちにはこの(不出来な教員も含めた)「手持ちの人的資源」でやりくりするしかありません。(21頁)

 この部分です。
 「人員を増やせ」と叫ぶことばかりに熱心になって、現場の仕事をおろそかにすることはできません。
 人員が増えるまで、自分たちで何とかしなければならないのです。
 (もちろん、自分たちの力で人材を引っぱってくることもできます。地域の人材、近所にある大学の学生などに補習等で活躍してもらっている学校があります。)

 半分同意できるのが、次の部分です。
 

「手持ちの資源」(les moyens du bord)でやりくりするというのは、とりあえず現に教育の崩壊をフロントラインで防いでいる「能力があり、意欲があり、モラルの高い教員たち」のアクティヴィティを支援し、そのオーバーアチーブによって、制度上のもろもろの瑕疵のもたらす否定的影響をカバーするということです。

 「能力があり、意欲があり、モラルの高い教員たち」のアクティヴィティ・・・実効性のあるこの支援の方法がきちんと提示できるのであればよいのですが。

 そして次の部分が小中高の教育をあまりご存じないのではないかと思わせる記述で、同意できない部分です。
 

教員たちが発明の才を発揮し、新しい教育方法を考案し、実験し、議論し、対話し、連帯することができる、そういった生成的な労働環境を作り出すこと。それが私たちに許された唯一可能な「教育改革」の方向だと私は思っています。

 以前より、平成12・13年に、総合的な学習の時間試行をしっかりやってこなかった中学校、完全実施以後も、「学力を高める」効果の低い「総合」を実践し続けている学校を批判してきましたが、このときほど「チャンス」の大きな改訂はなかったはずなのです。
 内田樹のまさに書いているようなこと、「教員たちが発明の才を発揮し、新しい教育方法を考案し、実験し、議論し、対話し、連帯すること」ができたはずなのが「総合的な学習の時間」であり、それが教師の力量の真価が問われるものだったのです。

 「最初に、次のことだけをみなさんと合意しておきたい」と内田樹は書いているのですが、まずここで私はつまずいてしまいます。
 

(1) 教育制度は惰性の強い制度であり、簡単には変えることができない。

 ほぼ10年ごとに改訂される学習指導要領。その切り替えのときが、「しっかり変えるべきことを変える」「知るべきことを知る」チャンスなのです。
 10年前に初めて「学力とは何か」をまともに議論できた教師も多かったのではないでしょうか。
 たとえば英語教師が、数学の時間の言語活動の意義とは何か、「数学的活動」とは何か、そういうことを考えるチャンスが、改訂のときに訪れているのです。
 文科省では、学習指導要領の内容に関するQ&Aを公開しています。他の教科ではどんな疑問が生まれているのかも、簡単に知ることができます。
 
(4) 教育改革の主体は教師たちが担うしかない。人間は批判され、査定され、制約されることでそのパフォーマンスを向上するものではなく、支持され、勇気づけられ、自由を保障されることでオーバーアチーブを果たすものである。

 批判をされず、誤りに気付かないまま、限られたことしかできない教師では困ります。
 批判をきちんと受け止め、変えるべきところは変える、そういう教師でないと困ります。
 査定を年間の総括的評価ととらえるなら、それがパフォーマンスの向上につながるのは、無駄や無理を自覚し、自ら職務目標の見直しや業務の充実に活用できることが条件になるでしょう。
 職業人としては、様々な「制約」の中でも、最大限に自他の資源を活用して効果を上げる努力をする必要があるでしょう。
 「自由の保障」は、よい語感の言葉ですが、責任も相当重くなることを覚悟しなければなりません。
 高校や大学ならまだしも、義務教育で「自由の保障」をすると、極端な話、純粋な「受験勉強」に特化してしまうような学校も出てくるおそれがあります。それは、保護者や子どもから支持され、「文科省の批判を恐れるな!」と勇気づけられる教育なのかもしれませんが、よい結果になるとは思えません。
 教師が「支持され、勇気づけられ」るのは、本当にためになると実感できる教育実践に子どもや保護者がふれるときです。
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メランコリー親和型になる企業や学校

 日経ビジネス12月8日号の78頁に、「仕事とメンタルヘルスを考える うつ病の早期発見、早期治療で、企業の生産性は大きく向上する」という産業医科大学医学部の中村純・精神医学教室教授の記事があり、その中で日本の企業自体が「メランコリー親和型」になっているのではないか、という指摘がありました。
 

うつ病になりやすいとされる「メランコリー親和型」は「執着性格」とも呼ばれ、几帳面で、責任感が強く、他者の評価を気にし過ぎるという特徴があります。いまの企業はまさにこの「執着性格」で、コンプライアンスのために一つのミスも許さないし、個人情報保護のために、過剰なほど他者に対して配慮している。企業自体が、実はうつ病になっているわけです。

 学校ではどうか、と目を転じてみると、確かに精神疾患による休職者が増えていますが、年齢構成や担当していた分掌・立場などはどうなっているのでしょう。

 法令遵守の面では「運用」という形でザル状態の部分がありますし、「一つのミスも許されない」というほど緊張した局面はほとんどなし、個人情報については、生徒の成績など、個人情報が入ったメモリーを自宅に持ち帰るのは普通のこととして、「住所録」などを当然のように配布している学校もあるでしょう。
 ですからまだ学校が「執着性格」になっているということはないにしても、行政はそのような姿を現場に求めざるを得ない状況になっていますから、学校が「うつ病」予備軍であるかもしれないと言うことはできそうです。

 学校でも、ストレス・マネジメントが機能する体制づくりを進める必要がありますが、今の教育現場では、「同僚性」にその機能を求めて、管理職の経営自体にそれを期待しない風潮があり、「うつ病を隠す」という現状がある可能性を否定できません。
 

うつ病が脳の機能障害が原因で起こる身体疾患の一つとして、はっきり位置づけられていないので、職場ではオープンにしにくい。うつ病の専門医にかかって、抗うつ剤を飲んでいても、会社には話していないという人がものすごく多い。本人が休職せざるを得なくなり、専門医からの診断書が出てきて、初めて上司や同僚が「あの人はうつ病で悩んでいたんだ」と知って驚くのです。

 教師たちの「ご機嫌をとる」ことに熱心な管理職は多いと思いますが、それでオープンな態度がとれるほど病気はやさしいものではなく、管理職との距離の取り方も難しい、という人は多いのでしょう。

確かな教育実践で信頼関係を築く

>主張の矛先が違うよ!!
>親を不安に陥れ、先生は不信の目で見られ続ける。
 このことをいちろうさんは批判の中核におかれてコメントを入れ続けてくださっています。

 改めて私のスタンスをご説明申し上げます。
 (コメントした内容に若干手を加えて掲載します)

 学校について、保護者の立場でもし不安なことがあれば、現場に足を運んでご自分の目で確かめればよいのです。
 PTA活動に参加するだけでも、多くのことがわかります。
 現在では、経営参画も可能な形態もありますし、学校にとって保護者は「外部」の人間ではなくなっています
 (昔は保護者などの評価を「外部評価」とよんでいましたが、今は見直しが進んでいるでしょう)

 教師が不信の目で見られやすいのは、教育の現状や日常的に報道される様々な不祥事から仕方がないことと言えるでしょう。

 不信の目で見られるのは、教師に限らず、「今時の親」もそうですし、多くの政治家は昔からそうでしたし、社会保険庁に限らず、役所の人間もそうです。

 ただ、そのような不信を払拭し、信頼されるようになるチャンスは、学校という場にいる教師が最も恵まれている環境にあると言えるでしょう。
 本来は、子どもを通じて「つながって」いなければならないからです。

 問題が発見されれば、すぐに手を打つことが可能な関係にあるはずなのが、親と教師です。

>人間関係の基本は信頼関係だ

 といちろうさんは主張されていますが、そのことを何の情報もなく、何の疑いのない前提として受け入れてしまう結果が、最悪の場合、学校における死亡事故、いじめによる自殺、教師によるセクハラ等々になるのではないですか?

 信頼関係は、あらかじめあるべきものではなくて、現実的な関係の中で築いていくものだと考えています。

 問題に目を向けないこと、問題から目をふさいでしまうことは、問題の発生を助長してしまうおそれすらあります。

 この世の中がどうかしているのは「社会のせいだ」と言って、責任の主体がだれだかわからないようにすることは、「不安感を紛れさせる」効果はあっても、問題の解決になりません。

 学校現場の問題は、学校現場がしっかりと見つめ、はっきりと自覚し、改善できることがあれば、しっかりと提言していかなければならないのです。人に提言してもらうのではなく、自分からです。

 このブログで取り上げている様々な問題は、各学校・各教師において、○か×かあてはまるか、あてはまらないかで考えてはいけません。

 基本的には、「心当たりはないか」というスタンスで、読んでいただいている方が多いと思います。
 
 最も危険な学校は、「うちの学校には何の問題もありません」というところです。

 「問題は、見えやすいもの、見えにくいもの、たくさんあるかもしれません。しかし、本校は、本校の教育のどこに問題があるのかたえず問い続けている教師集団でもっている学校です」・・・そういう学校を「信頼すべき」学校と見ているのが私です。

>老人ホームだからと無条件に信じることなく、周囲が厳しい目で見てくれれば、私の勤める老人ホームはどんどん良くなるんだ

 これをいちろうさんはマイナスの評価として捉えていらっしゃると思いますが、「老人ホーム」を「老舗の料亭」「シェアトップを誇る企業」「銀行」「有名な病院」などの言葉に言い換えて考えてみてもいいのではないですか。

 ちなみに繰り返しになりますが、私は現任校の教師の話などは、ほとんど話題にしていません。
 自分自身の具体的な実践にふれないことが、記事の信頼の低さに由来していることはわかりますが、記事の信頼性よりもこだわっているものがあるのです。それをこのブログのタイトルが物語っています。答えを出すのは結局は読み手の方しかないわけです。

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「シュガー社員」誕生の水際防止ガイドライン

 田北百樹子著・『「シュガー社員」から会社を守れ!』(PHPビジネス新書) にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへの書評(日経ビジネス12月8日号)を読んでのコメントです(恐縮ですが、本体はまだ手にとっていません)。

 「自分に甘いわがまま社員」=「シュガー社員」・・・向上心も責任感もなく、仕事は半人前でミスだらけ、繁忙期でも平気で休暇をとり、上司からの残業指示は平然と拒否、ミスを叱られると泣き出す、プライドが高いのに実力が伴わず、その矛盾がすぐに表情に出る・・・こんな社員への防衛策は、採用段階で見抜くことである・・・

 教育委員会にいたころ、「こんな教師を採用した教育委員会が責任をとったらどうだ」という苦情を耳にしたことをふと思い出しました。

 企業の採用段階では、履歴書や職務経歴書に添付する写真の服装をチェック、面接時で答えにくい質問をして、不快そうな顔をするかどうかをチェックするとよいそうですが、・・・つまり水際防止策ということですね。

 ロールモデルとかコンピテンシーモデルとかを考えるレベルではないことが、企業ではおこってきているのでしょうか・・・。
 さすがに学校ではそこまでひどくは・・・と思いきや、「シュガー社員を怒らせると・・・・」の部分を読むと、また記憶によみがえってくるものが・・・。

 

シュガー社員の怒りを増長させるような処罰を安易に与えると、パワーハラスメントや労働時間の超過などを盾にして、逆に会社を攻撃してくる恐れがあると注意を呼びかける。

「英語」で小・中(高)の学校・教師間連携の充実を!

 小学校英語の導入・高校での英語による英語の授業等、このところ、英語教師は社会の注目を集めることになっており、羨ましく思います。

 英語教師というのは、費用対効果「苦労度」対効果の面で捉えると、中・高・大と数年間学んでも英語を話せるようにならない日本人・・・という評価によって、非常に肩身の狭い思いをしている方が多かったと思います。

 ただ、これからは、たとえば小学校教師から見ると、中・高の英語教師は「頼りになる存在」になることでしょう。
 今後、中1授業の参観の増加、小学校校内研修会での英語指導実習など、小中の教員の交流は増えてくると思われます。

 中学校英語教師の腕の見せ所は、たとえば小学校への出前授業の実践でしょう。
 「本物はこんなに違う」という印象を子どもに与える大きなチャンスです。
 このような交流は、今まで連携が難しかった小・中の学校・教師が一つになっていくチャンスです。
 小学校の外国語活動の最大のねらいは、外国語でコミュニケーションを図る楽しさの体験・言語でコミュニケーションを図ることの大切さを知ることです。
 学校間コミュニケーションの潮流が、根っこからの教育改革へと進むことを期待しています。

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「街場の教育論」より その5 落とされる原因

 第9講「反キャリア教育論」で紹介されている話ですが、ある大手出版社の面接試験では、「会って5秒」で合格者は決まる・・・この人といっしょに仕事して、楽しいと思えるかどうかで判定・・・ということです。
 投げやりな質問が続き、短めに面接が終わった人ほど合格者に近いという理由が納得できる話ですね。
 長く続く話の中で、不合格者に「面接試験の時間における満足感」を与えてあげる仕事が、面接官には課せられているようです。
 
 続いて、人気が高い内田樹のゼミ面接での「落とし方」はなるほどと思われるものでした。
 ここでは述べませんが、要は「気分良く学ぶ雰囲気を壊しそうな人はダメ」というもの。
 このあたりが「教育論」という題で売っていることとの違和感の大きな原因なのでしょうか?

「街場の教育論」より その4 いじめの原因

 内田樹はHPの自己紹介で述べているように、自身が激しいいじめにあっていることから、どのような分析が書かれているのかと思いきや、第8講「いじめ」の構造では、最初の3分の2が他の話題で、本論ははったの8頁でした。

 集団形成をすることに対する忌避と「集団を作らなければならない」という強制が絡まり合って、非常に不安定な集団的心理のもと、わずかなきっかけで均衡が失ったときに、起こる現象の一つが「いじめ」である。
 これが内田樹の考え方です。

 確かに、「集団になじまない個体」と「集団に過剰適応している個体」という存在は理解できますし、特に前者がいじめの標的になりやすいことは経験的に分かっていることがですが、全体の印象としてはピンと来ないものでした。

 グローバル資本主義や消費行動など、経済活動の原理と教育の現状を結びつけて説明しようとする傾向は最近のブログを読んでもよくわかりますが、何か決定的に足りないものを感じます。
 苅谷剛彦の著書を絶賛しているあたりから、どこかがずれているという印象がどうも捨て切れませんが、「教師を元気づかせるために出した」と本人が言っている本なので、他の教師の印象も聞いてみたいところです。

「大人のいない国」より その4 匿名のネット言論=呪い?

 内田樹は、ネット上で発信している大部分の人が匿名の書き手である理由について、「書かれたテクストが書き手に利得をもたらす可能性が低いから」という「合理的な考え方」で説明しようとします。
 しかし、そのテクストは「知的に無価値」だとしても、何の利益にもならないことをこれほど懸命にやることはないから、何らかの「利益」は手に入れているはずだ・・・
 その一つは博愛的マインドで「」の言葉を発信していること。
 もう一つは全く逆の立場で「」の言葉を発信していること。
 そして「」は「批判」とは別物である、ということを示唆しています。

 「批判」は発信者の身体を差し出さない限り機能しない(「呪い」は発信者の身体を隠蔽することでより効率的に機能する)・・・、固有名と生身の身体をもった個人が「自分の言葉の責任を引き受ける」と誓言するからである・・・と言明していますから、ネット上での一般の人の言論にはほとんど「批判」は存在しないことになります。

 匿名ブログがこのように単純に評価されていいのか、という疑問と、一見、「」か「」か見分けがつかないものもあるだろうという疑問が思いつきます。

 以下は、言説の信頼性に関する記述です。
 

・・・、言説の信頼性はもっぱら発信者がこれまでいくつかの重要な論件について高い頻度で適切な判断を下してきたという「通算成績」に担保されている。私たちが他人の発言に説得されるのは、言説の「単品」としてのコンテンツの整合性を尊ぶからではない。そうではなくて、これまでの長い年月を通じて、その人が積み重ねてきた言動から推論できる判断の「適切さ」である。(74頁)
 
 私のこのブログの場合は、記事が間もなく900になりますが、これまで「不適切さ」を重ねてきたのであれば、その評価を覆すのは困難というより、不可能に近い業になりますね。

 「」と言えば、ネットへの書き込みが原因で人(子ども)が自ら命を絶つ、そんな社会になってしまいました。
 内田樹は、「現代は陰陽師たちが活躍していた平安時代よりも「呪い」がはるかに実効的に機能している時代」だと表現しています。
 ただ、「」の一方的な攻撃を受けているのは、個人もそうですが、日本の場合、反論される可能性のない「」でしょうね。

 この章では、「言論の自由」がテーマなのですが、「」と「」の区別はそんなに簡単なものだろうか?という部分でひっかかっているため、その点にふれることができませんでした。

 *「」・・・人々がその「かけがえのなさ」に気づかず、蔑しているものに注意を促し、その隠されていた価値を再認識させる言葉の働き。(71頁)
 
 *「」・・・人々がたいせつに思っているもの、敬慕しているもの、価値ありと信じているものを「貶下」することをめざしている言葉の働き。「不当に利益を占有している」他者が、その不当に占有しているもの(健康、家族、財力、権勢、名誉、才能など)を失うことを強く念じること。(73頁)

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「大人のいない国」より その3 人間の弱さ

 

人間の弱さは、それを知っている人たちよりは、それを知らない人たちにおいて、ずっとよく現れている にほんブログ村 哲学・思想ブログ 名言・格言へ

 鷲田清一による第3章、「弱い者」に従う自由の結末に綴られてる言葉です。
 
 この章のテーマは、人間が相互に依存しないでは何一つできない、そういう弱さが社会の中でどれほど見えにくくなっているか、というものでした。
 ここでは、自己決定・自己管理・自己責任が「自立=非依存」という「自己完結」的な意味だけで捉えてられて語られているため、「弱い者」はさらに弱体化する、という公的サービスや福祉政策に対する批判として展開されています。 
 鷲田清一は、家族や地域といった中間世界が失われつつあることによって、「自立」が「孤立」としてしか感受しえないものになっている可能性を示唆していますが、教育現場では「もたれ合い」「馴れ合い」「孤立を避けるための追従主義」から脱却するために、そこに本当の意味での「自立」、自己決定・自己管理・自己責任、「支え合い」の自覚をふまえての「自立」、「支え合う関係」を基盤とした「自立」が求められていると考えています。

「街場の教育論」より その3 教師の限界

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 「限界」をつくっているのは私たち自身・・・この言葉を、行政の立場の人が「あなたたち自身」という言い方で示したら、現場教師からは反発を食らうでしょうね。
 

「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価が、私たち自身の「限界」をかたちづくります。「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価は謙遜しているように見えて、実は自分の「自己評価の客観性」をずいぶん高くに設定しています。自分の自分を見る眼は、他人が自分を見る眼よりもずっと正確である、と。そう前提している人だけが「私にはそんなことはできません」と言い張ります。でも、いったい何を根拠に「私の自己評価の方があなたからの外部評価よりも厳正である」と言えるのか。これもまた一種の「うぬぼれ」に他なりません。それが本人には「うぬぼれ」だと自覚されていないだけ、いっそう悪質なものになりかねません。(155~156頁)

 私も今までにいくつか「そんなことはできない」と否定したことが、結局実現してしまった、という経験があります。
 たとえば総合的な学習の時間の地域教材の開発。まだ移行措置の1年目でしたから、総合に関する本が出ていなかったときに、先行的な実践事例を考えて下さいと言われたことがありました。
 私の第一声は、「そんな素材はここにあるでしょうか」といったものでした。

 私が異動してからも現在まで、当時できた実践プランが継続していることを考えると、「そんなことはできない」と否定したままで終わっていたら、もったいないことになっていました。

 異動する直前には自治体のまちづくりフォーラムで他の団体と中学生が肩を並べて研究発表を披露したり、校内の研究発表に地域に住む数か国の外国人を招いたり、パネルディスカッションをしたりと、子どもにとっても思い出に残る活動がたくさんできました。
 私に先行的な実践事例の開発を促してくれた方は、私にとってまぎれもない「」だったわけです。

 「君ならできる」という師をもつこと、そのような師からの外部評価を「私にはできない」という自己評価より上に置くこと、そのことによって自分自身で設定した限界を取り外すということ。

 そういうことが、現場の教師にとっても求められていると言えるのか、それとも、そういうことが「長時間労働」「サービス残業」を強いる元凶だと言われてしまうのか。
 難しいところです。

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「強い日本への発想」(日下公人・竹村健一・渡部昇一著/致知出版社)

月刊『世相』に昨年から今年にかけて掲載されたものを、

第1章 日本の心を取り戻す
  【類まれなる品格を持つ日本人】
  【心が築いた日本の文化】
  【日本語が示す歴史と文化の厚み】

第2章 本質を究める見方・考え方
  【「いい加減」な見方と「思い込み」の過ち】
  【人間を磨くための読書術】
  【本物の学歴を身につける】
  【神学体験が育てた発想力】

第3章 日本の未来、日本の課題
  【特長ある国づくりをめざす】
  【主張の原点に国益があるか】
  【弱点を見据えた国家防衛策を練る】
の3章にまとめた本です。

 3人の近著の紹介、その主旨や内容をめぐる議論も興味を引かれます。
 鼎談本の中には、明らかに後で書き加えたような話がわざとらしく語られる場面が見られますが、この本では自然な会話の流れが感じられるので、ラジオを聴く感覚で読めるのも特長でしょう。
 博識の3人が、互いに「聞いたことのない話」を紹介し合う場面は見所の一つです。
 長い付き合いの3人が、これまで「キリスト教」という共通点があったことを話したことがなかったというのも意外なことでした。  にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

「大人のいない国」より その2 パスカルの言葉

 「大人のいない国」では、鷲田清一がいくつかパスカルの言葉を引用しています。
 

われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っている にほんブログ村 哲学・思想ブログ 名言・格言へ

 この言葉を聞いて、自分が在職している間に何ももめ事が起こらないように息をひそめている人、逆に、前進できるだけ前進して、その弊害を後任に押しつける人が頭に浮かびました。

 教師という存在は、子どもが絶壁に到達する以前に直接的な関係がきれる仕組みになっています。
 (就職活動のお手伝いをしている大学教師がいるということは聞いたことがありますが・・・)
 そのような「期限切れ」の仕組みが教師の「安心」のもとになり、「今」があるのかどうか。

 自分の胸に手を当てて、考えておきたいと思います。

 

「街場の教育論」より その2 教師にとっての師の存在

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 大学の教師が書いている教育論で、「古典に学べ」という考え方が出てこないものはありません。
 内田樹の「街場の教育論」でも、第7章で登場します。
 第7章では、師弟関係がテーマになっていますが、この話は、現場の教師にとって、どのように受け止められるものなのでしょうか。その場にいない、「師の師」がポイントになっています。

 この章で内田が言いたいことは、次の一節に集約されています。
 

教師が教壇から伝えなければいけないことは、ただ一つです。
 「私には師がいます。私がここでみなさんに伝えることは、私が師から伝えていただいたことの一部分にすぎません。師は私がいま蔵している知識の何倍、何十倍もの知識を蔵していました。私はそこから私が貧しい器で掬い取ったわずかばかりの知識をみなさんに伝えるためにここにいるのです」
 これで十分なのです。(152頁)

 思えば、私が今教えている教科・分野の「師」としてとても尊敬できる人に、中学校時代の教師と、大学時代の教師がいます。
 この二人は同級生であり、今私が教えている、母校の先輩でもあります。
 今でも当時のエピソードを授業で紹介することがありますが、そのことを子どもに伝えていることの効果がこの章では紹介されていたわけです。

 ただ、内田樹が本当に言いたかったことは、具体的な人物として尊敬できる師というより、もっと「哲学的」な話だったようです。
 

・・・・。つまり、イヴィナスの知的可能性を開花させたのは、師から「教わったこと」ではなくて、「師を持ったこと」という事実そのものだったということです。
 「学び」を通じて「学ぶもの」を成熟させるのは、師に教わった知的「コンテンツ」ではありません。「私には師がいる」という事実そのものなのです。私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を超える。「学び」とはこのブレークスルーのことです。(155頁)

 最初の打ち込みで、知的境位が変換ミスで知的「教委」となってしまいましたが、私が新採のころなどは、まさしく知的で優れた指導主事がいるところが教育委員会であり、研修会や研究会で多くの知識・技能を授けてもらうことができました。
 今は、現場の教師にとって、「私たちの外部に、私たちが知的境位に達するのを妨害する文科省や教育委員会が存在するために、学校は知的限界の壁にぶちあたっている」という感覚が強いのでしょう。
 あるいは、初等中等教育の現場で、このような「私をはるかに超越した知的境位の存在」は信じることが可能なものなのでしょうか。
 知的限界について、この章の続く部分で興味深い記述があるので、また考えてみたいと思います。

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「街場の教育論」より その1 反体制的な人間の集まり? 

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 「大人のいない国」の一節に関連した内容が、「街場の教育論」(内田樹著・ミシマ社)の第6章「葛藤させる人」で展開されています。
 
 本の宣伝コピーの元である「教師は言うことなすことが首尾一貫してはいけない」という一文はこの章に登場します。
 「成熟は葛藤を通じて果たされる」ことを根拠に、教師のあるべき姿について「おや?」と思わせるように表現しているところです。

 結局のところは、ゆるぎがまったくない価値観をもっている教師も、人の顔色ばかりうかがっている教師もダメだということを言いたいだけのようですが。

 この章の中で、私の実感とマッチしたのは、「反権力的・反体制的」エートスは、日教組が影響力を失った1980年代以後も生き残っていた・・・それは、新左翼の学生運動家たちである・・・」という内容でした。

 

60年代から70年代はじめの全学学園紛争にかかわった学生活動家たちのかなりの部分は、闘争から召還したあとに、(「日帝打倒」とか言っていた手前もあり)資本主義的企業に就職することを潔しとせず、その相当数が教師や予備校・学習塾の先生になりました。(116頁より)

 私が尊敬する定年間近の先生に、このような方が多いのです。
 ある方は、企業勤めを3年ほどで辞められて、教職に就かれました。

 優秀な教師でも、管理職になる道を選ばずに教壇に立ち続けている人がいるのもこの世代の特徴でしょうか。
 「反権力的・反体制的」な人間としてのベースが、ある意味で非常に生かしやすい場所というのが、大学や中学・高校という教育の現場だったのかもしれません。

 著者の内田樹は文科省を相手に葛藤の真っ最中のようですが、そのような姿が「教員が読むと元気が出る本」として売り出している根拠なのでしょうか。

 話を元に戻すと、学園紛争世代の次の、大量採用の時代の教師に対しては、どのような評価をしているのでしょうか。
 だれにリサーチをしたのかはわかりませんが、若い教師に対しては、「こんな人が先生になっては困る」というタイプが採用試験に受かる傾向が強まっている、と述べています。
 
 

そういう先生は、実際に教室に出て行ってもどうしていいかわからない。生徒たちとアイコンタクトができないので、黒板ばかり見てぼそぼそしゃべっている。そのうちに鬱になって長期欠席してしまう。(118頁)

 教員養成系の大学の教師であれば、このようなことを淡々と述べることは難しいのでしょうが、たとえば教育実習でどのくらい大学生は鍛えられているのか、という点については、あまり詳しいレポートはつくられていないようですね。

 大学の教員は、学生からの評価にさらされてから、初等中等教育の教師の力量に対する発言力が発揮できなくなってきているようです。
 「街場の教育論」ですから反体制や反権力という話でもかわなないのかもしれませんが、それで「教師に元気を出させた」後の発言を期待したいと思います。

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「大人のいない国」より その1 矛盾の効能

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 鷲田清一・内田樹著「大人のいない国」(プレジデント社)で興味を引かれた章に内田樹の「もっと矛盾と無秩序を」がありました。

 矛盾というものがこの世にあるということの効能が、わかりやすく示されています。
 特に、子どもたちにとって「矛盾」にぶつかって葛藤する経験が、「大人」になる上で重要であることは、そういう経験もなく教師になってしまった若い人の「悩み」を聞くだけでもよく理解できます。

 両親や教師にほとんど叱られた経験のない人が、「叱る」立場になる難しさ。
 「無秩序」な状態を経験せずに教師になった人が、「秩序を形成する」立場になる難しさ。

 それでも、教師は学校の中のさまざまな矛盾・無秩序状態に正対し問題を解決していく中で、成長していくものでしょう。
 
 教師は、矛盾の解消にどのように立ち向かっていくのか。
 
 親や子どもへの要求を増やしていくことが矛盾の解消に役に立つのか。
 
 道徳教材では、よく葛藤場面を意図的に設けてものの見方や考え方の幅や深さを増そうとねらっていますが、道徳の時間の運営が難しい学校では、教師があえて子どもに矛盾に正対せざるを得ない場面をつくることもできます。

 教科でのいわゆる「優等生」が、壁にぶつかることなく、成功体験のみで卒業していく学校は、決してその子どもにとって「恵まれた環境」であったとは言えないのかもしれません。
 
 自分の過去をふり返って文章を書いている人の多くが、「つまらない学校生活」と言っているもの、生き生きと描いている学校生活には、それぞれ異なる姿が読み取れます。

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保護者が教師に「思い・願い」を伝える方法

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 学校で教師の仕事が成立するのは、子どもがいるからですね。
 教師がその仕事を認められるのは、子どもが力をつけたから、子どもが評価されることをしたから、子どもが自信をもつようになったから、・・・など、子どもが成長したからです。
 教師が、教師として評価されるのは、みんな子どものおかげです。
 このことを忘れている教師はいないでしょうか。
 
 私が最初に勤務した学校では、子どもの成績が伸びなくても、実績がでなくても、「一生懸命やってくれる」ということだけで保護者から感謝されることがありました。

 保護者には、謝意を示すことで教師に「ふがいなさ」「いたたまれなさ」を自覚させようとしていた、と書いたら反対意見をいただきそうですが、実際、そのような保護者はいらっしゃいました。
 そういう保護者をがっかりかせるのは、その「感謝」の意味を誤解してしまうか、それとも理解しようとしない教師の存在だったのでしょう。

 そういう教師が増えてしまうと、その保護者にとっても、願いを理解してもらうために「はっきりと思っていることを言う」しかなくなってしまいます。

 日本の文化の優れていた点は、「思っていることをストレートに言わずに伝えることができる」コミュニケーション形態にあった、と考えることが可能であるとすると、今はそれが実現しにくい時代のなのでしょうか。

 子どもに学習意欲がないと嘆く教師。
 その教師にとって、子どもの学習意欲を高めることができない自分とは何なのだろう?という想像力ははたらいているのでしょうか?

 教師にとっての「自己理解」を突き詰めてしまうと、本当に暗いものしか見えてこないのでしょうか?
 「自分を見つめる」ための時間として、私も帰りの会の前の黙想は大切にしています。

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学校は万能ではないが、「下方修正」はいかがなものか?

[教師] ブログ村キーワード

 学校の教師に限らず、教育学者、社会学者の中にも、「学校ができること、やれることの範囲をもっと限定すべきだ」という考えがあります。

 つまり、学校教育の目標の「下方修正」を行いたい、ということです。

 たとえば、放課後の部活動の問題。
 たとえば、進路(受験)指導の問題。
 たとえば、学力向上の保障(補習)の問題。

 現行の指導要領は、一般の方々からの感覚では、授業時数が削減されたことから、これがすなわち「下方修正」であり、その失敗は明らかになっただろう、という見方が多いのではないかと思います。

 しかし、実際には「7・5・3」状態であった学力を向上させるための手段であったはずであり、「上方修正」が期待されるべきものでした。
 しかも、死蔵されるか受験でしか役に立たない「」ではなく、生きてはたらく「」も身に付くはずだった。
 ところが、「総合的な学習の時間」という新規事業が、一言で表現すれば「人・もの・金・情報の連携不足」のため、学校によっては壮大な無駄をつくってしまった。「下方修正」に拍車がかかってしまいました。

 そのため、教師は無力感・多忙感・倦怠感に見舞われ、それが生徒に伝染し、「学ぶ意欲」の低下がますます深刻になっていく・・・。
 
 子どもは、困難にあっている大人を前にするときこそ、本当は多くのことが学べる存在であると私は考えています。
 つまり、困難が増えれば増えるほどやる気が出る、創造力を活かして授業の工夫に専念する、そして子どもの学ぶ意欲を高め、学力を向上させていこうとする、そんな教師の「生きる姿勢」がそのまま子どもに転移していく、私はそういうイメージを教育に対して持っています。

 コミュニケーション不全・能力不足に悩み、達成感を得られず、多忙感にさいなまれている教師にとって、「もうそんなことはしなくていいよ」と肩をたたかれ、「楽にしてあげる」ことは、本当にその教師のためになることでしょうか。
 確かに、子どもにとっては、教師が病的な状態から心身ともに健康な状態になってくれることは喜ばしいことだと思いますが。

 学校本来の土台とは、教師のバイタリティであり、たとえ教師が本当に一生懸命取り組んだ結果としての「失敗」なら、それは決してただの「損失」で終わることにはならないでしょう。
 子どもの「意欲」「チャレンジ精神」をかきたてるという、最も学校に求められている成果があらわれてくるかもしれません。

 「これだけやればいいよ」と目標を下方修正した結果おこってしまった「学力低下」感将来への不安学校教育への信頼性の低下に、さらに拍車をかけるようなことにならないか、そんな心配から、「下方修正」には反対で、もっと有効な「パワー」を学校に結集させていく、そんな学校像を描いています。

 目標は下げる、外部の人は学校に入れない、では、「だれのための学校なのだ?」と思われることでしょう。

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築地市場の見学禁止

 ココログニュース(12.17 17:02)で紹介されている記事については、観光立国に関する調査・研究を行っている生徒から、最初に耳にすることになりました(テレビ・新聞からしばらく遠ざかっていたもので・・・)。

 ニュースで紹介されているブロガーの意見のように、(外国人観光客などの)マナー悪化の対策が「締め出し」「見学禁止」では、観光立国を目指す日本なら「待った」がかかって当然のように思われます。

 ただ、競りに関しては、非常にナーバスデリケートな世界であるため、一人の人間による取材でもピリピリしている、という感触があるそうで、直接「観光」のために働いているわけではない人にとって、自分の仕事の足を引っぱられる状況については、何かの対策が練られるべきでしょう。

 こういう問題のとき、どうしても「どこが責任をもつのか」という「押しつけ主義」が特にマスコミなどでは多く見られます。たいていは、行政が「責任の主体」にあげられます。

 マナーに関する、各国語での案内標識やパンフレットを作ってガイダンスを徹底する。
 その責任は東京都にある。

 たしかにそうとも言えでしょうが、すでに確立している「観光スポット」ですから、その特性を生かした市場の新しい姿を追究する、そういう姿勢もほしいものだと思われます。

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学力調査が担うべき役割

[学力テスト] ブログ村キーワード

 学問の世界では、オリジナリティを大事にする部分があると思いきや、最近の教育問題、特に「学力問題」に対する学者のコメントの中には他でもよく見かけるような話の持っていき方をしているものが見かけられますね。

 哲学者の鷲田清一は、「麻生読み」を枕に、自説(感想?)を述べていました。

 「生徒たちの感想が登場しないのは遺憾である」→「私が学力調査を受けた生徒なら、という前提で語る」という展開になっています。

 途中には、「知らない自分自身が問うのではなくて、答えを知っている教師が知らない私に問う」という、「不信が前提にある教育」を批判しています。(ということは、学習指導要領の改訂の趣旨は十分理解できるのでは?と思われます)

 結論のところに、「なんの脈絡もない知識をどれほど修得しているかではなく・・・・」とありますが、もしこれが自分の大学の入試問題に対する批判だったらどう答えるのでしょう?

 私が教師になりたてのころから、「大学入試が変わらない限り、高校・中学校の授業は変わらない」と言われ続けてきました。
 今もどこの研究会でも、何かのきっかけで行き着く先はここになっています。

 「真の知的能力を測れていない」ことを問題視していますが、これはもう一歩一歩近づいていくしかないでしょう。
 いろいろ試行錯誤の上、「手の込んだ問題は、受験者のその時の勘の働き方でできが大きく左右してしまう」「だから単なる知識を問う問題をたくさん出していた方が、ぶれがなく、高い知的能力を推定するのに十分な信頼すべき結果が得られる」ことが証明されてしまうかもしれません。

 いずれにせよ、だからといって授業そのものがただの「詰め込み」になってしまっては、「知的能力の育成」はいつまでたっても図れないことになってしまいます。
 
 授業も試行錯誤を続け、試験問題も同様に。
 国の学力調査は、より質の高い問題づくりを追究し続け、その問題によって「学力」像を発信し続ける必要があると思います。

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コメントへのご回答

 いちろうさんへ。
 いつもたくさんのコメントありがとうございます。
 こちらでまとめてお答えいたします。

***子どもに考えさせている「責任」(12/10)***

>「そこで話されていること」が他の人に聞かれてしまうことがない安心感をもてるところ

 生活指導を相談室等で行う場合、「他の人に聞かれること」はなくても、決して「密室」で行うことはありません。
 具体的な話になりますが、問題行動の程度によって、教師が複数つくことがありますし、相談室の場合はカウンセラーにも同席してもらうこともあります。
 カウンセラーが配置されてからは、重い指導後には必ずカウンセラーとも話ができるような態勢をとっています。

 なお、入り口のドアは開けた状態にすることが多く、外には「相談中」の札をつけておきます。
 どうしても1対1で指導を行う場合も、十分な配慮が必要になります。
 特に、女子生徒に対して男性教師が指導を行う場合には、学校側も配慮を要します。
 さらに、いちろうさんが想定されるような、子どもが教師を信頼していない場合、深い恨みをもっている場合は、「逆効果になる可能性が高い」指導は避ける方が無難でしょう。  

***5歳児健診の効果(12/1)***

>Aくんがだんだん反社会的な行動を繰り返すようになり、手に負えなくなった親が病院で見てもらったら、ADHDで2次障害が出てきているといわれました。これを知ったK先生は、手のひらを返したように違う指導をするんだね

 「異なる原因に基づく結果については、結果はもちろんですが原因に応じた指導を行うこと」の原則に従って言えば、「新たな原因」が判明した時点で「その原因に応じた指導」を行うことになるでしょうね。
 反社会的行動に対しては、毅然とした態度で指導をすることには変わりはないでしょう。
 教師も専門医ほどの知識がないでしょうから、発達障害なのか単なるわがまま・しつけ不足なのかの区別は難しいでしょう。ですが、学校や家庭での継続的な指導でも改善が見られない場合、最近では医師の診断を勧めるケースが増えているかもしれません。
 もし、「障害」の2文字を医師から提示されて、保護者の方が精神的に不安定になってしまっている場合はなおさら、配慮が必要になるでしょう。家でも「言葉かけ」「しつけ」にかかわる態度は変わるでしょうね。
 学校では、入学時に行うさまざまなテストによって、各児童・生徒の傾向をつかもうと努力していますが、特異なデータが出たり、医師の診断がなかったりする場合は、基本的には一律の指導を行うことになるでしょう。
 あまり「数%」という数字は念頭におかずに、指導していると思われます。

***孫子カルトクイズ:「宮・商・角・微・羽」に関わる孫子の言葉とは?(12/9)***

>「ウソをついたものの勝ち」を認めては?

 「相手を嘘つきと言った方の勝ち」ということは、相手を「嘘つき」と言ってしまった時点でそこから何も話が進まなくなる、という意味ですね。
 子どもの喧嘩の勝ち方のことです。
 もちろん、「相手を嘘つきと言った方の負け」という考え方もあるでしょうね。

 まだ自分は正しく、相手は「間違っている」と言うのであれば、他者から「どちらが正しいか」と考えるきっかけにもなりますが、「嘘つき」と言ってしまったら、何をどのように判断すべきかわからなくなってしまいますね。
 
 「ウソをついたものの勝ち」というのは、現実社会ではままあることかもしれませんが、短期的に「勝ち」をおさめたとしても、いずれ「大負け」という結果になるのが目に見えているという場合もあり、一概には言えないでしょう。

***「入学してほしくない生徒像」をもつ公立学校(11/29)***

>「入学してほしい生徒像」をつくり強調することで、「入学してほしくない生徒像」がつくられ、不正操作してまでも排除しようというところまで進んだ

 というわけではないでしょう。
 「入学してほしい生徒像」=「本校が望む生徒像」は、「ただ何となくみんなが行くから」などという理由で、学習意欲もなく、目標も持たずに高校に進学する生徒に、自覚を持たせるため、あるいはその高校の特色を理解してもらう目的で、設定しているものです。
 都立高校以外の高校はよく存じませんが、高校から何らかのメッセージは伝えられているのでしょう。
 不正を犯しても「入ってほしくない」と望む生徒像とは、事情を聞けばなるほどと思う人もいるでしょうが、「事務室での態度・服装チェックなどの隠れたしくみが過去に他の高校でも行われていたのではないか」という疑念が生まれたことに問題があるわけです。
 入試得点の不正操作によって「入学してほしくない生徒」が排除できることが知られたことは、「公」のあり方の信頼を様々な意味で失うことにつながるわけで、日本が「不正慣れ」しているとはいえ、許せないことです。

***「点数」へのこだわり(12/8)***
 
>結局、○×の発想で他人を批判する

 「○×の発想」という発想法の意味を確認させていただけますか?

 この記事では、異論・反論を求めていますが、「○×の発想による批判はいけない」という批判をいただいたわけですね。
 この場合、○とは何で、×とは何だったのでしょう?

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指導主事は現場に育てられる

 指導主事の「無知」に関する校長先生のブログの記事にコメントをさせていただいたところ、非常に正直な感想が寄せられていたので、こちらでも少しご紹介させていただきます。

 私の経験では、「現場からの厳しい目」について「無知」である指導主事は一人もいません。
 校長から「尊敬されたい」と思って仕事をするような勘違い系の人はそもそも任用されないでしょう。
 任用制度は自治体によって違いがあるようなので一概には言えませんが。

 私の先輩の指導主事は、教師が教育委員会・指導主事・行政への敵視を露骨にあらわにする現場をいくつも訪問され、そのときの体験談を教えて下さいました。

 初任者研修が悉皆研修になった後に採用になった教師は、指導主事がどんな役割を担っている行政マンなのかをある程度わかっているのですが、学校訪問でしか見たことのない教師の指導主事に対する感じ方というのは、やはり「よそ者」という印象が強いことを現場の感覚で理解していました。
 
 ただ、「よそ者」扱いをしてくるということを「仲間として認められたいならそれだけの仕事をしてみろ」という挑戦的な態度としてプラスに受け止め、期待に応えればよい、と考え、実際にその通りになれば、扱いは変わってくるものです。

 私が指導主事だったときの部長は、「指導主事は現場に育てられる」と語っていましたが、それは現場の期待に応えるべく精進しようとする指導主事にとって教訓のようになっています。

 子どもを前にした授業と同じ(別に教師を子ども扱いしているわけではないので、誤解されませんように)です。
 よい仕事をすれば、それはそのまま反応として返ってきます。

 「指導主事を育てるために給料をもらっているわけではない」という言葉は、「教師を育てるために授業料を払っているのではない」と子どもが言っているのと同じで、とてもごもっともなのですが、でも私は、教師は子どもを育てるのと同時に、子どもによって育てられている存在であると実感しています。

 私も同席していた研究会では、学習指導要領の改訂に関して、よくあるタイプの批判が指導主事に対してなされていたのですが、その指導主事は区市町村教育委員会の所属だったので、まあ、「批判のための批判だなあ」「答えの内容がわかっているのになぜわざわざ聞くのかな」と思って聞いていました。
 一方が「敵視」しかもたない場合には、双方にとってただの時間の浪費になります。
 
 私の興味は、どちらかというと、教師の生態よりも、校長という立場の仕事の実態にありました。

 さすがに校長が教師と「批判のための批判」で一体化しているような学校は少なかったようですが、正直にいろいろと話して下さる校長にめぐりあえたことは、私にとってはプラスの経験でした。
 あまり詳しいことを書けないのは残念ですが、いずれにせよ、校長の「板挟み」具合は本当にお気の毒様です。
 ブログで不満を綴ってストレス解消されるのが、精一杯の現場もあるかもしれませんね。

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自意識過剰の人の特技?

 いつも40人の子どもの目にさらされている教師が、「他人の視線が気になって悩み続ける自意識過剰タイプ」の人だったら厳しいでしょうね。

 子どもの中にも、「他人の視線が気になって常に不安である」→「だからできるだけ目立たないように、空気のように扱ってくれることを望む」タイプがいます。

 そういう子どものうち、同じタイプの悩みを抱えている人の話を聞いて気持ちが楽になるようなタイプの人には、酒井順子著「自意識過剰!」(集英社文庫)がお薦めですね。
 「自意識過剰」で一冊の本になるくらいですから、相当なものです。

 「自意識過剰」な人というのは、人間を非常によく観察できるタイプの人ということもできるのでしょうか。
 もしそうだとしたら、その能力を生かせる機会を探す、というのも一つの手かもしれません。
 
 しかし、ただの「悩み系自意識過剰人間」が、そういう人物から見られていると知ったら、たいへんなことになってしまいますね。

内田樹・齋藤孝・苅谷剛彦の共通点

[教育現場] ブログ村キーワード

 「街場の教育論」の著者、内田樹は著書出版を契機に教育現場の講演会に参加しているようですが、最近のブログの記事「費用対効果教育」を読んでも、結局、齋藤孝や苅谷剛彦と同じような「大学」という閉じられた空間で生活している人ならではの狭い思考に陥っているようです。

 なかなかチャンスはないのでしょうが、文科省キャリアが実験しているように、公立中学校の現場で一年間実際に教えてみる、という体験をされるともっと違った角度から発信ができるような気がします。

 3人とも、他の十数人から三四十人という「同僚」と同じ子どもを教育している姿というのを、どうも想像することができません。

 大学や大学院における「学力不足」に悩まされていることはひしひしと伝わってきますし、学校現場と同じように「事務」=「雑用」を嫌い、「経営」の側の行動は理解できない、そういうスタンスは相似形であると思います。

 苅谷剛彦を除く二人の本は、現場の教師が読んでもおもしろいのでしょうが、齋藤孝の方はそのテンションの高さに年輩の教師はついていけないでしょうし、内田樹の方は、大学教育のあり方への不満がベースになっているので、これを読んでも公立学校の教師が「勇気づけられる」かどうかは疑問です。
 
 「教育は放っておくのが一番よい」という内田樹に対しては、「教育は、どのような立場の人間からも放っておけない現状が多すぎる」現場の声が今後、届いていくことを期待しています。

赤の他人からの批判と同僚からの批判

[教師] ブログ村キーワード

 教師が同僚同士でおだて合っていないと「同僚性」が維持できない学校と、同僚同士で批判し合って異論をかくさないですむ学校があったとして、「勤めたい」と思う学校はどちらでしょう。

 私は幸いにも、両方のタイプの学校に勤務することができました。
 行政の時代にも、両方のタイプの学校を訪問することができました。

 生徒が伸び伸び生き生きしているのは、いずれも後者の学校でした。

 「褒められないと動こうとしない」「他人から当てにされていると実感できないと不満をもらし、行動しない」人というのは、子どもでも大人でもいると思いますが、そのような教師を、子どもと常に対峙している教師が、子ども以上に動かさなければいけない職場というのは、けっこうきついものです。

 もちろん、「褒めて伸ばす」という言葉があり、その方法で子どもも教師も伸ばそうとしている人がたくさんいます。
 「自分で自分を褒めてあげたい」と思う教師もたくさんいるでしょう。

 「長所を軸に自他の人間像を描く」姿勢は、教師の一般的なものですが、問題は自分や相手がその課題(短所)を自覚していない場合です。

 そして、自覚できていなかった課題に気付かされることは、大人でも重い心理的負担になるかもしれません。
 その弱みを発見された人と毎日いっしょに仕事をし続けられない場合はなおさらです。

 赤の他人の書いたこんなブログで、「心当たり」を探してみていただければ、負担は軽いものですむのではないでしょうか。

 いや、赤の他人からの「冷たい批判」より、同僚からの「あたたかい批判」の方が、ためになるし、のぞむところだ!という方は、このブログをお読みになるのをやめ、「同僚同士で批判し合って異論をかくさないですむ学校」づくりを進めていただきたいと思います。

変化・改革の阻害要因

[教育現場] ブログ村キーワード

 世の中には、現状では問題ばかりで何の進展もないばかりか、さらに後戻りできないまでのダメージが出そうな状況を、変化・改革によって脱却しようと考える人と、変化・改革によって効果が出なかったときに、それを行ったことへの批判が怖くて、ただ現状を維持し、確実にやってくる問題をじっと待とうとする人がいるようです。

 短期的なリスクをとることと、リスクをとらないことでは、中期的・長期的にはどちらの方がましになるのか?
 リスクをとりに行ったとき、それが無駄になるか、そのために状況が悪化するおそれがある、そういう感覚が強い場合は現状維持になってしまいますね。
 
 さらに、問題を問題と感じない人たちには、変化・改革はうさんくさいものと映りますから、それを実行するのがかなり困難になります。

 「学習意欲がない」子どもが多いという日本の問題については、日本人は子どもも含めて自己を過大評価せず、自己卑下大好き人間ばかりだから、心配はいらないという人、「意欲格差」は「母親次第で、階層化してしまっている」、「意欲をもてるようになる」は幻想で、世の中には「努力できる階層」と「努力ができない階層」に分かれているのだから、改革は成功しないとか、等価交換絶対主義で、「意味のないと思えることはやらない」という合理的な判断をしている結果であるとか、様々なことが言われています。

 「学習意欲のなさ」は、本当に「階層化している」と言えるのか?

 授業を見学するだけで、簡単に答えがでる可能性はないのか?

 興味を持たれた方は、ぜひ学校に足を運べる機会があれば、その「授業」というものに目線を集中して、様々な意見が学校に寄せられることを私は望んでいます。

 今、大手の塾などは、体験授業、保護者の見学は基本的に許可が簡単に取れるのではないでしょうか。
 公立学校もそのレベルに近づいてほしいものです。
 「年中公開」という「特色」をもっている学校もあるようです。

子どもに考えさせている「責任」

[学習指導要領] ブログ村キーワード

 学習指導要領に準拠した指導計画によって意図的・組織的に教育活動を展開している学校が、「責任」についてたとえばどのような内容の指導を行っているのか、簡単にご紹介します。(以下、コメント欄に書き込んだ内容になります。) 

 新学習指導要領から「責任」にふれている道徳の内容をご紹介しますと、
 小学校高学年では、
 「主として自分自身に関すること」の中に、「自由を大切にし、自律的で責任のある行動をする」というもの、
 「主として集団や社会とのかかわりに関すること」の中に、「身近な集団に進んで参加し、自分の役割を自覚し、協力して主体的に責任を果たす」ことが示されています。

 中学校では、
 同様に「主として自分自身に関すること」の中に、「自律の精神を重んじ、自主的に考え、誠実に実行してその結果に責任をもつ」というもの、
 「主として集団や社会とのかかわりに関すること」の中に、「自己が属する様々な集団の意義についての理解を深め、役割と責任を自覚し集団生活の向上に努める」と示されています。

 このような内容に照らして指導対象になる具体的な行動があるとき、個別指導だけに重点をおく場合もあるかもしれませんが、その生徒だけがたまたま目撃され、他の生徒も同じ行動をとっているのに指導されないというのは適切でないので、全体指導を優先して、その後に意義の理解を確認するために個別指導を行うなど、その組み合わせも様々なバリエーションがあります。

 いずれにせよ、「責任」とは何か。「自由」や「自律」とは何かを考えさせる指導=「責任追究型」指導にならないと、本当の意味での「生活指導」にはなりません。

 生活指導の「正しい方法」を見極めるのは、本当に難しいことです。
 ある指導で成功した方法が、他の生徒のときには失敗するかもしれない。そんな落とし穴を戒める意味で私が教訓にしているのが「成功は失敗のもと」です。

 「正しかったかもしれない」方法についても、なぜそれで(短期的・中期的には、という意味でしか中学校教師は言えませんが)成功したのか、というふり返りは常に行う必要があります。

 逆に、「明らかに間違っている」と思われる方法・・・たとえば、教師がある特定の生徒を指導するときに、職員室という、他の教師も見ている場所で(他の教師が参加しているならいいのですが)行うのは間違っていますが、なぜこういう方法が平然と行われている学校があるのか、ということを問うていく必要もあると思います。

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孫子カルトクイズ:「宮・商・角・微・羽」に関わる孫子の言葉とは?

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 はむれっとさんから、「責任追及型」と「責任追究型」という生活指導のあり方について、ご意見をいただきました。ありがとうございます。
 

子ども相手に責任云々は一寸大げさというか大仰というか、叱る怒るでよいのでは?。

 子どもによっては、「叱る怒る」だけで十分に「責任追究」が可能になる場合もあります。
 ただ、それだけでいける!と誤解してしまった教師のために、校長・教育委員会が、匿名の電話をもらってしまったりします。

 生活指導には、本当に様々な手法・言葉かけ・共同作業があります。

 孫子で言えば「勢篇」に参考になる部分がありますね。

 「孫子」をよく読んでいる、中国古典に詳しい、という人には、「宮(きゅう)・商・角・微(ち)・羽(う)」にかかわる孫子の言葉って何?などと聞くといじわるですかね。

 色は5つにすぎない青・黄・赤・白・黒)が、その5色のまじりあった変化は無数であり、とても見つくすことはできない。

 味も5つにすぎない酸・辛・醎【かん・・・しおから】・甘・苦)が、5味のまじりあった変化は無数でとても味わいつくすことはできない。

 それと同様に、戦闘の勢いは奇法正法の二つの運用にすぎないが、そのまじりあった変化は無数でとても窮めつくせるものではない。

 この話の前に、「宮・商・角・微・羽」の5音階のまじりあった・・・(以下同様)というものがくるのです。(原文は「五聲之變」で、現代語訳でないと出て来ません)
 似た例を並べ立ててたたみ込んでいく手法は、中国古典によく見られますね。

 生活指導にも、色・味・音階のようなさまざまなバリエーションがあり、その組み合わせ方が絶妙になったとき、「責任追究」の域に達することができます。
 ここでの「責任」は、「責任感」程度の語の意味として捉えていただいてもかまわないと思います。
 
 だれとだれを組み合わせる(異なったタイプの教師のチームプレイでいく)、という手法もあります。発熱系といやし系、とか。 
 
 奇中に正あり、正中に奇あり、奇から正が生まれ正から奇が生まれる・・丸い輪に終点がないようなもので、だれにも窮められないものかもしれませんが、子どもの小さな感情の波を感じながら、基本は自尊感情を傷つけることなく、また傷ついた自尊感情を修復しながら、自分の出せる限りの力をつくす、これが私の生活指導の信念です。

「点数」へのこだわり

 以下、再びすずめ先生のブログ記事を読んで書き込ませていただいたコメント内容です。
 中学生の視点から、考えてみました。

***********************
 学力低下が叫ばれる前の段階で、「点数」(古くは「偏差値」)にこだわったことがない、という教師は果たして存在したでしょうか?

 実は、子どもの目から見れば、「点数」へのこだわりは、目の前にずっといた教師の専売特許ではなかったのではないでしょうか(親や塾を別として)。

 そこへ、社会的な要請が入ってきたときに、「点数へのこだわりはおかしい」と教師が言っても、何の共感も得られないのでは、と思ってしまいます。

 異論・反論、いかがでしょうか。

「職員室への呼び出し」は例外?一般的?

[教育現場] ブログ村キーワード

 中学校では、問題行動等への指導を行うときに、他の学年の教師などもいる職員室に呼び出して指導するところはありませんか?

 今、若い教師の中には、自分が「怒られた」経験もなければ、人に対して「怒った」経験もない人が増えていると思います。

 ですから、ベテラン教師がどのような機会、場所でどのように問題行動への指導を行うのかを見て学ぶことになります。

 何校か異動を重ねれば、「学校によって違うなあ」という印象をもつようになるでしょう。

 ただ、2校目で実施されているような指導の方が効果が高いなあと感じるチャンスがあっても、1校目で刷り込まれたものは惰性でなかなか抜けず、後で苦労する場合があります。

 「二度とこんな嫌な思いはしたくない」と思わせるひどい指導で、次の問題行動への抑止力にするという方針をもっている学校があるかもしれませんが、「次」が起こってしまったときに指導はさらにエスカレートしがちですから、危険なやり方です。

 たとえば、そんな指導法の点検・意見交換は、各学校で行われているでしょうか。
 「力のある教師」「生徒指導の教師」に任せっぱなし、という状況はないでしょうか。

 一度「任せっぱなし」の状況が生まれると、後から意見を差し挟むことが困難になってきます。
 「今頃何を言う?」なんてムードを恐れて。
 しかし、そのような「組織的でない」「同僚性に欠ける」学校は少なくないのではないかと思われます。
 
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生徒指導上の大きな原則

 生徒指導の原則について、すずめ先生の記事にコメントをさせていただきましたが、この内容についてご意見がある方がいらっしゃるようなので、ここでもお示しいたします。

*********************

 「荒れていない学校」というのは、「問題行動が起こらない学校」ではなくて、「個への指導が丁寧に行われている学校」であるということが、とてもよくわかる記事ですね。

 入学後、最初の指導で、今までその生徒がどのような指導を受けてきたかがだいたいわかりますよね。
 中学校で「生徒指導デビュー」の子どもなのか、小学校から「常連さん」なのか。
 「責任追及」系指導だったのか、「責任追究」系指導だったのか。

 全体指導では特に厳しく、個別ではあたたかく丁寧に。

 その生徒指導の原則が貫徹されていない経験をもっていると、子どもには教師に対する不信感、不公平感、「大切に思われていない感」が先に来る分、反省よりも自己防衛にかけられるエネルギーの方が強くなるのは当然ですね。

 なぜ全体の前ではあんなに甘い顔して見逃しているのに、自分が目立ったときだけはこうなるのか。だれとだれの話をもとにして教師は「ストーリー」を構築し、今、このような態度をとっているのか。

 子どもたちは、学習に対してはより充実した「個別への目」を求め、生活に対しては「全体への目」を強く求めています。

 これが一見して逆になっている学校が多いことが経験上の気がかりでした。
 学習については全体の目からしか語られない(昔では偏差値、今では平均点との開きなど)、生活については全体の問題より個別の、しかも問題行動への目しか開かれていないばかりか、職員室で他の教師がいる前で指導をするなど、「教師全体の目」への「さらしもの」にしてしまう学校まである。

 様々な学校側の「常識」を子どもの目から点検していくことが、良い循環を生むスタートラインになっていくはずだと思っています。

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教師として、「本を読む」理由

[教師] ブログ村キーワード

 小さい頃から、私の周囲には、どちらかというと「本なんか読むと、バカになる!」というタイプの人が多かったような記憶があります。明治時代からある商人の家でしたから。

 実は小学校の頃は、マンガ以外の本なんかを読むのはまずあり得ない話で、とにかく「読書感想文」というのが大嫌いでした。
 まだ「SF小説を書く」という宿題の方がましでした・・・。
 (私はこのときほど担任の先生を困らせてしまったことはないと思います。一人で何十枚も書いてしまったので・・・・、クラス全員にそれを配ることになっていましたから・・・)

 それがどうして家を追い出されるくらいの「本好き」になってしまったのか。
 (家を追い出される理由は、「本好き」の方ならご理解いただけるでしょう・・・)

 自分でもかなりの謎ですが、今思い返すと、「本なんか読んでるからだめなんだ」という叱られ方をされたことへの反動という面があったような気がしています。

 教師をしていると、「どのように教材研究をされるのですか」という質問をときどきされるのですが、以前も書いたように、いざ自分がどうやっているのかと問われると、すぐには答えられません。
 どうやってきたかを語り始めると、とても数分で語ることはできない。

 しかし、問われている相手の状況をふまえて答えるのが基本的には大切な姿勢でしょうから、教師をめざしている大学生には初期の、教師をめざしていない大学生には一般論の、ベテランには現在の、教材研究方法を話すことになります。

 いずれの相手を話すときにも言ってしまうのは、本はたとえば1冊まるまる読んで、全く役に立たないことがわかるものもたくさんある。1冊のうち、1ページでも使えるものが見つかれば大発見です。ただ、そういうのにもなかなかお目にかかれない・・・。
 実際には、読んでいる資料のうち、いつか役に立つ日がくるかもしれないものや、知らず知らずのうちに役に立っているものもあるのかもしれませんが、「これだ!」というのに出会う確率は非常に低い。

 だからといって、「本は読んでもあまり役に立たない」と言うことはできません。

 時間的に出張して研究会や発表会に参加する機会がなくなってしまってからは、ネット上に公開されているものを読むこともありますが、基本的には文献から教材を発掘していきます。

 それが「教材」として誕生することになるパターンのうちで最もわかりやすいのが、「発問を思いつくかどうか」ということです。
 発問のパターン化というのは、ある程度の範囲で技術として伝達可能な部分がありますが、そのときの授業のテーマとか、そういう総合的な環境の中で必要かつ有効となる「発問」は、かなり限られてきます。
 
 本というのは、一読すると答えが見つからないようなものでも、その語り方が、発問を生み出すヒントになっている場合があり、私はどちからかというとそのヒントをもらうために本を読んでいるような気もしています。
 そして、「この人の本を読めば、いいヒントが見つかりそうだ」という書き手が見つかると、とにかく主な作品をみんな読んでしまう。

 逆に言えば、教師としては、そういう魅力をもてるような授業をしようと、努力していると言えます。
 「先生だから、教えてもらっていて何かが期待できる」「思いがけない質問がやってくるのが楽しみ」・・・なかなかそのレベルに達することはできませんが・・・。

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なかなかめぐりあえない「ためになる教育論」

 「教育論」という題名がつく本のうちで、それを読んで「ああ、これだ!」という刺激を受けるようなものというのはどのくらいあるのでしょうか。

 教育問題は、マスコミ界でもいわば「飽きがきている」ものであり、特集を組んでも今ひとつ、盛り上がらない。

 かなり特殊なケースを問題にして、賛否両論を戦わせているだけ。

 あるいは、一部の人間の回顧録のようなもので、「昔はよかった」という印象を残す。

 結果として、「今の教師はだめなんだな」という余韻を残して、また忘れ去られていく・・・。

 現場の教師を元気づけさせたい!という動機で書かれた・・・という本にしろ、「今の教師は、反体制的・反権力的でなくなったからだめなんだ」「安定した職という理由で採用試験を受け、単なる勉強好きが受かり、現場に立って子どもとのアイコンタクトの仕方すらわからずに、鬱になって長期欠席となってやめていく・・・」そんな事例を紹介しています。

 結局、「教師」と呼ばれる職業のうち、「大学教授」が書いたもので、たとえば義務教育の現場の参考になる「教育論」にはなかなかお目にかかれません。義務教育の現場の教師から大学教授になったような人の本は、教育論ではなくて、ハウツーものやネタ本です(それは役に立つという意味ではよいものではあります)。

 現場の教師で「教育論」にふれる機会があるのは、大学卒業以来、もしかしたら「免許更新講習」で受けるものが初めてだった、ということになる人が多数派であるような気もしていますが、それで全くかまわないだろうというのが実感です。

 なかなかめぐりあえない「ためになる教育論」。
 別の角度から見れば、それが教育の本質なのでは?

 現場での「教育論議」というのは、どのくらいの頻度で、どのようなメンバーで戦わされているものでしょうか。
 単なる「体制批判」ではなく、「親の批判」ではなく、「教師の批判」ではない、そんな議論が、学校評価のまとめの段階や教育課程の評価や編成の場面でどのくらいなされているのでしょうか。
 チャンスは、学習指導要領が改訂されるタイミング、早ければ移行期間、それがベストです。

便利になるノットイコール仕事が楽になる

 まだワープロ専用機を使っている教師の方が多かった時代と比べると、「無線LAN機能付きSDカード」が登場して、たとえば教師や生徒が撮影した学校内の写真データが一台のパソコンに転送され、一括管理できるようになる現代というのはすごい時代です。

 学校では今、一眼レフデジカメを使いこなす教師が増えてきて、行事などでは「地域の写真屋さんいらず」といった状況になりつつあります。

 まだそれほどうるさいことが言われているわけではないですが、教師が私物のデジカメで生徒の写真を撮影し、それを自宅のパソコンに保存しているような状況は好ましくないことでしょう。

 ただ、自宅で試験問題の採点を行うなども行われているような現場では、そもそも「公私」の区別ははっきりしていません。

 「流失」や「悪用」がなければよい、という考え方もあるのでしょうが、どこかで線引きが必要になるときがくるかもしれません。

 便利になったということが、「仕事が楽になる」「仕事が減る」というわけにいかないところが、教育現場のおもしろいところです。

「携帯奴隷」化が原因?

 先日、国際観光についての資料説明を受けていたときに、ここのところ、20歳代女性の海外旅行者数が横ばいか減少傾向にある(資料が手元にないのでうろ覚えですが)ということを知りました。

 その原因として考えられることは、まず、正社員になる人が減ってきているという、収入に関する問題。
 また、20代になってから、携帯電話の通信料を自分で払わなくてはならなくなり、余剰資金が減っているという支出の問題。
 ショッピングが目的の場合は、目当てのものが、日本で手に入るようになっている、ということ・・・・。

 景気がよくなれば、雇用の問題も解消され、自然に旅行客は増えるかもしれませんが、「携帯奴隷」になってしまった習慣からはなかなか抜け出せないのかもしれません。

見習うべき「いちろう」さんの批判

[教師] ブログ村キーワード

 今の学校現場には、私のブログでおなじみの「いちろう」さんのような「批判」ができる教師が必要です。
 
 ただ「批判」ができるできないではなくて、毎日毎日、気がついたことがあればことごとくに「批判」を加える。

 「批判をする」というニュアンスにマイナスのものしか感じない場合であれば、「異論を提起する」、でもよいでしょう。
 相手が「異論」を「正論」と認めるまで、延々と提起し続けるバイタリティこそが現場の教師にほしいものです。

 子どもに対する喫煙指導禁煙推奨指導禁煙徹底指導健康指導もそれと同じです。

 人権侵害を起こす指導力不足教諭に対する問題の指摘・指導とその記録は、現場の管理職にとって欠かせない職務になってきます。

 そのことが「過度な精神的なプレッシャーをかけられて、神経症になった」と裁判に訴えられる結果になったとしても、守るべきはまず、子どもですから。

 学校では、「管理教育」と表現した場合は、「前提」ではなく「絶対悪」の意味として使われます。

 「管理はよくない」という表現も、決して「メンテナンスする必要はない」という意味ではなくて、「子どもの成長を阻害し人権を侵害するような」などに類する修飾語がついているのが暗黙の前提で使われます。

 「管理不行き届き」で問題がおこった場合は、「自己責任」「当事者責任」で逃げられるため、傍観者となる教師に不都合が生じません。
 
 自分にとって、指導や批判を加えないことが「管理不行き届きになる」と実感できるような誠実さを教師が回復するために、よいお手本になっていると思い、感謝いたしております。

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人間が無知になる原因

[教育現場] ブログ村キーワード

 人間が無知になる原因を、イギリスのロジャー・ベーコンは次のように言っているそうです。

 権威を崇拝する
 習慣に縛られる
 人の評判を気にする
 自分の無知を隠そうとする

 権威は「絶対化して考えていること」と置き換えてもよいかもしれません。
 人は習慣の奴隷とも言いますから、なかなか無知から抜け出すのは難しそうです。
 評判は「評価」に置き換えることもできます。
 これらを見ていると、そもそも「人間とは無知なものである」と言い換えられるような気もしてきます。

 どうせ無知な存在ならば、

 一度、権威が示す方向へしっかりと歩んでみる
 その歩みを習慣化する
 人の評価を積極的に受け止め、自己評価と照らしてみる
 
 そんな行動の仕方も一つの方法かもしれません。

 学校が子どもに課そうとしているのは多かれ少なかれ、そんなところです。

 しかし、学校には数々の悪しき習慣がはびこっています。
 学校が無知から脱出する最も有効な方法は、評価の目にきちんとさらされることにあると考えています。
 
 評価の目に正対できる状態こそが「無知からの脱出」の糸口です。

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橋下知事の発言力

 橋下知事の教育界に対する提案力・提言力には目を見張るものがあります。
 選挙前にはやたらと目立つ人でも、当選後は何をやっているのかほとんどわからないことが多い。 
 橋下知事はメディアをうまく利用(逆の意味もありますが)し、効果を考えるとかなりの経費を節約していると言えます。
 「失言がきっかけで失職するのは時間の問題だろう」と思っている人もいるかもしれませんが、「負の遺産」を減らすことに邁進している姿を支持する人は多いでしょう。

 「敵と見たら常に攻撃対象にしておきたい」教師たちから見ても、「書類削減」「携帯持ち込み禁止」等の施策・発言には、言葉につまるようなものでしょう。

 学校の常識は世間の非常識と言われた「閉じた空間」の風通しがよくなることで、教育の根本問題の追究に多くの市民の目が向くことになります。

 弁護士カウンセラー警察官などが学校教育に関わる機会も増えてきました。
 「営利企業」に所属している人たちとの交流では難しい面もあるでしょうが、多様な人に直接ふれ、話を聞き、主張を聞いてもらう機会をもっともっと増やすべきだと考えています。

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若手教師と学びつながる???

[教育現場] ブログ村キーワード

 雑誌で「若手教師と学びつながる」という特集が組まれているということは、この雑誌がいかに「年輩目線」で編集されているかのあらわれだと思ったのですが、誤解であることを期待しながら読んでみると、そこには残念ながらまさに「若手との断絶」をあらわに表現した「年輩」教師の独り言で満載でした。

 コピペが繰り返し使われているような次の文言、

 

文部科学省は、教育を市場化し、私たち教師の自主性を奪い、管理・統制を強め、競争、評価を持ち込む「教育改革」を行い、私たちの大事な研修時間さえ奪っている。私たちが忙しいと感じるのは、今までの教育制度の反省なしに、金をかけないで教育問題をなんとか乗り越えようとする行政の愚かさからくる忙しさなのである。さらに学習指導要領改訂によって、ゆとり教育から授業時間を増やし、解決しようとしている。学校現場はその授業時間確保に混乱を招くであろう。今より余裕が生まれることはまず難しい。(国土社の雑誌「教育」12月号・106頁より)

 どんなにたいへんな毎日を過ごされたのかと思いきや、「昔は遊びがあった。放課後は今のように学校内外の会議もなく、バドミントンやバレーをして交流していた(勤務時間に?)」「学校内での飲み会も多く、行事や校内授業研ごとに会を設けていた(校内で飲酒?)」・・・
 「50代が、若い人からみて少し余裕があるのは先がみえているから(確かに忙しそうではない・・・)」
 
 「仲間との対話がたくさんあった」というのは、教師としてはとてもめぐまれた環境であったことはたしかだと思います。ただ、それは大量採用の時代だったために、同年輩がたくさんいたということです。

 今、数少ない「若手」と会話ができないのは、本当に「忙しいから」でしょうか?
 「若手教師と学びつながる」という特集なのに、若い頃の回想録になってしまっている

 他には、若い教師の生活指導のまずさを記事にして、「こうしなければいけないのに」という原稿。
 この原稿は、その若い教師に向けて書いて読ませるためのものだったのかどうか?でも書き方は対話形式ではありません。

 極めつけは、25年前の自分との対話形式の原稿。

 これで本当に「若手教師と学びつながる」ことをめざしているのか?
 そんな印象ばかりの内容でした。

 やはり一番の心配は、教師は「自由」をどういう意味で使っているのか?ということです。

 社会人が、自分の職場に求める「自由」って何でしょう?

 中学生を「荒れさせたくない」、だから校則やきまりでしばる、子どもたちに自分が求めたくないことを要求することはつらい、それにとらわれない自由な教育ができたら、毎日の学校生活は楽しいものになるにちがいない。・・・・本当に???

 「管理体制から自分が自由になれないことが、一番の問題」・・・???

 こういう教師たちとの感覚のずれに、若い教師はとまどっているというのが現状なのでは?
 
 昔は、先輩教師からみんなこのような話を聞かされ、校内で飲み会をしながら、教師たちは育っていったのでしょうか?

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「責任追及」ではなく「責任追究」ができる学校を

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 学校という職場は、なかなか新しいことを取り組むのにGOサインが出されにくい場所です。

 それは、「全員話し合い主義」が原因だったり、「仕事が増えるのが嫌だ症候群」だったり、「私には関係ない症候群」「失敗するのは大嫌い症候群」に侵されているからで、それは裏を返せば、「リスクをとっても成果を求める体質」になっていないことのあらわれとなっています。
 別の言い方をすれば、「責任回避型」の組織行動が学校の基本です。

 一方、日本では昔から、「全責任型」の組織というのも一般的でした。
 この組織の問題点は、失敗があったときに、リーダーが「すべて私の責任です」と言って終わってしまうことです。「敗軍の将、兵を語らず」という「美学」は、失敗の原因追究がないため、同じ失敗が繰り返されることになります。

 「責任回避型」「無責任型」はもちろん、「全責任型」も組織としては理想的ではありません。
 都立日本橋高校の不正操作問題も、「原因究明」「責任追究」は、「全責任型」で終わってしまいました。

 学校には、少人数の分掌やプロジェクトチームが責任をもって自由な発想で能力を生かす仕組みを学校に取り入れないと、その価値に気付き、将来にわたってもそのような活動に意味を見いだせる人材を育てるのは難しいでしょう。
 
 まずは第一歩として、「失敗」に対する「責任追究」の仕組みを確立しなければなりません。

 「責任追及」ではなく、「責任追究」です。

 教師には、「責任追及」を恐れるあまり、「責任追究」を怠ってきた長い歴史があります。

 「責任追究」姿勢のない組織では、無責任の結果の失敗=良い失敗でも悪い成功でもない、悪い失敗が今後も積み上げられることになるでしょう。

5歳児健診の効果

[いじめ] ブログ村キーワード

 私がまずろさんの記事を批判しなかったことによって「ダブルスタンダードの依怙贔屓教師」とレッテルをはられてから、発達障害についてのことに関心を持ち出していると、昨日の日経朝刊に、「軽度発達障害」を把握し、早い時期から生活改善や保護者の不安解消に結びつけるための「5歳児健診」に関する記事が目にとまりました。

 法律で定められた健診は、1歳半と3歳の乳幼児健診(母子保健法)と、小学校に入る前の就学時健診(学校保健法)なのですが、いじめなどにつながるおそれがある「軽度発達障害」の子どもを見つけ、小学校入学までに障害に応じて支援することをねらいとした、自治体独自の「5歳児健診」が実施され始めているようです。

 制度としては確立していないものの、保護者のニーズをはじめ、その費用対効果の高さと、学校教育の現場からの要請などによって、実施が広がっていくかもしれません。

 文科省の調査(協力しているのはもちろん現場の教師ですが)によれば、発達障害の可能性がある児童・生徒は、6.3%に上っています。
 不安を抱えている親にとっては、制度があれば利用したいと考える人も多いのではないでしょうか。

 鳥取市が実施している5歳児健診での主な診断(質問)項目の一部は以下の通りです。

 何という保育園ですか?
 保育園のカレーとお母さんのカレーと、どっちがおいしい?
 両腕を横に上げる
 目を閉じて起立
 片足ケンケン
 じゃんけんをする
 しりとりをする
 「いいよ」というまで目をつむらせる

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より